幕間 運命の濫觴
それは、嘘ではない。
しかし、真実とも言い難い。
私は果たしてまやかし者か。それとも確信犯か。
偽善者なのか、偽善さえもを騙る欺瞞者なのか。
心からの愛、それは嘘ではない。
しかし、正義も美しさも、或いは真実とは言い難い。
否定しか出来ず、断定など不可能だ。
ただ、そこにあるだけの、それだけの何かなのだろうか。
同情することは出来ない。非情でも、冷酷でもいられない。
限りなく慈悲深くも居られず、際限なく寛容でも居られない。
喜びを忘れることはできない。快楽に嘘をつくことはできない。
自分を騙すことはできても、自分から逃れることはできない。
悲しみを捨てることは出来ない。
全てがそうであるから、結局、機械にはなれない。
心を拘束するだけの、冷えて固くなれるだけの覚悟がないのだから。
苦痛が身を蝕む。自分自身を、その中身を引き摺り出してやろうと企むのは何者か、毎夜毎夜、奴らはやってくる。
自分の良心を疑って、そして、それから後には何が残るというのだろう。
右隣の聖者が、私の左隣の悪漢に火を灯す。燃え上がる姿は松明のようだ。人間の脂は一層、自分の身の安否を奉じてまで、火の狂ったような光の幹を肥やすのに手を貸すのか。
火を囲むように連帯者は列をなす。煌々として、美しきか。耐え難い。忍びない。
然れ、ども。
汝は悪漢こそが、灰となるまで、その静寂を誇れよ。
暗黒の湿地が覆う、彌、夜が来てしまった。
聖者が皆々に何を言うのか、それを聴くまでは、身じろぎにも重篤な困難が付きまとう。それが己らへの免罪符が切られたことを示す犠牲の日であったことに、連帯者達は小躍りして喜ぶ。
とても単純なのね。だが、喜ばずにいられようか。
安堵せずにいられようか。醜いと分かっていても、溢れ出たそれを止めることは出来ない。
燃え尽きた、燃え尽きるまで燃えていた。今は灰となりし悪漢、そして灰となり得た、志無き連帯者よ。
夜の闇の中で輝いていたはずの松明が燃え尽きた今。
爾後には許されるべき陽の目が、未だに解放されていないのは何故なのか。
右隣の聖者が、私の左隣の灰を蹴り上げる。
灰を掬う。掬った灰を顔に撫で付け、勝利の微笑みを浮かべる聖者よ。
誇らしげなところに水を刺すようで悪いがね、君は自ら顔を汚してまで、それほどまでして何を笑っているのかね。
聖者の顔を埋める灰は、聖者を生者に押し留めてはくれない。彼は生者の行進の先頭に立ち、いずれ、顔のない連帯者達が続々と灰の下に、次なる生者となるべく灰塗れの聖者なりし者を襲う。そして次なる生者が襲い成る。
傷つきたくないのなら、失たくないのなら。
もしも望みあらば、今ここで吐き出すのが賢明だ。
もしも希望があらば、今ここで手放すのが賢明だ。
もしも記憶あらば、今ここで忘れてしまうのか賢明だ。
もしも、もしも。
そして、もしも、貴方に愛するモノあらば…さて、貴方は何を用いてソレを得るのか。
貴方はソレに、どれだけ捧げられるのか。
貴方はソレに、どれだけ尽くすことができるのか。
貴方はソレに、どれだけ裏切られることができるのか。
貴方はソレに、どれだけ憎しみを抱かれておられるのか。
貴方はソレに、ソレに、何を求めるのか。
貴方はソレに、ソレに、何を与え得るのか。
私は恐ろしい。自分の全てがまやかしになることが恐ろしい。自分が愛したソレが、全てまやかしになってしまうことが恐ろしい。自分が、ソレを愛しいと思うことがまやかしになってしまうことが恐ろしい。
失うこと、奪われること、たったそれだけのことで、私の中で、私自身の何かが、私を形創っていたものが、全て大したモノでもないように、そう感じられるようになってしまうことが恐ろしい。
そうはなりはしないさ。いや、そんなことは言えまい。そんなことはあり得ない。いいや、今こうして、私の心に蝕むものがある限り、私はソレが失われたことがないから、だからこうして震えておられるのだ。
今はまだ良いのだ。その時が来た時なのだ。何もかも、それまでの全てが真っ平らに均されてしまえば、私はどうして私自身でいられるのかね。
私は私ではなくなってしまうのだろうよ。私が話したこと、私が見たもの、私が食べたもの、その全てを共にした空間も、人も、物も、全てが平されてしまえば、ただそれだけになってしまう。
呆然として、目の端に移る、何かだったものを見た時に、初めて私は気がつくのだろう。そうだった。そんなものがあったはずだった、と。
全てが過去のものになった時、モノもヒトも、全てを通じて私は私自身のこれまでさえをも、繰り返して、思い出して、知り、見て、理解してきたというのに。
ソレがなくなった時に、何が私を、私であると、他ならぬ私自身に言ってくれるというのか。答えてくれるというのか。
その時が決して来ないように願う。その時が来ないように、その時が来ないように。
されども、決して、などとは言えまいて。
夢物語の中、古の石壇、神の御前。
古今東西の古くより、人の本質というものだけは変わることを知らぬらしい。
次第次第。人は火を手にして、黄金を使い、銅を使い、青銅を使い、鉄を使い…。
そうして今日まで着々、優雅に進歩を続けてきたわけであるが、しかし進化はいっぺんばかりもしていまいというのが、素晴らしいやら、情けないやら。
あな、いや、今のままが望ましくあるのだとすれば、それはある意味望外の喜びなのかもしれない。
だって、そうではないだろうか。
今も、昔も、問いかけは同じ、答えの本質も変わらぬというわけなのだから。そこには、えもいわれぬ心通じ合う悦びや納得があるに違いない。
彼もまた、いや彼こそが誰よりもそうだったのかもしれない。途切れずに歩き続けてきたその姿は、ある意味で霊長史の伴侶とも言えよう。そして、その変わらぬ、進歩を楽しみ、進化を知らぬ姿もまた霊長史の体現とも呼べる者かもしれない。
ただし、彼のそもそもは霊長ではないのだが…とはいえ、ある意味では、血の諸々を辿れば、彼こそが霊長そのものと呼べども苦しくはない。
彼は人間とは呼べなかったが、ジンカンに生きるものとしては霊長の第一人者とも呼べようて。
キャメロット城の、その鉄壁は、勇敢なる騎士王の、敬虔なる信仰と、彼に従う騎士たちが彼に捧げた忠誠の碧血と、によりその堅固を誇っているらしい。
後代において、存分に語り継がれるに足る言説である。
さて、そのような神聖な空間において、最も有難い場所はどこかと聞かれたとき、多くの者は祈りを捧げる場所だ、と答えるかも知れぬ。
しかし、敢えてこの際にこの有難いを規定したとするならば、それはブリテンの何処を探したとしても見つかり得ないという稀有な場所を指すべきである。
では、そこは何処なのか。祈りの空間は城外、ブリテンのあちこちにもあろうが、ブリテンにおいても、キャメロットにしかないものとは…円卓か?否、円卓は遠からずとも卓である。動かせるものを、そうであるとは呼べまい。では何か…。
答えを、それは王の私室、中でも寝室である…と、ここでは申し上げておく。
ブリテン狭し、王国広しと言えども、王が己の望むままに振る舞うことが許されるべき場所は此処を置いて他にはなかろう。
中でも、寝室というのは他にはないとっておきが用意されていた。王陛下たっての御希望で用意されたものである。モノというより者ではあるが…。
彼女にとって、その場は唯一、神の居られぬ場所であった。
ここに、神は居られぬ。
国王アーサーは重厚な門扉を前に都度思うのだった。
主の忠実なる僕として、民に慈悲深く、崇越にして壮健な庇護者として、彼の一日は圧倒的多数意志により構築された国家なる、この世にまたとある、一際獰猛なドラゴンとの格闘に終始していた。
今朝も、この門扉を通り、寝室から完全に引き剥がされる痛みを負う。そして今、また今日も、なんとかたどり着くことができたのであった。
だが、彼は油断をしない。この時ばかりは、戦場の覚悟にも勝る剣呑な瞳で周囲の気配を探り、問題なしと三度確信したならば、それからようやく門扉に手をかけるのだ。
毎年のように、新調したばかりの門扉。年を経るごとに鉄板の分厚さが増している。その重みすら、己と、そして唯一の彼とを、全てのしがらみと、苦痛から護るための重みだと思えば、それは彼にとって沈み込むような悦びであった。
木の軋む音が完全に戸を開き切る寸前で鳴った。いつもの音である。そして足を、扉を建て付けるための枠の内へと、帰るべき場所へと進ませる。
重い剣も、暑くて息苦しい鎧も、この時ばかりは全てが軽妙に思えそうになる。だが、ここで彼女は一息入れる。待っているのだ。来るべき彼の声を。
「おかえり。アルトリア。今日は遅かったね…さぁ、もう晩餐は用意が済んでいるよ。私が作った…訳ではないけれど。盛り付けたのは私だから、それで勘弁しておくれ。さぁ、重いモノを全て置き去って、それから、今日一日のお話を聞かせておくれよ。フンフン…随分と頑張った人の香りがしているな。どれ、食べる前に拭いて差し上げようか。アル、君はどうしたい?」
初めて新調した時に国一番の工人から、木の軋む音を無くそうか、と聞かれた。アルトリアは、彼女は「直してくれ。」と言おうと思った。
だが、横から彼が「帰ってきた時、君のことを、誰より早くに気づけなくなってしまう。」と言った。工人は何の話か理解できていない様子だった。そして彼女は「このままがいい。」と答えた。
「ただいま。…今日も、疲れました。先に、食べてしまいましょう。もうお腹が空いて仕方なくて…それに、ご飯が冷めてしまうのを心配しながら、アナタに体を拭いてもらうのは、なんというか勿体無くて…。」
毎度毎度、アルトリアははにかむように答えるのだ。
何でもない、そんな内容なのに少し顔は赤い。力が込められているというのに、辛うじて押しとどめるような具合に口の端が僅かに上を向いている。右頬に笑窪が薄らと見える。
陽が落ちる前にその日の実務が終わったとは言え、王たるもの誰よりも早く仕事を始め、誰よりも遅く終わらねばならないらしい。外は薄暗いが、それでも燭台を灯すほどではなかった。
彼女の表情が、椅子に腰掛け直したアマロにはよく伺えた。忙しない口元とは裏腹に、眉はすとんと落ち着き払い、安堵か脱力か、どっちもかもしれないが、王としての険しさはそこに無かった。
瞳にははっきりと光が見える。雄然として睨むものではない。高潔で貴品を誇るものでもない。短燭の先でうたた寝る火を、そのぎこちなさを愛でるような優しさが、彼女の瞳の奥から次第に溢れてくるようだった。
いつもの彼女だ。今日も、帰ってきてくれたのだ。
「アル、手伝うよ。」
アマロは心底からの安堵と歓喜を胸に溜めると、彼女を覆う重鈍な殻を脱ぐ手伝いを買って出た。
言葉少なに、だがソレがいいな。彼女はなんだか切ないような、ただどうしようもなくだらしなくなりそうで、だから胸を張って答えた。
「エぇ、お願いします。」
声が上ずる。
従者としてケイに仕えていた頃は、昼間は彼に命じられるがままに野をかけて、それから暗くなるまで一人で剣の練習をしたものだった。その時は、騎士道にも騎士にも純粋に憧れていて、神に仕え、弱きを救う騎士になるのだと、そう自信も無謀も足りないものはなかった。
暗くなってから帰ったある時、農民達の集まりに出くわしたのを覚えている。騎士エクトルが所有する人々だった。顔見知りではなかったが、彼らは門限にそびれた彼女が主人から締め出されたのだと考えたのか、ビール臭い息で彼らの輪に招いた。
その時に、農民は自由に婚姻を結べるものと、結べないものがいることを教わった。僅かばかりの汚れた貨幣を礼に、貰ったエールビールで唇を湿らせながら、理不尽だとも、仕方ないとも、あっさりと受け入れてしまえる自分に、王に成ってから、あとから酷く納得したことを覚えている。呆然と、すらしない自分に嫌になった。
望ましい婚姻関係とは、もしかしたらわたしと彼の間に育まれているものを指すのかもしれない。ぐるぐると腹の底に優越感が溜まって、喉を伝って重くて熱い息が漏れそうになった。堪えてしまったから、きっと頬には赤みがさしているに違いない。
何度、出迎えられても慣れない。あまりにも、平凡で、変わり映えがしなくて、特別じゃなくて、それが嬉しい。自分自身が此処にいることに、彼は少しも違和感や、忌避感を持たずにいてくれる。わたしが私でないことに、彼は寧ろ喜びを感じていてくれる。
これほどに手放し難い快楽には出逢った試しがない。与えられたことも、生み出すことも、出来た試しがなかった。
王でも、男でも、騎士でも、ペンドラゴンですらない。従者だった頃にさえ、これほどの自由や解放感などなかった。寧ろ、その時でさえ無知を棚上げして、剣を取る高潔な己の姿を夢想しては、埃の被ったお古の籠手と、自分の手で掃除の行き届いた部屋の床とを見比べて、硬い寝台の上で怠惰な騎士たる自分から目を逸らしたくなったものだ。
「鎧を着てる時はどんな感じなのかな。重いだけなのかな。心強かったり、安心したりするのかい。」
彼女が、脇に抱えていた兜を手近の木椅子の上に安置すると。肋骨の横、革ベルトと金具で固められた上半身の鎧から着手したアマロは、甲斐甲斐しく彼女の体を解放していく。
「無ければ困るものではあります。戦場に着くまでは、隙さえあれば脱ぎたくて仕方ないのが正直な所です。戦場では、流れ矢が肩や足に当たった時に着ていてよかったと思います。もしあの時、鎧がなければ…そう思うと頼もしく感じます。安いものでもありませんし…でも、必要が無くなれば、それが一番良いものです。アマロはどう思うのですか?」
「私は…美味しいものとか、歌とかの方が好きかな。あんまり欲しくはないかも。けれど、鎧を着る人と、作る人、直す人、それぞれの生きる術に繋がっていることは確かだから、突然なくなったらそれこそ困っちゃうだろうね。」
「確かに…そうですね。アナタの言う通りだ。」
「そっか…あ、此処も外すよ?これは革紐を引けばいいのかな?」
「アマロ、そこは違います。そう、そうです。金具を反対に倒してください。えぇ、上手ですよ。あっ、そこは違います。皮膚が、皮膚が挟まってます!」
「ごめんなさい!あ、ここは革紐を解くんだね。今、直すから。あぁ…また、やってしまった…。」
甲斐甲斐しい割には、手つきがぎこちない。剣も、盾もまともに触れた試しがないのだから仕方ないと言えば仕方なかったが、それにしても彼は不器用な性分だったらしい。
けれど、焦ったり、困ったり、痛がったりしながら、共に油と鉄臭くなりながらも、鎧を脱ぎ終わるまで二人の間に微笑みは絶えなかった。
殺伐とした戦場を駆け、儀典のために武装して、時には刑場の指揮を取り、生々しくて見るに絶えない非日常を共にしてきた、忌々しくも手放し難い鎧兜のことが、この時ばかりは大道芸人が帽子につける滑稽に揺れる飾りみたく思えた。許せる、許せないという選択肢があれば、どちらかといえば許せるくらいに、今まで沸々と虚際立つ溜飲が下がる気分だった。
「…ふふ。いいのですよ、鎧は一人では着ることも、脱ぐことも叶わぬ代物です。手伝われる分際で、文句なんかありませんよ。寧ろ、毎日食事時にこの匂いは堪えるでしょう?」
彼が金具をいじりやすいように、両手を肩の高さにまで上げて、腕を真横に伸ばした状態で、顔だけ和やかな苦笑いを浮かべながら彼女は言った。
これを聞いて、アマロは首を大きく回すように振ると答えた。
「いいや。鉄の匂いも、油の匂いも、拭えば消えてしまうから気にはならないよ。でも君の、アルの匂いが変わらないことを私は毎日こうして気にしているんだよ。人は、意外にも匂いで変わるものなんだ。それに、君の匂いは不思議と甘酸っぱくて、私は好きだよ。」
内容はさておき、言い切る様はなんとも、漢らしいではないか。さては、妖精を悩殺し足りておらぬと見えた。虹彩を通じ脳髄を灼き緊める微笑に、アルトリアは意識を失いかけた。辛うじて残った理性で意識を取り戻すと、待っていたのは前後不覚。初めて体験する、自身の体臭へと抱く羞恥は、ある意味で中世における最先端の文化的邂逅であったやもしれぬが、それは退けても彼女の顔面は、金床の上で熱気を上げる真っ赤な鉄のようであった。
「そ、そ、そうですか。それは…嬉しい、けど恥ずかしいですね。…私もあにゃたの匂いは好きですよ。…嗅いでいると、そのぅ…とても…よ、よく眠れるんです。」
わたしは何を言っているのか。なにが、よく眠れるんです、だ。王でも何でもない、乙女と云うには逞しく、男前というには繊細に過ぎた。彼女の表情は赤みが差すだけならばありきたりだったが、それに次いで挙動不審な様である。答えをもらっていない。返答が欲しい。一件の落着を、何卒に、頼もう。
「あのね…私も、だよ。知らないかもしれないけれど、君からは、優しくて安心する香りがする…君の香りの話はご飯を食べて、ベッドに入ってからまた、ね?」
「………。」
アルトリアの、その心が伝わったのか否か、アマロは無垢な表情ひとしお。微笑ましげ麗しゅうな口元に、そこに手をば立てると、風が泳ぐ程の声で彼女の耳に返事を添えた。
アルトリアはただ黙々と首肯を繰り返すのだった。
食事は宴会を除けば必ず二人きりで摂ることにしていた。決めたのはアルトリアでもアマロでもなく、強いて誰かとするならばマーリンだった。
なんでもマーリンとアマロが共に旅をしていた時の習慣らしいのだが、それが王になったアルトリアとアマロの間でも自然と適用されたらしい。
自然な流れとはいえ、心の内でアルトリアが喜んでいたのは一目瞭然のことだった。
普通、当時の価値観からすれば、妻グィネヴィアという者がありながら、このような振る舞いは、言語道断。逸脱は甚だしく、王権を支えるお歴々からすれば勘当ものであった。
しかし、それでもこうして二人が過ごしていられるのは、何とも驚くべきことに、グィネヴィアその人からお許しが出たからであった。条件としては、アーサーが必ず毎日自分の元に、アマロと共に会いに来ること、昼間は必ず、アマロをグィネヴィアの元に預けること、などがあったが、アーサーはこれを呑み干し、こうして今の平穏を掴むに至ったのである。
食卓の上に並ぶ料理は一品一品、色にあるべき活力が感じられないものばかりであり、流石天下一を争うブリテンであると世界の名匠方に滝の脂汗と共に唸らせしむるに値する完成度の高さであった。
しかし、その内実は極めて良好。いやいや、ブリテンだけと云うわけではないのだが、それにしても大層な面々が既に揃い踏みであった。
主食となり得る品としては、小麦粉、ライ麦、大麦でできたパンやビスキュイ、粥は勿論のこと、驚くべきことに大豆に米や稗や粟まであるようだった。トウモロコシやジャガイモこそないため、爆発的な食糧事情の改善には至らなかった模様だが、それにしても味覚の園には花開くものがあったことだろう。
味付けに至っては呆れたものであり、塩に胡椒にスパイス各種が惜しみなく投入されていた。それらの種は何処から?という問いには、アルトリアが御執心の真っ最中の彼がインド土産、エジプト土産、倭国土産、中華土産云々として、めっぽう嬉しそうに紹介した品々の中に、香り袋と勘違いしたアマロが延々と揉みしだいていた絹の袋があったらしく、それを開くと刺激的な香りの宝物が分類されておったと云う…。
爾今に至るまで、この奇跡的な出逢いに全ブリテン人が感涙に咽び申し上げたことは言うに及ばずであろう。
…なるほど、香辛料とは偉大である。極限まで活力のない色味に昇華された料理の数々も、圧倒的な香辛力を前にすれば味も優雅になろう。
こうしてブリテンがメシウマの国としての道を歩み始めたことは…また別の機会に語るとして、野蛮な味付けのフルコースを手掴みと無骨な銀のナイフと木の匙で平らげた二人の次なる催事は、恐らく今日という日の頂上となろう、貴重な薪をわざわざ燃やして用意した湯を用いる入浴代わりの、アルトリアの言葉を使うのならば洗礼である。
古のケルトの民は銀細工に長けていたという。貰い物らしく、彼の私物である銀細工の見事なボウルに注いでおいたお湯に、指先をつけること暫し。ほんのり熱いくらいが浸した布を絞った時には、心地よい温度になっているらしい。
確かめ終われば、彼はなるべく肌理の細かいだろう布巾を用意すると、これをボウルに浸した。
何とも、様になる。湯に布を入れ、そして絞る。誰にでもできることだというのに、何とも収まりが良く感じる。横顔からは底知れぬ温もりも、のんびりとした彼にしては嬉しそうに、それでいて真剣な眼差しも透けて見えてしまう。
「アル、背中を向けてごらん。」
それが、沈黙の中でただただ体を丁寧に拭われるとなると尚更であった。静寂の中で、何もつけていない背中を晒している。そして、無防備なそこを誰よりも慕わしく想っている相手から、穴が開くほど視線を感じるのである。
如何様に表すべきか。簡潔に、背中が熱かった。
優しく、思い遣るような手つきである。拭う、と呼ぶべきではない。湿った布面を柔やわと押し当てる、若しくは点を打つように軽快に叩くといった形容が相応しい。
寝台の上、すぐ後ろに感じる気配からは、熱心さや懸命さをひしひしと受け止められよう。
鼻から一度荒い息を抜き出してから、彼女は前を見たままに言った。
「お腹の辺りも…拭いて欲しい…。」
アルトリアは僅かばかりの悪戯心と、莫大な勇気を振り絞ると、耳まで真っ赤にしながらそう言った。
「うん、いいよ。」
「ぅふぅ……ありがとう。」
アマロの声は迷いなく、彼女の想像より遥か耳元で聞こえた。こういう時、どうしてそこまで頼もしい声が出せるのだろう。アルトリアはどこか遠くでそう考えていた。
濡れ布は温く、心地よく、肌に名残る水気が飛ぶ時のひんやりとした感覚は身が引き締まった。肌寒さは、隠しきれない火照りのせいでちっとも感じられない。
優しく、優しく、丹念に熱が体を這う感覚に酔いしれながら、アルトリアはこの時間がどれだけ続くのだろうかと思い浮かべていた。
「アル、気持ちいい?」
正面を向いたままの彼女には彼の表情がわからない。だが、きっとこう言えば喜ぶに違いない。一杯一杯の頭でそう考えて、彼女は背筋を正して答えた。
「はい、とっても。」
一世一代の告白と言われても裏切りのない程度に、良く通る返答であった。自分で考えた以上に響いた声に、彼女は俯くのではなく赤面のあまり固まってしまった。可愛らしいことである。
「そっか。うれしいな。」
彼も彼。当方も中々に人懐っこい笑顔で答えるものである。目の端がゆっくりと垂れていく様子には、アルトリアの言葉にじわじわと満足を感じている様子が隠せていない。よく見れば口の端が上がり、照れて窄まり、下唇の上に上唇が乗っている。嬉しそうにもごついている。唇読するならば、導かれるのは「気持ちいいって言ってもらえた、嬉しい!」といった所だろうか。
「背中…傷とか、ありますか?」
手持ち無沙汰というより、心からの心配事だった。自身の背中を見て不快に思われるのは、心に手酷く迫るものがある。
「ないよ。うん、綺麗な背中だね。」
アルトリアの心配を知ってか知らずか、アマロの返答は彼女の不安を払拭できたようだった。だが、綺麗と言われれば言われるほどに心が躍る反面で、彼女の短所とも言うべき、真面目なのか不器用なのか、兎に角も要らぬところまで均衡を取ろうとする性質が顔を出す。
「そう、ですか…照れ臭いですね…でも、腕とか、お腹とか…足とかには、傷が、あって…。」
照れ臭そうに、そう言いつつ、今度は足やら腕やらに痕する切り傷や抉り傷を示して見せる。大抵ならば、そんなことないよ、綺麗だよ、と返答するのだが、アマロの言葉そのままを受け取る素直さを甘く見てはいけない。
「まだ、痛いの?」
自らの体のあちこちに遺された傷を見せるアルトリアの振る舞いは、自慢するつもりでも誇るでもなく、私は貴方が考えているような美しい何者でもない、相応しくない、と自分から打ち消そうとするような、気持ちが舞い上がる自分に言い聞かせるように見えてしまう。確かにそうでもあるのだが、アマロが返した言葉には慰めも、煩わしさも含まれておらず、純粋な疑問と労りだった。
「たまに…痛いものもあります。でも、もう痛くないのもあるんですよ。」
ここにきてアルトリアは思い出したのだ。
アマロが血を流していることも、怪我らしき怪我をしているところを見たことがないことも。肉体的苦痛という比較が無い彼にとって、精神的苦痛はどれだけのものなのだろう。比較できない、宙にぶら下がったままの片切れの苦痛とは…肉体的苦痛のない様は都合がいいのかもしれないが、精神的苦痛のみの世界を生きている彼のことを、アルトリアは初めて真正面から見つめたのかもしれない。
答えに窮した彼女は、ただありのまま答えるしかなかった。顔を伏せたアルトリアは耳だけを探るように動かした。だが、アマロは気分を害したそぶりもなく、感心しているようだった。安堵のため息も聞こえた。
「痛いって、どれくらい辛いことなのかな?」
青褪めた顔に少しずつ血が流れ込んでいくのにつれて、少しずつアルトリアは頭と口を慎重に動かしていく。彼の不都合の全てから逃げよう、都合のいいところだけ抱きとめよう、だなんて考えたことはない。けれど、意識しなければ、自分のとってどんな存在と、誰と向き合っていることを忘れてしまいそうで、今こうして話している相手のことを考えていないようで、そんな許せない自分から出来るだけ遠くに行けるように、彼女は必死に頭を働かせた。
「……痛いと、痛いほど……貴方が遥か遠くに感じられます…。とても、寒いんです。」
搾り出した答えは一番初めに浮かんできた答えだった。痛い、寒い、苦しい。死に繋がる全ての道に、そこまでの道のりに、いつの間にか彼の存在を探し求めるようになっていた。彼が隣にいない。彼が私のことを見ていない。彼のことが私から見えない。恐怖は蘇生のための気付け薬にさえなり得た。傷を負うたびに思うことは、結局のところ彼のことだった。
嘘偽りのない言葉だった。器用で気の利いた答えではなかったかも知れないが、通じる人にしか通じない類ではあったかもしれないが、答えを待っていた彼本人にとっては胸の奥に納まるに足る答えだったようだ。
「……そっか。私も、アルが遠くに行ってしまうのは、耐えられないよ。」
胸が押し潰される様な声が聴こえて、それから、さらさらとした毛房の感触が背中にこそばゆかった。彼は瞳を閉じると、祈るように首を垂れていた。顔がゆっくりと上がるにつれて、彼の鼻息が背の稜線を上へ上へと伝っていく。彼女のしなやかな背筋に沿う浅い窪みに、彼の鼻先が当たって、僅かに埋まる。むずむずといじらしかった。熱い鼻息が静かに、更に登っていく。彼の頬が衣越しでない彼女の右肩に寄り添う。肩の熱は、更に彼女の側へと向かい、頼りない首筋。そして、吐息が耳に当たった。
肉体にも精神にも言えることかも知れなかったが、それでも両者にとって、確かなことだった。耐え難い苦痛を、直接に分かち合うことは出来ない。それは互いを思い合えばこそ、何より得難い救いになり得たかもしれないが、満足を与えたかもしれないが、それでも望むべきものではないのかもしれない。
どこまでも分かり合えない何かが、いつまでも欠落したままの何かが、その何かがあるからこそ探り合うものが両者にもあって、それもまた決してまたとない繋がりなのだと言えるのだろうから。
「私も、きっと大変なことになります。」
アルトリアは茶化すように笑った。しょんぼりとして答えたアマロの表情が堪らなく好きだと思ったからだ。探して見つかるものでもない。何の気なしの会話の端に落っこちる、そんな素敵なものだったのだ。堪えきれず、自分が発狂するだろうことを心底嬉しそうに語るのは如何なものか、とは思うが、堪えきれないこともまた然り。
「じゃぁ、お互いに痛くならないようにしなくちゃね。」
気に入った言葉を、手近、何度も使うのは幼児の特権ではない。気に入ったというより、口馴染みのない言葉や感覚を確かめるような気持ちで、しかし、あまりに正反対な微笑みで意気込む様子は何とも、物珍しい感じがした。
「貴方に誓って。」
アマロ構文なのかはさて置き、アマロの独特の感性にも怖気付かぬアルトリアは、己の執着心の向こう、恋心の先へと背伸びしたような、妖艶な笑みで、それでいて精悍な芯の感じられる声で、瞳を伏せつつ彼に宣誓した。向き直り、アマロの手を、その手に握る布切れごと包み込んで宣誓した。
「神様に、じゃなくていいの?」
アマロはアルトリアの閉じ切った瞼に倣うと、互いの額を合わせた。重ねられ、交わされた熱を欲しいままに、アマロはアルトリアの頬に沿う様に口を彼女の耳に寄せた。
誰にも聴こえない。彼女にしか聴かせない声だった。
「…内緒です。」
よく考えれば裸だった。
互いに恥ずべき箇所など無い、互いに知らぬ所などない二人であったが、それとこれとは別である。
アマロに酔いしれること深く、ひと回りして羞恥心を取り戻したアルトリアは頗る円滑にアマロへ背を向け直してから、耳元でも無いのに、か細い声で彼へと、そう答えたのであった。
人様にお見せするには単調で変わり映えのない会話だ。面白くも、何ともない。ウィットやら、何やらに富む訳でもない。
だが、今、そこにいる彼女と彼にとってはそれ以上を望むべくもなき得難い一時であることは、おそらくその場に居ることを許された何者かが居たのならば、二人の様子に狂いなく同意したことだろう。
彼女も彼も単純なのだ。言うは随分と失敬だが、事実だから仕方ない。それに、そう言うところも彼女にとっては魅力的に見えてしまう。
この時点で拭い終わった部分は、背中の全面。続いて、彼の腕が脇下を通って、探るような手つきで彼女の腹に布を伝わせ始めた。
「…うひぁ……失礼。」
「可愛い声、でたね。」
臍の周りを背中にも増して慎重に拭き始めた彼の手つきには、何の悪意も存在してはいないのだが、いかんせん受け止める側の緊張と感覚が過敏であったがために、お互いの間にしっとりとした空気が流れていた。
言い出しっぺであるアルトリア本人が、一番満足と後悔を心中で拮抗させていた。
心肺に重大な負荷をかけつつも最後まで遂行された洗礼もとい、アマロの手ずからによる行水は、両者の血色を満遍なく豊かにする迄続き、燭が頼りない短さになる頃にお仕舞いと相なった。
川の字には一本足りない。二人は並んでベッドの上に横たわる。
明日の朝にはアマロが居なくなるのではないか、いつもいつも、この時間が来るたびにアルトリアはそう考えてしまう。
浮かんでこないでくれ、そう思い、瞳を閉じる。不安になり、瞳を開ける。顔を真横に向ける。
寝台の上、眠る順序や寝る位置にこれといってこだわりなどなかった。けれど、それは誰かと一緒に寝るまでは気づかなかったことでしかなくて、自分の横で、自分には不釣り合いなほど美しくて、何もかもがどうでも良くなる程夢中になる存在が寝るのだと理解してからは、窓から月明かりが入ると、決まってアマロの顔が見れるように、より窓に近い方にアマロを寝かせるようにした。
良く晴れた夜、月はやや強気に彼の相貌を照らし出す。身じろぎをする彼の顔から、アルトリアは視線を外すことができなかった。
次の日の朝が早かろうが遅かろうが、月光が雲に遮られるまでの間、神秘的に暗闇の中に浮かび上がる頬の柔らかい造形や、闇に溶けるような黒髪の流れ、そして何よりも、その薄い胸が鷹揚に上下する様子をアルトリアは息を殺すように見入ってしまうのだった。
アルトリアは、その光景を見るたびに、自らに身も心も許す目の前の存在こそが自らの「神」であることを確信し、その「神」が、いついつ自らの元を去るやもしれぬことをも再認識して、そして我が身を抱き締めるのである。
目の前の男が自身の元を去ることほど、自分の存在を否定されることはない。
王でも、騎士でも、男でもない。
ただのアルトリアはそう、強烈に自覚していた。
とてつもない恐怖心が日増しに大きくなるに伴い、彼女の恋心もまた際限なく大きくなっていった。
ただ、彼女は暴走するには真面目すぎて。
ただ、彼女は絶望するには眩し過ぎた。
彼女はだからこそ、敬虔な信徒として彼と共に歩むことを彼自身に健気に祈り続け、壮絶な恋心を愚直なまでに己の二面性の中に力ずくで押し込めることで実現させようとする。
その結末が如何なるものか、それを語るには時期尚早であろう…。
「アマロ、わたしは、アナタが居なければ生きていたくない。初めて出逢ったその時から、わたしはアナタのことばかり考えている。マーリンを心の底から羨ましいと、そう思わない日は、悔しいけれど、一日だってありません。アナタとわたしだけで……いいえ、それは私に対してあまりに不誠実なのかも知れません。王としても、騎士としても。」
「アマロ、アナタは、何でも望みが叶うのだとすれば、一体何を望みますか?」
「アナタは…わたしと、最期まで一緒に居てくれますか?わたしは…アナタに何を捧げられるのだろう…。わたしはアナタがこうして居てくれるだけで、こんなにも全てがその通りだと思えてしまう。アナタとの時間は、沈黙すらも愛おしい。わたしは、私がアナタを傷つけてしまわないか、夜も眠れないほどに恐ろしい。」
「アナタは、私が抱えている以上に様々なものを背負いながら、わたしの隣に来てくれました。わたしは、アナタを知りたい。たとえアナタを見失ってしまったとしても、アナタに辿り着く、そのために。」
「主よ、私はあなたの僕となろう。民よ、私は彼らの庇護者となろう。騎士達よ、私は君たちの王となろう。そして、私の神よ。神よ、わたしはアナタの伴侶となろう。何度でも、アナタの隣に馳せ参じよう。たとえ其処が遠く未来であっても、わたしは必ずアナタを探し出し、アナタの剣となり、アナタの盾となろう。だからどうか…。」
「何者でもなかった、わたしを忘れないで。」
「皆んなが忘れてしまった、わたしを忘れないで。」
「アナタだけの、わたしを忘れないで。」
では、また。