運命のヒモ男《ヒモ・ファタール》   作:ヤン・デ・レェ

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感想ダンケなっす!今回はかなーり長いです。では、どうぞ。


20黄金色の赫怒 後編

20黄金色の赫怒 後編

 

 

アマロという存在が怒りを顕にしたことは、霊長の歴史どころか、星の歴史を詳らかにしても、片手の指でも多い程しか無いとされている。

 

殆どの事象に対して、アマロは愛情と幸福で返してきた。そこには、彼なりの苦悩と信念があり、ある意味で、人類最古の価値とされる肉体を対価として、万年万事を治めてきた彼は最古の文明人とも言えるかも知れない。

 

そんな彼を怒らせることは、彼を笑わせるの以上に、圧倒的な労力が必要とされる。例え、どんなに偉大な神々であっても、彼を怒らせようと前向きに考える愚か者はいないし、実際そんな者は後にも先にも登場しないだろう。

 

しかし、事実として彼は決して怒らない訳ではない。即ち時として、加速度的に憤懣を拡大させてしまう、とびきり運がない、あるいは逆に運が良すぎた者というのが、確かに存在したということである。

 

 

 

イナンナは実に明晰な女神であった。もとより彼女は豊穣と美を掌る別段に強力な神である。そんな彼女が全力を払ったならば、人間の一人や二人程度など当に木端の如く弾き消されてしまうことだろう。強大な力故に人々は神々を畏れ敬ったのであるが、彼女の場合に限れば違うとも言える。人間達は、イナンナの、その人間らしさに恐怖の類を抱いていたに違いなかった。

 

良くも悪くも神々は人間とは全く異なる世界に住まう存在であり、人間が如何に懸命に騒ぎ立てようと、逆転的な奇跡でも起こらない限り、神々が本気になって怒ることはないのである。その昔の洪水の項とて、決して神々は人間に腹を立てての所業では無かったのである。その証拠に、大雨に注意せよと、天気を予め報せたはずである。そう人間の大工頭だったウトナピシュテムには伝えたはずである。

 

結果、何の誤差であるのか、ウトナピシュテム一人を残してウルク近辺の人間はすっかり一掃されてしまったではないか。このことは神々にしても大いに学ぶべきことが多かったようであり、神々はそれ以来、洪水より先に火山を噴火させたり、或いは地面を揺らしたりして人間に逃げるように促してから雨や波を起こしたのであった。

 

さて、そんな神々の中にあって、やはりというかイナンナは特異であった。彼女は、人間の言葉や動きを一つ取っては腹を立てる程に、人間というものを同じようなものだと考えていた。そのくせ、自分はその中でも神なる御大層な貴種であるから尊ぶようにと、そう鼻を高くすることを忘れない。彼女は、人間の神官が全身から石臼で粉引く音が聞こえやしないかという慇懃無礼に持て成せば、逆に巫山戯ているのかと腹を立て、お前の無礼を私が贖ってやろうなどと言って、軽い気持ちで神の力を使うのである。その度に幾つの王朝が滅びたことか。

 

マルドゥークの遥か後の世に生まれた彼女は人間に親しみすら抱いていたが、同時に、自分の強大な力を人間に振るうことに躊躇がなく、また神に生まれた故の周囲による冷鈍から、人間の親と子の思い遣りと叱咤に富む関係を妬み、滑稽に捻れた憎愛を抱くに至ったのである。

 

彼女が想起した、最悪の、彼女にとっては最高の筋書きが出来上がるまでに時間は然程要さなかった。

 

天界の宮殿が囲まれる前に彼女が杉の森でしたことは、端的にいえば神力を振りかざしての脅迫。即ち、悪魔的な行為であった。彼女は杉の森の番人として、人間が神秘への叛逆を許さぬために、人間の恐怖であることを使命とされたフンババの住処へと吶喊した。

 

大樹に囲まれた聖域で鼾をかいていたフンババを殺意を隠そうともせずに殴り起こすと、「フンババ。貴方にお願いがあるの。」とイナンナは言った。

 

痛む頭を摩りながらフンババは怪訝な顔で言った。「イナンナ様、とうしてこんな真っ暗闇の中でいらしたので?そのお願いとはなんなのですかな。」フンババの問いにイナンナは冷たく怖気を覚えさせる顔のまま、「ウルクに程近い神聖な森の聖域に、礼儀を知らない余所者が棲みついているのよ。懲らしめてちょうだい。」と言い、次いでフンババは応えて「おかしいな、それなら森が騒ぎ立てるはずです。しかし、私のところにはそのような兆しがとんと来ておりません。それに、懲らしめてと言われましても、私は人間どもが森に近づかないようにと言い付けられております。ここから出るわけには…」と言い、言い切る前にイナンナはフンババを殴り飛ばした。

 

イナンナの手には小さな球が握られていた。彼女は目を死に際の狼よりも鋭くして、「いいから、行きなさい。懲らしめてきなさい。不届き者は二人よ。人間の女と人間の子供の親子よ。私に不敬を働いたの。私を差し置いて、私の夫と子供を作るだなんて。私を差し置いて私の夫と契るなんて…もしも、出来なかったら貴方のことをもう一度この小さな金星で殴りつけるから。覚悟なさいね?いいわね?」と早口で捲し立てた。

 

フンババは小さな金星球の一撃で完膚なきまでに全身を痛めつけられたが、それでも二度、三度と殴られるまで「いいえ。出来ないことです。私は森から出てはならぬのです。」と頑なに拒んだ。

 

しかし、四度目に一際強く振りかぶったイナンナの狂気漲る威容の前に、遂にフンババは「わかりました。やります。やりますとも。だから、どうかその金星をお下げになってください。」と、イナンナに跪いて服従した。顔も体も砕け散る寸前の有様になり、やっとこさ自分の命令に従う姿勢を見せたフンババに、イナンナは一層冷たい顔で、「女は絶対に殺しなさい。いいわね。子供は攫ってきなさい。殺してしまってはあの人が悲しむわ。でも、無理なら殺しなさい。いいわね。」と念を押してから天界へと戻った。

 

残されたフンババは安心から腰を抜かしたが、帰り際に「遅かったら…グガランナを貴方の森へ落とすわ。父上の話なんか聞いてやるもんですか。」と言い残していったのを思い出し、すぐさま森を発った。

 

 

 

神聖な森の聖域で、シャムハトとエンキドゥの二人はウルクへ向けて出立しようと言うところであった。支度を終え、最低限の器や自然の恵みを携えて聖域から出ようという頃であった。

 

鳥が騒ぎ始めたのは、まさにシャムハトが芝生で走り回るエンキドゥを抱き上げた時であった。

 

「エンキドゥ…貴方もすっかり大きくなりましたね。赤ちゃんの頃がもう少し長くてもよかったのに…ほんの少ししか経っていないというのに…不思議なこともあるものね。きっと王様もあの人も驚きになることでしょう。」と、少し重そうに自身の胸下ほどに育ったエンキドゥを撫でながら、シャムハトはしみじみと言った。

 

エンキドゥは体が十代の子供ほどに育っていた。森の木々が日々、素晴らしい成長を見せるのと同じように、エンキドゥの成長のほどは全く偉大な力が働いているようであった。まだ言葉こそ話さないが、エンキドゥはとても賢く、森での暮らしを誰よりも楽しむ子供だった。

 

もしもアマロがいたならば、「キングゥは生まれた時から大人ほどであったし、喋ることもできたから、私の可愛いエンキドゥはこれっぽっちもヘンテコではないとも。」と反論していたかもしれないが、しかし、事実他人の目から見ればエンキドゥの成長は異常であり、その点も含めて、彼らが森で暮らすことは最善の選択であった。そのことに間違いはない。

 

「さぁ、出発しましょうか。王様もお待ちでしょうし、日没前には着きたいわね。」とシャムハトがエンキドゥに言い聞かせたのと同時に、恐怖の異変がこの神聖な森に襲い掛かった。

 

人間の胴ほどもある木々も、それよりもっと太い木々も関係がなかった。荒れ狂う天の怒りに触れたような剛力によって、次々に木々が圧し折られていった。木々の上げた悲鳴は平穏とは真逆に、何の赦しも与えられないほど殺伐としていた。この世のものとは思えない大重量が足音を荒々しく響かせる。その重さゆえか、一歩一歩が足裏にあどけない土の地面にめり込んでは、強引に耕した。

 

凶暴な獣の接近に気づいた森の獣達はすぐさま自分の生命を守るために行動を開始した。恐ろしさを覚えるほどの夥しい鳥の悲鳴が響き渡り、木々の上から小さな獣の姿は全て消え失せた。体の大きな、尋常の時ならば偉大な角や牙や爪を誇示する大きな獣達も、この時ばかりは、小さき獣達より早く、更には鳥達よりも数刻も早く逃げ出していた。

 

そして、突然の静寂が襲った。立ち止まったのは聖域のすぐ前であった。そこまでの道は見るも無惨に掘り返され、森の犠牲者達で混み合いすら見せていた。獣達の遠吠すらも聞こえない。

 

フンババは聖域を囲む大樹を軋ませて、乱暴にも他人の大事に闖入した。だがもぬけの殻。やはりな、誰もいないではないか。フンババの思いとは裏腹に、フンババの体はイナンナの小金星球の豪撲に恐れをなして獲物を探し始めた。辺りを見回し、荒くふぐふぐと鼻を動かしたフンババは、辺りをぐるりと囲む大樹のうろに、虱潰しに手を突き込んでいった。

 

 

 

うろの中でシャムハトとエンキドゥは息を潜めていた。エンキドゥはシャムハトに後ろから抱かれていた。シャムハトはエンキドゥに「口元をおさえて。声を出していけません。」と言いつけ、エンキドゥは母の言いつけを忠実に守っていた。エンキドゥは急成長しているとはいえ、まだまだ子供の柔らかいその両手を重ねるように自分の口を塞いでいた。不安なのか頻りに母とうろの外を交互に確かめている。

 

森の異変からのシャムハトの動きは早かった。荷物を全て捨て置くとエンキドゥを抱いて、二人で入れるような木のうろを探し出して今に至る。物腰穏やかで知性溢れる彼女の頬には、しかし冷たい汗が噴き出していた。彼女は確信に近いものを抱いていたが、それを敢えて口に出すことは無かった。自身を喪わんとするものなど、ウルクの外にも中にもただの一人しかおるまい。常の彼女ならば、三度目の轍は踏まぬ、と機転を利かせて逃れることも出来ただろう。

 

だが、今の状況下ではそれらも不可能であることは彼女自身が誰よりも理解していた。夫アマロにとっても同じだっただろう、と彼女は想像する。もしも彼が自分と同じ状況下に陥ったとしても、同じようにエンキドゥを守ろうと決断したに違いない。親とて、子供とは血が繋がっていること以外は他人と違いがない。故に、エンキドゥを守りたいという衝動がくる源は、この子が我が子であるだけでは断じて無かった。

 

アマロにも、そしてシャムハトにも、エンキドゥは希望に他ならなかったのである。エンキドゥの誕生によって二人は改めて良縁の仲となり、森での安寧を得ることができた。ギルガメシュとの和解も、王としての彼の更なる栄光にも、きっと貢献したに違いなかった。エンキドゥへの愛情に曇りはない。ただ、その源が多岐に渡るというだけだ。そう自分で言い聞かせる。我が子を見てみる。エンキドゥは険しい顔のシャムハトを、心配の面持ちで見上げていた。シャムハトは笑み、エンキドゥのハの字になった眉ごと我が子の目元を隠した。エンキドゥはうむむ、と可愛らしく唸り、視界を塞いだ母の手に両手をかけた。思いの外軽く手は退けられた。母は強い、清く美しい表情でエンキドゥの頭を撫でた。外では木が軋む音がすぐそこまで来ていた。

 

「まだまだ私には届きませんね…小さな手。」シャムハトはエンキドゥの手を愛おしそうに握った。少し痛いくらいに握った。エンキドゥは母から目を離さなかった。握られた手に力を込めた。シャムハトは嬉しそうに、名残惜しそうな表情をした。エンキドゥは力をもっと込めた。光が差し込んで仄暗かった木のうろの中が漆黒に呑まれた。息を呑む音が聞こえた。巨大な影が立っていた。シャムハトはエンキドゥの手を解いた。毛むくじゃらの、剣のような爪が生えた巨大な掌が近づいてきた。エンキドゥが声を上げようとしているのがわかった。シャムハトはエンキドゥの額に口付けた。分厚く巨大な手が少しずつ閉じていく。シャムハトの足が浮いた。苦しそうな悲鳴が喉まで迫り上がったが、シャムハトは必死に飲み下した。あくまでも、彼女は凛としていた。エンキドゥは動けなかった。うろの中を外から覗く恐ろしい目と、目があってしまったような気がしたのだ。手足が動かなかったエンキドゥは悔しかった。腹が立って仕方がなかった。何もできない代わりに、エンキドゥは思い切り睨め返した。

 

フンババは最後のうろに手を突き込んだ。ずいと入れて、手を左右にゆする。指先にあたるものがあった。潰さないように細い何かを握った。腕を引き抜こうとした時、イナンナに匹敵するほどの殺気を感じた。急いでうろの中を見るが、小さくて緑っこいのがいるだけだ。手につかんでいる方を見る。イナンナから言い付けられたのはこっちだった筈だ。必ず殺せと言われていた。フンババは口を開けた。

 

シャムハトは何が如何なるのか瞬時に理解すると、肌身離さず懐に入れていた、ギルガメシュから預けられていた小壺をうろの中に投げ入れた。シャムハトが何かをしたのを理解したフンババは、手に少し力を込めた。軽快に何かが砕ける音がした。エンキドゥは小壺を両手で抱くように握りしめると、うろの淵から外を見た。

 

フンババの口が開かれた。シャムハトはぐったりとしていた。死人のような真っ白な顔で弱々しく震えている。足はだらりと垂れていて、口元には赤色が痛々しかった。シャムハトは目を見開いてエンキドゥのことを見ていた。だが、何をも叫ばない。我が子に望むのは、おとなしくしていろ。息を潜めよ。生き延びよ。ただ、それだけだった。今生の別だとしても、彼女は涙の別れなど、後世にまで遺るような劇的な感動など求めていない。己が子供への、己が希望への愛情に曇りはなく、それ故にただエンキドゥが生き延びるための最善を尽くそうと考えたのだ。彼女にはもはや痛覚の権さえ残っては居なかった。

 

フンババは大口の真上で、その手を開いた。シャムハトの眼からは燦然と煌めきが伝い、その光景はエンキドゥの記憶に確と焼き付けられて彼女の最期の美を飾った。口腔壁に揉まれた彼女は咀嚼されるまでもなく、エンキドゥの姿が我が視界から喪われたと同時に絶命した。よもや幸運であったかなどとは、もはや語るに足らざるなり。エンキドゥは蜂の一羽撃きの間ほども彼女から目を離さなかった。

 

語るに余りある惨たらしさで母を失ったエンキドゥにも、フンババの剛腕が迫った。息を殺していても、この巨獣の嗅覚には敵わなかった。フンババは指先に意識を集めて、この小さな生き物をうろから引っ張り出した。怒って暴れるエンキドゥに、フンババは脅威を感じなかった。ましてや、まだまだ幼体である。獣とて、これほど幼いものを殺すものだろうか。それらの境を分けたものは、やはりか、少なからずフンババの胸の底に燻ったイナンナの強引への憤懣であった。

 

殺すには理由が足りない上に、攫うとなるとイナンナを喜ばせることになる。どちらも面倒臭がったフンババは摘み上げたエンキドゥに「お前はまだ小さいし、食い甲斐もないだろう。まぁ、イナンナ様には攫うように言われたが、一先ず死んだことにしてしまおう。見逃してやるからさっさと去ね。」と言って、指から力を抜いた。ぽてりと芝生に受け止められたエンキドゥは安堵と孤独感とに苛まれながら、去っていくフンババの背中を見つめて涙を流した。

 

 

 

フンババが去った後、泣き止んだエンキドゥは母から受け取った壺を見つめた。ただ呆然としていたエンキドゥの視界に、最後まで残っていたからだ。エンキドゥは、そういえばこの壺の中身は何なのか、ずっと気になっていたことを思い出した。今は母親の死について考えるだけの余裕が無かった。壮絶な体験に心が擦り切れそうだったエンキドゥは、意を決して壺の蓋を開けた。

 

壺の中を覗こうとすると、覗くまでもなく噴き出すものがあった。熱いものも冷たいものもあるそれは、泥、血、そして汗であった。壺から噴き上がったそれらは勢いよくエンキドゥへと降りかかった。頭から体全体を覆うようにエンキドゥを包んだそれは、徐々に光を帯び始めた。

 

驚いてなされるがままのエンキドゥ。彼が浴びた泥が放つ光はいよいよ煌々と眩いほどになっていた。森の中、荒らされた聖域は光に気圧されるように震えている。耳鳴りがエンキドゥを襲った。目を瞑り、耳を塞いでも耳鳴りは続いた。そしてぱたと静寂が訪れた。

 

瞳を開けると目線が異様に高い。わからなかったことが突然分かるようになった確信もある。何よりふと意識すれば、一連の黄金色の鎖が手の中に納まっていた。「私は…いや、僕は…。」エンキドゥは嘆息した。初めて彼が喋った言葉は父の名前でも母の名前でもなかったが、彼は確かに今、二度目の誕生を迎えたのである。アヌが詫びにと送り届けたものは、天界に遺る最も古いものであった。ティアマトの怒りに触れて、尚遺されたものなど片手で足りる程しか存在しない。その中でも、最も古いものこそこの壺であった。壺の中身は何だったのか、そのことはアヌも知らなかったのだが、運命の悪戯か、その中身こそはティアマトの泥と魔獣や神々の血、そしてキングゥの汗であった。ティアマトとマンドゥークによる天界での大戦争の最中の遺産である。そして、唯一現存していたキングゥその人の原典とも言える宝物であった。

 

凝縮発酵された神威を秘めたこの遺物は、エンキドゥの存在によって遂にその遺産としての真価を発揮した。父はアマロ、母はシャムハトであるエンキドゥはその実シャムハトをも越えるキングゥに最も近い血縁者である。その血の濃さは比ではなく、謂わば半神のギルガメシュに相当する神性を持ち得る唯一の存在であった。

 

イナンナの不手際により、偶然にも壺はエンキドゥ自身の手で封を切られることとなった。もしも、エンキドゥ以外の者が封を切っていたならば、例えアマロであっても何の変化も起きなかったであろう。中身はただの神秘の遺物に落ち着いたはずである。しかし、事実としてエンキドゥは壺を開けた。そして、もう一つの重要事項として、エンキドゥの憤怒と悲哀、そして隠された父へ捧げる情の存在が、最期に遺されたキングゥの原典との共鳴を奇跡的に果たしたのである。血筋、遺産、情念…全てが完璧に重なったことで、キングゥの遺産は神秘を振り絞り、その原典に遺された全てを自らの後継者に注ぎ込んだ。

 

もとより神秘に愛されたエンキドゥである。彼の肉体は急激に成長し、ギルガメシュにも追随するほど抜群の知性を獲得し、キングゥの知る限りの豊富な知識をも吸収し、仕上げに彼が父から与えられた最高の宝具である天の鎖を自由自在に扱う技術までも継承した。継承の完了と共に光はその泥や血と共に消失した。

 

ただ一つ言うべきことがあれば、エンキドゥは継承者故にその肉体もまたキングゥと同質に変容していた点と、その黄金色だった瞳が髪色と同じ翠に変質したことである。なぜ変質したのかについては諸説あろうが、一言で説明するのならばキングゥを継承した証であろう。黄金色のエンキドゥの瞳と紫色のキングゥの瞳が混じり合い、せめぎ合いの末にエンキドゥの生来の快活と無垢がキングゥの瞳を受け入れる形で思いがけなく美しい翠へと昇華したのであろう。

 

血筋、遺産、情念…そのほとんどを自らの手で取り揃えてしまったことに、恐らくイナンナは気づいていないだろう。だが、いずれ彼女も知らなければならない日が来るのだ。イナンナ神最大の天敵が今、遂に誕生してしまったのだということを。

 

立ち上がったエンキドゥは「…まずはウルクに戻らなくちゃ…ギルガメシュにこのことを教えないと。」と言うと、ウルクへ向けて走り出した。フンババとイナンナへの憎しみは消えない。だが今正面から受け止めるより、父の伴侶であるギルガメシュに何が起きたのかを伝え、協力を仰ぐことが先決であると聡明なエンキドゥは判断したのであった。

 

まるで初めから自分の体の一部であったように、使い方が完全に理解できる鎖を巧みに操り、森を風よりも早く駆け抜けたエンキドゥはウルクへと夜通し駆けるのだった。

 

 

 

「こ、ここは…どこ?私は…死んだはず…。」フンババに殺されてしまったシャムハトは肉体が失われたことで亡者となり、冥界の入り口にある真黒な川の畔で目を覚ました。彼女は体の痛みがすっかり消えていることに気づいた。よくよく体を見てみると傷ひとつ無い。呆然としていた彼女だったが、すぐさま我が子のことを思い出した。

 

「エンキドゥ!エンキドゥ!母はここですよ。いるなら返事をしてちょうだい!!エンキドゥ!」返事はない。もしや川の中にいるのかもしれない。動転している彼女は冷たくも温かくもない真っ黒い水が流れる川に胸まで浸かって探し回った。繰り返し呼びかけても返事は返ってこなかった。

 

「私は如何すれば…。エンキドゥ…貴方はどこにいるの…。」シャムハトの嘆きはただの独り言だった。途方に暮れた彼女は体の疲れすら感じなくなっていることに背筋が震える思いだった。「…私、死んじゃったの、よね。じゃあ、ここは冥界なの?」目を逸らしていたことに、彼女は向き合い始めていた。

 

「あれ?シャムハト…君がどうしてここにいるんだい?ギルガメシュの代わりに迎えに来てくれたの?」

 

途方に暮れていたシャムハトの耳に届いたのは、最も聴きたかった声であり、今最も聴くことが恐ろしかった声だった。

 

「あ、アマロ様…わ、私は…実は…」シャムハトは自身が死んだことを他所に、エンキドゥが見当たらないことに恐怖と不安が募った。

 

見かねたアマロは妻の尋常ならざる焦りと恐怖の感情を和らげようと顔を見合わせて言った。

 

「…シャムハト!私の目を見て?…そう、もう大丈夫。ほら、ここへおいで?…うん、いい子だね。落ち着いた?そっか……ね、ゆっくりでいいから私に教えて?何があったのかな…エンキドゥの姿も、ギルガメシュの姿も見えないし…。地上で、君の身に」

 

しどろもどろになっているシャムハトに救いの手を差し伸べたのはアマロだった。シャムハトは夫と瞳を合わせて瞬間に、すとんと呆気もなく恐怖も焦りも、全ての煩わしいものが源から綺麗さっぱり消滅するのを感じた。ただ抱擁の安らぎと温もりだけが残った。落ち着いた彼女が話し始めようとした時、もう一つの声が聞こえてきた。

 

「ア・マ・ロきゅん!!エレちゃんをおいていかないでよーー!!…って…誰よ、その女!!」

 

緊張感皆無の登場を果たしたのは冥界の女主人改め、冥界の絶対女王にまで今日までの二日で登り詰めたエレシュキガルである。今現在、冥界で彼女に敵うものは誰一人として存在しない。例え太陽神シャマシュでさえ、冥界ではエレシュキガルの足元にも及ばない程である。

 

そんな彼女とアマロの関係は端的に言えば極めて純純であった。二日ぽっちで手を繋いで、遂には「ちゅー」まで達成したエレシュキガルの奮闘鮮やかなるも優なるが、初心の申し子と言っても過言ではなかった彼女の実力を限界を超えてそこまで引き出させたアマロの末恐ろしさもまた鮮やかであった。

 

少しだけ二日間の振り返りをすれば、初日ではエレシュキガルの十八番である生真面目が炸裂し、二日目で彼女はアマロへの恋慕に完全融解した。エレシュキガルが文字通りアマロの世話を何から何まで焼くなど、初日の前半戦は比較的、いや、奇跡的な健全であった。その後も特に不健全ではなかったのだが、やはりそこはアマロである。単なる指先と指先の接触事故により、エレシュキガルのあるはずもない心臓が痙攣を起こした。それだけならまだ救済の余地ありだったのだが、ここぞという時に大凶が確定する星の下に神聖を受けたエレシュキガルのドジが予定調和的に暴発した。胸を押さえて後ずさった際、運良く躓いてしまい、倒れ込む彼女を、これまた予定調和的にアマロが受け止めることとなった。

 

エレシュキガルは絶頂した。そして、真っ赤な顔をふにゃふにゃにした上に鼻血を、剰えほぼ同時に両方から噴き出して気絶したのである。失神した彼女はアマロにより丁重に寝台まで運ばれた。閨事では優る者無しのアマロだが、こう見えて眠る美女に対しても下心とは無縁である。床で眠ろうとした彼を、無意識なのか狙ってなのかは不明だが…一先ずはよくやったと褒めよう…寝ぼけたエレシュキガルが寝台に引き摺り込んだ。

 

最早救済の余地はなかった。翌朝、目を覚ましたエレシュキガルは自身がアマロに純潔を捧げたのだと勘違いした…が、しかし、出会った時から顔も好みであったし、何より昨日に抱き止められた時の絶頂や、抱きしめられた時に包まれたふわりとした薫りが忘れられないし…などの諸事情により寧ろ気持ちを新たに、寧ろ吹っ切れたようにアマロへ甘え始めた。

 

妻帯者であることも、子供がいることも説明した上でエレシュキガルは「都合が良い女でもいいから!ね、一緒にいて!!私を褒めてよ!」と言って離さなかった。食いつかれるのでは、という圧もあった。しかし、やはり愛してくれる人を愛さずにはいられない彼の性もあり、アマロは「都合が良くなくても一緒にいるけど、私の妻と子供とは仲良くしてね。」と言って彼女を受け入れることにしたのである。

 

そうして、現在に至る。毎日…二日とは言え逢引と称して欠かさずに冥界の巡回を行う生真面目女王エレシュキガル。彼女と共に見回りを散歩がてらにしていた折に、アマロとシャムハトは再会したのであった。

 

先手シャムハトからの「夫が、アマロがお世話になっております。」というご挨拶に、一時は闘争も辞さない構えをとったエレシュキガルだったが、アマロが間をおかずに「彼女はエレちゃん。私の恋人。そして彼女がシャムハト。私の奥さんだよ。」と双方満足の行く説明で中を取り持ったために大事には至らなかった。エレちゃんとしても奥様は少し性急であると考えていたため、今の段階的には恋人が最適の表現であった。因みに、言うまでもないがアマロは素面である。シャムハトは柔かに恋人を受け入れる度量持ちだったため、こちらは何の心配もいらなかったかもしれない。

 

 

 

シャムハトの深刻な表情を鑑みたアマロはエレシュキガルに頼んで、彼女の宮殿で話を聞くことにした。宮殿に迎え入れると態々エレシュキガルが手作り料理を二人に披露した。本来ならば飲食はおろか睡眠も排泄も必要がない冥界で、わざわざ手料理を振る舞うのは花嫁修行のために他ならない。エレちゃんはどこまでも真面目であった。

 

「はい!アマロ、どう?美味しい?上手にできてるかしら?美味しかったら褒めてほしいーなー…なんて!」

 

話を聞く前に食べてほしい、と強くせがまれてシャムハトはおずおずと、しかし上品に食べ始めた。アマロは無邪気に喜ぶと、実に美味しそうに食べ始めた。麦や豆、乳や香辛料など…食材はウルクからギルガメシュがアマロのために運び込ませたものである。アマロが飲食や睡眠といった、何気ない生活行為を好むことをギルガメシュは知っているのだ。

 

「オホホホ!!褒めてほしいとは言ったけれど、そんなに褒められちゃうと…て、照れちゃうのだわ!!」

 

アマロからの「とっても美味しいよ。私は料理があまり得意ではないから、エレちゃんが上手だととっても助かるなあ。」とのお褒めのお言葉に、エレシュキガルは有頂天となった。シャムハトだけは黙々と食べながら、自らが体験したことを言語化して整理することに意識の大半を割くのに手一杯であった。

 

食事がひと段落ついてから、エレシュキガルとアマロに促される形でシャムハトは自身の体験を全て、その隅々までを話した。少しの偽りもなく話されたことには、エンキドゥと死に別れてしまったことも含まれた。シャムハトは泣きながら食い殺された時の恐怖に至るまで全てを語り切った。

 

「よく、頑張ったね。…ごめんね、側に居られなくて。」

 

アマロはシャムハトを正面から抱きしめた。彼もまた泣いていた。シャムハトは安心感に呑まれる感覚を覚えたが、エンキドゥの安否が知れぬことへの心配をアマロに語った。

 

「あ、あなたって…立派なお母さんなのね…わたしも、私も!あなたみたいなお母さんになれるように頑張るわ!さぁ、私とも抱き合いましょっ……!?」

 

エレシュキガルが一番泣いていた。泣いて、しかも感動していた。心強く動かされた彼女はシャムハトに自分も抱きつこうとしたが、突如として脂汗を浮かべたかと思えば完全に膠着してしまった。

 

 

 

突然のエレシュキガルの変化。なぜ?というシャムハトの疑問よりも先にアマロが彼女との抱擁を解いた。シャムハトは夫の顔を見てエレシュキガルの変化の理由を理解した。そして、力一杯アマロの手を掴んだ。

 

アマロは心内とは真逆の満面の笑みで「シャムハト、私はこれから行かねばならないところがあるんだ。だから、その手を離してくれないかな。」と、言った。

 

シャムハトは満面の笑みを浮かべるアマロの手を、初めて全力で握り締めた。今手を離して仕舞えば、恐らくは天地が揺らいでしまう気がしたのである。だがしかし、この男も本気であるらしかった。

 

「アマロ様!い、いけません!うむぅッ!?」と止めるシャムハトを抱き締めると、彼女は最後まで話すことさえ許されずに口を塞がれた。これまでで一番激しく口内の端から端まで蹂躙され尽くされたシャムハトは、頭の中で幸福を司る、曰く白くねっとりとした刺激的な液汁が止めどなく放出されるのを知感した。直後視界が暗転。鼻血を吹き出して彼女は気絶した。弛緩したシャムハトの体を横抱きにして寝台に横たえる。くるり。アマロは次の獲物に目を向けた。

 

エレシュキガルは「ピッ。」と鳴いて後退ろうかとして、「いや、今こそ好機。」と思い直して一歩進み出た。甚だ剛毅なり。瞬く間に目の前に立っていたアマロに顔の両側をがしり固定されたエレシュキガルは、徐々に迫ってくる瑞々しい唇に目を奪われた。生まれて初めて深い接吻を経験する…という妄想に飛び立った彼女は、その後の不健全な、極めて不健全な展開へと妄想を発展させ、最終的には三男三女に恵まれる自分とアマロの姿に思いを馳せた挙句、現実で唇と唇が合する寸前に限界を迎えて吐血した。気絶したエレシュキガルだったが、吐血如きでこの男の接吻を免れる訳もなし、血を啜り呑むことも厭わずにエレシュキガルが完全に堕ちるまで彼女の口内を蹂躙した。

 

「…っかは。し、死ぬかと思ったわよ!し、死なないけど。」

 

白目を剥き、左右の鼻から幸せそうに血の河を流しているエレシュキガルに、敢えて接吻をしたのは、気付けの意味もあったようである。快楽が限界を越えたことで、快楽の授受を司る部分が完全に破壊されてしまったエレシュキガル。一周回り切ったことで悟りを開いた彼女は何と快楽の渦から帰還したのである。無論、アマロ無しでは死なずとも生きてイけない心身に創り変えられてしまったやもしれぬが。さはあれ意識を取り戻したエレシュキガルにアマロは言った。

 

「私は今、冷静さを喪おうとしています。エンキドゥのことが心配でなりませんし、シャムハトは酷い目に遭わされ、剰え命を奪われました。再会できたものの、流石の私にも限界があります。もう我慢できません。かわいそうなエンキドゥ…母親を目の前で食い殺されるなど…許せません。なんたる仕打ち。イナンナという方には徹底的なお仕置きが必要なようです。」

 

エレシュキガルは「私アイツのこと好きじゃないのよね。あまり会いたくないのよ。」と言おうとしたが、アマロの顔が全く変化していないことに、寸分狂わず先程から同じ満面の笑みのままであることに言い知れない威圧感を感じて、「もちろんよ。あなたの恋人に任せなさい!」と勢いよく胸を張ってしまった。

 

 

 

アマロは赫怒した。最愛の妻子の命を脅かされた挙句、妻のシャムハトは食い殺され、可愛い我が子は幼くして地獄を味わわされたのである。この時、有史以来前例の無い激しい怒りが世界を睥睨していた。その世界とは果たして宇宙だったのか、それともその更に上なのか。矮小の身では見当もつかないが何者かへの絶対的な死刑宣告には違いなかった。

 

 

 

エレシュキガルはアマロを天界に押し上げる傍ら、久方ぶりに神々の姿を観察していた。そこには父神アヌもおり、幾分老けて見えた。外見が寸分とも衰えない彼女にとっては不思議な発見であった。

 

話は脱線するが、この不思議の背景にはエレシュキガルの統治する冥界の特殊性が、全く予想だにしない形で存在していた。

 

冥界は本来神を求めない。一方で、亡者の帰属場所として定着して以降は、彼らにとって欠かせない場所となりつつあった。死して尚亡者として生きると言うことには、相応の神秘が求められる。天界からほぼ完全に独立している冥界であり、亡者の帰属は天界ではなく冥界である。生者が天界に属するとして、人間の生者が存在する地上では常に一定の死が存在し、死によって亡者が冥界へと向かう。生者の世界では神秘の増減が、生者の信仰如何により変化するが、常に亡者は一定数が冥界へと帰属する。冥界は地上に生者が存在する限り、神秘は滞らないため天界のように地上での神秘の増減に左右されないのである。

 

いずれにせよ、結果的にエレシュキガルは並いる神々の中で最高の独立権限を有する女神としての地位を手にすることとなりそうである。

 

 

 

話は戻り、アマロを禍々しい専用の階で天界に送り届けたエレシュキガルと、彼女の助けにより天界に降り立ったアマロは、数百、数十億年ぶりに天界の土を踏んだ。

 

神々は突然の侵入者が神々にもいない、後光が眩しすぎて最早直視できない美人と、冥界という僻地を統治しながら少しも劣化を感じられない美女神エレシュキガルだとわかると色めきたった。

 

神々からかけられる声を全て素通りして向かう先はイナンナの宮殿であった。イナンナの宮殿はありとあらゆる美しい素材を用いて建立された。最も華美なそれは遠目にもはっきりと確認できるほどに存在感を発していた。宮殿の周囲には神々がそれぞれ時間ごとに見回りに来てはイナンナの動きを監視していた。

 

宮殿はその外観こそ素晴らしいものだったが、内側を伺おうとすれば明かりのない様子が手に取るようにわかった。生気を感じられぬ、本当にイナンナが住んでいるのかすら不純であった。しんと静寂ばかりが転がっており、宮殿の外に張る若い神々がアマロの美しさを噂する黄色い声ばかりが印象的であった。

 

神々が騒ぐのに連れられてアヌが現れた。主神アヌはアマロの姿を目に収めると、娘エレシュキガルと共にいることにまず驚き、その全く変わらぬどころか殊更に冴え渡って尚研磨の余地限りない美しさに驚愕し、最後にはアマロが静かなる憤怒に狂っていることを察知して仰天した。

 

「黒曜石の希望のお方よ、お久しく。貴方のお怒りに触れたのは我が娘でありましょうや。何卒、お手柔らかにお頼み申します。あれでも、やはり私の娘なのです。主神だ何だというものに逃げて来たのですから、私も、過ちを犯してきたのでしょうな。父親として、何卒、イナンナにお慈悲を。」

 

 

 

主神アヌはティアマトによってマルドゥーク以外の全ての古い神々が滅ぼされた際に、運良く生き残ったがために主神となって今に至る。彼にとって、あの恐ろしい母神の心を掴んで離さなかった、死んでも離さなかったアマロという存在は畏敬の対象であった。

 

そんなアマロの怒りに触れたと理解した途端に、彼は娘イナンナの死、あるいは消滅を想像せずにはいられなかったのである。

 

父親としての自分の行いから目を背けてきたが、事実あまり誉められたものではなかった。もとより徳目が認められての主神就任というわけでもなかったのだから、彼もまた決して手放しで貶められるべき存在ではないのであろう。

 

しかし、そのような思考の変遷を経て、走馬灯のように駆け巡ったこれまでの娘との会話の中から父親としての悔いを掬い上げるに至った彼は、せめて最期に父親としての責務を果たそうと、例えアマロから怒りを買おうとも慈悲を娘に賜ろうという壮絶な覚悟でアマロへと進言したのであった。

 

これに対してアマロの返答や如何に。「わかるとも。けど許せない。私にも譲れないものがあるんだ。」

 

無念。主神アヌは娘に懺悔した。許せ、この弱い父を。すまぬ、愚かな父で。主神を素通りし、アマロはついに一人宮殿に突入した。

 

エレシュキガルは父親の知らなかった一面を知ったことに少なくない穏やかな感情を抱いていた。以前の彼女から決して得ることがなかったであろう感慨。彼女がそれらを抱くまでに心の余裕を拡張できたのは、それまでの二日間でアマロによる癒しの時間を充分に経験したからである。そう考えれば、案外に父親としてのアヌの未来も明るいやもしれない。

 

 

 

宮殿の中は薄暗かった。煌びやかな装飾にわずかな光反射して目が痛いほどであったから、暗闇に怯える必要はなかった。進むこと暫し、仄暗い中で最も黒い流れが浮かび上がってきた。寝椅子に横たわるイナンナの流れるような御髪であった。

 

イナンナは涙まで浮かべて叫んだ。

 

「ようやく会えた。あぁ、アマロ。貴方に会いたかった。貴方から私に会いに来てくれるなんて。こんなに幸せなことはないわ!」

 

彼女の目元には隈が出来ていた。アマロは心が痛んだ。イナンナから注がれる愛を数乗倍で返すように、懸命な愛しさが込み上げた。だが同時に、言葉では果たせぬほど腹が立っていた。イナンナはアマロへと抱きついて言った。

 

「あ、貴方の前妻のことや、貴方の子供のことは残念だったわ。で、でもね、ほら、私がいるわ!私が、私の方が前妻よりもずっとずっとずっと貴方のことを幸せにしてあげられる!貴方が望めば何でも用意させるわ!子供だってそうよ?私の、私のことだって貴方に全てあげるの!だから、ね、だから、私の夫になって?それで、それでね、私が間違ったら叱ってほしいの!私が怒っていたら慰めてほしいの!私が悲しかったら一緒にいてほしいの!嫌なことがあったら話を聞いてほしいの!私は貴方がいてくれればいいから、もう何も我儘は言わないから!今度こそ、今度こそ本気なんだから……だから信じて…私を見てよ。」

 

子供の癇癪と何が違うのだろう。アマロは何も答えなかった。代わりに行動で示した。どさり。アマロはイナンナを押し倒した。イナンナは卑屈な笑みを引っ込めた。その目には期待と怯えと、そして狂気が混在していた。自分が何をしたのか、そのことには微塵も理解が及んでいない。興味すらも及んでいなかったようだ。アマロは怒っている。だが、それはイナンナという個人に対してのみではない。この、今に至るまでの全てに腹が立って仕方がなかったのである。奪われたものは決して戻らないことは身をもって知っていた。自らが愛していたものが苦しむ様ほど、これほどアマロが身を裂かれる思いをするものも他になかった。

 

甘いわけではない。しかし、間違いなく愛情深いことは彼の欠点にもなり得た。苦痛なのだ。目の前のイナンナに憎しみの感情を抱けないことは欠陥なのだろうか。愛を向けられた今、妻を酷い方法で奪った相手にも、これほどに限りない愛情を抱いている己は不純なのだろうか。イナンナの今も、イナンナがイナンナになってしまう迄の道のりにさえも愛着を捨てきれない私がいる。何を思ってきたのか、何を悲しんだのか、何を味わったのか、何を悩んだのか、何を繕ってきたのか、何に焦がれてきたのか…その全てが私には尋常には有り難く思えてならない。イナンナを思い遣って憚れずにいる私はおかしいのだろうか。

 

苦悩の末にアマロはイナンナに「君を狂わせてしまったことに謝ったりはしない。私を狂おしいほど愛してくれてありがとう。けれど、私は我儘なんだ。もしも君が私を愛してくれるのなら本当の愛が欲しい。愛してくれたお礼には本当の愛を君にあげる。私が君を忘れない。」と囁いた。イナンナは息を荒くした。口角が上がり目を淫惑に歪めた。だが、アマロの瞳は笑っていなかった。。

 

「けれど、君もわかるだろう?君が壊そうとしたのは私にとっての全てなんだ。」と宣言したアマロは生まれたままの姿になると、潤んだ瞳で身をぶるると震わせたイナンナに覆い被さった。

 

 

 

丸一晩アマロはイナンナを攻め立て続けた。アマロの本気である。その攻勢は人体には中毒性を除けば基本的に無害である。ただし怒りの余り空間を歪ませながら行われたため、絶大なる快楽による絶頂数に比例して交わっている者以外の環境に対する負荷が天災規模に膨れ上がっていた。ほんの一晩で数えて百の寝台が駄目になり、イナンナの宮殿は事後間も無く跡形もなく完全に崩壊した。

 

自身は全く満足はしていないがシャムハトとエンキドゥに謝罪することと自らに絶対服従することを宣誓するまで、アマロはイナンナを寝台から片時も下さなかった。アマロはこの時、間違いなく天地双方において最も恐るべき漢であった。

 

イナンナの悲鳴は天界全ての神に、その性別や階位を問わず響き続けた。一晩中自分の喘ぎ声を生中継する方も、される方も戦慄を禁じ得ない。恐ろしいことは最初から最後まで、少しも美声に翳りが現れなかったということである。イナンナが実は複数名いるのでは、という荒唐無稽な話まで現れる始末であった。美しいまま乱れる嬌声に神々は恐怖した。あの恐ろしいイナンナをよがらせる続けるアマロとは一体全体何者なのだ、と。神々の恐怖はともかく、アマロは怒りに怒ったのである。しかし、憤怒から暴力を働くことなど彼には出来そうもなかった。

 

だからこそ、彼はその怒りを相手の心と体を全て征服するために使った。平時の彼が断じて使用しないと誓う所謂、籠絡ごっこの使用であった。一晩の間、最初から最後まで愛を耳元で囁かれ続けたイナンナは初っ端から吐血。一言一言に、真心の篭った赤心からの愛情や慕情が充填されていた。疑う勿れ、実に信じ難いことこの上ないのであるが、アマロは怒りこそすれ、ほんの少しも憎しみは抱いていないのである。寧ろ溢れる愛情で互いの怒りごと上書きしてしまった彼は遂に、というよりまだ先っちょも入っていない段階でイナンナからの「アマロの言う通りにするわ。何でもあげるから!だから、だからもっと囁いて!囁かれていないと…て、手が震えるわ。」という言質を得るほどであった。

 

だが結局、御仕置きの免除は許されなかったためこうしてイナンナの誇りと尊厳は灰燼にきしたのであった。

 

 

 

翌日、宮殿の門扉が開け放たれてイナンナとアマロが出てきた。アヌは安堵。他の神々はこの騒動を通して何が変わるのか、確実に大きく変わるであろう何かに期待を寄せていた。アマロは何も答えずにエレシュキガルに迎えられて冥界へと帰っていった。残ったイナンナは神々に謝罪すると、自身の持つ宝物は全てアマロとウルクに譲渡すること。そして、自身は豊穣と美の女神として天界からの放逐を望み、その上で冥界へと降る旨を報告した。

 

主神アヌは泡を吹き、神々の王エンリルは楽観的に高笑いし、太陽神シャマシュは昼間の仕事で不在であった。老も若いも、その場にいた神々は目玉が飛び出るほど驚いて一斉に絶叫したのだった。

 

その日、天地が震えた。一件落着の契機であると誰もが思ったこの日こそが人間と神の間にある溝を決定的なものにした運命の日となるのであった。

 

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