21黄金色の運命
復讐者となったエンキドゥが日の出と共にウルクへと辿り着く直前。ギルガメシュはエンキドゥとシャムハトの安否確認のためにウルクを発っていた。
すれ違いとなった二人はそれぞれの行き先で、それぞれ衝撃的な事実を目の当たりとすることになった。そして、その衝撃が二人にとっては新しく、我々には馴染みの深い関係性を育む結果となったと言える。
シャムハトの肉体的な死から一晩。日の出が上がると共に翠の疾風がウルクの街へと勢いよく吹き込んだ。ギルガメシュへとイナンナの悪虐の事実を伝えねば、復讐のための協力を仰がねばとの一心で駆け続けたエンキドゥ。彼は奇縁により齎された神秘の賜物によって、目鼻立ちの秀麗に磨きがかかり、肉体は頑健かつしなやかに成長を遂げていた。そのほどは急激に過ぎており、知音であっても見間違うほどの成長度合いであった。
さて、ウルクに辿り着いたエンキドゥは門から宮殿へと直進しようとして、その足を止めた。鎮寂、その一言に尽きる、辿り着いたウルクには先日のような活気が見受けられなかったのである。妙だ、あまりに不気味ではないか。エンキドゥの記憶に依れば、まだ幼子の身で父母に抱かれて目にしたウルクとは朝から快活な笑い声が響くような街であった。そんな活気溢れる街が、朝っぱらから静かにすぎるではないか。
人がすっかり居なくなったように感じられて、エンキドゥは辺りを見回す。人が寝静まっているというよりは息を潜めているような、そんな生臭さがするのであった。これほど人が物言わずにいられるのはイナンナの神殿か、或いは墓場くらいである。エンキドゥはウルクの変貌に心を騒がせた。あれほど父からの愛厚き母にさえ悲劇が訪れたように、ウルクに何も起こらないなどと能天気なことを考える余裕は、今のエンキドゥにはなかった。
暮らした時間は森より短いものの、父から最も深く信頼されているギルガメシュその人が治める都市である。一方的とはいえよく知る間柄の者として、エンキドゥは憂慮を重ねずにはおられなかった。
エンキドゥの足は、気付けば宮殿ではなく最も活気があって然るべき、街の中心近くの市場へと向かっていた。
街一の市場はウルクで最も早起きであると同時に、ウルクで最も夜更かしな場所だ。
日の出と共に人々の営みを支える様々で満ち満ちる、ウルクの豊かさを代弁すると同時に、ウルクに生きる民の暮らしに即ちする鏡でもあった。上の海と下の海の間、ティグリス川とユーフラテス川に沿って栄える都市国家の中でも頭抜けた繁栄を極めるウルクを象徴する場所であったそこには、同時代のどの市場よりも曇りのない活気があった。
あった、である。エンキドゥは己の目を疑った。一度か二度ほどしか知らぬとはいえ、人が押し合いへし合いすることもしばしばである彼の市場が、荒れに荒れてみる影もなかったのである。無惨に崩れた屋台が点々と続いている光景は、過去から現在まで続く衰亡の遺跡が列を成しているようであった。
衝撃に打ち据えられたエンキドゥは、しかし誰もいない訳ではないことに気がついた。疎だが人の姿があった。煮炊きの白煙が上がっていた。エンキドゥは人の営みの香りに誘われるように市場の奥まった方へと進んだ。
奥まったそこに、幾つもの店が密集していた。人の姿も多く見られ、エンキドゥは安堵した。落ち着くと視野が広がるものなのか、エンキドゥの目には先程は目に入らなかったものが目についた。火事や風災害で受ける傷の跡や、洪水による泥水の汚臭がしないのである。しかし、それにしては傷跡の一つ一つが荒々しく目立って見えた。彼は疑問に思った。
疑問の答えとは即ち、自らがいぬ間のウルクに何が起きたのかについての答えである。エンキドゥは人々を見た。誰も彼もの顔に貧窮や酷労の傷跡は見られないが、随分と焦燥や不安を抱いているように見受けられた。身につけるものも整っていて、何かしらの物が足りぬという訳ではなさそうである。顔色も悪いわけではなく、歩く時によろけるということも無いようである。ただ、子供を除く誰しもの顔が見たこともないように暗く、背筋が曲がり俯くようにして暮らしているのである。
異常というより奇異である。不安の代わりに好奇心が台頭したエンキドゥは、子供以外が深刻な様子であることに気が付き、子供と大人たちに、それぞれ話を聞くことにした。
何人かで駆け回って遊ぶ子供たちを見つけたエンキドゥ。居住まいを正した彼は「僕もいっしょに混ぜてほしい。」と言って、まずは仲を深めてから子供たちに話を聞かせてもらおうとした。果たして、彼の思惑は的中し、エンキドゥは子供たちに入り混じって心ゆくまでかけっこを、楽しんだ。
すっかり仲良くなった子供たちにエンキドゥは「実は僕、街に来たばかりなんだ。だから街の人たちがどうしてあんなに暗い顔をしてるのか不思議で仕方がないんだ。どうしてなのか教えてくれないかな?」と聞いて周り、子供たちはこれに先を競って快諾するとそれぞれの知る限りについて話してくれた。
鼻を垂らした少年曰く、「この前のことなんだけどね、王様がね、なんかをぶんぶんして遊んでたの。そしたらね、お父さんたちがうわーってなっちゃったの。王様の周りがぐお〜って!すごかったんだよ!それから、なんかお父さんもお母さんも変な顔になっちゃって家の中もなんだかしーんとしちゃってつまんないんだ。」
前歯の抜けた少年曰く、「おいらの父ちゃんは串焼き売ってるんだけどさー。なんかねー、この前王様が街に遊びに来てから家にずーっといてくれるようになったんだよね。父ちゃん働き者だから、前は全然家にいなかったのに!不思議だよねー。全部吹き飛んじゃったって言ってたけど…それまで遊んでもらったことなかったから、おいら嬉しかったな。だからさ、何かよくわかんないけど王様にはありがとうございますって思ったよ。」
首に木彫りの飾りを下げた少女曰く、「ついこの間、王様が街に来たって大騒ぎになったの。それで、わたしはお母様と一緒に家の中でお昼ご飯を食べてたの。そしたら、外からすごい音が聞こえて、家の外に出たら、通りの屋台がぐちゃぐちゃになってたの。その子のお父さんもそれで困ってたんだと思うの。」
エンキドゥは三人に「ありがとう。また遊ぼうね。」と言ってからその場を後にした。少年二人の素直なお話と少女の簡潔な説明によってわかったことはギルガメシュの訪問により変化が現れたと言うこと。それは民の生活に少なくない変化を強いるものだったこと。つまりはギルガメシュに発端があると言うことだった。
エンキドゥが次に声をかけたのは街ゆく大人達であった。今度は「お忙しいところ申し訳ありません。僕はこの街に来たばかりで街の決まりごとに疎いのですが、もし気をつけなければならないことがありましたらどうか教えて下さいませんか?」と丁重に礼を尽くして声をかけた。大人たちは渋々であれ、沈黙の肯定であれ、受け答えは様々だったが快諾するものは居なかった。そして、彼らは決まって「今頃に訪れるとは時期が悪い。」と言ってエンキドゥに哀れみの視線を送った。
屋台で果物を売る男曰く、「王様が突然ご乱心になられたんだ!!顔まで恐ろしかった!俺たちのことをまるで虫を見るような目で見たんだ!」
葡萄酒の作り手曰く、「鎖を振り回しては人や物を吹き飛ばしたんだ。何が王様の癪に触ったのかわからないが、とにかくひでぇ目にあったよ。」
街角の古老曰く、「ウルクにも衰退の時が来たのであろうか…。ギルガメシュ王の治世ほど豊かなウルクは無いと儂は思う。だが、ギルガメシュ王の治世ほど神々が乱れる御代もまた無いと思うのだ。」
そして屋台や品々を壊された民は怯えて曰く、「きっと、俺たちにお怒りになったイナンナ様が王様に命じられたに違いない!あれほど乱暴な振る舞いを突然に行われるなど前代未聞だ!きっと、きっと、イナンナ神はあの晩のお怒りがおさまらないのだ!」
エンキドゥは子供たちの話と異なる大人たちの話に疑問を抱いた。しかし忘れるなかれ、エンキドゥは純真であり、聡明であるが、今この時ばかりは復讐者であったのだ。故に、エンキドゥは怒りの赴くままに、自身の思考すら濁流に呑ませてしまったのである。
エンキドゥは激怒と憎しみを、現状証拠を揃えた上でギルガメシュへと向けた。暴君ギルガメシュへと向けたのである。
エンキドゥは宮殿へと、並々ならぬ不穏な足取りで向かい始めた。
森へと向かったギルガメシュは全く知らぬうちにエンキドゥの怒りを、勘違いとはいえ買っているなどとは露にも覚えず、こちらもこちらで目の前の惨状に愕然としていた。
ギルガメシュは両手をわなわなと震わせて、「なんなのだ…この森で、一体何があったと言うのだ…。」と喉を悲しみと怒りに震わせた。
彼の目の前には思い出の場がその惨憺たる遺骸を晒していた。土色と緑色が汚くごちゃ混ぜにされた、この上なくできの悪い泥団子のような有様であった。
「これは…足跡か?…壺…我が預けた壺で間違いない…何が、お前たちの身に何が…これでは、我はアマロに顔向けできぬ!!」呆然としながら歩き回るギルガメシュは足跡を見つけた。人間以外のものと、人間のものであった。そして壺も。いや、正確には空になった壺を。
未知の脅威によって消失した二人の行方に、ギルガメシュは見当もつかなかった。だが、目の前には人間の足跡と、人間以外の足跡が残っていた。ここで、ギルガメシュは選択した。今、何を優先すべきなのかを。
結果、ギルガメシュは人間のものと思わしき足跡を辿った。見るからに襲撃者であろう人間以外の巨大なものからは一時的に目を背けることとした。今は獣の討伐ではなく、大切なものを安否の確認が重要である。
加えて、当事者とも目撃者ともわからない、しかし話の通じうる第三者の存在を先に探し止める方が優先順位が高いと彼の優秀な頭は算出したのである。足跡は森の外へと断続的に続いていた。ギルガメシュは焦りを覚えつつも、一度二度深呼吸の後走り出した。
徐々に近づいてきたのは彼のよく見慣れたウルクに他ならなかった。足跡が真っ直ぐと続く先が自身の治める都市であることに驚きつつ、ギルガメシュは厳しい顔を崩さずに門を通り越した。
「よくも裏切ったな!このイナンナの手先め!!」
ウルクへの帰還後第一に、煌々と輝く殺意満点の鎖と共に投げかけられた言葉であった。
ギルガメシュは軽やかに飛び退くと、「貴様は誰だ!何故我に刃を向ける?」と自身の鎖を引き出しながら下手人へと尋ねた。
下手人は進み出ると、「僕のことなどどうでもいい!それよりも質問に答えろ!どうして父上から格別の信頼を受けていながらこんな真似をしたのか?」と再び鎖を投げかけながら問うた。
ギルガメシュは避けつつ、下手人を観察する。ギルガメシュは驚いた。下手人はシャムハトに瓜二つである。ギョッとしたギルガメシュは次に下手人から投げかけられた言葉に更に仰天することになる。
「僕は知っているぞ!お前はイナンナに命じられるままに父上を冥界に追放し、その上で邪魔な僕と母を巨獣の餌食にしようとしたどころか、自分の治めるウルクにまで乱暴狼藉を働くことで神に媚びているそうじゃないか!恥ずかしくないのか!」と下手人は叫んだのである。ギルガメシュは鎖を避けるのも忘れて呆然となる。下手人の顔は憤怒に焼けついている。
ギルガメシュは体に鎖を受けてよろけたものの、それどころではないと痛みを忘れて声を上げる。「き、貴様は…まさかエンキドゥなのか!?ど、どうしてそんなに大っきくなってしまったのだ!!森で何があったのだ!?我は何も知らぬのだ!今、まさに森から帰ってきたのだ!あそこで何が起こったのだ!!ましてや、イナン何とかなど知るわけがなかろう!」必死の抗議であった。自身のウルクを思っての行動がこんなことになるとは想定外。ギルガメシュは驚きと焦りで変なことを言った。
ギルガメシュの抗議も、復讐者エンキドゥには届かない。民の暮らしを破壊したこと、その時期が自分と母、そして父の不在と被ったこと。憤怒で目の前が赤くてらつく今のエンキドゥには、何を言っても無駄である。エンキドゥは遂に「この裏切り者のイナンナの下男め!!お前なんかに父上は相応しくない!!冥界送りにして母上に謝ってもらうから覚悟しろ!!」と、禁句を含んだ宣言を発してしまう。
これに対してギルガメシュも怒り心頭に至り、「ならば拳で語るまで!貴様のような聞き分けのつかない奴は初めてだ!!ましてや、何が相応しく無い、だ!貴様こそアマロの美しさとは爪先ほども似通っておらぬわ!このたわけ!貴様こそ冥界に行ってシャムハトを呼び戻してこい!何が起きたのか、貴様から聞けぬのならあやつから聞くまでよ!!」と挑発も混ぜ込みつつ宣戦布告し、駆け出したのであった。
さて、こうして始まったのが世に有名なギルガメシュとエンキドゥの大喧嘩である。ありとあらゆる手を使って互いを貶しながら、ウルク中のご近所に多大なる騒音と言葉に尽くし難い罵声の嵐、そして物理的な景観破壊でご迷惑をおかけしまくりながら休む間もなく繰り広げられた大喧嘩であった。その闘争は正に互いに獣の如くであった。そうして丸一日中戦い続けた次の日。延長戦かと思われたその時にアマロが帰還したのである。
「何してるの二人とも!?めちゃくちゃだよ!?ウルクに何の恨みがあるのさ!!」
待ち望んでいた声は二人とも同じだった。ギルガメシュは「無事であったか!!迎えに行けずすまなかった。無事で何よりだ!」と駆け寄った。エンキドゥも「父上!!僕です!エンキドゥです!実は…は、母上が!」と感極まって涙目で駆け寄った。二人が先を争うようにアマロの胸に飛び込み、彼は二人を胸一杯に抱き止めた。
アマロは曇りのない笑顔で両腕に二人を抱きしめると、「遅くなってごめんね。ギルも、王様としてお疲れ様。エンキドゥ、母さんの心配はしなくていい。…それにしても君は少しおっきくなったみたいだね。子供の成長が見れるなんて、私も幸せ者だ。」とあやすように頭を撫でたり、頬を擦り付けたりした。
二人は先程までの猛々しさをすっかり忘れて、今こそ万事に勝る大一番であると確信して顔をアマロの胸や腹に埋めた。まるで何の説明すら受けていないと言うのに、心配しなくていい、大丈夫と言う一言に盲目的な安心を覚えてしまっていた。うっとりする二人へと、意図されぬ冷水が浴びせかかったのは、その至福の直後であった。
「あの!アンタがエンキドゥよね?こっちに来てくれる?話があるの!」ピシャリ。冷たい風切り音が耳を掠めた。ギルガメシュとエンキドゥの表情は氷のようである。件の声からアマロを庇うように、前に出た二人の息は寸分とも狂っていなかった。
アマロは帰ってきた、イナンナと共に。
ギルガメシュは無言。エンキドゥは「君は誰なんだい?どうして父上と一緒にウルクにきたんだい?母上ではなくて、どうして君がきたんだい?」と、事情を知らぬものからすれば無礼極まる内容を問いかけた。
エンキドゥはイナンナの顔を見たことがない。だが、少なくとも父親と共に帰ってきたのが母親ではなかった、と言う事実から目の前の存在が何かしらの事情を持つものであると警戒したのである。
さて、である。警戒されたイナンナは「こほん!」と一つ咳払いすると姿勢を正した。ごくり、ギルガメシュとエンキドゥの喉が鳴った。二人の姿勢が豹のように低く鋭利になる。イナンナは一歩前へ出る。姿勢は模範的に美しく、眼光は真面目。いっそ威嚇のようである。また一歩前へでる。二人の手に、同じ輝きの鎖が瞬く。イナンナの足が止まる。
イナンナの瞳が煌めいた。今だ!!踏み込む寸前に「そこで止まれ!」とギルガメシュが叫ぶより、彼女の動きは早かった。
そして、イナンナは綺麗な御辞儀を二人に披露した。
何?御辞儀だと?ギルガメシュとエンキドゥの思考は直接繋がっているように全く同じであった。驚く二人は顔を見合わせる。イナンナは頭を上げた。二人の後ろから圧の感じられる笑みがイナンナにぶつけられた。イナンナは弾かれたように再び御辞儀した。
二度目の御辞儀。二人は息を呑み、これ以上何があるのかと緊張に冷や汗を垂らした。
御辞儀してから数十秒後、遂にイナンナは「エンキドゥ!お母さんのことは、ご、ごめんなさい!悪気はなかったのよ!ちょ〜っと私を差し置いて狡いじゃない!って思っただけなの!ギルガメシュもよ!私が貴方に色々要求したことは、綺麗さっぱり無かったことにするわ!だから、その、ごめんなさい!!申し訳ありませんでした!!」と一気呵成に赤心からの謝罪を披露した。
衝撃という雷がギルガメシュとエンキドゥを貫いた。もはや二人は我慢できなかった。「何が起こったのだ!?あ、あのイナンナが謝罪だと?ふざけているのか!」ギルガメシュは少し大きすぎるほど叫んだ。エンキドゥは「謝れたのか?まっ、まさかそんな…君は本当にイナンナなのか?」と自身の目を擦った。目の前には信じられない光景が、しかし確かに存在していた。
二人の驚きっぷりに、なんとも失礼な奴だと思いつつ、イナンナの心は常に二人を跨いでアマロに向いていた。イナンナは目をチラチラとアマロに向けた。アマロは声を出さずに「よくできました。えらい。」と言った。イナンナは「えへへ」嬉しかったのである。
その後、初めて事の全貌とその顛末について説明を受けたギルガメシュとエンキドゥは互いに和解。イナンナとの一幕で案外にも互いの相性が悪くないこともわかり、良好な関係を築くことに成功した。関係性には恋敵という要素もあったが、それを含めても二人の間には全身全霊でぶつかったもの同士裏表の無い気安さが育まれた。
ウルクへと向かう直前、イナンナはアマロと共にエレシュキガルの手で冥界まで送り届けられ、そこで彼女はシャムハトへの謝罪を済ませた。肉体が失われた以上仕方がない。シャムハトはエレシュキガルが冥界で自らがアマロと共に暮らすことを許すことを条件に、イナンナへ赦しを与えると言った。
これに対してエレシュキガルが「私はお姉ちゃんだから仕方ないわね。そのかわり、私もアマロと一緒だからね?イナンナ…貴女も、混ぜてあげなくもないわよ。一応は、私たち姉妹なのだわ。」と言って快く許容したため、結果的にイナンナはシャムハトから赦しを与えられ、同時に冥界での市民権を得ることに成功していた。
即ちイナンナの謝罪は、他ならぬシャムハトからの免罪符を受け取った上でのものであった。アマロの口から説明を受けたこともあり、エンキドゥも渋々だったが受け入れた。ギルガメシュは傍迷惑な女だと思ったらしい。なるほど、悪気はなかったとはいえ赦されるや否や二人に見せつけるようにアマロへ甘え始めた結果、即刻エンキドゥに寛容を撤回される一幕を目の当たりにすれば仕方ないかもしれない。
イナンナが天界へ戻ることはない、という事実はその日のうちにウルクへと広がったが、殆どの民はこの傍迷惑だが人間臭い女神の不在を信じなかった。なんと言っても豊穣と美の女神である。いなくなるなど質の悪い冗句に思われたのだ。
こうして天界と地上、そして冥界に久しぶりの平穏がやってきたのであった。
それから、アマロを取り巻く環境は淀みなき繁栄を再び謳歌し始めた。というのも、なんと言ってもあのイナンナが天界から誰の元へと向かったのか考えても見てほしい。彼女は奔放なことを除けば極めて有力な神秘の持ち主である。信仰心に比例して莫大な力を扱う彼女には、皮肉なことに冥界に降りてからの方が好意的な信仰が集中していた。
イナンナが天界から降ったことは天界の問題であり、地上の人間たちには預かり知らぬことであった。彼らにとって、神の不在など持ちうる概念全ての範疇外のことである。彼らは変わらずにイナンナ神に信仰を捧げたのだ。良くも悪くも強力な彼女の存在は、謂わば大自然の恵みと荒涼とした理についての代弁でもあったのである。イナンナの奔放に腹を立てることは、即ち人間からすれば自然の災害と代わり映えのないものであった。
加えて、冥界に降ったイナンナは自ら肉体を殺すことで天界への不帰の意志を示したが、その力を手放しはしなかった。賢い彼女は自分の存在に付加価値を限界まで盛り込むことを決して忘れなかったのである。強敵は亡者系正妻やら、王様系美男やら、超寵愛系胤子やら、真面目系実姉など錚々たる面々が揃っていた。決して負けられぬ戦いである。しかもコレは終わりのない、維持の為の戦いであった。
頭の中身を覗けば九割九部九厘を一人の男への甚愛で満たしているイナンナが、その力を男のために使わないわけが無かった。天界にとって不運なことに、自分以外のために全力を尽くす彼女は頗る有能であった。ほんの僅かな情報から、言葉には出さないがアマロの望むことを導き出すと、誰よりも早く、誰よりも的確に、誰よりも強力無比にその辣腕を振るったのである。
結果、アマロの奇跡に相乗効果が上乗せされたのだ。文字通りの神の寵愛甚だしく、ウルクにはギルガメシュの奮闘虚しく絶望的な繁栄が訪れる羽目になった。
神々はこのことに困り果てたが、決して行動していなかったわけでは無かった。主神アヌはイナンナの保有していた神秘の巨富を、アマロの財務管理を担うギルガメシュとの協議の末に、少しでも多く分けてもらうと有望な神々に配り、それまでイナンナが一人で担っていた豊穣と美を担う神々としての権限を与えたのだ。
イナンナという一人の損失は天界にとってそれほど大きなものであった。肉体すら自ら進んで廃してしまった彼女を天界に連れ戻すことは不可能であった。苦肉の策としての面もあった。
一方で、アヌの心配とは裏腹に、神々の王エンリルなどは今回の騒動でイナンナの本当の奔放さを思い知り、面倒が消えたおかげで人間の信仰は以前よりマシになるだろうと考えていた。その考えにも一理あり、確かに彼女にほとほと困らされていた神々は内心でほくそ笑んだに違いなかった。
しかし、中にはイナンナの不在に苦心も、或いは安堵もしなかった神が一柱だけ存在した。意外にも、それは太陽神シャマシュである。シャマシュはイナンナが喜び勇んで冥界に降ったことを聞くと、声を上げて笑って言った。「これは大変なことになるなぁ。あの子は一度決めたら神でも動かせないぞ。私のお腹に星を打ち込むくらいだぞ。やり方は乱暴だったかもしれないが、彼女は大した女神だよ。きっと、今に大成するだろうさ。アヌ神も随分見る目がない。あの程度の神々ではあの子の足元にも届かんよ。」
シャマシュの愉快そうな様は、ある意味でいつ何時にも信仰を失う事のない安心からくるものであった。故に、実に客観的な物の見方が出来たと言えよう。
数ヶ月もしないうちにシャマシュの言葉は真を伴うものとなった。アヌの努力も、エンリルたちの安堵も所詮は見誤り甚だしい、神の傲慢であったことを思い知らされたのだ。
アヌ神が任命した神々から悲鳴が届いた。「おぉ、アヌ神よ我々の無力をお許しください。地上の人間たちは我々ではなく、イナンナ神への信仰を忘れなかったのです。」
つまり、求心力が無かったのである。天界の神に信仰が集まらねば意味がなかった。
アヌは困ってしまった。アヌの気疲れに拍車をかけたのは、見違えた清貧系女神イナンナによる恩寵増し増し豊穣祭りの開催であった。
あれ以来冥界と地上を行き来する生活をするアマロは、新しい生活を楽しみつつ変わらずギルガメシュの味方であった。
アマロは今回の騒動ですっかり吹っ切れたようであった。エンキドゥという愛児の存在はもはや天界から心が離れる、未練が離れるのに致命的であった。アマロは少しの翳りもなく、ギルガメシュの、人間に寄り添うことを伝えたのであった。
エンキドゥもまた、「僕を産んだのは、強いていうならば地母神だよ。今の僕が天界に捧げるべき祈りは全て父上と母上、そして祖先に捧げられて然るべきだ。」と言って、父親とはまた異なる視点から天界への帰属を固辞した。
ギルガメシュもまた、一つの山を越えたようだった。神々と人間を繋ぎ止めるという使命を忘れたことなどなかった。だが、イナンナとの出会いは神々の功罪と、彼らもまた情ある存在に過ぎぬという納得を彼に与えるには十分な体験となった。そこに、最愛のアマロからの宣言である。ギルガメシュもまた、人間の王として歩む心を固めたのである。
彼らの決心に冥界は全面的に賛成し、その旗頭に立ったのは冥界の絶対女王エレシュキガルと妹であり最強の居候身分イナンナであった。
彼女達はそれまでの陰鬱さや奔放さを、それぞれ積極的な真面目さと一途な生無邪気さに好変換することに成功させていた。二人ともアマロが左を右と言えば、彼が気付かぬうちに地上から左の概念を完全に抹消するくらい彼に夢中であった。
恋は人だけでなく神のことも変えるようだ。ウン万年越しの姉妹の意気投合であった。
こうして、完全に癒着した地上と冥界に主導される形でウルクは見事再興を果たしたのみならず、以前にも増して繁栄を極め始めた。イナンナが本気を出せば肥沃な土の一山や二山用意させるなど朝飯前であった。神の直接的な手が加えられたことで農業が爆発的に発展。気がつけば複雑な味覚が巷に出回るようになっていた。
災害、特に風水害には神威を用いて捻じ曲げるなど、イナンナはなりふり構わず力を奮いまくった。彼女は神々の中でも、特筆して容赦だとか加減だとかいう軟弱な概念を存じ上げない神であったから、文字通り地形が二度三度変わったとしても鼻で笑い飛ばすほど豪胆に采配することに何の迷いもなかったのである。
人々は神々に、殊更にイナンナへと祈りを捧げた。変わりなく、イナンナに捧げていた。新規で建立された豊穣神の神殿群には疎に人が見えなくもなかったが、イナンナの宮殿には以前に数倍する人々が祈りのために昼夜問わず訪れた。
また、豊穣とはつまり富である。とにかく容赦という言葉を知らないイナンナはエレシュキガルの冥界が支配の及ぶ範囲内に属するあらゆる土地を豊かにしまくった。ウルクから遥か北だったり、西だったり、はたまた東であったり南であったり…イナンナは適当だが力が莫大な女神だったので、手心を加えたと言いつつ各地方で目覚ましい発展を促していた。
結果、イナンナへの信仰はそれまでの閉鎖的なものから解放されて各地に広がることとなった。本来ならばウルクの都市神である彼女に、豊穣の神としての祈りが各地から、つまりは彼女の御座する冥界にも莫大な力が集中するようになったのである。
天界から追放されてもイナンナはイナンナであった。天界は目に見えて神秘に翳りが見えており、ギルガメシュも同時期に文明停滞のための務めを封印して元の賢王へと戻ってしまった。
功罪両面を鑑みれば、人類は独立独歩の希望を手にした一方で、神々の余裕を奪いすぎたと考えるのが妥当であろう。アマロを取り巻く環境は、いっそ性急に過ぎたとも言えた。
冥界と地上の隆盛目覚ましく、アマロは大切な者たちの笑顔に囲まれて暮らす幸福を噛み締めていた。半日を冥界で過ごし、半日をウルクで過ごした。昼夜はそれぞれ一週間で交代制にし、時には冥界の夜に契り、時にはウルクの夜に契り、両界の巨肩の仲を取り持ちつつ、互いに互いへの愛を深めた。
ある時はエレシュキガルとイナンナの二人を相手に実力を遺憾なく発揮した。結果、その年は旱魃が全く無くなった。またある時はシャムハトと清純な夜を共にした。アマロはシャムハトを腕枕で、シャムハトはアマロを膝枕で癒した。静かだが実に甘美な時間であった。
またある時はギルガメシュがアマロに攻勢に出たことがあった。気まぐれに彼の、男としての矜持が囁いての出来心であった。嬌態を晒してばかりではいられない。自分の雄を試そうと挑んだギルガメシュ。結果のみ言えば自ら進んで惨敗を喫してしまった。彼は改めた際、「こ、これが天地創造の剣…で、あるか。」と薄く笑って呟いたという。事後の感想は彼のためにも何もいうまい。ただ、英雄王は圧倒的満足の前に屈服したとだけ言っておこう。
そして彼、いや彼女のことも忘れてはならない。エンキドゥ、彼の体はその成長の源となった神秘に基づいているために、大変な柔軟さを有していた。変幻自在と言っても過言ではないその能力を、彼は他ならぬ自分と父親の逢瀬の場で遺憾無く発揮した。エンキドゥが後日冥界に招かれ、母親から「どうだった?」と尋ねられ羞恥心に頬を染めつつ肯んじたのは言わずもがなである。実に実に幸福な日々だった。
幸福な日々は続き全てを癒すかと思われた。だがそんな中でも、彼の心中に燻る憤怒が消えてはいなかった。むしろ愛の味と満ち足りた交わりを通して、彼の激情は一層の灼焦に徹していたのである。
夜のウルク。誰もが寝静まった夜。
「まだ、何も償わせていないじゃないか。何も贖っていないじゃないか。そんなことをどうして僕が許せようか。母上の肉体は人喰いの獣に奪われたままだ。小指の骨さえ遺っていなかったんだ。許せるわけがない。まだ、僕の目の前で奪われた時のままなんだ。」エンキドゥが暗闇の中で言った。月明かりで翠の霊光が揺らいでいた。瞳の中には低く唸るような怒りが渦巻いている。
「…エンキドゥ…我が友よ。貴様にはそれだけか?」ギルガメシュが言った。彼は葡萄酒で満たされた金の杯を片手に、エンキドゥへ問いかけた。いや、確認をとったのだ。
「それだけじゃないとも。僕は父上が信じる君を信じたい。だから、僕を前に進ませてほしい。きっと、このまま歩いて行けばいつか必ず僕は壊れてしまう。父上を想えば想うほど、僕を産んでくれた母上に感謝と嫉妬を抱いてしまう。父上は母上のことが大好きだから。でも、僕も父上の隣を歩きたいんだ。…生まれた時からあの人のことばかり見てきたんだ。」エンキドゥはそこで一度言葉を切った。エンキドゥはギルガメシュを見つめると、胸に手を置いた。
「父上は美しい。母上は僕のことなんか見てなかった。でも、それは僕もおんなじなんだ。僕も父上のことしか見えないんだ。生まれた時から…父上を想わない日はなかったよ。父上が僕を見て微笑んでくれるんだ。いつもの父上は恥ずかしがりだから何も言わないんだ。でも、ずっと見守ってくれる。僕のことを愛おしそうに見てくれる。僕はその度に幸福の絶頂を感じてきたんだ。僕の救いなんだって、僕の全てなんだって…微笑まれただけで心の底から思うんだ。」
「だから、僕は母上を僕から奪ったフンババが憎いわけじゃないんだ。僕は父上から母上を奪ったフンババが憎いんだ。…父上から、父上の大切なものを奪った奴のことが憎くて憎くて憎くて仕方がないんだ…。僕は憎しみを抱いたまま父上の隣を歩きたくない。きっと、父上はこんな僕を受け入れてくれる。けど、それじゃあ僕が我慢できないんだ。だから、ギルガメシュ。君の力を貸してほしい。僕は父上のためなら神をも打ち砕こう。君はどうだい?」エンキドゥはそういうと手を差し出した。
「ふん。我と貴様ではアマロと共に過ごした長さが違うのだ。そんなこと、聞くまでもなかろう?アマロは貴様が生まれた瞬間から、今も変わらず貴様に夢中だ。まぁ、我とアマロほど深く愛で結ばれてはおらんがな。とは言え貴様が怪我をしてアマロが泣いては元も子もない。心せよ!英雄の友は英雄に限る。この世に相応しいものが他にいないなら仕方なかろう?」ギルガメシュはそう言うとエンキドゥの手を取った。二人の表情は覚悟と自信に満ちていた。
その夜、宮殿の庭に呼び出されたギルガメシュがエンキドゥの悲痛な訴えに応えてフンババ討伐を決意したことで幸福な時間は、停まっていた時間は無情にも再び動き出した。もはや運命の車輪が止まることはないのだ。