肌寒い夜風が吹き抜けていく。火照った身体を冷ますように。
街並みを見下ろせるような高台に、二人のウマ娘がいた。着いたばかりの片方はジェンティルドンナ。その場に佇んでいたもう片方はメジロラモーヌ。
「あら。奇遇ですわね『先輩』」
「あら。貴方も?」
「トレーニングの熱が収まらないので」
メジロラモーヌの『脱走癖』──正確には、夜間外出癖は、トレセンにそれなりにいれば耳にする噂だ。本人の魔性も相まって、根拠のない噂は際限なく膨れ上がる。『夜の闇の中で三女神に祈りを捧げている』やら『眠る間も惜しんで己を鍛えている』といった根も葉もない夢物語が広がるのも二度や三度ではない。
史上初のトリプルティアラを成し遂げたウマ娘ともなれば、そのような幻想を抱かれるのも無理はない。それだけの実績と実力があり、ましてメジロ家のご令嬢だ。漂う教養と気品は彼女をよりミステリアスに、よりエレガントに彩る。
ジェンティルドンナはトレセンで語られるような与太話を信じる程夢見がちではない。ただ、己の行く道──トリプルティアラを成し遂げた強者が如何なる目的で学園を抜け出しているのか。興味がないと言えば嘘になる。
だがこそこそと尾行をするなどというのは弱者、それも卑劣で低俗な者の行いでありジェンティルドンナにとっては唾棄すべき行為だ。
そもそもジェンティルドンナはきっちりと寮長に夜間トレーニングの申請をしており…つまるところ、夜も更けようかという時間に二人が出会ったのは全くの偶然だった。
制服の上から上着を羽織っただけのラモーヌは、トレーニングウェアに身を包んだジェンティルドンナへとぽつり呟く。
「そう。同じね、私達」
夜間外出の原因として、思い当たる出来事が一つ。
今日の放課後。日が落ちる寸前に突然行われた、メジロラモーヌ達による模擬レース。『皇帝』こそ不参加であったものの、マルゼンスキーやナリタブライアン、ミスターシービーにカツラギエースといった名だたる怪物たちが競い合った1600メートルの刹那。告知も何もなく、たまたまその場に居合わせた何名かの見物人が撮影した動画が今この瞬間もトレセン内のネットワークで拡散されていることだろう。
その見物人の中には、クールダウンを終えたばかりのジェンティルドンナもいた。
夜闇に浸る瞳を見てジェンティルドンナは悟る。メジロラモーヌは、ただ火照りを冷ましていただけなのだと。
(奇妙な偶然──いえ、必然かしら)
巡り会ったこの強者から、何か新たなものを得られるだろうか。相手はトリプルティアラの先達とも言うべきウマ娘だ。
ほんの少しばかり、からかってみるのもいいかもしれない。ここならば余計な邪魔は入らない。
「同じだなんて、冗談がお上手ですのね」
「何が言いたいのかしら」
「私と、貴方。同じ視座に立てていると評価してくださるなんて。お目が高いですわ。トリプルティアラウマ娘さん」
あげつらうような挑発的な声に、メジロラモーヌは不機嫌になりはしない。ただ、言葉を漏らすだけ。
「星に手を伸ばすだけなら赤子でも叶うのよ。見ているものが同じなんて、そう珍しいことでもないわ」
──ぴしり。空気が、軋む。二人だけの空間が、冷たく研ぎ澄まされていく。
ジェンティルドンナは僅かに瞳を細めた。沸沸と、神経に熱が通り出す。右の拳が静かに固く握られる。
メジロラモーヌは振り向き、言う。ジェンティルドンナを視界に収め、けれど決して彼女を見はしないまま。
「進み続ける。ただそれだけを、続けられもせずに立ち止まる者の多いこと。挑むだけの資格を得ることもなく、挑むことを諦める。手が届く可能性すらも諦める。ターフに立つ者たちの末路は概ねそんなものよ。竜頭蛇尾、偉大な夢に見合わぬ終わり。レースとはそう。誰にも予想がつかない、時に残酷で、だからこそ愛おしいもの」
向けられる想いの数々。嫉妬も憧れも畏怖も憎悪も憧憬も。
メジロラモーヌには珍しいものではない。
メジロラモーヌの心を動かすものではない。
自分に啖呵を切るウマ娘の存在も、同様に。
それがジェンティルドンナであってもだ。
「貴方の未来を、この世の誰も保証してはくれない」
喧嘩を売られている。
『一冠すらまだ取れていない小娘が吠えるな』と、言外にこの魔性は嗤っている。この瞳に宿る感情が、諦観以外の何だというのか。侮蔑以外の何だというのか?
ジェンティルドンナの全身を巡る血液が熱く熱く滾っていく。その暴力的な熱が、言葉として喉から吐き出される。寸前に。
「──ふふ。冗談よ。そんなに目を見開くものではないわ」
狙い澄ましたようにメジロラモーヌは柔らかく笑った。毒気を抜かれたように、ジェンティルドンナの衝動が行き場を失い霧散する。
別人のように綺麗な笑みのまま、ラモーヌは悠然とジェンティルドンナの横を通り過ぎていく。去り際に一言、こう漏らした。
「期待しているわよ。未来のトリプルティアラ。貴女の夢、叶うといいわね」
「『叶う』?」
ジェンティルドンナは嗤った。
星を見る者。星に成る者。それらを見極める審美眼については、メジロラモーヌも完璧ではないようだ。それが分かっただけでも、今夜の邂逅には意味があった。
「御冗談を。叶うのではなく、現実になるのですよ、メジロラモーヌ」
魔性が振り向く。笑みは、もう消えている。
一歩ずつ。互いの距離が縮んでいく。
やがて魔性と貴婦人の視線がぶつかり、混じり合う。
「最古のトリプルティアラ。貴方の栄誉も、伝説も、全て──私が塗り替える。最も偉大なトリプルティアラとして、ジェンティルドンナこそがその称号に相応しいウマ娘であると語られるようになりますわ。私が世界を変えて見せましょう」
「良い眼。剛毅なのね。呼び名通りだこと」
「……くくっ、あはは。私の名は、貴方にまでも轟いていましたか。それはなにより」
つまりこの女は全部分かってて挑発しやがったのだ。もしかしたら、挑発したとさえ思っていないかもしれない。ラモーヌからすれば後輩に発破をかけたつもりなのだろうか。
あまりにもおかしくて、腹立たしくて。ジェンティルドンナの踏む地面に静かに亀裂が入った。
「いずれ、私に辿り着ける日を待っているわ。ターフで共に走れるといいわね。ジェンティルドンナ」
「ええ。最新が最古を上回る瞬間を特等席で堪能させてあげましょう。その首、せいぜい洗い清めておいてくださいね。メジロラモーヌ」
淑女らしからぬ獰猛な笑みが、二人の女から同時に溢れた。
世界の誰も知らない二人だけの邂逅。
鍛冶場に並ぶ刀剣のような鋭い熱さが、二人の心を震わせていた。やがて訪れるであろう対決が、二人とも楽しみで仕方がないのだ。
暴力的な美しさと、破滅的な気高さ──それらを合わせ持つ二人のウマ娘は優雅に並んで学園までの道を歩く。会話を交わさずとも、彼女たちはもう互いをよく理解している。
二人並んでトレセンへと帰還した光景を偶然激写したウマ娘によって、メジロラモーヌの奇妙な噂話のバリエーションがまたひとつ増えたのは別の話である。その噂が、ジェンティルドンナにとっては大変不愉快なものであることも。