B-0.1 孤独者と漂着者〜孤独者の譚〜
いにしえの頃、魔法を持たざる尋常の人間と、不可思議な力を持ち得る妖精達は共存していたとか、していなかったとか。
双方の領分が支配者であれ、家畜であれ、相互に対する偏見は残された。
人間は矮小なり。愚かしく、時に強く短く光り輝く。
妖精は邪なり。万能にして、血も涙もなく、何より愛も悲しみも知らぬ。
時は流れた。両者の間から溝は消えなかったが、漠然とした無い物ねだりは憧憬と嫉妬、憎悪に姿を変えて継承された。
神秘の消失は、ブリテンの運命を早めたのやもしれなかった。
二つの運命が交差する時、そう定められた時には既に、互いに互いが災いの運び手であると信じるようになっていた。
皮肉なことに、互いに救いを求めさえしなければこんなことにはならなかったはずだ。
しかし、人間はその弱さから救いを求め、妖精はその好奇の渇きから救いを求めた。
今一度、ブリテンの寂れた南岸より、神秘は蘇ろうとしていた。
「孤独者の譚」
良きサクソン人は語る。
あるところ、運命に翻弄された一人の貴婦人がいた。
彼女に運命を運んだのは大気に住まう人ならざる者であった。古の血筋は夢魔の系であり、尋常ならざる力を用いる存在であった。
夢魔に魅入られた女は一人の子供を産んだ。生々しい交わりの記憶などない。だが、間違いなく我が身を献じて産み落とした子供であった。
産み落とされた子供の名前はマーリンと言った。名付けたのは彼の母であったように思う。名前こそ、マーリンが生親から与えられた数少ない贈り物であった。
生まれたばかりの赤児の姿を見て母親は言った。
「この子が生まれたことに、私は何と嘆こうか。放浪に乗り出し、見知らぬ下賤から慰めの言葉を受け取れば良いのか。この手で、今ここで我が子をお仕舞いにしてしまおうか。或いは、全てを忘れて、ただの母として、この子のこともただの人として育てあげようか…。」
暫しの逡巡の末、母親は子供の瞳の深い深い輝きに気分を悪くした。見た事もない、我の知らぬを教え込まれているような不気味であった。
夢魔の父性はいかんせん重篤な困難を、マーリンの無垢な瞳にさえも負わせてしまった。それが故意であろうと無かろうと、爾後、彼の孤独は定められてしまったようなものだった。
残酷な己への戒めや慄きは、それらをも上回る我が子への薄気味悪さにかき消されてしまった。
胸の奥に、一つ匙ほどの確信が生まれた。ただそれだけであろうとも母の胸中に芽生えた確信は、何処かに残っていた血情の緒さえもを、いとも軽々と裁ってしまった。
マーリンの母は産後の疲れも鎮まり切らぬ内に、秘密の産晩を仕切った修道院の長を、金切り声で呼びつけた。
マーリンの母は叫んだ。
「院長様!!どうか、どうか早くこの恐ろしいのを私から遠ざけてください!出来るだけ遠くに、限りなく内密に、何者も預かり知らぬうちに、早くこの子を私の目の届かぬ場所へ追いやってくださいな。私はこんなのは知った者ではありません。主が、もしも私を憐れんでくださると言うのでしたら、私の産んだこれが祝福されるべき存在であったならば、こんな、こんなに妖しい光を瞳に燃やすものではありません。」
「あぁ、お許しを…どうか、どうか私をお許しを……この子は、いいえ、これは間違いなく私の身を穢した。だから、身を穢された私を憐れみたもうた主が、私の身から追い出したのです。そうです、そうだったのです、そうに違いありません。そうでなければならないのです。」
「私が産んだのではない…私の身から主に追いやられ、そうして這い出してきた何かなのです。ですから、どうか早く、あっちへおやりになって下さい。神の名の下に、早く裁いておしまいになってください。それが、それが私に手を伸ばす前に早く!!」
血混じりの喉が絞られたような、聞くに耐えぬ弁明と、生まれたばかりのマーリンへの恐れと怒りを叫び連ねた母親は、修道院長の手を爪が食い込むほどに力強く掴むと、神の名の下に我が子の生誕を否定するようにと迫った。
修道院長は否応を明確にせぬままに、修道女を二、三も付けて母親を生家への帰路につかせた。
院長は最も年老いた修道女に、マーリンを迷信深き湖のほとりに置いてくるように、と言伝た。
老修道女はマーリンを大きな木籠に納めると、その夜のうちに湖のほとりに彼を置いて来てしまった。
良きサクソン人は語る。
マーリンが自分自身をマーリンであると明確に認めたのは、この晩が明けて、その生の最初の朝焼けに身を晒した時であった。
マーリンを捨てた母親は、それから死ぬまで一度としてマーリンの名前を口にしなかった。マーリンが母親から自らの名を呼ばれたのは、産み落とされる直前に投げかけられた一度だけであった。
良きピクト人は語る。
マーリンには不思議なところが多くあった。
そのどれもが、多くの信心深い人々にとっては耐え難いものであり、より多くの自らを変哲のない善良人であることに疑いのない人々にとって到底受け入れ難いものであった。
一つはその瞳であった。言葉で表しようもない鮮烈で複雑な虹彩が映し出されるそれは、ただ人からしなくとも魅入られるような妖しさと、超常の気配をひしひしと感じさせる特徴の第一であった。
二つはその肉体にあった。マーリンの肉体がどうであったか、その実際は詳細も何も断定し難いものがある。誰もが彼の姿を知っているように思えて、しかし誰も彼の本来の姿を知らないのである。精巧な陶人形のような美しい容姿も然り、賢者の範とも言われるべき豊かにたくわえられた口髭と深い皺の刻まれた思慮深い相貌も然りであった。
或いは、その不思議な噂話もそうであろうか。時にアーサーがアルトリアであるように。彼が彼女であるように、魔法使いマーリンは時として妖艶な魔女マーリンでもあったらしいのだ。
そして三つは、誰しもが心よりの期待を持って既知と謳う、不可思議な魔法の力である。
マーリンの偉大こそは、即ち魔法の偉大である、とは遠からずではなかろうか。マーリンの魔法の前には、万難もなにを恐るるものぞ。
アーサー王こそはマーリンに導かれし者に過ぎず、マーリンこそがブリトンの救済者であると謡いあげることの何と容易いことか。
マーリンの不思議は他にも数多くあるだろうが、マーリン自身が自らに見出す不思議とは何より先に、この三つのことだろう。
生み落とされて以来、彼は己が持ち得たただの三つしか、その頼りとすることが許されなかったのだ。
良きブリトン人は語った。
マーリンが誰に手を差し伸べられるでもなく、しかして物心の着くまでを生き延びることができたのも、その飄々たる人格を獲得し得たのも、全ては彼の生来の幸運と、皮肉にもその血に宿る夢魔の因子の忠良に依るところが大きかった。
何もしなければ、死ぬだけだったのだ。
自らの生に、否、凡ゆる生という生の輝きをその冷謐な瞳に映る現象の、些細な起伏としてしか捉えることのない夢魔には、人間としての或いは人間のような生き方は、砂利屑を咀嚼するだけの戯言に同じ、と言っても過言では無かったのだ。
しかし、マーリンは脱力し、ただ自らの死を待つことはなかったのだ。
同じ境遇に置かれた夢魔の血の者が、果たしどれだけの数、マーリンと同じ選択を、彼らから見ればいっそ馬鹿馬鹿しいほどの愚択を選ぼうか。
マーリンの胸中に芽生えた幸運とも運命とも言うべき天啓とは、彼を人間と共に歩む道程へと誘い得た妖燈とは、これ即ち、このまま粗末に身を滅ぼしてしまう己への、ぼんやりとした、どこか勿体の無いような落胆と期待であった。
これが人ならざる万能の霊主の族柄から考えるに及べば、物好きの蛇足であろうことは、マーリンという夢魔の端くれが最も良く理解しているところだった。
しかし、彼は純血ではなかった。
混血の命の導きは、決して愛に等しく降りかかるものでもないのかもしれぬ。
マーリンの始まりは断じて幸福とは言えまい。
だが、しかしマーリンは歩くことを選んだのである。
産まれ落とされ、捨て去られ、努めて忘れられようとする幼い命を、マーリンは自らの手で育て上げる事を選んだのである。
誰の心の片隅にもその存在を許されなかった自分自身が、いつか何かを知った時に落胆しない為に。
自らも知るところではない、言葉にすることもできない、それでも尚、己が求めてやまない何かを掬い上げた時、自分が知らない其れを与えてくれる誰かと出会った時、その時の期待を決して自分から投げ捨ててしまわぬ為に。
そして、それらこそが指先が埋まる程度の浅い未練の働きによる功であった。
だが、この未練は平時の人間が理解しうるような渇きにも似た激しさを伴うものではなく、些かの労苦を費やして獲得した果実を食べかけのままに、取り上げられてしまうようなものだったろう。
それは人間からすれば、それこそ夢魔から見た人間の生涯への冷淡な反応と同じ類の些細な何かであろうが、夢魔の一席が常識的に持ちうる範疇の情動の起伏を鑑みれば、異端も生易しいほどの逸脱的飛翔に他ならなかった。
夢魔は血を、人間は名を与えた。
だが依然として余白は埋まっていない。
他の夢魔は知らぬのだろう、この心地よい渇きを。
マーリンは己の余白を埋めるために、夢魔も人間のことも恨むつもりはなかった。
だが、そもそも己の生涯さえも遥か高みより覗き見る娯楽の一端程度に考えているマーリンにとって、恨みも憎しみも知ったところの話では無かったのかも知れない。
とはいえ、マーリンは己が持ち合わせる血と名前だけを頼りとして、その心の片隅に空いた余白は埋めてくれる何かを、埋めてくれる誰かとの出会いを求めて、改まった心意気でその成長の第一歩を踏み出したのである。
実在するか分からない、己を受け入れ、己に与えてくれる何かを、誰かとの出会いに対して、マーリンは早すぎる諦観とも達観とも呼べる感情を抱いていたが、それはマーリンの孤独な旅の始まりを遮るものでは無かった。
己の進むべき道筋を漠然と描き終えたマーリンは、最初の朝日を浴び終わるのと同時に、自らの生母への愛着など忘れてしまったかのような極めて冷徹な思考を働かせた。
産まれたばかりの赤児が黙々と魔力を練り、大気から養分を摂取している図柄は現実離れしていて薄気味悪いものに見えるかもしれない。
腹ごしらえを済ませたマーリンは今後について如何にも人間らしく考えた。
生き延びる為には、夢魔の系譜に連なるものといえども幾つかの段を踏まねばならぬ。
己を養うことを、産み落とされた当ての日から強いられたマーリンは、悲嘆の暇を己に許す事もなく、機械的なまでに生存の為の諸事を恙無く実行していくのであった。
夢魔は大気に起源を持つ種族だ。単調に生きる上では人間のように飲み食いに精を出す必要は無かった。
夢魔の自身が健全に育つために最適な方法としてマーリンが採用したのは多様な人間が入り混じり、老若男女を肉眼で知るに事欠かないだろう場所を転々と放浪する事だった。
出会いを求めることに気負いのないマーリンはその点でも生まれた時からの生粋であったのだが、その話はさておく。
全てを見通す千里眼はまだまだ拙さの残る扱い振りではあったが、何かと要領の良いマーリンにとってそんなことは些細な事であった。
果たして、より多くの精気が大気に満ち、より多くの出会いに恵まれる場所を目的地に設定した結果は、自ずと大きな街の盛場が第一に導き出された。
決断すれば行動のみ、迷いを知らぬマーリンは可愛らしい鼻をふくらませると、ふんす。
魔法で木の籠ごと自分を浮かせと、生まれながらに豊穣なその白髪を風に靡かせながら最寄りの盛場目指して出立した。
孤独者の旅はこうして幕を開けた。
良きサクソン人は語る。
マーリンの旅は当初順調に思えた。
吸い尽くせぬほどの精気に満ちた盛場の大気は彼を養うに十分すぎるほどであった。
だが、それだけだったのだ。
全くもって、マーリンの願いが成就することはなかったのである。
彼はある意味で晩成であった。後世を知る者の評価はおしなべて同様の談に終始する事だろう。
彼の望む、彼の余白を埋めてくれる誰かと出会うまでの時間は、マーリンにとって苦難の時間であった。
無論、人間の苦難とは悩み苦しむものであるが、夢魔である彼にとっての苦難とは全く持って起伏のない事であった。
当初は言葉通り、来る日も来る日も木の籠の中で精気を摂取しては寝て、摂取しては寝てを繰り返して肉体を育て、起きている時間はひたすら魔法を使って暇を潰した。
何の目的もなく魔法を使うことは味気なく、それほど上達もなかった。
それから次第に道ゆく人々を標的に、マーリン曰く可愛い気のあるイタズラを披露するようになってから飛躍的に魔法が上達したらしい。
盛場中の水たまりが突然凍りついて道ゆく人々が滑って転がったり、蜘蛛の巣が掛かった竈門が薪もなしに突然轟々と火を噴いたり、盛場中の娼婦の下着が白昼に宙を踊り狂ったり、マーリンのイタズラはその類に限りがなかった。
あまりにもイタズラに凝り過ぎた結果、街の人々は木の籠に入った白い赤児に気をつけろと噂話を言い合うようになった。なんでも、不思議な出来事が起こる度、酷い目にあった人々の視界の隅には見覚えのないひと抱えもある、それこそ赤児がすっぽりと入るような木の籠が浮遊しているのだという。
人々の警戒心が高まってしまっても、それでもマーリンのイタズラはしばらく続いた。
度の過ぎたイタズラを三度と繰り返したことで教会から祓師が送り込まれ、そこで初めてマーリンはイタズラを自粛した。
イタズラが無くなり人々の安心は戻った一方、退屈に耐えられなかったマーリンは、熱りが冷めるより早く次の町へと向かった。
イタズラをしては町中大騒ぎになり、悪魔祓いやら祈祷師やらが呼び寄せられる。人々の警戒が高まり過ぎると、熱りが冷めるのを待たずに次の町へと向かう。
自らの両手と両足を頼りに、彼方此方に出会いを求めるようになる頃には、ブリテン島の方々で空飛ぶ木の籠と、姿の見えぬ魔法使いの噂が実しやかに囁かれるようになっていた。
マーリン幼児期のおイタが、図らずも後に数限りない魔法使いマーリンの伝説群の形成に繋がったとか、繋がらなかったとか。何にせよ、マーリンは惰性気味にイタズラを通して魔法を磨き上げつつ幼児期を無事に脱し、立派な美少年へと成長したのであった。
美少年マーリンはしかし、夢魔であることに変わり無かった。そして、千里眼を通じて万事を既知のものとしてしまうことにも変わりなかった。
千里眼の加護をその身に負うて以来、即ち生を受けて以来の時間と経験は、須く既知、既得のものであり、長寿かつ聡明なこの白い夢魔からすれば、この上なく退屈なものとなってしまったのである。
言って終えば、その退屈を破ってくれる何か、何者かに出会う為の旅であるから彼の悩みは根本的な問題であり、端的な結論としてはマーリンの根気不足とも言える。
しかし、かような正論など何の役に立つものか。
夢魔の本性が自身の生命への無関心を時折垣間見せつつも、一度自ら決断したことを曲げることはしなかった。
放浪には幾度かの方針変更に迫られる事もしばしばだった。
時には、魔法を一切使わずに人間の生活を一から十まで演じることで出会いを探した。
時には、自分の珍奇な姿を晒して人間関係を築こうと挑んだ。
幾度もの試行錯誤の末、結論は与えられた。
結論は、あくびが出るほどの退屈を強いられるに留まった次第であった。
出会う人、見聞きした物。その全てが知り尽くしているものだった。マーリンは初めて明確に落胆を覚えた。
そして、マーリンの齢が十を数える日がやってきた。
当時、ロンディニウムの片隅に古ぼけた宿があった。
マーリンは宿の隣の土地を、注意されるまでの期間限定ではあったが、無断で占有して我が城と成していた。
雨が疎に降るこの頃のこと、マーリンの茅葺の城は外側からの大きな力にへし倒され、無残な瓦礫に帰してしまった。昼前の出来事である。
何事かと昼寝から起き出した眠気眼のマーリンは、己の城に討ち入った不届者の顔を見上げた。
己を睥睨する不届者。宿屋の店主は腕を組み、怒り眉でマーリンに怒鳴った。
「やい、白葺の餓鬼!お前が巷で随分と噂になっていることはよく知っておるぞ?彼方此方の淑女に片端から声をかけてるらしいじゃないか。人妻も幼女もお構いなしとは、道理でお客が来ないわけだ。お前のおかげでウチの宿屋は連れ込み宿か何かだと勘違いされてるらしいじゃないか!えぇ!?いつからかね?いつから、お前のような、それこそ客の一人も寄越さない使いを雇ったんだ?お前の顔などもう沢山だ!さっさと居なくなれってんだ!!」
正論である。
しかし、反省を知らぬマーリンは平然と答えた。
「まぁまぁ、そうお怒りにならず。どうか興奮を鎮めてくださいな。たしかに…貴方のお話は間違いがない。しかし、ボクはどうしても不思議に思うのです。どうして連れ込み宿での営業を画策なさらないので?」
唖然。店主は耳を疑った。マーリンは続けた。
「そうだ、ボクはこう見えて人の見る目には自信があります。これからかなりの後になりますが、世にも貴い御方々が世に出られる際には、大いにお手伝いになることになっているのですよ。いやぁ、貴方のことではないのが心底残念でなりませんね。それはそうと、ボクは大層な目利きに成長する予定が決まってますので、この目を活かしてくれさえすれば、貴方にも満足いただけるように、このボロ屋を立派な連れ込み宿に成長させて差し上げてもよろしいですとも。」
マーリンは気付けば張り倒されていた。マーリンの城は綺麗さっぱりペシャンコになった。店主は顔を真っ赤にして叫んだ。
「お前のような奴は見た事も、聞いた事もない!自分の押し売りができる分際なのか!最後まで話を聞いてやって損をしたわ!!あと、ウチはボロ屋じゃない!歴史があるんだよ!お前には分かろうはずがなかったがな!!死にたくなけりゃあ、犬のように走って向こうへ行け!!」
マーリンはいよいよ自分の命が危ないことを悟ると住みなれた家を後にした。大気に溶け込むように、白い子供はロンディニウムから消えた。
良きピクト人は語る。
家を追われたマーリンに落胆はなかった。
ただ、久方ぶりに大いに夢魔の本性がぶり返してしまった。
無関心がその瞳の虚な輝きに、顕著に現れていた。
マーリンはロンディニウムの南に向かった。何時ぞや、ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦記の終盤に軍を上陸させた、テムズ河の河口にほど近い所であった。
マーリンは独言た。
「何もあんなに腹を立てなくてもいいだろう。なんだか気が落ちてしまったな。ボクはボクなりにこれまで歩いてきたつもりだ。人間を憎むでも、夢魔の血を恨むでもなく、言ってしまえば真面目に生きてきたように思うよ。」
何処となく厭世臭さが漂っていた。夢魔の血は騒ぎ立てるように、その、忘れていた衝動に拍車をかけた。
マーリンの足は無意識にも水に沈んでいく。
潮風は明後日の方向へ、海の匂いに心を動かされる訳もなく、己の感慨にさえ冷淡なマーリンの瞳に映っていたのは、満満たる海原であっただろうか。
凡そ海を見つめる者の瞳ではなかった。
ぶつくさと託ちながら海に腰を沈めていく。
マーリンの瞳には海が、さぞかし角張って黒々と渦巻く平面状に見えていたのかもしれない。
並々ならぬ覚悟などない。主が涙するような絶望もない。淡々と無関心が渦巻いていた。
吸い込まれる直前。彼は今日こそが己の十年目の記念日であることを思い出した。
足を止めた瞬間、親指の先に当たる硬質。
目を落とせば。マーリンは感嘆を吐き出した。
「えぇ!どうして海の中にこんな美人が!?」
次瞬。海水を垂直に押し退けて、巨大な邪竜が目の前に現れた。
マーリンは呆然として、そして我に帰った。
初めて目にする成熟した竜は、竜というには巨大が過ぎて、過分に雄々しく、禍々しいはずなのに淫靡よりも先に完成された美を主張して止まず、そして認めざるを得ぬほどに馨しかった。
邪竜と形容しても不足かもしれない。もはやこれは…。
より崇高な礼讃の辞を探求するのにマーリンが精を出し始めたその時、天の声が彼に声をかけた。
運命の声である。
「坊や、そんなに見られると照れてしまうよ。」
磨き上げられた、均整のとれた肉体は筋肉質とは言えないが、余分な肉のない美しい造形であった。
その美体を隠すのではなく、寧ろ堂々と胸を張る黒曜の麗人の首元には、美しい角羊型の首飾りが照り輝いていた。
いつの間にか、陽が顔を出していたようである。不可思議なことに、この美人の頭上の雲だけが辺りに押しやられて光の柱ができていた。
美しい、とマーリンは思った。
感じるはずのないものを、彼は感じていた。
「こんな服装で申し訳ないね、寝るときは必ず服を全て脱ぐようにしていてね、肝心の服が全て流されてしまったようなんだ…私事は他所に置いておくとして、ところでココはどこかな?暫く前にローマを出る船に乗ってからの記憶がないんだけれど…。」
黒き君の尊顔上で愁眉が寄る。
その刹那のことである。
言語解説不可能な珍事が勃発したのは。
「ッふぉう…ハッ!ボクは一体…何が?ほ、頬が熱いよ!?」
黒曜の美人が己の記憶を遡り、正常な状況判断の為の情報収集を全裸で敢行し始めた最中、彼の眉が小さく動くのに合わせて、邪竜はその凶悪な相貌を上下左右に振り回したのである。
平常時の姿でありながら、小童の腕を鼻で笑うような暴力がマーリンの頬を往復で叩いたのである。
「あぁ、申し遅れたね。」
本能を独占しかねない凶悪な薫りに恍惚とした表情を浮かべ始めたマーリンのことはいざ知らず。
依然、覇者の風格を放射するが如き堂々たる仁王立ちで思考に没頭していた黒き君は、ここで初めて自身が名乗りを上げていないことを思い出した。
「私の名前はアマロ。可愛いらしい坊や、君の名前を教えてくれないかな?」
居住まいを正して、腰を屈めたアマロはマーリンと瞳同士を通わせると、努めて穏やかな声で問いかけた。
マーリンは一も二もなく答えた。
「ボクはマーリン、ただのマーリン。」
どうして水の中に沈んでいたの?
どうして裸なの?ねぇ、どうして裸なの?
そんな疑問は喉の奥につっかえて出てこなかった。
そして、ここに来て彼は自分が驚き、混乱していることに初めて気づいた。
「さっきまで知らなかったことばかりだ。」とマーリンは思った。
自身の全てに無関心になってしまった時、常ならば嫌でも全てを報せてくる千里眼が、今のこの事態を教えてはくれなかった。
彼の思考回路に火が灯された。
急激に情報が錯綜する中で、マーリンは再び天の声によって現実に引き戻された。
「よろしくね、マーリン。出会って早速で申し訳ないんだけれど、私は見ての通り身寄りも服もなくてね。」
自分の肉体美をこれでもかと、無意識に顕示すると、アマロはマーリンに頭を下げた。
「差し支えなければ街に案内して下さるかな?無一文ではあるけれど、必ず恩返しすると約束するよ。」
見た事も、聞いた事もないお願い事だった。
人からの頼まれ事も初めてだった。
しかし内容が、ではない。
頼んできた相手のことだった。頼み込まれながら、目の前の美人の旋毛を視ながら、マーリンは必死に千里眼を働かせた。
これまで意図して使ったことなどなかった千里眼を、全精力を注ぎ込んで機能させた。
過去、現在、未来。ほんの須臾に何度となく総覧し直しても、それでも、アマロがそこに映し出されることはなかった。
「ボクでよければ…よろしくね、アマロさん。」
マーリンは我を取り戻し、自身の状況を正確に理解した。
信じ難げに口元を笑みの形に歪め、そしてから静かに涙した。
涙の量は小川から滂沱のものへと瞬く間に変わり、か細い吐息は、吸気が追いつかぬほどの嗚咽へと変わっていった。
立ち尽くして満面の笑顔と溢れ伝う涙を儘とするマーリンの奇態に驚いたアマロが、己の恰好も忘れて白い少年を密着を辞さずに、漢気上等に抱き寄せる様は、黒曜の君が美の極みであるが故に赦される忘我の混沌であった。
良き魔法使いは語る。
あぁ、ボクはやっと出会うことが出来たんだね。
貴方なんだ、ボクが探していたのは貴方だったんだ。
名前はアマロさん…髪色は黒、背丈は大人の僕より少し低い、好物はまだ知らない、嫌いなものもまだ知らない、腰に邪竜を飼ってる…凄く魅力的で良い匂いもする。本当はクサいはずなのに。瞳の色は黒かったり青かったり赤かったり…ボクと一緒の虹色なのかも…嬉しいな。
知らないことばかり、知りたいことばかり、初めてのことばかり…ボクは今、期待で胸が一杯なんだ。
あぁ、未来のボク、君の隣にアマロさんはいるのかい?今のボクにはわからない。
一緒に居ないことを考えるとボクは胸が切り裂かれるみたいに感じるんだ。
一緒に居ることを考えると、ボクは、その時のボクがどれだけアマロさんについて知っているのか、アマロさんはボクについてどれくらい知ってくれているのか、ボクはアマロさんについてまだどれくらい知らないのか、アマロさんにボクはボクのことをどれだけまだ教えてないのか…ボクはどうしようもなく胸の奥がむず痒くなるんだ。
これまでのボクは誰よりも不幸だね、だってアマロさんを知る事も、経験する事も出来ないんだから。
これからのボクは誰よりも幸福だね、だってアマロさんを知る事も、経験する事も出来るんだから。
あぁ、どうしてこんなに顔が熱いんだろう。
ボクの瞳奥の堰は暫く戻らないかもしれない。
また一つ今まで知らなかったことを知れた。また一つ知らないことができた。
仕方ないよね、泣いたことなんて今までに無かったんだから。自分がいつ泣き止むのかさえ、今のボクには興味深くて堪らない。
今まで知ることのできた未来にアマロさんはいない。
全てを知ることができなくなったというのに、こんなにも晴れやかな気持ちになるなんてアマロさんは罪な人だ。
未来のボクの隣にアマロさんが居ないことは恐ろしくて堪らない。
なのに、貴方との未来があると思うだけで、どんな未来があるのかわからないというのに、分からないからこそ、ボクは楽しみで堪らない。
貴方のことをボクが知りながら、ボクのことを貴方に知ってほしい。
出会ってくれてありがとう
抱きしめられ、甲斐甲斐しくあやされ、柔柔と頭を撫でられる感触に、自らも知らずのうちに心地よさげに微睡み倒れ込んだマーリンを、全裸のアマロが陸地にまで運んだのは、また別のお話である。
然るべき時が来た。
いたずら好きの賢翁が、潰えぬ臘火に語った調は、時波に幾度と梳きさらわれようとも、日の照ると言えど、日の陰るといえども、淡々。
刻然として憚らぬ、とこしえに伏わぬ。
忘時と変わらぬ温みを、現現に伝ゆるのだ。
「去りぬ君、去らぬ王、去れぬボク。花の枯れるまで。確かに、あまりにも永い時間だ。」
何処ぞ。
堆く過去が積まれた尖塔より、花の魔法使いが展望する未来には、変わらざりし彼の慕情を今も抱いてくれたままの、場違いなほど長閑な黒曜の微笑みが健在であった。
「けれどボクは反省も、悲嘆もするつもりはないよ。いや、ちょっぴり後悔はしているのかも知れない。彼と彼女を出会わせたことは、ほんのちょっぴり後悔しているかも知れない。人間に嫉妬するなんて…ボクも少し歳をとりすぎたのかも…。」
全てを見通す瞳に恵まれた混血の白き麗人は、大袈裟な身振りに任せて己の憂いを、一匹を除けば誰もいない何処かで情緒豊かに表現して魅せるのであった。
一通り演じて満足したのか、彼はしょうの抜けた安楽椅子に腰掛けるとため息をついた。
ふと見た先、下がった目線のおかげで、塔頂から見通す展望画は、石造りの窓枠に区切られて作り物染みていた。
ご満足いただけなかったようで、彼は余りある暇の端を崇高な工作ごとのために畳む代わりに、感傷的な過去への憧憬のために使うことにしたようだった。
「孤独には慣れっこだけれど、流石に飽きはくるものだよ。あぁ、また彼と共に暮らしたい。勿論だよ、ボクは知っているとも。いつか必ず、またボク達が一緒になる日が来ることも、彼が今でもボクの想いを忘れずに持っていてくれてる事もね。」
誇らしげに胸を張って最後の一言に並々ならぬ気概で応えた彼の姿に、同伴を半ば強いられている白綿の一匹は気怠げに外方を向いて見せることで応答した。
「なんだい?ボクに嫉妬してるのかい?ぷぷぷ!そうかそうか、いや、仕方がないことさ!何と言っても生まれた時が悪かったね!でも、大丈夫、ボクの瞳にはしっかりと視えているよ?君がいかに幸運なのか、ね?」
不機嫌を知らぬのか、と獣面を引き攣らせて後ずさる素振りを見せた白綿の一匹。
それは、最後に見せた本能の抗いか、或いは幸甚の前触れか。
安楽椅子から妖霊然として立ち上がった花の若翁。
満面の笑顔でにじり寄ってきた彼から逃れよ。
白もこもこの本能が叫んだ。
が、時既に遅く、目前には果てしなく広がる花畑、下みれば、そこには惜しみなくばら撒かれた廉光が敷き詰められていた。
「君はこれから人間について学んでくるといい。出会う相手は出来るだけ多い方がいい。迷った時、投げ出しても、探すことをやめなくても、それは君の自由だよ。でも、一度でいいから彼に会ってみるといい。君は幸運だよ。ボクが言うんだから間違いない。」
猫を掴むように、小慣れた仕草で白綿を摘み上げた魔法使いは、彼を窓の外から投げ出すように掲げた。
魔法使いは、ここに来て実に人の良い微笑みを浮かべると。
「きっと、彼はボクのことも君のことも同じくらい人間だと言うのだろう。彼と出逢ったら、それからは君の好きにすると良い。それじゃ、また今度会おうねー!いってらっしゃ〜い!」
実に人の良い微笑みを浮かべると、その笑顔そのままで全身全霊全魔力を一点に迸らせた。
急角度。一直線に尖塔の外へ。
原始的な力技で、一匹の魔獣が世に放たれた瞬間であった。
「フオオオォォオォォウウヴヴゥゥゥゥ!!?!?」
日本国都心にあるアパートの窓際から、一人の少女は青白く眩い流れ星と野太い獣の鳴き声を体験したという。
「あ、流れ星…あぁ!早く!おっ、お願い事しなきゃ、良いバイト見つかりますようにッ!良いバイト見つかりますようにッ!!良いバイト見つかりますようにッ!!!」
明るい夕焼け色の髪色が美しい未だ名もなき彼女の呟き。
その願いを聴いたものは誰もいない。
だが、世の中には不思議な事もあるようだ。
少し先の話にはなるのだが、彼女の願い事は叶ったそうである。
何万、何億分の一の確率を引き当てた彼女に待ち受けるのは、果たしてどのような運命なのか、それを知るものはまだ誰も知らない。
読んでくれてダンケなっす。随分と長くなりました。