19黄金色の赫怒 前編
新月の夜がやってきた。
イナンナは自分に賛同する、若い神々を中心とする派閥の面々に華美な装飾を天界から地上までの聖なる階に施させ、その一段一段を、誰よりも優雅に降りてくるのであった。
その派手な美しさのかんばせには満面の笑みが占めている。傲慢さが似合うと言えば良いのか、彼女もまた一種の光を纏って人間界へと降り立った。
自身への賞賛や祝福を叫んで歓迎する人間たちを、彼女は雅に手を振るものの、その瞳には人間の影とて映していない。そこに彼女の本質が垣間見得ているようにも思うが、しかし、事実誰から見ても彼女は女神の中の女神であり、その人物像は完璧な慈笑の仮面に覆われており、人間たちは彼女から己らを生命有る限りの者として虫同然に見做していることには全く無頓着に留まるのであった。
知るべきでないとして、単に神々からの無関心と同情を一種の慈悲として受け取り損ねたことが第一の間違いやもしれなかったが、美しいイナンナを前にして、都合のよろしいウルクの民達は口々に彼女への祝福を叫び、女神の美しさに感涙咽んでいた。
イナンナは美しい濡鴉の如き御髪をさらり、と優美にかき流して見せる。演技染みるその仕草も実に似合うのだから、女神が本気で女神を装う時の自己演出力は馬鹿にならないのかもしれない。彼女の一所作一所作にウルクの人々は不安を忘れた、実に急傾斜な、実に熱狂的な歓声を止むことなく上げるのであった。
神々を受け入れる神殿には山の様に上質の麦で焼かれたパンや最高の薫りを放つ葡萄酒、色彩の凹凸が眼と鼻を喜ばせる果実の数々が、ウルクこそが最も豊かであることを、人間を代表して誇示する様に積まれていた。皿や杯に満たされていないものはなく、また隙間など見えないほどに山は堆い。イナンナに従ってきた神々は、常の献上品すら超える飽食の極みをまざまざと目にしては、わかりやすく悦びを露わにした。
「さぁ!私の婚姻を祝して、儀式の前に大いに騒ぎましょう!好きなだけ食べて飲んで歌って、私と夫の幸福を祝うのよ!!」というイナンナ神の掛け声と同時に、神々と人間から同色の歓呼が夜空に響き渡った。
宴席は神々と人間で分けられず、ややもすれば理想的な人間と神々の融和であっただろう。神々は各々の個性を全面に出した楽しみ方を見せて、その物珍しさで人間達に素晴らしい話題を提供した。人間は神々に、その眼を楽しませ、舌に馴染ませ、喉を潤し、鼻腔を芳しくし、腹を満たすに相応しい美食と美酒を提供した。
神殿の高き御座に拵えられた宴席は、正に天地の間を繋ぎ止めるものであった。今日ばかりは月の神もお休みである。漆黒の元でぐるりと神々も、人もを取り囲む松明の灯りが地上に最上の光景を現出していた。
時に、羊の肉に齧り付く勇神の豪快さを、人間と神々が共に手を叩いて称えた。
時に、美神の喉を美酒が伝い落ちる、貴品のある様に神も人もなく息を呑み、共に見惚れた。
時に、大酒食いの者同士が、神と人間それぞれの中から第一の者を出し合って競い、飲み干せば拍手喝采を贈り、飲み干せなければ潔く冷やかしの声を受け止めた。
神々は人間の見所とやらを再確認し、人間は神々の陽気さや美しさを崇めた。そして、神々も人間も、お互いに実によく似た隣人もあったものですわね、と神々は神々同士の仲間内で、人間は人間同士の仲間内で言い合い、笑い合い、かと言って向こうの潜め話には、祝いの場で隠し事とは感心できませぬ、などと冗談の様に僅かな見損ないを覚え合うのであった。
ギルガメシュの姿は宴席を照らす松明の先がすっかり炭になるまで現れることはなかった。彼と同じように、シャムハトとエンキドゥもまた、宴会場に足を踏み入れることはなく、この日ばかりは、夜だと言うのに神聖な森の奥地で、二人は身を寄せて合って息を潜めていた。誰に見咎められることもないというのに。
縁もたけなわ。儀式の前座である大宴会にて、美酒と美食を堪能し尽くしたイナンナは満足そうに「ふふふ!素晴らしかったわ!さぁ、婚姻の儀を始めましょう!そういえばどうしてギルガメシュがいないの?私のアマロもいないじゃないの。待ちきれないわ、ギルガメシュを呼びなさい!」と手を叩いて命じた。
神の中にも、ウルクの民にも酔い潰れる者が出始め、儀式どころではないものもちらほらであったが、そんな些事はイナンナには関係がない。彼女は金の酒杯をその精美な指先でかちかちと鳴らしては、心の逸りを、口煩くするかわりに、顕にするようになっていたが、まだまだ心のゆとりがあるのか、手元の忙し無さとは異なり、その表情は実に鎮美な貫禄があった。
「王のご来場です。」と民の中から名士が進み出て王の到着を伝えた。王は「待たせたな。イナンナ神よ、我がウルクのもてなしは如何か。貴女を満足させることはできたであろう?」と胸を張り、不敵に笑いかけた。
イナンナは「えぇ!中々やるじゃない。天界の足元には及ぶかしらね!でも、ウルクならこんなものよね!女神への、も・て・な・し、というモノをわかっているようで、私も安心したわよ。」と、心からの感想を述べた。
満足と感謝を基礎に、女神の微笑で飾られた返答は、しかしである。あな、驚いたことに、ものの見事に一言一句全てが嫌味に聞こえたのだから不思議。イナンナには悪気がないのであるが、言われた方が如何様に受け取るかは別である。ギルガメシュはあまりの言葉に、堪えきれずこめかみをひくつかせたが、咳払いして誤魔化した。
ギルガメシュの到着が不敬に及ぶほど遅刻であったことなど、心地よく酒に酔い、美食を楽しんだイナンナには些細なことであった。いつになく寛大なイナンナに、周囲の神々は常以上に距離を取るか、ここぞと近寄る者の二つに分かれて、人間は背景の止むことのない喧騒を見事に担っていた。
イナンナはギルガメシュに「私の夫はどこかしら?」と笑顔のままに語りかけた。彼女からの問いに、ギルガメシュはただ「イナンナ神よ、よもや誓いを忘れたなどとは言うまいな。」と返した。
ギルガメシュの声はよく通り、幾人かの観衆を集めたが、辺りは未だ華やかな喧騒に満ちている。ギルガメシュの返答に、一度は寛容を示して頷き熟慮する素振りを見せたイナンナだったが、その手は拳が形作られていた。
イナンナは「ギルガメシュ王。賢いウルクの王にもう一度、聞くわよ。私の夫はどこなの?早くお呼びしなさいな。」と笑みを深めて言ったが、ギルガメシュはさも当然だと言わんばかりに、嘲るが如き無垢な疑問顔で「どうやら、イナンナ神は誓いを忘れておられるようだな。」と言って鼻で笑った。
この仕打ちにイナンナの笑みは跡形もなく崩れた。座から勢いよく立ち上がる。大机が音を立てて揺れ動き、並んでいた食器ががちゃがちゃと甲高く騒いだ。彼女の両手は拳の形になり、胸の前で戦意を顕にするように震えていた。
イナンナは目を怒らせて、「さっきから誓い誓いって何のことよ!!そんなことより、私の旦那様はどこだって聞いてるでしょ!アマロはどこ!私はあの人に、早く会いたいと言ってるの!!あんたこそ、私との誓いを忘れたわけじゃないでしょうね!!」と叫んだ。
痺れるような憤怒が声に込められていた。あたりに響き渡る彼女の、よく通る声は美しかったが、同時にその孤高の冷たさをも発露していた。活火山の噴火に驚いた周囲からは音が消え去り、霧深く内静まる早朝のような静寂だけが彼らの間に満ちていた。
イナンナの顔に、先ほどまでの上機嫌はすっかり消えていた。神々は腰を上げる。いつでも天界に帰る支度を始めたのだ。人間達は怖いもの見たさで王と、天界の主人の舌戦に固唾を飲んだ。
ギルガメシュは嘲る素振りを消して、全てを見通すその瞳に聡明を灯した上で、「イナンナ神よ、あなたは勘違いしておられるのだ。我は一度として、貴女の婿殿をご用意するなどとは言った覚えがない。我は貴女の婚姻の宴を、天に届くほど盛大に、ウルクを挙げて用意する、とそう誓いを結んだのだ。故に、我にはどうして貴女がお怒りになるのか見当もつかぬ。よもや、お門違いではあるまいな。」と毅然とした態度でイナンナに正論を突きつけた。
突きつけられたイナンナの目は憤激を焚き、色で例えるならば真っ赤であったろう。彼女は震える拳を叩きつけるように振り切り、ギルガメシュを貫くように指差しながら、「ギルガメシュ!!!あなた、私を小馬鹿にしているの?私を怒らせたいのかしら?私は寛大だから、寛大だからもう一度だけ、聞き分けの悪いあんたに聞いてあげるわよ。だから、さっさと、私の夫を、アマロをお呼びしなさい!!」と言い詰めた。
辺りが一層静まる中、これに対してもギルガメシュはあくまで少しも間違いなどないとの態度で、「イナンナ神は、どうやら神々と人間との誓いを破られるようだな。全く、嘆かわしいことよな。」と答え、身振りまでつけてイナンナの言葉を正当に貶めた。
イナンナの目つきは変わり、静まり返った水面のようになった。神々は悲鳴を上げた。彼女の凶暴が解き放たれる予感に身を震わせたのである。ギルガメシュは実に堂々と迎え撃つ覚悟で彼女の言葉を待った。
イナンナは「へぇ、そう。わかったわよ。私を怒らせたらどうなるのか教えてあげるわ!!約束破りのあんたとは違って、私って必ず約束を守るのよ?ウルクには約束通りに災厄を贈るわね…私の言うことを聞かない奴らなんか!皆んなしてグガランナに踏み潰されればいいのよ!!」と叫び、天に向けて掌を向けた。
神々は「おぉ!なんと恐ろしいことを!」だとか、「天界でさえ荒れると言うのに、このウルクになど…イナンナ様は本気であるぞ!!」だとかと騒ぎ、宴席は悲鳴の坩堝と化した。
廷臣や神官、神々の中でも老成した経験豊かな者達がギルガメシュに駆け寄った。家臣達は「王よ!ギルガメシュよ!アマロ殿は何処に!イナンナ様に早く差し出しましょう!!今ならまだ間に合います!」と目を血張らせて、脂汗の吹き出した顔で彼に迫り、神々は「おぉ、賢明なるギルガメシュ!其方は我らと人間を繋ぐ者であることをお忘れか?使命を思い出すのだ!」と引き腰で説得を始めた。
徐々に喧騒が悲鳴に変わり、悲鳴は瞬く間に混乱へと拡大した。ウルクの神殿から、我先にと逃げ出す貴人や名士達の姿に、宴会のご相伴に預かりほろ酔い気分であった民衆も脅威を感じ始め、不安がウルクをのたうち回った。人々は次々に病を分け与えられたかのように狂態を晒し始める始末であった。
祝いの夜が、神と人間の共楽の宵夢が崩れ去るのは、その過程を含めても味気なかったことだろう。ギルガメシュとイナンナを残した宴席は混乱の嵐が過ぎ去った静寂を受け入れたが、全てはイナンナの高笑いに支配されていた。
イナンナの高笑いは永遠に続くものと、当人含めて感じていたが、それはあまりにも変化のない天へ苦情を申し立てる、「いくらなんでも遅すぎる!!どうしてグガランナが来ないの!!!」というイナンナ自身の声により打ち据えられた。
イナンナは目で殺すような凶相を剥き出して天へと、この場では父である主神アヌへと迫った。果たして、天から与えられた声は以下の通りであった。
主神アヌが断じて曰く、「豊穣と美の女神よ、我が娘イナンナよ、グガランナをウルクへと堕とすこと罷りならぬ。私も、少しお前のことを甘やかしすぎたようだ。お前の奔放と自由に目を瞑ること枚挙にいとまがないほどであったが、しかし、今度ばかりは押し通ること許せじ。そこに控える使命の者、ウルクの王、賢きギルガメシュの言葉通り、いや、その誓いに則ることとする。お前の伴侶となるべき者は他にもあろう。今まで、散々と好き勝手してきたのではないか。何も全てを奪うわけではない。ただ、ウルク王の伴侶に焦がれることは諦めることだ。腹を立てるだけ無駄である。イナンナ、よいな。私の、父の話を理解したのならば、早急に天界へと帰還するがよい。いくら待てど、お前のグガランナの手綱はエアとシャマシュと私が離さぬ。」
これに、イナンナは唖然として、「そ、そんな、父上、ちちうえ!どう言うこと!なんで、なんで私じゃなくて、こんな奴の味方をするの!いっ、いつもは私が何しても、何にも言ってこなかったじゃない!!何にも言ってくれなかったくせに!!なんで!なんで今なの!本当なのに、今度こそ本気なのに!!」と嘆き叫んだが、アヌは「いいや、イナンナよ。お前はやり過ぎたのだ。私とて天の主神として、誓いが破られることを、ただ黙って見ておくわけにはいかなんだ。」と頑として譲らなかった。
イナンナは、信じられないものを見聞きしたように立ち尽くしていたが、その根の知性で事の仔細を承知すると、父の言葉に無言で承知しつつも、内心では憤怒の火泥を煮立たせていた。父にも、ギルガメシュにも。だが、この時の彼女には、ことを荒立てぬようにと、少なくとも思考する余裕があった。悲しいかな、その余裕を心の底から奪ってしまったのは、彼女自身の父神…否、天の、主神アヌであった。
アヌは言って曰く、「豊穣と美の女神イナンナよ、お前がどうしても伴侶を欲していることは理解した。だから、早く帰ってくるといい。お前が望んでも、手に入らぬものというものもあるのだ。考えてもみるがよい、お前の想いはどう考えても横恋慕ではないか。アマロには、シャムハトという妻も、エンキドゥなる子供もおるのだぞ。お前に入り込む余地など残されておらなかったのだ。さぁ、早く私の元へ帰ってきなさい。そこは些か騒がしかろうて。」
「妻?子供?…ねぇ、どういうことよ!どうして、そんな嘘を言うの?ちちうえ!ねぇ、どうして?なんでよ!!あ、あんたもなんか言いなさいよ!本当は違うんでしょ?ね?よ、よりにもよってシャムハトですって?そんな…じゃぁ、アマロはアイツの運命の…違うわよ!何かの間違いよ!!これじゃあ…ぁ、あんまりよ!」と、泣きながらイナンナは叫んだ。アヌの声はもうしなくなっていた。ギルガメシュは淡々と、冷徹な瞳でこの女神を見下ろし、彼女に付き従っていた神々はイナンナの周りに集まり、彼女に声をかけ出せずに屯し、人間は混乱の収束と共に、実に迷惑極まりない、この女神への尊敬を放り棄てるように、千鳥足で帰路についた。
取り残された彼女は、妻の存在も、子供の存在も、彼女は知らなかったのである。彼女は嘆き、喚き、叫び、父とギルガメシュを罵った。父へは、その全く無責任な父親としての在り方に憤り。ウルクの王には、ただ、とくとくと、その無礼と、思いやりの欠如と、そして己を嘲った全ての所業に対する憎しみを語った。立ち行かない彼女は、目を血走らせるとアマロの名前を呼び始め、それは叫びに変わり、困り果てた神々に両脇から支えられながら天界へと帰っていった。
ギルガメシュはその晩、眠らなかった。彼は一夜を通して、アマロが帰還することへの期待と、もしもへの不安と、正論を振り翳して得られた、完璧な正当性という勲の、そのなんとも言えぬ後味の悪さに顔を顰め、粗野な葡萄酒で誤魔化すのに勤しんだのであった。
天界に戻ったイナンナに、先ほどまでの狂態は微塵もなかった。背筋を伸ばした彼女は、ただ黙々と神々をかき分けて自身の宮殿へと籠ると、窓という窓、扉という扉を締切り、返還されたグガランナに跨り、誰に気づかれることもなく裏門から抜け出した。向かった先は天界の最果ての淵であった。
道中で泣き止んだ彼女は、憐憫を知らない機械のような表情のままグガランナから降り立ち、淵から一人飛び降りた。行き先は杉の森であった。
翌る日。主神アヌと神々の王エンリルの命令によって、イナンナの宮殿は完全に神々に囲まれた。アヌはイナンナに、その身柄を暫く謹慎の身に堕とすことを伝えるため、自ら宮殿に赴いた。アヌが宮殿に入り、イナンナにその処置を申し渡そうとした時には、既にふてぶてしく寝椅子に身を横たえるイナンナの姿がそこにはあった。
アヌは、この困った女神に「イナンナよ、お前はやり過ぎたのだ。ようやく観念したのだろうから、私も謹慎よりも重たい罰は与えるつもりもない。少し頭を冷やすことだ。」と、威厳のある重苦しい声で言った。実に悩ましげなその声に、それまで浮かべていた高慢な笑みが消えた、冷やした銅のように硬く険しい面持ちのイナンナは「主神アヌよ、父上は…貴方って人は、やっぱり娘の私になんか興味がないのね。結局一度切りも叱ってくれなかったわ。」と素気なく言うと、寝返りを打った。アヌも、イナンナも、それきり何も言わなかった。
昨晩の狂宴を、ウルクの民は色鮮やかに噂し合った。噂話は民にとっての娯楽であり、議論遊びであった。古老も若輩も混雑する旧アマロの神殿の議場は、専ら昨日の話で持ちきりであった。
曰く、「我らが王はかの淫乱の女神イナンナを破った英雄である。」と。
曰く、「いいや、イナンナ神は主神アヌの怒りに、その傲慢ゆえに触れたがために罰を受けたのだ。」と。
曰く、「神々を引き連れたイナンナ神は、宴会に託けて人間を弄ぼうとしたのだ。」と。
曰く、「我らが王は、その暴虐を食い止めたのだ。」と。
曰く、「いいや、イナンナ神は我等に豊穣を授けようとしたに違いない。彼の方は豊穣の女神であるぞ。」と。
曰く、曰く、曰く…ウルクの知者を僭称する者共は、早々本気で昨晩の喧騒について自論を戦わせていた。王の宮殿の前で朝から晩まで続くそれらは、最近になって働かずとも良くなった者たちにより楽しまれた。彼らはウルクで最も富の少ない者達に、その者らが必要とする分ではなく、その者らが暮らすのに十分だと自分達が決めた量の、麦と豆を分け与えて、富んだ彼らがするには恐らく億劫に思えてならない、臭かったり、重かったり、危なかったりする仕事を任せていた。
ギルガメシュ王は女神イナンナに誓いを守らせた。エレシュキガルには念の為三日はアマロを預けることになっている。愛しい人が帰ってくるまで三度の日没を認めなければならなかった。今日の日没前にはシャムハトとエンキドゥがウルクに着くだろう。彼らが帰ってくるまでに、彼には今日から果たさねばならぬことがあった。
彼は安堵と、自身の使命に向き合う覚悟を、今こそ実行に移さんとして、国の大事に精励な王にしては珍しく、強引な言葉で執務を取りやめさせると、全身に磨き抜かれた、荒ぶるような黄金の装飾を、がちゃがちゃきゅりきゅりと鳴らし立てながら、ウルクの街に良く出来た不遜な顔で繰り出した。
ギルガメシュがウルクの街を大股で闊歩する。足音をべだんらべだんらと響かせて、ともすれば滑稽な王の姿にも、豊かの極みを謳歌する民は歓喜の叫びでこれを迎えた。
老も若いも口を揃えて「ギルガメシュ王に祝福あれ!!貴方こそ、我らが真の王!!ウルクに祝福あれ!!」と歓喜の叫びを上げる。悪趣味に金で着飾った王の姿に、女達の顔は裏の面ごとギルガメシュに釘付けになり、頬を赤くして、上品ぶって口元を隠して手を振った。親子がいれば、どの家のもの達も、無邪気にギルガメシュに触れようとする子供を叱りつけては、王から引き離し、親子ともども跪いて手を合わせる。拝んで何になるのか、と思わずにはいられなかったギルガメシュに罪はあろうか。
色めき立つ民に対して、王は心の底から憐れんだ瞳を向けると、すぐさまにその美顔を歪めて言った。「…臭うな。臭うぞ、これは雑種の臭いだ。」
鼻を摘んで顔を左右に振るギルガメシュの顔には、目を覆いたくなるほど醜悪な卑劣が浮かび、大人達は王の豹変に表情を無くした。名士の一人は王の変わり様に目を白黒させると、よろよろ揺れながら近寄り、「お、王よ、い、いかがなされたのですか。どこか、よろしくないのですかな?」と声をかけたが、王は咳き込んでみせ、怒りと侮蔑に固められた鋭い眼差しで、「泥と革の間の子が…この、下等な混じり物が!不敬であろう!さっさと我の前から失せるがいい!!」と叫ぶと、名士の返答など聞くつもりもない、と示すように、黄金色の鎖を振り回し始めた。ギルガメシュは「逃げろ!逃げるがいい!泥と獣の皮から生まれた雑種め!!無様に逃げるがよいわ!」と、醜く歪んだ笑い声を上げながら人々に迫った。陶器の割れる音や作物が弾ける音と共に、恐怖が生々しく迫ってきた。
民はただごとではないと悟るや否や、蜘蛛の子を散らしたように逃げ始めた。悲鳴と怒号が飛び交う中には子供すら置いていく者もあったが、不思議なことに鎖は風を切りながら辺りを散々に荒らし回っても、子供にだけは一掠りと当たることがなかった。
ギルガメシュは散々に暴れて回った。喉を焼いた後のような、乾き切った呼吸をひっこめたり押し出したりしながら、ギルガメシュは今日の使命を終えた。
ウルクは半日で恐怖の底を這いつくばった。人々は栄光など見たこともないような、希望も無くしているような顔になっていた。埃まみれで王の鎖から逃げ続けたのだ。ウルクの最も北の土地から、ウルクの最も南の土地までを、彼らは逃げ続けた。恐ろしい力の前に、彼らは泣き叫んだ。「王よ!賢きギルガメシュよ!偉大な貴方はどこへゆかれたのか!何をそれほどお怒りになるのか!」もつれて転んだ男達は、鎖に弾かれては道を跳ね転がった。塵一つ落ちていなかった、最も清潔なことで知られた、宮殿から大門まで一続きの大路は見る影もなく、残飯や陶器の残骸が見るも無惨に散乱し、薙ぎ払われた酒の甕が大地に吐き出した葡萄酒の染みが、血痕のように壁や路地裏に惨たらしく点々としていた。
大路は偉大な通りであった。数千の民の暮らしの楽しみと豊かさが、その最たるものが集約していた。
連なって果てのない屋台が日々ウルクの豊かさを象徴した。早朝の肉の焼ける囁きは耳に快く、特注の青銅の大鍋で烹込まれた熱い羹からは旬の恵みを知らせる薫香が鼻腔に訪れては胸を踊らせた。
昼前になれば商人が食器や日用の入り物、外から持ち入れた物珍しい品々を敷物の上で整列させ、耳に残る飾り言葉で自慢の品を仕上げては、民の瞳と心を掴んで話さなかった。商人の弁舌もまた良品であるのは、民がその良品を味わい楽しむことができるのは、それだけでウルクの民の教養さえも異邦人達に伝えるほどだった。
ウルクに暮らす人々の営みが、細微ながらも、それゆえ確固たるウルクの繁栄の証として現れていた。
王もまた、漆黒の夜を除けば盛んに絶えず、流麗として天に届かんと登る立立たる白煙と、その根元に騒々しく暮らす民の盛んに、今日の活力を得るのであった。
そんな、麗しき全ては、嵐が通り過ぎた後のような刺々しい轍が残るばかりになってしまったのである。暮らしの表層の花は、他ならぬ花を植えた張本人によって毟り取られてしまった。
神々の言う使命が、神と人間の間を繋ぎ止めるということならば、今は正に断裂の寸前にあると言わざるを得なかった。発展は止まるところを知らず、幸福は眩く、だが、着実に人間達はウルクへの帰属を始めたのである。与えられたどこかではない。自分たちの手で育て上げたウルクという土地への帰属を始めたのだ。果たして、そこに神は居るのだろうか。いなくなることはないだろう。だが人間たちが神を見上げることは、時と共に擦り減り続けることも確かだろう。
ウルクはその繁栄のために神に風化の恐怖を味わわせた。そのことを、イナンナは知ってか知らずか追い風として、若い神々の殆どを陣営に呼び込んだ。彼らの言い分は、ギルガメシュの耳が痛いところであり、若い神々を古い神々が強硬に引き留めなかったのも、どこかでは協賛しているからなのだろう。アヌがギルガメシュに求めたことは何か。神が手ずから産み出した半神半人の人形に与えられた使命とは、突き詰めれば神秘の保全であったのである。神に仕える王は、人間達の側に立つものでは無い。ギルガメシュはこの時、アマロと共に暮らすために、使命に忠実であることをアヌに約束した。
そして、ギルガメシュはその約束を今日、果たしたのである。事ここに至った今、彼には人間の王としての規範に唾を吐かねば気が済まなかった。彼にとって、人間の王として生きることは誇りであった。父の代より育み守り続けてきたウルクの繁栄こそがその証左だった。
だからこそ、神秘の存続のために栄華を打ち止める裏切りを、暴君として詰られた上で受け入れることを選んだのだ。でなければ、ルガルバンダに合わせる顔がなかったし、他でもないギルガメシュの心が壊れてしまいそうだった。だが敢然と意地を張ると同時に、ギルガメシュは心の片隅で、自らがアマロへ抱いている愛情に偽りがないことに、寸微とも裏切るを得ざる有様にあることを、彼に溺れ切っている自分の姿を確認できたことに言い知れない快感を覚えていた。
そのことも扶けて、故郷への裏切りが彼に、ギルガメシュは暴君としての仮面を分厚く、重々しいものへと変質させていたのだろう。彼は仮面に狂気の笑みを凝固して表してはウルクへの裏切りに走った。婦女を攫う素振りをしては、悲鳴を響かせるだけ響かせてから獣を追い立てるように駆けて逃げ散らせた。鎖で男や子供を軽く払い飛ばしては、飛んだ先の柔らかい民家の屋根に受け止めさせた。
ウルクの狂騒は街の人々の心を荒んじたが、実害としてはその日暮らしに足りる程度の、陶器や葡萄酒に僅かな食べ残しだけであった。結局、ギルガメシュの恐るべき闊歩の前にも、誰一人怪我を負ったものはいなかった。
少なくとも、ギルガメシュは嫌われるだろう。憎まれるだろう。民の生活を、その害の多寡に関係なく、実に明瞭に脅かして見せたのだから。より多くの民には、そう見えたのだから。
自分は乱暴者として描かれることだろう、とギルガメシュは思った。だが、ギルガメシュは悲しみより、勝って余りある虚しさに心を患っていた。給仕も全て街の片付けに送り込んでしまったから、ギルガメシュは久方ぶりに手酌で、アマロと共に使っている木目がまろやかな酒杯に葡萄酒を注いだ。葡萄酒は何の気なしに、ただ目に止まったついでに街の路地から持ち帰ったものだった。特別な感傷もなく、単に王宮の葡萄酒を飲みたいとは思えなかった。
葡萄酒は温く、風味もあったものではなかった。だが、舌を打つ粗野で強かな酒精からは悪くない逞しさを感じられ、ギルガメシュの胸のむかつきを僅かに安んじた。
宮殿に帰る頃には陽が傾いていた。日没である。ギルガメシュは手で日陽射しを遮った。眩しさに皺が寄った険しい顔をほぐしながら、シャムハトとエンキドゥを、一人きりの玉座の間で待った。荒れる旋風が夜を運んできた。いつも以上に寂れた夜であった。神々がイナンナ神を天界から出すまいと、シャマシュ以外の神々の総出で彼女を見張っているのだ。月の神には宮殿前の夜番の仕事が与えられていたから、この晩は続けて漆黒の新月であった。
そして遅くとも日没までにはウルクの大門前に辿り着くはずであった二人がその日の内にギルガメシュの元へと帰ってくることはなかった。