18黄金色の愛惜
新月の日が遂に訪れた。
朝の目覚めと共にウルクの民は盛んに声を張り上げた。「イナンナ神のご婚姻に祝福あれ!!」と言う声があちらこちらから上がった、
朝の目覚め。私室の外から民の賑やかな営みの声が聞こえてくる。寝台の上だけが安らぐ場所だった。ギルガメシュの目がゆっくりと開き、彼は腕の中を確かめる。手を胸に寄せて小さくなって眠るアマロの姿を認め、毎朝の例に従い安堵の息を漏らす。まだ目覚めぬ愛しい人を起こさぬ様に、しかし、起きて応えて欲しいような想いを胸の内で和え併せながら、ギルガメシュはアマロの閉じられた瞼へ心からの愛を贈ってから起床した。
この日をもって、ギルガメシュは楔の使命を果たさなければならない。それが、神々が違えることなく誓いを果たし、その後にもウルクに平穏が訪れることを約束させるために必要なことだからだ。なにより、アマロが、彼が生きる今を存続させるために必要だからだ。
彼が今どうしょうもないくらい幸せなのはギルガメシュが誰よりも知っていた。誰よりも長く伴にいるのだから。誰よりも昔から彼を愛しているのだから。彼が望んでやまないのは、自分とシャムハトとエンキドゥが一人として欠けていない平穏なのだから。
ギルガメシュはこの新月の日をもって、過去の自分との永訣を誓った。
玉座の間にて、ギルガメシュはアマロが眠りから覚めるより前にやらなければならないことがあった。玉座の間は神殿でもあり、そのまま神との交信の場でもあった。
ギルガメシュは鎖を大地の深くにまで突き立て、「冥界の王ネルガルよ、貴方に今こそ誓いを果たしてもらおう。」と語りかけた。
暫しの沈黙の後、帰ってきたのはネルガルのしゃがれた威厳のある声ではなかった。代わりに聞こえてきたのは一度だけ聞いた女の声だった。
「何か用かしら、嘘吐きのギルガメシュ。」と冷たく応える女の声に、ギルガメシュは焦りと驚きを呑み込んで、いつも以上に高慢に聞こえるように声を張り、「冥界の女主人よ、我は冥界の王ネルガルに用があるのだ。それに、嘘つきとは何のことだ。我には全く記憶にない話であるな。」と答えた。
女の声は不安定に震えながら「誰が王ですって!私に嘘をついたネルガルなんて、とっくの昔にただの亡者に堕としてしまったわ!もともと冥界の王は私なの!間違うのは不敬なのよ!それに、あなたまた私に嘘をついたわね!それなのに記憶にないなんてっ!よくもぬけぬけと!」と陰湿な怒りを迸らせながら轟いた。
ギルガメシュは冥界の女王エレシュキガルがなぜ怒り震えているのか理解していたが、あのネルガルが彼女に打ち明けるような真似をするとは考えられなかった。ネルガルの失脚は、ギルガメシュに大きな驚きを与えたが、彼はそのことを表に出さず何故彼女が怒りを得るに至ったのか、そしてこれからの話を飲ませるために何を譲歩すべきなのか頭を働かせた。
エレシュキガルは火を吹くようにかっかとしながら「ギルガメシュ!あなたは私に美しいものなんて無いだなんて嘘をついた挙句、愚かなネルガルをたらし込んで私に何も教えないで勝手に誓いを立てさせたわね?」と詰問し、ギルガメシュは感情を感じさせない瞳で「なぜそう思ったのか、我はわからぬ。故に、我が嘘を吐いたか否かを詰問する前に、そのことを説明してもらおう。」と鉄面皮でさらりと言い切った。
エレシュキガルは一周回りきり、呆れた口調で「自分が嘘をついたかどうか、頑ななのね。」と言うと、「まぁいいわ、教えてあげる!どうして私があなたの嘘を知ったのか?そんなのはね、私の!あの!奔放で自由勝手な妹が!私のいる冥界にまで自分の婚姻の自慢話をしにきたからよ!!」と語り、徐々に怒り心頭に発したのか「四六時中!自慢話ばかりで嫌気がさしてならなかったわ!!どうして、どうしていつも私ばかり!!妹はあんなに好き放題にしているじゃない!!」と叫んだのであった。
彼女の叫びに目をつけたギルガメシュは、自身の嘘を追求されるより早く、ぜいぜいと息の荒いエレシュキガルへ「では、その憎たらしい妹の伴侶を一時でも独占できると言うのはどうだ?」と悪神の企みを提案した。
エレシュキガルはひゅんと沈黙し、「ふーん」と感心ありげに鼻から音を奏でると、「もしも、あなたが本当に妹の夫になるはずだった、その美しい人を、一時だけだとしても私に好きにさせてくれるのであれば、私は妹のイナンナからその人を隠してあげてもいいわよ。冥界において、私以上に力を持つものは誰一人としてその存在を許されないわ。例え、父上のアヌ神だとしても。」とギルガメシュに答えた。
ギルガメシュは「それでよい。イナンナ神から隠してくれ。一時、あなたに我が伴侶を預けよう。」と言い、最後まで嘘を認めずに済むかと思われた。
しかしここで、エレシュキガルは「ただし!もしもあなたが私に再び嘘をつき、私が好きにしていい人が美しくなかったら、その人は二度と冥界から出してあげない。そのことを忘れないことね。…ネルガルとの誓いは冥界の真の女王との間に結ばれたものではないのだから、そもそも、成立していないことになるわ!よろしくて?」と条件と念押し、そしてギルガメシュが頼みにしようとしていたであろう誓いを無効にしたのであった。
ギルガメシュはここで初めて苦い顔をしたが、次の間には元の無表情に戻り、「しかと聞き届けた。我は誓いは破らぬ。故に、冥界の真の女王も誓いを守ることを切に願おう。」と答えた。
エレシュキガルは満足したのか、「夜までには、私の元に送り届けさせなさいよ。時間を守らないのなら、私もあなたの伴侶とやらを二度と時間通りに返してあげないからね。」と最後の念押しをしてから静かに声が溶けていった。
ギルガメシュは日が沈む間際までアマロを手放したくなかった。例え今生の別だったとしても、今だけは少しでも長く一緒にいたかったからだ。執務も早く片付けて、司祭の準備だけをして、夜の明かりをウルク中に灯す直前に、ギルガメシュは、話があると集めたシャムハト、エンキドゥ、そしてアマロに冥界の女王エレシュキガルとの誓いについて、あるいはその取引について説明した。
シャムハトはただ「わかりました。少しの間だけ、ほんの少しだけ離れるだけですから。」と平静を装って微笑み、エンキドゥは珍しくほろほろと鳴いて、首をいやいやと左右に振りながらアマロの袖を離そうとしなかった。アマロはエンキドゥの必死の懇願に足が地面に縫い付けられたようになってしまった。
険しい顔で、ギルガメシュはアマロにウルクを守るためでもあると伝えた。アマロはエンキドゥの纏う日の香りがするその服の上から、その柔らかいお腹に顔を埋め、次いで今度はエンキドゥを包み込むように抱き締めた。そして、いつもよりも丁寧に、強く、繰り返し自身の最愛の宝物に口付けを贈り、最後に一つだけエンキドゥの可愛らしい唇にも愛を贈った。
エンキドゥがすっかり顔を赤くして目を回し、ふにゃふにゃと脱力してしまうと、アマロはシャムハトに愛し子を預けてギルガメシュに向き直った。
ギルガメシュは「今生の別というわけでは無い。だから、そう不安げな顔をするな。我が、必ず迎えに行くのだ。安心して待っていろ。」と不敵に笑って言い、アマロは「うん。待ってるね。」と儚く笑った。
シャムハトとエンキドゥを最後にもう一度抱きしめて、愛を贈ると、名残惜しくエンキドゥの頬に柔く自身の頬を合わせ、必ず聞こえるように、なるべく優しく聞こえるように「いってきます」と囁いた。
エレシュキガルのもとへ、ギルガメシュは鎖を伝って行くようにアマロを送り出した。背中が遠くなる。エンキドゥはまだ目を回していたが、それでもその小さな手だけは、その背中を繋ぎ止めようと必死に伸ばされていた。背中がすっかり大地の下に消えてしまっても、エンキドゥの手は長く下されず、手が下されても尚その瞳の先にはアマロの背中が失われることはなかった。
冥界の女王エレシュキガルは、豊穣と美の女神である妹イナンナのことがあまり好きではなかった。いや、この場合には憎んでさえいたと言ったほうが良いかもしれない。
彼女は姉として、父神より冥界を任された。当初、冥界の主人という肩書きは彼女に一等の責任感と承認の満足を感じさせたが、一方で、天界から一人離れることに関して小さくない孤独感を抱いていた。
父は主神アヌである。偉大な父親に報いようと、認められようと彼女は弛むことなく王として高潔に、冥界の主人として厳粛に励んだ。
しかし、彼女は妹のイナンナが豊穣と美の女神に、次いで天の主人に選ばれたことに、あからさまな姉妹間の差を感じざるを得なかった。
元より真面目で責任感の強い彼女は、弱みを妹に見せたくもなかったし、父親や他の神々に失望されることも酷く恐れていたから、この時抱いた激しい不満足、美神である妹との扱いの差に対する劣等感を、全て呑み込み、誰にも打ち明けなかった。打ち明けることができなかったのである。
イナンナが権勢と美貌を甚だしくして天界に君臨し始めた時も、エレシュキガルは忠実に働いた。亡者を導き、死者を諭し、あるべき世界を保っていたのだ。
神々が成熟したイナンナ神を美神として口々にその妖艶さを褒め称え、父アヌがただただ妹の我儘を容認するばかりとなり、イナンナが快楽に耽るようになっても、彼女は、エレシュキガルは忠実に、頑ななまでに冥界の王として働いた。
そして、彼女はいつしか気づいたのである。
冥界とは、神が最初いなければならない場所ではなかった。神が導かなくとも、亡者、死者達は勝手に集まり、そして冥界と何ら変わりのない、ただ神がいないというだけの違いしかない、同質の拠り所を構築していったことを。
エレシュキガルはこの時に、よもや私は天界に忘れ去られてしまったのではあるまいかと、突然に猛烈な恐怖に襲われてしまった。彼女の体は激しく震え、寒くも暑くもない冥界の、最も立派な玉座の上で一人、孤独に足を抱えて落ち着くまで震えていなければならなかった。
エレシュキガルはしかし箱入りの、自らの神としての在り方に忠実な性格であったために、一度持ち直し、絶望を忘れて、神々への信義を取り戻そうとした。
彼女は神々から自らを必要されることを、自らの勤勉さを、その直向きを賞賛されることを願ってやまなかった。だから、自分に残された希望を一縷と言えど捨てる決心がつかなかったのだ。エレシュキガルは神である自分に縋るほかなかったのである。
冥府とは、冥界とは、本質として私を必要としていないのだから、神々が必要としたばかりに冥界などという虚構が生み出され、都合よく生まれた私は摘み上げられて覚束ない脚の玉座に座らされて、そこに私は必死にしがみついていた。
エレシュキガルは、果たして神々の中の異端ではなかった。彼女は誰よりも神らしくあろうとした。だが思いとは裏腹に、捨て切れなかった希望は裏切られた。彼女は終ぞ神として本当に必要とされることはなかった。
失望の度合いは目を血走らせるに足る。怒りの度合いは爪が剥がれるほどに冷たい石壁を掻きむしるに足る。そして悲哀の度合いは彼女がその神としての矜持を捨て去るに足るのであった。
彼女はそれから王となった。冥界の女王だ。傲慢で、陰湿で、どこまでも華やかな神々とは迂遠な存在に変わることにしたのだ。自身を守るために。誰かを二度と失望しないために。気に入ったわけでもないネルガルに王を任せたのもその為だった。見聞きしてしまえば言いたくなる。王が過ち、言葉を軽々しくすることは決して懸命には彼女は思えなかった。
不器用な彼女は王としての仕事をネルガルに、権力と共に預けてしまった。忠実でなくとも、王としての振る舞いは様になっていたネルガル、彼が自分に嘘を吐いたことは初めから知っていた。ただ、どうしても許せなかったのは、ネルガルが自らを神か何かと勘違いし始めていたからだ。ギルガメシュは神々と対等に誓いを立て、次にネルガルとも対等の誓いを立てた。ネルガルはギルガメシュからの褒め言葉に機嫌を良くした。それはエレシュキガルの癇に障った。彼女は我慢できなかった。道理を知らぬ子供にさえ、冥界の真の王は本来ならば敬われるべきだと、お前は真の王ではないと突きつけられた気がしたのだ。だから、ネルガルの生身を殺し、ただの矮小な亡者に落とした。
誰も私を見なかった。父も妹も見なかった。話もわからない子供でさえも見なかった。なら、最初から誰にも見られない、報われずに、沈黙を糧に励むべき高潔なままでいなければならないと、それがお前の使命だと、なぜ言ってくれなかったのか。
「エレシュキガルは歪んだ女神だ。冥界の女王を務めているのだから、生まれた時から陰湿だったに違いない。」彼女が夫ネルガルを失脚させたことを聞きつけた多くの神々は、そう口々に噂した。エレシュキガルは耳を塞いで、ただ嗚咽した。金切り声は上げなかった。冥界の女王が、そんな無様は晒せない。女神のような悲鳴をあげるのは、妹のイナンナだけで十分。
もう彼女には神としての矜持を守れるだけの余裕が与えられていなかった。彼女は目元を腫らして改めて玉座に座り、日々沈黙と共に王として励んだ。逆らう亡者は抹殺し、従順な亡者へは常に寛容を心掛けた。
神々はこの職務に忠実な冥界の女王を「最も恐ろしい女神である。偉大な冥界の主人だ。」と言うようになった。誰も、彼女が声を上げて泣いたことには気づかなかった。今更なんだと言うのだ。エレシュキガルは腹が立って仕方がなかった。
彼女はギルガメシュとの間に立てた誓いを、初めから守るつもりがなかった。彼が自分の嘘を贖う為に言い出したのか、本当に嘘など忘れていて新たな誓いを立てたのか、或いは自身を貶める為に新たな嘘を吐いたのか…その全てが彼女にとってどこまでも思考するに値しないことであった。
吟味するには実に味気ない。いや、危険な話題だったというべきか、エレシュキガルは期待をせず、納得などしてやるものか、と冷たい仮面を被り直した。相手が本当に美しかろうが、美しくなかろうが関係がなかった。彼女は自分に嘘を吐いたことになど、もはや怒りを感じていない。ただ、誰にも彼にもすっかり失望されきってしまいたいほどに、彼女は心を殺めていた。
殺められた心を、子供の癇癪のように慣れない手つきで縫うこと以外に、心幼い高潔の女王は逃げ道を見つけられなかったのだ。
地下にまで繋がれた光り輝く鎖、鎖のさりさりと擦れる音まで澄んで聞こえるほど、その鎖は見事なものだった。誰か、誓いに則り愚かにもこの冥界への片道の旅路を進む者の足音が聞こえた。
エレシュキガルは威厳を正しくした。
さりりさりりと手に握る鎖を一節ずつ滑り落ちるアマロ。彼の姿は自然と暗闇に満たされた冥界に一筋の光を注ぐものとなった。
エレシュキガルは音を立てて玉座から立ち上がった。声の無い叫びが上がる。声は響かない。響かせなかったのは彼女の最後の女王としての意地だったのか。エレシュキガルは目を見開いたまま、鎖を手放し、光の筋が徐々に小さくなるにつれて強まる光の源へと視線を注いで離さなかった。
黒曜石の希望と呼ばれる理由を初めて知ったのは誰か。その意味を初めて、本当の意味で知る機会に恵まれるべきなのは、誰よりも先ず最も絶望した者でなければならない。最も必要とする誰かに、鮮烈な希望を焼き付けなければなるまい。
その通りの輝きを、漆黒の中でこそ映える煌々たる希望を灯して、彼は冥界へと降り立ったのである。
アマロはエレシュキガルの前まで悠々と歩み寄ると、刮目したまま立ち尽くす彼女の目と目を合わせて、「私は誓いによりここ冥界のお世話になります、アマロと申します。貴女がエレシュキガル様ですか。」と、僅かな卑屈さも、一摘みの侮蔑も見せずに問うた。
エレシュキガルは口を開けたり閉じたりを二度ほど繰り返して、ほんの少しの間口元を一文字に縛ってから、「えぇ、そうよ。私が、貴方をお世話する冥界の女王エレシュキガルよ。ギルガメシュから話は聞いているかしら。」と答えた。彼女は落ち着き払って見せたが、やはりどこかアマロに飲まれているところがあるらしく、言葉の響きが頓珍漢になってしまった。そのことは彼女も自覚があったらしく、確認をとってすぐに顔を赤くした。
恥入る彼女の心を撫で落ち着かせるように、アマロは和かに「えぇ。存じています。私に出来ることであれば、貴女が感じるまま何なりと教えて下さい。」と笑いかけた。言葉に刺されまいと、アマロが喋る間際に反射的に目を瞑ってしまったエレシュキガルは、かけられた言葉の、その裏側までの清澄を隠すそぶりもない晴れやかな響きに驚愕した。そして、何を言われたのかを理解したことで、自分が何者かであったことも、その何者かである限りでは目の前の男を好きに出来る権利が委ねられていることを思い出した。正確には、すっかり忘れていたということを自覚したのである。
自分は女王。女王とギルガメシュが誓いを立てた。女王である限り、私は目の前の男を好き勝手に出来る。
滅法な初心であるエレシュキガルは、ギルガメシュとの取引上のあらゆる規定を吹き飛ばし、最も、今自分にとって肝心の所だけを抜き取ると、そこだけを口中で咀嚼した。少しの理解違いもしないという強い気持ちがあった。
「ち、誓いは理解しているわね?」とエレシュキガルは吃ったことに顔をさらに赤くして聞き、アマロは「はい、勿論ですよ。」と、二度も確認されても嫌味の無い微笑みで返した。
エレシュキガルはふわと心が浮くような心地がして、「な、なら!早速お願いしようかしら!」と踵を返して顔の赤さを隠すと、「はい。よろしくお願いします。」などと行って穏やかな顔で続くアマロを自身の宮殿の奥へと案内するのであった。
道行き、エレシュキガルは専ら自分が日々どのような業務に励んでいるのか、その詳細について事細かに説明し続けた。話が長く、その上退屈であると、多くの神々がイナンナを批判するのがよくわかる。あの妹に、この姉ありとでもいうべきか。しかし、ことアマロという男は話の長さなど欠片も見てはいない。
だから、彼は何の気なしに「独りは寂しいよ。褒められたく無いなんて、認められたく無いなんて誰もが言い張らなきゃいけないことじゃ無いよ。君は逃げ方を教えてもらえなかっただけなんじゃないのかな。私は君のことをまだ何も知らないけれど。逃げ方を知らない貴女も不器用で可愛らしいと思うよ。」などと、などと、彼はエレシュキガルに宣ってしまったのである。
エレシュキガルは心底不思議そうな顔をしたかと思うと、何に気づいたのか、赤くした顔を俯かせてしまった。彼女は何を言われたのかを分からなかったのだ。そして理解して、理解した言葉の一つ一つの意味が、体験したことのない類であることに、新鮮な余りどんな返しをすれば良いのか全く思いつかなかったのだ。端的に言えば、エレシュキガルは、その経験の浅さ故に、単純に困ってしまったのである。
元来の質と言うもの。原初の母神にも挨拶がわりに接吻を落としたと伝説がある男なのだから、然るべきも然りと、よりにもよって最も効果的な機を局地的に捉えた上で、最も火力の高いことを言うのである。その言葉は必ずしも正しいものでも、素晴らしく整った言葉であるわけでもない。万人の心を動かすこともできなければ、誰かから見れば心にも無いことを、と怒りを煽ったり、或いは私の何を知っているのか、と心を荒立ててしまうこともあるだろう。
だがしかし、一つだけ言えることがある。それは、少なくとも等身大の、まったくもって赤心からの言葉であると言うことだ。その言葉を口に出し、相手に伝えようという必死の思いが形となったものを、飾らないその一言を赤心からの言葉と言うのではなかろうか。ただ、その瞬間だけは、目の前の貴女のことだけを考えて言葉を紡ぐ。アマロの言葉の、彼の良心の本質とは其処であろう。
壁が奇跡的な間隔で、無意識的にではなく、衝動的に、詠嘆的に消失してしまうのは、アマロという存在が誇る、混じり気のない良心の為せる技なのだろう。
意を決して顔を上げても、エレシュキガルは何と返すことが正解なのか分からなかった。戸惑いが強く顔に現れていた。それはアマロから見ても一目瞭然であったから、彼は「ここでは貴女が一番偉いんですから。貴女の好きなようになさればいいんです。」と、胸を貸すようにおどけて言って見せた。
エレシュキガルは諭されたことなどなかった。それは彼女に比べて妹のイナンナが言うに余りあるということも、彼女自身が生真面目で実直だからと言うこともあろうが。それは彼女からすれば言い訳に過ぎまいて。
だから、彼女はあどけなく笑った。何とも似つかわしい照れ笑いである。実に結構であった。アマロも、エレシュキガルも互いの立場などよりも、目の前の情ある人間のことにすっかり集中していた。生まれてこの方知らなかった、嘲笑にも哄笑にも属さない笑い。穏やかな微笑みを付き合わせることの、なんと安寧なことか。
冥界の女王という枕詞は、今の彼女には、可憐な微笑みを浮かべてアマロに応えた彼女には、些かとも重苦しきに過ぎるに違いない。
エレシュキガルは出会って早々に目の前の男のことが気に入ってしまった。美しかろう、確かにそうだがそれだけに見出したわけでは無い。殊に彼女は己の心の傷を癒す役目に最適の者を見つけたと言える。
獲物を見つけた獣の如く、瞳をきらりと光らせたエレシュキガルは「さっ!行きましょう、アマロ!」と、日ごろは憎し愚妹の風を纏って、極々自然な流れでアマロの横に立つと、その手を抱いて歩き始めた。
突然の彼女の変わり様に、アマロは嬉しそうに微笑み返し、「はい。エレシュキガル様。」と少し演技じみた、しかし実に様になる返しでエレシュキガルの心を掴んだ。
再び歩き始めたエレシュキガルは「貴方が私に言ったのよ。貴方が、私に好きにしろって言ったから。その、変じゃなかったかしら?」と数歩と進まぬ内に事後評価を求め、アマロは穏和にこれを受け止め、「えぇ、その調子です、エレシュキガル様。貴女の好きなように、わがままを言ってみてください。お世話になるのは私の方なのですから。私も、出来る限りご奉仕します。」と、自分の気持ちをそのまま伝えた。
エレシュキガルは嬉しそうに「そうね!そうよね!よかったわ。間違ってなくて。そう、そうなのね、こういう風にするのが正しいのね!」と何かに合点がいったのか、実に晴れやかな表情をするようになった。
宮殿の最奥の居室に辿り着く頃には、「貴方のことはアマロと呼ぶわ。だから、貴方も、そのぅ、特別よ?私のことはエレシュキガルと呼んでいいわよ。でも、それだと長いかしら?…何がいいかしら、アマロの考えを教えて。」と問うては、アマロに「うーん。…エレちゃんなんてどうかな?」という、至極威厳を欠いた返しを受けたにもかかわらず、「そ、そんなに親密な呼び名も…いいわね。スゴく…有りだわね。決まりね、偉い私が決めたのだわ、貴方は私をエレ、或いはエレちゃんと呼ぶこと。いいわね、アマロにだけ今から特別よ?」と快活な笑顔で寿くまでになっていた。
こうして上機嫌なエレシュキガル、いや、エレちゃんはアマロと過ごす日程を、少しの無駄もなく完璧に組み上げることに思いを馳せたのだった。
誰が何と言おうとエレちゃんにとっての生まれて初めての体験だった。
冥界の王でも、女神としてでもない。情ある人間としてのエレちゃんが、彼女の心に寄り添ってくれる誰かと二人きりで過ごす初めての楽しい日となった。