寄り添う色   作:桶乃

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第1話

 何があろうと、己の爪を磨くのは武士の勤め。一心不乱に刀を磨き終えた。湿気が多く、まとわりつくような暑さだったが、そんなことは気になどならなかった。息抜きに、障子戸を開け放つ。ほんの少し生ぬるい風が入って来るだけで、思う程部屋の空気の開放感はなかった。

 ふと、空を眺める。昼間だと言うのに薄暗く、空はどんよりと曇って、今にも雨が降りだしそうだ。

 あれから、一日が経った。千鶴と約束をした茶を飲むことも、一緒に空を眺めることもしていない。精神が乱れて落ち着かず、千鶴に何と言うべきなのか考えられなかったのだ。

 深く溜め息が出た。昨日から、何度も溜息をしている。千鶴の顔を一日まともに見ていない。たったそれだけで、今日の空のように胸中も曇っている。

 今までいくら忙しくとも、一度は千鶴と顔を合わせる機会はあった。何処に居ても、必ず「斎藤さん」と鈴の鳴るような声が掛かる。振り向けば、そこに千鶴が微笑んでいる姿があり……あの温かみのある笑顔を見るだけで、ほっとさせられていた。殺伐とした中で、何度あの笑顔に救われたことか。数え切れぬ程だ。それだと言うのに、あのような事をしてしまうとは。

 再び息を吐いた。先程まで気にならなかった湿気がまとわりつき、気持ちを一層重くする。

 

「一君、居るー?」

 

 今まで、俺を信頼していたはずだ。だから巡察から帰ってくれば暖かな笑顔で出迎えてくれ、嫌な顔一つせずに俺の話も聞いてくれていた。いや、寧ろ喜んで聞いてくれている事もあった。それだと言うのに、あのような所業で大いに傷ついているに違いない。

 

「わっ、一君こんな入口で何してるんだよ。居るんなら返事くらいしろよな」

 

 いくら平助から千鶴との二人の時間を取られるという思いからとった行動とは言え、あそこまでする必要は無かったはずだ。

 

「おーい、一君」

 

 いや、もう起こってしまったことをあれこれ考えても何の意味もなさない。これから、千鶴になんと伝えるべきかが大切なはずだ。

 

「一君ってば!!」

 

 名前を呼ばれ、我に返った。いつの間に来たのか、目の前に長髪を頭の天辺近くに結わえている、細身の男が膨れ面で立っている。

 

「ん、平助か。何用だ?」

 

 深く溜息を付いた平助は、何故か呆れた様子だ。

 

「土方さんが呼んでる」

 

「副長……が?」

 

 嫌な予感だ。既に副長の耳に、己の犯した所業を知られてしまったのではないか。そんなことが頭に過ぎった。まさかとは思うが、いくら嫌な出来事とは言え千鶴が告げ口のような事はするまい。あるとすれば、あの時平助に見られてしまった可能性も有りうる。

 いや、しかし、平助がわざわざ副長にそのような報告をする者ではないし、何より報告する必要が何処にあるというのだ。あるとすれば、千鶴の行動がいつもと違い、それに気付いた副長が詰問して千鶴が言ってしまったとも考えられる。

 

「また何か考え込んでるし……一君!」

 

「あぁ、すまない。ではすぐに参る」

 

 副長の心労になるような事は避けたいと思ってはいたが、知られた以上は仕方あるまい。

 

「一君、昨日からおかしいけど……」

 

 それに、女子にとって大事なものを奪ってしまったのだ。何を言われても致し方ないだろう。寧ろ、何か罰を与えられる方がかえって楽である。いや、楽になってはいけない気もするが。

 兎に角、廊下に出て、副長の部屋を目指した。

 

「あーもう、ちっとも聞いちゃいねぇ」

 

 早合点だといいが……それは願望に過ぎない。しかしながら、もう一度、千鶴に謝る必要はあるだろう。許されるとは思ってはいない。言葉ではなく、誠意を見せるべきだが、先ずは言うべきことを言った後だ。

副長の部屋の前まで来ると、僅かながらも心音が速くなっている。一間置き、息を吸った。

 

「副長、斎藤です」

 

 すぐに副長から入れと声が掛かる。その声は苛立ちも怒りも感じさせない、いつもの副長の厳かな声だ。

 障子戸を開けると、すぐさま目の先に見えたのは千鶴。一目見るだけで、胸の音が高鳴る。まるで、悪戯を見られてしまった時の感覚に似ている。そっと息を吐き、何でもないように装い、障子戸を閉めた。

 

「そこへ座れ」

 

 はいと返事をし、指示された副長の前で正座をする。

 

「斎藤、悪いがこいつと菓子を買って来てくれ」

 

「は?」

 

 ここでお咎めを貰うと思っていたせいで、思わず力が抜けた。

 

「なんて顔してんだ、斎藤。お前、今日は非番だろ。だからお前に頼んでんだ」

 

「は、はあ」

 

 早合点だった、と言うことか。

 

「御偉いさん方にやる菓子だ。だから少しくらい高いものでも構わねぇ。ちと急いで頼む」

 

「そういう事でしたら、俺一人で行った方がよろしいのでは」

 

 副長の口が緩み、千鶴へと視線を向ける。

 

「それが、この間こいつの選んだ菓子が評判良くてな。今回も千鶴に選んでもらいてんだ」

 

 菓子までも神経を使うとなると、余程の御偉方との話と見える。それならば致し方ない。いくら千鶴にまだ声すら掛けてもいないとは言え、私情を挟む事など出来ぬ。

 千鶴を盗み見ると、褒めて貰って嬉しいらしく、薄く頬を染めて微笑んでいる。

 

「頼んだぞ」

 

 その言葉に千鶴は元気よく返事をし、早速と言わんばかりに勢い良く立ち上がった。

 

「それでは、準備してきます!」

 

「千鶴、俺は先に入口で待っている」

 

 そのまま駆けて行きそうだった為、口を開いてしまった。千鶴の反応がどう出るか怖くも感じた。が、いつもと変わらないまま、「はい!」と返事をして一礼し、さっさと部屋を出て行った。その行動に驚きつつも、己も続く為、副長に視線を戻した。

 

「それでは、俺も失礼します」

 

 一礼して立ち上がると、障子戸を開ける。

 

「斎藤」

 

 声をかけられ、振り向く。

 

「少しはゆっくり歩く時間くらいはある。あんまり急がなくていい」

 

 千鶴への気遣いだろうか。そんなことを思いながら返事をする。

 

「わかりました」

 

 それだけを言うと、部屋を後にした。

 しかしながら、少し引っかかるものがある。昨日の事を言われず幸いだったが、本当に知られていないのかは定かでない。部屋を出る時に言われた内容を考えると、何か知られているのではないかと思う。急ぎだと言うのにゆっくり歩く時間はあると言うのなら、配慮しているのは千鶴だけではないと思わされてしまう。それに、今日の非番は俺だけではない。平助も非番だったはずだ。平助を捕まえて俺を呼ぶよりも、平助に同行を頼む方が早かったはずだ。予想でしかないが、やはり俺と千鶴の妙な空気に気付かれた副長が、気遣っての計らいかもしれぬ。もしそうだとすれば、何とありがたいことだろうか。

 あれこれ考えている内に、屯所の入口に着く。程なくして、千鶴が駆けてやって来る。

 

「すみません、お待たせしました」

 

「俺も先程来たばかりだ。行くぞ」

 

 声を掛けてから気づく。昨日の事を忘れてしまったかのように、また普段通りに会話をしている。だからとて、今更動揺するのもおかしい。ここは平静さを保つしかあるまい。

 歩き出すと、千鶴はいつものように隣を歩く。普段から話をしながら歩くことは少ない。そのお蔭で今日は大いに助かった。決して逃げている訳ではない。昨日の話を切り出す前に、先ずは頼まれたものを優先すべきだ。

 横目で千鶴を見やる。今は不安な顔や怯えている様子もない。歩く速さも無理な速さではないらしく、焦っているようにも見えん。ただ、菓子のことを考えているのか、眉を寄せて考え事をしているようだ。昨日のことを忘れたわけではないと思うが、いつもと変わらない様子だと思う。それはそれで気になるのだが、あまり考えないようにしているのだろうか。余程、記憶から消してしまいたい程の出来事だったのか……そうはあまり考えたくはないが、好いた男でもない者にあのような事をされてしまっては消したい事かもしれぬ。

 ふと、一つの足音がなくなっていることに気づいた。隣に千鶴の姿はない。後ろを向くと、屯所の入口前で立ち止まって紫陽花を見ているようだった。

 

「千鶴、何をしている!」

 

 俺の声で弾かれたようにこちらに向き直った千鶴は、慌てて俺の元へ走って来る。

 

「すみません!」

 

「怒ったつもりはないが、行きは急ぐ。行くぞ」

 

 紫陽花をゆっくり見せてやりたいが、先へ急ぎたかった。紫陽花を眺めるのは帰りでも遅くはないだろう。それに、使いを早めに済ませて、ゆっくりと話をしたいのだ。どう伝えるべきなのかまとまってはいないが、千鶴を傷つけたままにしておきたくはない。何かを伝えた所で傷が癒えるわけでもないだろうが、それでも、伝えたい。

 

***

 

 いつも以上に黙々と歩いてしまったが、店の並ぶところまで着いた。

 

「千鶴、何の菓子が良いのか既に決まっているのか?」

 

「水無月にしようと思ってますが、どうでしょうか?」

 

「水無月? はて、そのような菓子などあったか?」

 

「私も最近お千ちゃんに聞いて知ったのですが、一年の折り返しの日に食べるお菓子だそうです。なんでも、外郎に小豆の乗っているものなんだそうですよ」

 

「なる程。季節のもので考えていたのか。あんたにしか思いつかないところだな」

 

 やはり、そのような心遣いが出来るのは女子である千鶴にしかないものだ。さすが人選に長けている副長とも言える。

 

「そ、そんな。お千ちゃんが話してくれたお陰です。私も知らないお菓子ですから」

 

 千鶴は顔を赤らめながら俯いている。自分の手柄のように振舞っても構わないのだろうが、千鶴の性格ではそのようなことはないのだろう。それでも、褒められている事に嬉しいのか恥ずかしいのか、戸惑っているようにも見えるその行動は可愛らしく思う。

 

「だが、あんたがここでその事を思い出さなければ意味がない。そんなに謙遜しなくとも良い」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 まだ赤い顔をこちらに向け、柔らかい笑みで礼の言葉を言う千鶴。

 

「では、あの店から入ってみるか」

 

 早速、水無月を売ってそうな店に入る。どうやら京では珍しいものではないらしく、一軒目で見つかった。俺は入口付近で待つことにした。菓子に興味が全くないわけではない。巡察ではないが、何があるかわからないのがこの時世。外に気を配る事を疎かにしない事も大切だ。外の物音に意識を集中させる。

──程なくして、雨音が聞こえて来た。外を歩いていた者達が雨だと騒ぎ、走り去る足音が聞こえる。暖簾を避け、空の様子を窺う。出かける前に笠を思い出せばよかったものの、一寸も思い出さなかったことに悔いる。厚い雲が空一面に覆っていて、止みそうな雲行きではない。

 

「斎藤さん、一張なら傘をお借り出来ました」

 

 振り向くと、後ろに千鶴が立っていた。雨の音で気付いたのだろう。菓子を持っていない右手に傘を持っている。だが、少し困ったような顔をしていた。一張しか借りれなかった事を申し訳なく思っているのか、それとも俺と一緒に傘に入るのが嫌なのか。

 

「済まない。被る方の笠さえ持って来ていればよかったのだが、思い出さなかった」

 

「いえ! 私の方こそ、思いつきもしませんでした。すみません」

 

 いや、いいと返事をし、これから帰路の事を考える。

 

「すまぬが、途中まで千鶴が傘をさしてくれぬか。もし襲われた時、あんたを庇うことすら出来ん。菓子は俺が持とう」

 

 千鶴はお願いしますと菓子を俺に渡し、暖簾を潜って傘をさす。

俺は千鶴の後に続いて傘へ入れて貰った。思った以上にいつもより千鶴との距離が近く、居心地が悪い。決して千鶴が悪い訳ではない。昨日の事を思うと、この近さは千鶴が快く思ってないのではないだろうか。そっと視線を千鶴にやると、近すぎてどのような表情をしているのか分からなかった。一先ずそのまま、お互いに言葉も交わさないまま屯所へと足を進めた。

 雨が降っているせいか、屯所に近づいて行くにつれ行きがけよりも人通りが少なくなった。怪しい人影も今のところ見当たらない。後は一本道をひたすら歩くだけだ。屯所までそれ程遠くはない。

 ふと、いつの日か、傘をさして八木邸と前川邸まで千鶴と一緒に歩いた事を思い出す。それぞれ一張ずつ傘をさせばよかったのだが、思いつかず、今のように一張の傘で一緒に歩いた。あの時は女子に不用意に近づき過ぎてはいけないのではないかと思い、なるべく千鶴から離れるようにし、傘は千鶴の方へ傾けていた記憶がある。しかし、今は千鶴が傘を持っている故、俺が離れれば千鶴が濡れてしまうだろう。

 

「千鶴、この通りならばもう心配ないだろう。僅かな距離だが、後は俺が傘を持つ」

 

 そう言って、傘の柄を握った。だが、千鶴は手を離す素振りを見せない。不審に思い、千鶴の顔をまじまじと見る。

 

「嫌です」

 

 予想外の返事に驚きながらも、強く傘を握った。

 

「最後まで私が傘を持っています」

 

 こちらに顔を向けた千鶴は、強い意思を見せる目をしている。

 

 

「腕が疲れているだろう。無理をするな」

 

「無理なんてしてません!」

 

 傘の柄から、千鶴も強く傘を握ったのが伝わってきた。何故か怒っているのだろうか。歩く速さが徐々に速くなる。お互いに傘を握ったまま、どんどん前へと進む。

 

「何故頑ななのだ。やはり昨日のことが原因か」

 

 突然、千鶴が止まった。同じように止まり、はっとした。いつもならこのように口が滑るような事などなかったはずだが、今日はどうも調子が悪い。濡れた足元が、冷たく感じる。

 

「き、昨日の……事は関係、ありま、せん。覚えてらっしゃいますか? 前にも、同じように一張の傘で一緒に歩いたことを」

 

 先程、思い出していた事か。それがどう繋がるのだろうか。静かに、頷いた。

 

「あの時、斎藤さんが傘をさしてくださいました。ですが斎藤さん、私の方ばかりに傘を傾けられていたみたいで、私が気付いた時には斎藤さんの肩がずぶ濡れでした。風邪を引かれてしまうんじゃないかと心配したんです。ですから、傘をお渡しするわけにはいきません!」

 

 言い切った千鶴は、傘を離すまいと両手で柄を握る。

 

「そういう訳か。済まない。だが、もうそのような事をしない。それから……」

 

 ひと呼吸置き、意を決する。

 

「昨日の……口付け、だが、一時の感情でしたわけではない。しかし、それによってあんたを傷つけてしまった。俺を嫌っても良い、これから先信じられないのならそれでも構わん。だが、これ以上あんたを傷つけるような事はしたくない。それ故、昨日した事は二度とせぬ。それだけは信じてくれ」

 

 千鶴の言葉を待った。一寸の時でさえ長く感じられる。

 千鶴の返答がどのような事でも受け入れる覚悟をしたとは言え、やはり、拒絶の言葉を考えると恐ろしい。

 

「信じません」

 

 胸が破裂しそうだった。息を吐くのも重苦しい。

 

「そうか……」

 

 まともに千鶴を見られそうになかった。視線を地面へと移す。

 

「嬉しかったんです」

 

 意味が分からず、顔を上げる。千鶴の顔は耳まで真っ赤になっていた。

 

「驚きましたけど、嬉しかったんです。ですから、私は傷ついていませんし、二度としないなんて、信じたくありません」

 

 始めは理解することが出来ず、呆然としたが、千鶴の言葉が頭の中を何度も巡り、理解し始める。先程までの破裂しそうな胸中が、少しずつ重苦しい何かを吐き出し、胸が軽くなってゆく。嬉しく思う気持ちが占める。だが、俺の行く道を考える。

 

「俺は新選組の為に剣を振るうと決めている。それ故、新選組から離れることもなければ、明日、どうなるかわからぬ身だ。この道は険しいだろう。

それでも、俺を選んで後悔せぬか」

 

「どんなに険しくても、斎藤さんに付いて行きます。お傍に、置いて下さい」

 

 傘の柄を握り締めている千鶴の両の手を、柄と一緒に握った。

雨で冷え切った手が、柔らかい。

 

「斎藤さん」

 

 千鶴の視線が、別の方へ向く。それを辿ると、たくさんの紫陽花が咲き乱れている。どうやら、屯所前まで来てしまっていたようだ。

 

「少し前に、斎藤さんの色をした紫陽花を見つけたんです」

 

 片手をゆっくり離し、青い色をした紫陽花を指す千鶴。それはどの紫陽花よりも深い色だった。

 

「その隣の色が、私だったらどんなに嬉しいだろうって、何度も思っていたんです」

 

 青い紫陽花の隣には、桃色の紫陽花があった。その色は千鶴の着ている着物の色とそっくりで、千鶴が俺の色と言った青い紫陽花に寄り添っている。

 いつから、どれだけ己の事を想ってくれていたのだろうか。この紫陽花が、千鶴の想いの丈を告げているように見えた。胸の底が、暖かい。

 千鶴の想いに応えるべく、離れた千鶴の手を捕まえ、軽く握った。

 

「隣の紫陽花は、千鶴、あんたの色だ」

 

 そう告げると、千鶴は深く笑みを咲かせた。

 

「俺達と似た紫陽花の前で誓う」

 

 この誓を二人だけのものにするために、傘を屯所の門の方に傾ける。

 暖かな雨が、優しく振り注ぐ。互いに、見つめ合った。

 

「いつでも千鶴が傍に居てくれると言うのなら、これから先、必ずこの手で千鶴を守り抜く。隊務でも誰の命令でもない。俺自身の意志だ」

 

──そっと、誓いの口付けを千鶴に落とした。

 

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