B0.4 セミラミス 前
第三の目曰く、アッシリアは当に中天の時であった。
アッシリアは太陽の極大の恩恵に与り、何人の侵犯も受け付けなかった。偉大なる時の王の名前はシャルマネセル3世の子であるシャムシ・アダド5世であった。シャムシ・アダド5世の統治は長きに渡り、その統治こそが新アッシリアの王であり、大海の南端から大海の北端に至るまでを統べる王であり、即ち世界の王であるアッシリアの王にふさわしいものであった。
シャムシ・アダド5世の御世を完全なるものにしたのは王の溢れんばかりの威光であり、その威光の眩さに身を憚ることなくその隣に侍ることを許されたもう一人の大人物の存在があった。その者の名こそサンムラマートである。サンムラマートは元は町外れの寒村の娘であった。何の後ろ盾もない彼女は王の気まぐれにより募られた宮殿の下女の候補としての立場をつかみ、幸運にもその機会を我がものとした。
偉大なる王の御側に辿り着くまでには幾つかの障壁こそ存在したかもしれないが、事実として彼女を遮れたものはいなかった。宮廷の魑魅魍魎を相手取ると、彼女は目覚ましい才覚を発露したのである。王位を継いで間もないシャムシ・アダド5世は、過酷な宮廷闘争を勝ち上がるための知謀の嚢に活かすため、この下女を側妻として手招いた。
果たしてサンムラマートの采配たるや右に出るものはいなかった。謀反者を片端から片付け、神の恩賜の薄ら寒い各地の荒野を富の盛る大地へと生まれ変わらせた。偉大なるシャムシ・アダド5世はついに彼女を正妻として迎えた。
第三の目曰く、偉大なるシャムシ・アダド5世とサンムラマートの間には子供ができなかった。偉大なる王の懸想はサンムラマートにも向けられたが、正妻としての地位を盤固たるものとした彼女の心は次第に王を離れ、否、もとより王のものではなかった。王は訝しんだ。
王の不安は彼女の威光が宮中における第一を占めるが如き甚だしさに辿り着けばついに大河の堰を越え、もはや疑念は王の中で紛れもない確信となっていた。
王の疑念はしかし、図らずも手にした機会に途端に氷解することとなった。その機会こそは、古来冠たる神の寵愛の確証、黒曜の君との邂逅であった。
第三の目曰く、黒曜の君との邂逅は全くの納得を王に与え、絶大な信頼をサンムラマートが獲得するに足るものであった。王と王妃の懸想は一柱への忠良なる信仰へと昇華した。王は王妃に諮問し、王妃は王を輔弼した。両者の間に禍根は潰えた。隙間なく緻密な連鎖は断ち難く、それ故に柔軟かつ剛であった。
王と王妃の懸想が成就したことは、結果としてアッシリアに類の無い全盛期をもたらした。王の都は貴色で溢れ、飽食はあまりにありふれていた。王の御代のうちに生まれた者の中に旱苦を知るものは無く、洪災に親類を奪われたものもなかった。果ては老いも若きも、富める者も貧しい者も、その身に宿すべき重篤な病禍の種に懊悩することは許されなかった。
周辺国が飢饉に苦しめば地の果てまで続く飽食の車列を送りつけ、病魔に死に絶えんとする国が声を上げれば数万の大軍勢に護らせて黒曜の君をその暗黒地に派遣した。派遣された大地は見違えた。血膿と毒涙で身の隅々を穢された貧民も、痩せ衰えた煌びやかな衰亡の帷を身にまとうのみの瘦躯の貴種もが隔てなく、それまでの苦労は何であったのかと阿呆抜けた表情を晒す、筋骨まろぶ健康体へと瞬く間に変貌した。
諸侯、周辺国の王侯がこぞってシャムシ・アダド5世とサンムラマート、そして黒曜の君の足の甲へと唇を捧げた。宮殿の宝物殿が満杯になるのは、宝物殿を増築する素早さをも追い越した。譜代の家臣や王族の栄華はここに極まれりであった。
万富に飽くなきを許されるはずの王と王妃こそは、それらに陳腐ささえ感じていた。彼と彼女の関心ごとは、その歳を経るごとにますます黒曜の君と共有する日々の機微にあるらしかった。王と王妃は財宝にも飽食にも、品位と格を高めるために用いる以上の必要性を唾棄していた。王も王妃も黒曜の君の希望に忠実であることを何より優れたことであると考えていた。そしてそれは彼の君の平穏を守ることにあった。
宮殿の角に、人工の小川が流れる閑静な庭に面して建立された、こぢんまりとした庵の中で奏でられる些細な凹凸を撫でることこそは、華やかで、果てしなく、怖気の走らぬ日はない宮殿の頂から、国の隆亡を差配しなければならない王と王妃の凶心を慰めるために最上のものとなった。
王と王妃の間に子が生まれぬままに、黒曜の君と水潤に列する神の血が流れる運命の御子との出会いが果たされたのである。
第三の目曰く、ある時シャムシ・アダド5世は言った。「黒曜の君よ、我は貴方に請わなければならない。これは国に右するもの無き大事である。黒曜の君よ、我と王妃サンムラマートの間には子がいない。我らが御代は有難くも貴方の恩寵甚だしく、盤石にして過去に右するもの無きほどである。しかし、次の御代にも同様であると考えられるほど、我も安楽ではおられぬのだ。何とか、次代の王権の継承者を紡がねばならぬ。」
王の言説は真当であり、冷厳であった。王の肉体は衰えていた。鋼の様な肉体は衰えていた。御代を紡ぐこと数十年間、その須くは困難を砕き目覚ましい成果を達成することで国を富ませることに注ぎ込まれた。そして、今今に王の肉体は限界を迎えた。その心身は莫大な栄光に比例するかの様に、万苦を伴う病魔の最中にあり、憔悴した表情は厳格にして青白く、覇気はその灰色の御髪と同様に色褪せてやるせなかった。
王とは対照的に、王妃の様子は老いこそすれども未だ瑞々しく、覇気は尚も逞しかった。王の側、王のよろける体を支えている王妃の瞳は黒曜の君に向いており、しかし意識は王の心労にも向けられている様であった。時折王に向けられる慮るような瞳は温い。互いに互いを牽制し合い、一人の男、黒曜の君を姦しく取り合っていた彼と彼女の間には、夫婦の情にはない、悪友や戦友の間に芽生えるようなこざっぱりとして心地の良い信頼が見てとれた。
彼と彼女が、ある意味では断ちがたい友誼に結ばれて一端の家族へとその立ち姿を昇華させていることに黒曜の君は深い幸せを抱いていた。だが、その幸福に浸る間も無く、王妃は苦渋と遺憾を胸に秘めつつ、真摯な表情で黒曜の君へと決断を迫らなければならなかった。
王妃のサンムラマートは言った。「黒曜の君、貴方様の寵愛を受け、ゆくゆくは大人になる幼児がおりましょう。どうか、あの子を私と夫の養子として迎え入れることを許して欲しいのです。もはや、夫は、王は子を成せません。そして…王が苦しまれている様に、病は今や私の足元にも届こうとしております、これは老い故のものです。避け難く、時間は残り少ないのです。どうか、貴方様の寵愛を受けし彼女、セミラミスを、次代の王となるべく私に預けて下さいませんか?決して、貴方から奪おうなどと恐れ多いことを犯す試みは露もございません。ただ、栄華を受け継ぐ器は、貴方に愛されし貴児を置いて他にはいないのです。」
晩年になって彼女と王の間には確かな信頼から緩やかな愛情が育まれていた。それは、或いは両者が獲得者たり得なかったが故に成せるものであったが、王の世継ぎを産むことが吝かではない程度にはサンムラマートと王の関係は深いものであった。
しかし、後悔は先に立たず。王は病魔に心身を食い尽くされ、今や命を少しでも長く繋ぎ止めることが限界の状態であった。
王もまた、息も絶え絶えであるのをおして言った。「黒曜の君よ、どうか貴方の力を今一度貸していただきたい。貴方の愛するものを奪わせはしないとも。ただ、どうか貴方の愛するものにこの帝国を担う責を負わせることを許してほしい。我はこの国が王なき故に戦乱に飲まれる様を見ることだけは耐えられぬのだ。死ぬに死にきれぬよ。」
王と王妃の要請は、果たして黒曜の君に受け入れられた。
黒曜の君は言った。「王の言葉も、王妃の言葉も私が断るべき理はございません。構いませんとも。私はただ、あの子と共に歩むのみなのですから。」
斯くして、次代の王権を継ぐものとしての道がセミラミスに用立てられることとなったのである。
第三の目曰く、セミラミスは宮廷の奥でサンムラマートと黒曜の君の手ずから、以前にもまして丁寧に育てられた。幼い彼女のお髪は淡く青の透ける漆黒であり、何処となく鋭利な印象を抱かせた。
幼いセミラミスは、その名づけ親であるサンムラマートのことを認識していた様であった。だが、この認識は恭しさにも親しみにも欠くものであった。
まだ一人で立つことも叶わぬ幼児セミラミスは、抱かれるがままの身分であっても、断じてまつろわなかった。特別にして、サンムラマートを目の敵にしており、口元に指を寄せようものならば、歯のない口で必死に噛み付くほどであった。
対照的に、セミラミスは黒曜の君に並々ならぬ執着を見せ、それは彼が宮殿に生後間もないセミラミスを迎え入れた時から変わらないことであった。その執着の度合いたるや、名付け親であるサンムラマートへの憤怒とも憎悪ともわからぬ反抗、その空き間を代わりに満たす様な勢いであった。
初めこそ親心と義務感でセミラミスに甲斐甲斐しさを見せていたサンムラマートも、抱き上げるたびに泣き喚かれ、噛みつかれ、性根の底から外方を向かれる様では流石に堪えたようであった。
次第に彼女を育てる役割は、信頼のおける若い下女と黒曜の君だけが担う様になった。
宮中でのセミラミスの評判はお世辞にも悦ばしいものではなかった。瞳に知性を宿した不気味な赤子だと、そう囁かれており、黒曜の君に語りかけられると首を振るなり頷くなりと反応するものだから、否定も難しく、まずまずの事実として、神の血の恩賜であろうと畏敬される原因となった。
食事も、用便の始末も黒曜の君の仕事であった。生まれた時から黒々としたお髪に恵まれた彼女の将来の顔には、間違いなく一世一代の恵が期待できそうであった。未来の淑女の隅々を知る、とは聞こえこそ不穏で淫靡な響きだったが、その実は不器用に赤子の世話をする男の姿しかなかった。
麗しの姫として、ゆくゆくは高潔なる女帝としての道が整えられていた彼女であったが、不器用な手つきで黒曜の君に世話を焼かれる際には、何とも言えない表情を浮かべていた。その様子たるや、赤子なりにと言えば不思議だが、なんとも羞恥に赤く膨れて見えたものである。
屈辱ではなく、怒りではなく、穏やかに解けた羞恥に落ち着いた表情こそが、いわばセミラミスが赤子の時分より高度な知性を有した一人の、それも独立した女性であったことを象徴するものである証だったかもしれない。側から見れば不気味であれ、不思議であることは別として。
第三の目曰く、セミラミスを慈しむこと十年の月日が経っていた。光陰矢の如し、とは正しく黒曜の君こそが使うに相応しい言葉であろう。
十歳にしてセミラミスの容姿は完成していた。流れる様な漆黒の長髪は星が己を恥じた夜空の様に澄み切った美しさがあり、四肢には淀みがなくしなやかであった。白くたっぷりとした衣装から時折覗かれる、天下に希な微乳白の肌は、遠目からも咽せるような艶を畏れ知らずに見惚れる者に与えた。そして、彼女の容姿を完成したものであると衆人に言わしめたものこそ、その憂いを帯びた貌であった。
血脈に交わるところが無いとは思えぬほど、否、彼女こそが黒曜の君の実の愛娘であると言われても否定できぬほどに、彼女の顔は美しかった。欠けるところの無い滑らかな器のような美しさがあった。高く通った鼻、弾力に富み瑞々しく映える唇、憂と憐憫を湛えた瞳、神聖なる血脈を誇る長く形の良い耳、そして其れら全てを飼い慣らし、己が従僕に落とし込んで魅せる傲慢な表情。己の肉体を、己こそが恣にして、不敵に笑んでみせる彼女には人生遍歴十年の若輩には醸すことなど致し難い、目が醒めるような色気を纏っているようであった。
敢えて未熟な部分を挙げるとすれば、未だ肉も迫も足りていない肉体くらいのものであった。完成されたセミラミスは、十年の内を実に常識はずれに育ってきた。
第三の目曰く、一歳に差し掛かった時、彼女は初めて言葉を話した。もっぱらありのままで良しとする、口悪く言えば頓着と知識に乏しい黒曜の君からすれば、言葉を話し始めるのが遅いか早いかなど問題外であった。愛娘が初めて発した言葉は「あまろ」であった。元来赤子の食は乳であるが、サンムラマートであれ、誰であれ女の乳には躊躇なく噛み付くセミラミスの性が祟り、彼女に乳を飲ませられる我慢強いものはいなかった。
人見知りが強く、慣れを知らぬことも相合わさり、彼女が口にするものは専ら黒曜の君ことアマロを通して与えられるものに限られた。
言葉も話せぬうちから我儘な彼女に、その意志の強さに辟易とするものも多かったが、彼らの分も殊更アマロは彼女を可愛がった。四六時中抱いていないと泣き出す始末であったが、眠る必要のない彼だからこそ苦ではなく、眠る彼女の頬を突くなり、撫でるなり、寝惚けの涎を拭うなりして退屈に喘ぐ必要などない充実した日々を送っていたようである。
食事時にはセミラミスが必ずアマロの指を握って催促した。言葉こそ交わさないが、互いに意思の疎通を可能にしていたことは、アマロの不思議な魔性も関係しているのやも知れなかった。
さてさて、ある昼間にセミラミスの口へと、温めた獣の乳を匙で運んでいると、突然に彼女は声をあげ始めた。声には脈絡も何もなかったが、次第にその音に意味ある形状が生まれ、遂には「あまろ」へと辿り着いたのであるらしい。
アマロは叫んだ。「喋った!セミラミスが喋った!!」それからすかさず彼女を抱き上げた。
セミラミスの本生第一声の衝撃はアマロが匙を放り出して頬擦りに擦ることで報われた。満足げなセミラミスの純真な笑顔は珍重しても罰は当たらないものであった。
第三の目曰く、セミラミスの成長は一歳直前に第一声を上げてから連鎖的に進行して止まるところを知らなかった。
2歳になるとより多くの言葉を操った。
3歳になるとアマロの後を追いかけて何処へでもついて行った。
5歳になると高潔さと高慢の滲む口調に落ち着いた。この頃、宮殿にある書物に片端から目を通し始めた。
7歳になると未来の女王としての品格を得るべく、サンムラマートとの一時の和解を演じて教示を乞うた。この頃、最も関心を持って取り組んだのは薬効のある本草を中心とした医学であった。
そして、10歳にして彼女は正式に王位継承権第一位の立場を獲得し、その名分に紛わぬ貴威を放つまでに成った。
だが、目覚ましい彼女の壮健な成長の陰で、王の命の灯火は潰えんとしていた。
第三の目曰く、セミラミスへの継承権授与を宣言してから一ヶ月あまり、偉大なるシャムシ・アダド5世はその生涯に幕を閉じた。
大病に抗うことを許されぬまま、王は息を引き取った。王の死は多方に影響を発し、その後を追うように王妃も病み枯るる定めを負い、複数の王族、重臣がその正気を喪失した。
アッシリアを完全なるものへと成し得ていた双璧は崩れ去った。絶対的中枢、その証明たる玉座は空虚に輝きを放つばかりとなった。
王位の継承の試練は正に前途多難の動乱を迎えいれた。
王権の揺るぎ。周辺諸国は、超大国アッシリアの柱が腐り落ちるのを虎視眈々と窺い、その崩壊を促さんと密使をアッシリアの国内各地の地方領主の元へと派遣、同時に宮廷では次なる覇者の獲得闘争が激化していた。
何の陣営にも属することを潔しとしなかった彼女は、10歳にして宮廷闘争の荒波へと、その身を投じたのである。
奇しくもその苛烈な選択は、彼女が理屈など無しに嫌悪していた今や衰死の淵に臥す王妃サンムラマートの歩んだ大道の轍をなぞる様を幻視させた。
第三の目曰く、セミラミスは狡猾であった。だが、決して高潔さを忘れたことはなかった。
彼女は王権の継承を受諾した時から、先王と王妃の養子となったその瞬間から、嬉々として己が慕う黒曜の君のことを元のように「父」とは呼ばなくなった。
彼女が憎むものは、父であり、母であった。
セミラミスの心中には拭えぬ憎悪があった。
己を産み落として、その「どちら」の責をもとらずに自らをただ捨て果てた両親への憎悪である。
彼女の霊厳なる瞳は常に非凡な理知を灯して、彼女の道を照らしていた。両親から与えられたものは忌々しい血と、唯一の機会である。
彼女はその唯一の機会に救われたからこそ、今もこうして生きていた。そして、その奇跡には曇りが許されるべきではないと、完全なものでなければならないと彼女は考えていた。
セミラミスは誰よりも賢く、誰よりも気高く、そして誰よりも効果的に目の前の障害を排除する術を理解していた。そして、その執行を躊躇することはなかった。
第三の目曰く、古の文脈を忠実に辿れば、女帝セミラミスは人類最古の毒殺者であった。
その胆力はアッシリアの並み居る武辺士が感服するに足り、その苛烈な性質には汚穢の入り込む隙間などなかった。セミラミスは忠実に、冷酷なまでに淡々と自らが手に入れた王権に仇なさんとする者を抹殺していった。
セミラミスは疑心暗鬼と密告を奨励し、軍官と文官の対立を促し、その仲裁者として神官を矢面に立たせ、疲弊した中枢の三大勢力を自らに従順な王族や貴族階級に鎮圧させた。地方反乱の起きる直前に宮廷を完全に掌握した彼女は、最初に下す勅命として地方領主に各々の名義で神へと、正確には黒曜の君への忠誠証文の提出によってこれまでの不敬の罪状を帳消しにすることを、王権守護の大軍勢の武力を背景に迫り、反乱は起きる間も無く潰えた。
証文の提出を怠った者は一年とたたぬうちに都の郊外、各方への要衝に通ずる大路の路傍でその骸を晒すことになった。
圧倒的強権によって、彼女はアッシリアの主導権を僅か三年の内に掌握した。その間に千数百の粛清が執行され、彼女の周囲には血印と王印が並んだ粘土板の忠誠証文が次々に積み上げられた。
第三の目曰く、セミラミスは13歳の生誕日、13年前にアマロに抱かれて宮廷の角、閑静な庵へと迎え入れられたその日に、自らアッシリア史上唯一の「女帝」として王権を更なる高みへと押し上げることを宣言した。
彼女は先王シャムシ・アダド5世をも超越することを暗に国内外へと明言したのであった。
そして、彼女の宣言は決して僭称とは受け取られなかった。女帝セミラミスは正に、唯一の女帝に相応しい辣腕を振るった。その偉大さは先王シャムシ・アダド5世も遠く及ばず、その苛烈な即断振りは王妃サンムラマートを遥かに凌いだ。
セミラミスは手始めに国内の有り余る富を集約して都の規模、灌漑のための水路や流通のための交易路を整備した。文化と景観をより高次のものとするために惜しみなく富を市井に振る舞い労働力をかき集めた。都市に振りまかれた巨富は地方に燻る人寄せの呼水となり、都市は地方領主権を制限しつつ、都の国家中枢機能、人口規模共に世界へと誇るに余あるほど拡充することに成功していた。
文化の趨勢をアッシリアが握るべく、豊富な水を引き込み、これを天高くに押し上げる巨大工事を挙行した。天高くに届かんとする空中庭園は、砂色の都に眩い鮮緑の海を披露した。
国防に関して言えば、効果的に、陰湿に、冷徹にを第一にした。即ち、何よりもまず最低限の犠牲で最大規模の成果を挙げることであった。
その為に彼女は率先して医薬に長じるべく学んだ。彼女の労力はそのまま子飼いの暗部の強化につながり、同時に副産的ではあるが医療における芳しい教訓を与えた。
指導部を次々に抹殺されることは人材の摩耗という点で極めて大きな影響力を持った。帝国は大軍での圧殺も得意ではあったが、それは彼女の望むところではなかった。彼女は偉大な為政者であり、一代限りの絶対的な帝国の管理者であった。
彼女の苛烈な施政は決して万人に支持される者ではなかったが、彼女の飛矢の如き直情的で歪みない舵取りにより、周辺諸国はまたしてもかの帝国に膝を屈する羽目になったのである。
第三の目曰く、女帝セミラミスの治世が10年を数えた時、彼女は黒曜の君を夫に迎える旨を発表した。
その日、彼女は重臣達を神殿に呼び集めた。
集まった群臣の中から大臣が進み出ると女帝に問うた。「偉大なる女帝陛下、私達はどうして集められたのでしょうか。」
女帝セミラミスは胸を張り、息を吸い込んだ。両手を大きく広げると、不敵に笑んで彼女は叫んだ。「遂に、遂に、時は来たりて。我はこれより全てを手に入れる。この世の全てを、我の全てを、この暁に手に入れるのだ。」
群臣達は女帝の身から立ち昇らんとする覇王の気迫に押しやられ、堂々と仁王立つ女帝に恥いるように、広大な神殿の中で憚るように肩を寄せ合い平伏した。
セミラミスは男の名を呼んだ。「アマロよ。我のアマロよ。さあ、待ちに待った今が来たのだ。汝には、あの日の約定を果たしてもらおう。」
セミラミスに呼ばれて、黒曜の君は黒い布に身を包んで神殿の奥から姿を表した。彼はその顔を覆うものを全て取り去った姿でセミラミスの前に身を晒した。
多忙を極めるセミラミスとの再会は、幾年ぶりのように感じられた。いや、毎日毎日、1日と欠くことなく顔を合わせていようとも、彼女が自分自身のことだけを見つめている瞬間が訪れたのは、感慨に浸る程度には久方ぶりのことであった。
彼女の王権が雲の彼方に盤石なものとなった今、全ての努力に報うべく、彼女は彼女の渇望の儘を許すことにしたのだ。
群臣達は気がつけば顔を上げ、食い入るようにアマロの美貌に魅入っていた。口が開かれて呆けた顔のもの達が大勢であった。
群臣の醜態も、この時ばかりはセミラミスには関係のないことだった。彼女は自らの隣へとゆったりとした足取りで身を寄せたアマロの左手を取ると、今一度叫んだ。
セミラミスは言った。「アマロよ、我のアマロよ。汝には、今こそあの日の約定を果たしてもらおう。我が望むものは唯一つ、汝と結ばれること唯一つなのだ。さぁ、我が捧げる石輪を、今こそ受け止めてくれ。我を受け入れてくれ。」
セミラミスは世にも珍しい漆黒の澄んだ色の石から指を通せる程の小ぶりな輪型の装飾品を削り出させた。それは指輪であった。そして、彼女の煌めかん瞳、その無邪気さに当てられたアマロは微笑みを漏らすと彼女に応えて言った。「セミラミス、私の愛しいセミラミス。君との約定を今こそ果たそう。君がいついつ、何を望むのか気になっていたよ。…そうか、そうか、君は全く可愛い子のままだね。」
慈しむばかりの表情はセミラミスに気恥ずかしさを覚えさせて。何となく、彼の瞳の奥に映る自分の姿が、今よりもずっと幼く、肉付きも頼りなく、増してやあどけなさばかりが鼻につく頃のように思えたのだ。頬を赤らめ外方を向き、つんとしたふくれ面を、群臣の前だというのに披露した彼女の様子は、残念ながらアマロの表情に重ねて慈愛を呼び込んでしまった。
観念した彼女は素直にアマロに問いかけて言った。「そんなに我は幼く見えるだろうか?可愛らしい女子はいやか?我は汝の娘のままなのだろうか?汝の伴侶となるには、我はどうすれば良いのだ、我は解らぬ。」
豪気な姿が純真な少女に変わったかと思えば、成熟した女の顔のまま、捨てられた子犬のような瞳でアマロの手をとって不安げに見つめ始めた。焦りを含んだセミラミスの表情は悪戯心を弄ばれるようだが、何分嘘も建前も不得意なアマロは、彼女の手を包むように握り返すと、福々しく微笑んで応えた。
「嬉しいばかりで、文句などないさ。セミラミス、君は変わらないね。変わっていても良いけれど、私の中にいる君と、今の君の面影があまりにも親密に重なってしまって、何とも嬉しかったんだ。それに…私ほど君のことばかり見てきた男もいないよ。さあ、君の望みを教えて?」
第三の目曰く、セミラミスはアマロと瞳を交わらせると清廉として言葉を紡いだ。「アマロよ、どうか我と共に歩んでほしい。我の歩みが止まるその時まで、我の終の伴侶となってくれ。我は、あの日、汝に救い上げられたその時から、今この瞬間の為に命を繋いできた。もしも汝が…いや、貴方が隣に居てくれるなら、我と並び歩んでくれるなら、我の全ては貴方のものだ。我の持ちうる才気から、我の持ちうる財威の塵滓に至るまで…我は貴方に全てを捧げよう。我は貴方と全てを共にしよう。それが、我の望みだから。」
私が望むから。私が望んだから。私を望んでくれたから。
誰の声だろう?
セミラミスの内に潜む、「私」は彼女の言葉をなぞる様に、今一度、太古の誓いを諳んじる様に詠じた。
誰の声だろう。セミラミスには分からなかった。
「だからアマロ、我の伴侶となってくれ。」
セミラミスの言葉は沈黙の中に沈んでいく。大きくない声音はしかしよく通った。世界の静寂が背を押したように、広閑とした神殿の高い天井に反響した。
二度、三度と響いた。誰も口を開かない。平伏するか、息もできずに三柱の逢瀬を見守った。何か全てを左右する瞬間を目にしているようであった。
セミラミスの瞳が静かに閉じられた。彼女の指先、唇が震える。反響が勢いを失って墜えた。そして、気負いなく伸びた手がセミラミスの頭を両脇から包んだ。瞳はまだ開かない。耳朶に体温を感じる。掌の熱だけではない、不思議と鼓動の拍まで感じるようだった。激しく打つのは自らの胸奥から響くものか或いは。
判別もつかぬままに、唇に柔らかい感触を覚えた。震えは止まっていた。
瞳がゆっくりと開かれた。今にも塩辛い堰が決壊しそうな、そんな安堵の表情を浮かべたセミラミスは声もなく、自らと同じか僅かに小柄なアマロの体を強く抱きしめた。
彼の左手の薬指に黒石から削り出された輪を通すと、彼女はアマロを横抱きにした。群臣達を押し退けて、二人は神殿を後にした。
第三の目曰く、セミラミスとアマロが結ばれた晩、稲妻が宮殿に落ちた。
そして王妃サンムラマートが身罷り、セミラミスは自らの胎に赤子を孕ったことを確信した。
セミラミスと抱き合って眠るアマロの胸元で黒い山羊角が揺れた気がした。
セミラミスの幼さ、痛々しさ、怜悧さ…全て含めて魅力なんだと思います。何処まで香り付できたかわかりませんが、何か彼女の呼吸とか匂いが滲んでくれたら嬉しいです。