16黄金色の未来
シャムハト受胎の報せはウルクに知れ渡った。民は国一番の美女が王の子供を成したのだと歓喜し、これを祝った。それは宮殿の中では一際顕著であった。すれ違い度に幾度とかけられる祝福の言葉。「貴方が王のお世継ぎをお産みになるとは思いもしませんでした。」とか「めでたいことだ。我がウルクは次代も安泰である。」とか、人々は好き勝手にシャムハトに言葉をかけた。
だが、当の本人は沈痛な面持ちをして、これらの言葉をかけられる度に不機嫌になり、全く楽しむことがなかった。
ある日、ギルガメシュはシャムハトを呼び、前置きもなく「アマロの子か。」と問うた。シャムハトは緊張の面持ちで肯んじ、ギルガメシュは瞳を瞑り「暇を出す。静養せよ。アマロの子に大事があってはならぬ。」と簡潔に言うと、玉座の間を立ち去った。
王の子では無い、という話が広まったのはシャムハトが住まいをアマロが暮らしていた森に移してからのことであった。ウルクの人々はシャムハトを、王の巫女でありながら王以外の子供を身籠るとは、と不満を口々にかこつのであった。ギルガメシュは、いつもの清々しさを伴わない、言うなれば愚者の傲慢をさえ露わに、これらを鼻で一笑にふした。
シャムハトがウルクから去ると、ギルガメシュはアマロにシャムハトの妊娠を隠して彼女は森へと居を移したと説明した。アマロはギルガメシュを疑うことなく、次に彼女に会えるのはいつだろうかと訪ねた。ギルガメシュはなるべく早くであること以外は答えなかった。そして、シャムハトの背中がウルクから遠く離れてから、ギルガメシュは安堵の息を漏らした。
王は淡々と執務に励む傍ら、街に出ては貴賤に別なく才女を選び、これと契りを結んだ。その絶倫ぶりは巷で噂になるほどであったが、結局子供は生まれなかった。これに廷臣達は頭を悩ませ、ギルガメシュはただ一人密かに安堵していた。
我が子が生まれた時、自らがアマロを蔑ろにするのでは無いかと、ギルガメシュは気が気ではなかった。
だが、王の務めを果たさねばならない。彼は己の使命とも向き合うつもりでいたのだ。
しかし、王であるギルガメシュが、必ずしも一人の情ある人間としてのギルガメシュと等しいわけでは無い。王は民を安んじなければならない。王は神々と人間を結ばなければならない。イナンナの要求には、盛んな宴を催せという要求には、存分に応えるつもりだった。一方、アマロがイナンナの夫として迎えられるなどとは、例え表心にも願ってなどいなかった。
許せるわけがなかった。ギルガメシュにとって、王よりも、己よりも、アマロが大事だった。それは、己の血を受け継いで生まれるであろう、次代の王という存在に対しても同じであった。ギルガメシュにとって、アマロが隣で穏やかに微笑んでいてくれることは息をすることよりも遥かに重要なことであった。そして、それは彼にとってだけではなく、ウルクにとっての大事でもあると、そうこの賢王は予見していた。
また、それは全て王である己と、民と、そして個人としての己のためでもあった。もしも、アマロが奪われる様な事があれば、ギルガメシュは冗談を含まずに、すっかり気が狂ってしまうという確信があった。
その笑顔が一時曇るだけで、それだけで心が引きちぎれる様な、そんな耐え難い苦痛を限りなく味わうのだ。ギルガメシュは己の気が触れないためにもアマロと共に生きる方法を模索することに必死であった。
そんな最中、ギルガメシュはアマロの子供という存在が生まれ得るという現実的な問題に直面した。そして、それは現実として目の前に迫っている。ギルガメシュは心に浮かんだ、爪先程の不安を、子供の誕生によりアマロが己から離れるのではないか、という荒唐無稽な脅威すらも許せなかったのである。故に、彼はほんの出来心からアマロにシャムハトの妊娠を教えることをよしとしなかったのである。
神聖な森に腰を落ち着けたシャムハトは、あの日のことを思い出していた。実に幸福な記憶であった。
半日の間だけ、あるいは一晩の間だけ、イナンナの神秘によりシャムハトはキングゥの、つまりはアマロが求めて止まない存在の姿を借り受ける事ができた。これは、本来ならば叶うはずもなかったことであるが、シャムハトがキングゥの血を濃く引いていたこと、紛れもなくアマロがキングゥを求めていたこと、この二つの念願が神秘に汲まれる形となって実現したのだった。
アマロは情熱的にシャムハトを求め、それは前人未到の快楽としてシャムハトに襲い掛かった。我が子へ莫大なものを抱えていたアマロは、それは後悔であり、互いに交わされる事がなかった情愛であったが、その身の全てをぶつけることでキングゥの想いを受け入れようとしていた。
故に真正面からそれら全てを受け止めなければならなかったシャムハトは数えるのも億劫なほど何度も果てては、その度毎に快感と咽せる熱気で揺り起こされ、終わることのない幸福を味わい尽くした。
甚だしい情交は彼女の全てを塗りつぶした。激しい行為に全身の力が抜け落ちたが、しかし意識を失うこともできず、かと言って苦痛ではなかった。むしろ、手足体が勝手に力を振り絞り、目の前のただ一人の存在を求めて、逃すまいと動いた。平時ならば失笑されるような無様な有様も、ことあの場所にあっては何も言えまい。
辺りが暗くなるまで、一度も気絶することを許されずに昇り続けたシャムハト。彼女の姿がキングゥのそれから、彼女本人の姿に戻ったのと、未だ漲るアマロの瞳に優しげな知性の光が宿されたのは同じ頃であった。
シャムハトは恥からではなく、純粋な逃避から自らの身を抱いた。彼女にとって、アマロへの贖罪以上に、アマロからの寵愛を失うことの方が恐怖であった。いや、より深く正確な言葉を選び出すのであれば、そこには彼女がイナンナにより舐めた辛酸の味を鮮明にさせるようなものがあったに違いなかった。自らの姿の変容に対する罵倒を、劣化とも、昇華ともなく彼女は恐れたのである。変わらない事が、言ってみれば安穏であったに違いない。
変わって現れたシャムハトの姿に対して、当のアマロは少しの不服や怒りも見せなかった。そのかわりの情感の表現として、彼は温い涙を用いた。
シャムハトはアマロが涙する理由がわからなかった。だが、彼女の唖然が終わるより先に、口元に熱が広がった。
それまでの情熱的で淫靡な接吻とは打って変わった、実に頑なに純情な口づけであった。顔と身を隠そうと騒ぐシャムハトの両の腕を掴むと、嗚咽を堪える、見るに耐えぬ絶望に固まった彼女の顔を支えて口付けたのだ。
互いに瞳を閉じて、唇をやや突き出す様にして交わされたそれは、なんとも青い余韻を残した。シャムハトの顔は絶望から驚愕に移り変わり、そしてすぐに赤く照れた顔に落ち着いた。
アマロは「シャムハト、君が何を思ったのか、私にはわからないけれど、私は君がキングゥの姿で私の前に現れたことにも、君が君の通りシャムハトの姿に変わったことにも、これっぽっちも怒ってはいないんだ。それは、そうだよね。シャムハトがどこかへ行ってしまった訳がないもの。なのに、私は自分に都合がいいからと、君をシャムハトとしてではなく、キングゥとして受け入れてしまったんだ。全て私の思慮が足りなかったのが悪かったんだ。」とシャムハトの涙を指で拭いながら謝罪した。シャムハトは言葉もなかったが、アマロがキングゥとして自らを見ていたことを素直に認めたことに、安堵と、そして嫉妬を抱いた。
シャムハトの心の内などアマロは全く存じ上げてなどおらなかったが、しかし、この男は続けて「シャムハト!だから、今から日が完全に沈むまで、私はシャムハトをシャムハトとして愛したいんだ!」と宣うと、全く明け透けな告白に驚きと嬉しさを覚えて顔を萌やしたシャムハトを押し倒し、それまでの激しさを遥かに上回る勢いでシャムハトに愛を注いだ。
シャムハトは自身が孕ったことを、その日のうちに確信していた。そして、子供を産むのならばと選んだ住処こそ、アマロがウルクに訪れるまで一時期過ごしていたという神聖な森であった。この地は神の恩寵も厚いと伝わる良地であり、何より彼女にとって第一だったのは他でもないアマロの穏やかな暮らしを追体験できることにあった。
彼女はキングゥという名も知らぬ、その血の源となった存在を自身に重ねて愛を交えたアマロに、欠片も怒りを抱くことはなかった。そこには盲目的な敬虔さがあったのも違いないが、しかしアマロの美しいが故の苦悩を、同じ美という一点で全てを奪われた覚えのあるシャムハトには理解できたという理由もあった。
彼女は元来の共通点に加えて、アマロの過去の思い出や暮らしぶりにおいてもこの森を通してアマロの良き理解者足らんとしていた。
誰かの平穏が約束されている場合、誰かの幸福が約束されている場合、その裏では誰かの憤懣が蓄積され、誰かの平穏が脅かされている事がしばしばである。
ある時、アマロはギルガメシュを誘い、シャムハトに会いに行った。
シャムハトが暮らしていたのはアマロとギルガメシュが初めて出会った場所であるから、向かう二人が迷うことは無かったが、少なくともギルガメシュの心持は重たかった。嘘をついたわけではない。単に沈黙していただけだ、とギルガメシュは己に言って聞かせ森の奥へと進んだ。気持ちが前へ前へと一歩も二歩も先を行くアマロの背中を追いながら、ギルガメシュは久方ぶりに森の奥へと引き込まれる感覚を覚えた。
何時ぞや、もそうであった。ギルガメシュはその時、まだ王では無かった。だが、間違いなく生まれついた時より、何者かであることを強いられていたのだ。そこに果たして自由なんてものがあったのだろうか。幼いギルガメシュは聡明であった。一人前の気概の持ち主であった。しかし、それでもギルガメシュは幼かった。彼は心を閉ざすのではなく、ただ求められる何者かになる為にもがき苦しんでいたのだ。そして、王としての矜持の完成を、この森で得たのだ。
傲慢であれ、奔放であれ、ギルガメシュは王としてその日から生きてきた。何故、今こうも感慨深く考えが巡るのか、そのことはギルガメシュにも分からなかった。しかし、再び、この森で何かが始まろうとしていることは、その全てを見通す瞳によって理解していた。
ギルガメシュは自分の青臭さも、誇りも、目の前を進む自身よりも幾分頼りない背中に預けてきた。王として、少年として、使命をもつ者として、ギルガメシュはこの縛ることのできない背中に憧憬を抱いていたのかも知れない。彼の思考は、森を抜けることを知らせる、穏やかな木漏れ陽との再会をもって締め括られた。
木漏れ陽が匂う、侵し難い穏やかさに包まれた空間がそこにはあった。片時も変わらないその美しさは、ギルガメシュにも、アマロにも、きっと時間が遡ったような錯覚を与えたのだ。あるいは、二人の心はこの地から離れることなく、不朽の思い出として共有されていたことを喜び合うべきだろう。
浅く流れる清水が、木々が赦した光を受けて燦き、どっしりと構えた大樹がぐるりとこの空間だけを守るように囲み、時折うろを大口で欠伸をするように開けている。個性豊かな老木たちに囲まれた柔らかい草本の敷物の上で、彼女たち二人はギルガメシュとアマロを待っていた。
その美しさに翳りは見えない。シャムハトは待ち人の到来に静かに頬を緩めて二人を迎えた。ギルガメシュは声をかけようとして、口元にアマロの人差し指が立てられていることに気づいた。どうしたのか、と疑問の目で語りかけるギルガメシュ。アマロはシャムハトに物音立てずに寄り添うと、彼女から優しくなにかを受け取った。
ギルガメシュは口をむずむずさせながら、アマロが行きとは真逆のゆっくりとした摺り足で側に来てくれるのを待っていた。
アマロは、その腕に抱いているものをギルガメシュに見せながら、ギルガメシュの耳元に口を寄せて言った。
「ギル、赤ちゃんが眠ってるんだ。だから静かに、だよ。」と囁いたアマロの声は、静かだが歓喜に満ちていた。ギルガメシュは口をむにむにさせてから、ふん、と息をなるべく大きく鼻から吐き出すと、「よかったではないか。」とだけ静かに静かに言った。
アマロは太陽神も隠れるほどに眩しい笑顔で「うん…うん。よかった、本当によかった。」と頻りに頷いていた。涙で瞳が潤んでいた。負けてられぬ、とシャマシュは照り返しを強くして、その光がアマロの瞳で弾けては燐光を咲かせた。体をゆるく揺らして、既に優しげな翠の御髪が生え揃った赤子をあやす彼の姿に、ギルガメシュは見惚れていた。そこに嫉妬はなかったと思う。ただ、こういうものが美しいのであると、そう強く心に訴えられているようであった。
産まれた赤子は母親のシャムハトに瓜二つであった。ただ、瞳の色は母親の黒色とは異なり、全く煌かんばかりの黄金色だった。
赤子には、キングゥの血に守られるようにと、そして父アマロの第一の方であるギルガメシュとも相性が良くなるように、との願いでギルガメシュにも加護を与えた、知恵と水の神であるエンキの名前からエンキドゥと名付けられた。
ここに、エンキドゥが誕生したのである。
シャムハトに赤子を返したアマロは、それからも笑顔を絶やすなど不可能であるようだった。すやすやと眠るエンキドゥを抱くシャムハトを抱きしめては、「ありがとう。シャムハト、私は幸せ者だ。こんなに可愛い子供を産んでくれて、君にどれだけ愛を伝えればいいのか、私にはわからないほどだ。あぁ、幸せだ。なんて嬉しいんだ。嬉しくて、愛しくて仕方がないんだ。産んでくれてありがとう。頑張ってくれてありがとう。シャムハト、ありがとう、本当にありがとうね。」と微笑み、涙を流しながら何度も彼女を労わるように体を摩り、頬を撫で、その誇らしく美しい髪に、儚く嫋やかな手首に、しなやかで艶かしい指先に、下るに順い、互いの想いを繋げるように唇を落とした。
シャムハトは心地良さそうにアマロの抱擁を受け、想いを伴にする様に、同じように唇を返した。アマロは顔を赤くして、より一層のこと彼女を胸に仕舞うように身を寄せた。
シャムハトとアマロの熱に我を取り戻したギルガメシュは、赤子が目を覚ましていることに気づいた。エンキドゥと名付けられた、この翠の御髪が映える、これまた空にも陸にも探せば見つかると言う者ではない、あどけなさに抜けるような美しさを湛える赤子は、目を覚ましていると言うのに泣きもせず、ただ、ぽんわかと父親と母親が泣きながら喜び合う様子を静かに、不思議そうな貌で見つめているのだ。
赤子から目を外したギルガメシュは、この子の不思議を見てやっとこさ理解した。いや、思い出したのである。「あぁ、アマロとはそういうものであったな。」と。
ギルガメシュは、己が出逢った不思議に、たった一目で虜になり、気づけば片時も離れずに十余年と夜と昼とを共にした相手を、その限りなさをすっかり思い出したのである。アマロが今日、この日まで一度もシャムハトに会いたいと言わなかったのも、全て知っていたからなのだろうな、とギルガメシュは己の浅はかさに苦笑した。そして同時に、アマロが少しも迷うことなく、シャムハトの抱いていた赤子を我が子と認めたのも、初めから知っていたからなのだろうな、とも思ったのであった。
再び赤子を見遣ると、エンキドゥはギルガメシュを不思議そうにじっと見ているではないか。ギルガメシュは今度は目を逸らした。
嫉妬に狂った自分に、どこか酔っていたのやも知れぬ、とギルガメシュは自覚した。今の自分に同じ雑念があるだろうか、彼はそう思い、今度は逃げまいとエンキドゥのくりくりとした瞳に、己の瞳を合わせた。
エンキドゥの満々たりし黄金色の瞳には、三人の姿が揺蕩っていた。シャムハトと、アマロと、そしてギルガメシュの姿が映っていた。シャムハトとアマロは幸せそうにしているが、ギルガメシュだけはなんとも真剣勝負といった険面である。全く滑稽に過ぎる。
くしゃりと歯を見せて笑ったギルガメシュは、顔を上げて、瞳を閉じて、少し深く息を吸った。吸った息は鼻からゆっくり吐き出した。焦りはなかった。
自分は少しアマロに意地悪してしまった。これは反省しなければ、と瞳を開いたギルガメシュはからりと一顧に自省して、「我にも赤子を見せてみよ!」とわざわざいつもの様な声を張り上げて、シャムハトとアマロが揃って口元に人差し指を立てる姿を甘受した。
今だ!とでも言うように、エンキドゥが一拍遅れて泣き出したのはそれからなのであった。