運命のヒモ男《ヒモ・ファタール》   作:ヤン・デ・レェ

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感想ダンケなっす。


B0.5セミラミス 中編

B0.5 セミラミス 中

 

 

 

 

 

セミラミスは決して忘れない。己を捨てた女の顔を、己を捨てた男の顔を。

 

会った覚えがなくとも、名も声も覚えていなくとも、己に流れる血が彼女に忘れることを許さなかった。その全てを。

 

だから彼女は赤子にして理知を芯に立てて、揺るぎない誓いを結んだ。

 

「(我は我の望むが儘に、我は我が欲するが儘に生きて、そして死ぬ。如何なる柵も我を蝕むことは許さぬ。如何なる制約も、如何なる障害も我を調伏させることは許さぬ。我は、我が望んだから生きる。我が欲した者の為だけに生きる。我は何人にもまつろわぬ。我は何者にも奪われはしない。)」

 

果たして、彼女はその誓いの通りに生きた。

 

 

 

あの日、我は黒曜の君に拾われた。

 

命潰えるまで、ただ憎悪を燃やして忌み殺さんとする我の矮小な身体を抱き上げたアマロは我にとって唯一、紛れもなく信仰するに足る、慕うに足る存在であった。

 

王宮で暮らすことになった我を迎え入れたのは、王宮の主人である王と王妃であった。王妃の名前を与えられ、我はセミラミスとなった。

 

我は母親振る王妃も、父親ぶるかと思えばアマロに媚びる先王のことも嫌悪していた故に不服であったが、満足げに我の名を呼ぶアマロに免じてセミラミスの名を甘受した。

 

我が半生は王宮の中という狭い世界が全てであった。暮らすこと10年間、この10年の時間こそ我の青春であった。早熟した感性は小手先の贅沢も過分な飽食にも食指が動かなかった。

 

ただ我の胸中を、年を経るごとに灼き焦がしたのは言うまでもなくアマロへの恋慕であった。それは乳を吸うばかりの赤子の時分に誓った、アマロと我が結んだ約定へと随う道程に他ならなかった。

 

アマロは我にとって大恩ある養育者であり、気の置けない友人であり、そしてかけがえのない想い人である。それは未来永劫変わり得ないことを、出逢いと共に、まるで心芯に刻み込まれたように感じたのだ。

 

 

 

我が王と王妃の養子となって間も無く、未だ言葉拙い幼児の頃、大人びるにつれて忘却されてしまうことが殊の外多いこの時代のこそが、我にとっては最も平穏に満ちた時代であった。

 

人の手で形作られた小川の流れる庭、その庭に面した庵が我の安息の地であった。赤児が待ち人を恃む訳もなく、庵の主であるアマロに四六時中あやされて過ごす日々だった。

 

見る者、聞く者次第で退屈に殺されそうだと感じるものも居るだろう。だが、アマロの腹の上で矮小な四肢を伸び伸びと、草原に横臥して昼寝に洒落込むのはえも言われえぬ安心感があった。

 

アマロは眠らなくとも良いらしいが、それでも嗜む程度に昼寝を大層好む。さくさくと柔らかい草原、彼が眠ると不思議と虫も寄り付かず、羽音すらも自粛して彼の安眠を守っている様に我には映った。赤児より先に、さっさと鼻提灯を浮かべるアマロの表情ほど、堪らなく母性をくすぐるものがあろうか。我はこの時から、何となく彼の根っこが温厚で怠惰な性であることを理解していた。

 

褒められるものではなくとも、それが絵になるのだから何とも罪である。幼い表情には憎む気も起きない。赤児にまじまじと観察されて寝苦しさを感じたのか、寝返りを打ったこともあったが、そういう時に限ってこの男は我の体を両手で優しく包んで寝返るのだ。アマロの胸に苦しくない程度に密着したお陰で、直にじんわりとした温もりと安眠に最適な薫りに包まれて、抗う間も無く熟睡したのは言うも更なりである。

 

川遊びには頼りないものの、分を弁えて奏でられる小川のせせらぎには、耳を傾けるのに相応しい控えめな音調であった。砂色の王の都の中でも、最も緑豊かな場所であった。何処にでもある青い草本に腰掛けて、ぼけらと時に身を任せることはしばしばであった。身動きの取れぬ赤児の分際故、我はただじっと黄昏の中で静かに瞑目するアマロの顔を見守っていた。

 

貴方は何を観ているのか。貴方の視界に我は居るのか。

 

我の表情は分かり易いらしかった。我の内側に不安が浮かぶと、アマロは黄昏れを愛でるのを放り遣ると、決まって我の頬と己の頬を合わせて見せた。抱き上げられて、手も脚も覚束なくて遂に下に目線が向かった。目敏く視線を追うと、アマロは直ぐに自分の腕に我の臀部を乗せて、脚を胸や腹に踏み掛けさせた。踏ん張りの効く様になった我は頭を見透かされている様で思わず彼を見上げたが、間抜け顔を晒してしまったようで癪に触り、何とか意地悪してやろうとぐすぐすと泣いて見せた。

 

頬を合わせたままぐずり出した我と目を合わせたアマロは苦笑いをした。「何を笑うことがあるのか!」と鼻息を吹いた我だったが、涙で濡れて頬を拭わぬ内に、アマロはごろりと草原に寝転んだ。我は首を傾げたが、寝転んだアマロの上で這い這いの体勢に導かれ、そこで初めて意図を理解した。

 

我は濡れた顔のまま、這い這いでアマロの体の上を伝い、彼奴の顔に我の方から頬を擦り付けてやった。拭うくらいに目一杯。涙やらがついてさぞかし不快であろう。だというのに、何とも満足げに笑いおって。物好きな男よな。

 

赤児相手にこれほど色を覚えさせるとは…全くなんて男だ。赤児に大人の男への恋慕を目覚めさせるとは…全くなんて男だ。

 

けしからん。甚だけしからん奴よ。

 

全くアマロには敵わない。この男は全くもって悪い男だ。今世、我以外では持て余して仕方あるまい。仕様がない故に、アマロは我が貰おうではないか。

 

 

 

10歳を数える頃には来る日も来る日も、王たる者の道を、術を、心構えを教え込まれた。王の顔に死相がありありと浮かんで以降は、我の命には寸鉄すらも脅威に映った。死にたくない、死んでたまるか。王位の簒奪そのものに恐れていたわけではない。王や王妃への恩義も、認めたくはなかったが親としてではなく、保護者としては少なからず感慨を抱く程度に忘れてはいなかった。

 

だが、我が恐れたのはアマロとの約定を果たすこともなく、道半ばのうちに彼を一人残して消え去ることだった。それがどれだけ恐ろしかったか…とても、上等な説明方法が見つからなかった。

 

我にとって、彼を残して今死ぬということは単なる一人の矮小な存在の死として収拾されるものではなかったのだ。少なくとも、我にとって、我の死は何かの消失、消滅を意味するようだった。取り返しのつかない、奈落が口を開けてしまうような、もはや己一人の進退には拘泥のしようもなく、超越的な気配が、漠然とした不安や恐怖という感覚をとって我に訴えていたのだ。

 

この直感的な天啓とも呼ぶべき現象は、ことあるごとに我に囁きかけた。

 

「あの大臣が、私の愛しいアマロを害そうとしている。」

 

「あの女が、私の愛しいアマロを誑かそうとしている。」

 

「あの将軍が、私の愛しいアマロから貴女を奪おうとしている。」

 

予想でも、予感でもなかった。よもや明確な声さえも伴って届けられたそれは、厳然とした事実、確定して起こる事象を報せるものであった。半信半疑を拭えぬままに執行すれば、悉くの嫌疑が事実であった。咲く前に芽を摘んでいく上で、これほど有能な仕掛けはありそうもなかった。

 

その声音は多分にアマロへの慈愛を含んでいた一方、諸衆による裏切りや奪うという行為への並々ならぬ憎しみが発露していた。それは我が慄かずにはいられぬほどの熱を放っていた。体の奥、いや、全身中に熱が迸る感覚は未だに刻み込まれている。それは我の血潮に由来するものであるとは、薄々ながらも気付かずにはおられなんだ。

 

それは決して我が望んで得られたものではなかったが、我が望むままに、アマロとの愛悦を完全なるものとする上では有益に働いている。故に、この直感に従うことへの忌避はなかった。例え、その果てに、声の主に、血の源泉に惹き寄せられたとしても、例え同じ結末をこの身に受け止めるとしても、我は窮して尚進む覚悟を固めている。

 

我にとって、この世の全てとはアマロである。この世の全てを支えとする果報者である上に、どうして覚悟を決められないで居られようか。我は我の望むがままに振る舞い、生きて死ぬ。その中に、アマロの存在は不可分にして一心同体である。我が望むのは、アマロが望むことに同じである。

 

女帝として先王を超える。大成の応報として、我は遂に二十三年前の生誕日に結んだ約定を解いた。

 

夢の成就は我に達成の余韻から来る無気力ではなく、気力健康が有り余る恩寵を与えた。恐れるものはなくなった。温め続け、育み続けた心体の全てを我は彼に馳走した。我とアマロは、互いにその温もりを以前にも増して、親密に、深く、濃重に捧げあった。

 

もはや何人にも奪われはしない。アマロとの想いを遂げた翌朝、我とアマロは互いに1日の休養をとった。彼は無事だったが我が無事ではなかったのだ。寝台が跡形もなく土台から砕けていたが、我には傷ひとつついていないのだからその真髄を見たように思った。

 

一時、水入らずの平穏を手に入れることができた我は、アマロの秘密を寝物語に聴いた。そして納得したことがある。手に入れて尚、手に入れる前とは比べ物にならない渇きが替の効かない充足と共に齎されてきたのだ。それは、我が獲得者として世にも陳腐な運命とやらに見初められたからこそ味わえるものであるらしかった。我はそこにえも言われぬ優越感と、そして同時に己より以前に彼を知り得た者たちへの強烈な羨望を覚えた。嫉妬ではないことが、やはりというか己の想いが正真正銘のものであるらしい証左のように感じて気恥ずかしくも、嬉しかった。

 

強靭な執着はいつか失われるのではないかという不安から産まれるものだ。しかし、何故か確信がある。我の頭を己の腕枕にのせた鼻先で薫る美貌の君は、何が起きようとも我の前から居なくなりはしないし、我から奪うどころか、我に与えるばかりであることを。気が遠くなるほどに、目の前の男の目には我のことしか見えていないようだった。背筋を温い舌に舐め上げられた時の様な、そんな生々しい悦が腹の奥に沁みた。

 

「我は一途なのだぞ…だというのに、貴方は浮気者だ。」

 

演技臭さは拭えなかったが、どうしても逆毛立つ好奇心が勝った。蕩り微睡んだ瞳が、ぼんやりと抜ける力を一点に注ぐように、縋るように我のことだけを見つめている。

 

問い詰めた我の胸が激しく脈打った。どうしても他人事のように感じるのは気のせいではない。急いた息遣いは妖しく歓喜を奏でるようだった。随分と、我の中の私も彼にご執心らしかった。否、我の想いには到底届かぬとも!

 

胸の弾んだ拍子に息を呑んだ。彼は空いている方の手で目を擦ると耳に口を寄せて言った。「そうなんだ、私は悪い男でね。独りぼっちは、寂しくて、息苦しくて、どうしようもない性分なものだから我慢できずに差し伸べられた手に縋ってしまうんだ。捨てられない思い出で少しずつ隙間を埋めていくけれど、体が温まるより前に失ったモノの大きさを受け止めては、何処でもいいから遠くに行ってしまいたくなる。正直なところは、結局自分を慰めることばかりに手一杯の自分が嫌になる。けど、その度に誰かが私を救ってくれる。無能な私はその度に思うんだ。私は私にしか出来ないことをしよう、と。」

 

初めて耳にするアマロの吐露は我に衝撃を与えて。そして、我の中の私にもまた。衝撃は我に訴える。彼の苦しみを除かねば、彼のことを知らねば。我は、私は余りにも彼に関して無知であった。我は焦りを隠そうともせずに問うた。「貴方にしか出来ないこと…それは何であろうか?」

 

我は「我は貴方に救われた」という言葉を飲み込んだ。

 

頬に赤みが差しているのが己のことながらわかった。意気込を感じる我の様子にアマロは穏やかな息を深く吸い、吐いてから応えてくれた。「彼女や、彼の全てを見届けることは私以外にもできる。けれど、いずれ彼らも死んでいく。彼らもまた一角の何者かになって死んでいく。私を愛してくれた彼や彼女は、私が愛した彼や彼女は、いつの日にか彼と彼女の姿形も知らない、数多の人々の手によって語り継がれることだろう。」

 

アマロは一度言葉を切り、ほんの少し瞑目した。喉仏が動いた。鼻からは湿った呼気が、震えながら滴り落ちた。我の耳の奥に染み渡るような、ゆったりとしたそれはしかし、その緩慢な勢いとは真反対の重厚な質量を鼓膜に載せた。

 

アマロは瞳を開いた。眦に雫が浮かんでいた。どうしようもなく、疲れたような表情だった。だというのに、悔しさの中に安堵の色が見え隠れする表情だった。彼の鼻の奥から嚥下する音が聞こえた。そうして彼は再び口を開いた。「彼も彼女も…あの子も、あの人も、何時迄も語り継がれるだろう。けれど、語り継がれる物語の中には、きっと私の知っている、私が愛した彼や彼女の姿は無いんだ。皆んな、何処か抜けていたり、不完全だったり、悪戯好きだったり…私に負けないくらい寂しがり屋だったり、心が弱かったり、実は下らない冗談が大好きだったり…本当は、あんなことしたくてしたわけじゃなかったり…。彼のことも、彼女のことも、見届けられて、遺されて、それでもきっと忘れられていく。だから私にしか出来ないことというのはね、忘れないこと。忘れないことだけなんだ。」

 

「彼らは非凡さ、血も涙もなかったかもしれない、完全無欠の超人であったかも知れない。頭抜けた才と引き換えに、確かに皆んなが言う普通や当たり前の物を持っていなかったかもしれない。」

 

「けれど、何処まで行っても結局彼らも人間なんだよ。私はそんな彼らがどうしようもなく大好きなんだ。ただ、彼のことが、彼女のことが好きなだけ。ただそれだけの男なんだ。人間臭くて仕方ない。英雄譚や物語を聞くたびに、私は彼を、彼女を思い出す。物語の彼らだって勿論本物さ。本物の英雄で、本当の物語さ。でも、その本物は私の知らない本当なんだ。だから私は私なりに、私の本当の彼を、本当の彼女を忘れることはないんだ。」

 

「自惚れだけど、私だけが何時迄も忘れないでいられる。全てが無くなってしまって、誰も居なくなってしまって、誰もが物語すら忘れてしまっても、私だけは変わらず皆んなのことを忘れずに居られるんだ。これが、私にしかできないこと。」

 

「それに…私に出来ることはこれくらいだからね。」

 

アマロは最後に、消え入りそうな声で言った。「なんて身勝手なんだろう。私は、どうしようもなく幸福なんだ。だというのに、同じくらいに切ない。」

 

アマロの独白はそこで終わった。我は何を問いなかったのか忘れてしまった。もはや、知りたかったことなどどうでもよかった。我はただ静かにアマロを抱き寄せた。腰から下の感覚が未だにじんわりとした快楽の波で覚束ない己の軟弱さが恨めしかった。太陽は一回りも小さく、その輝きばかりが強がるように瞬いた。沈黙の中で我はアマロの頭を己の胸に抱いて眠った。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは想いを遂げた翌々日に王妃サンムラマートの葬儀を取り仕切った。

 

偉大な双璧はもはや、その何方も地上からその姿を消した。漠然と終焉を予感させていたものが、一つの時代が終わったという実感と共に確かな事実として時の国際社会に対して宣告された。

 

周辺諸国は鬼才に恥じぬ女帝セミラミスの台頭に警戒しつつ、表面上はその大いなる威光を寿ぎ、女帝の足下に恭順を示した。

 

女帝の名声は国内で二つの側面を伴って天井知らずに上がり続けた。冷酷なる粛清者としての側面は、野心的な廷臣と諸侯を震え上がらせ、その反抗の芽を淡々と摘み取った。文武に通じる辣腕の名君としての側面は、国内外から称賛と羨望の声を呼び込み、またその懐の深さへ信服するものが後を絶たなかった。

 

諸才を圧倒するセミラミスは畏敬を捧げるにこれ以上ない女帝として、不朽の統治者として大成した。

 

時にセミラミス23歳の時であった。早熟の鬼才は黒曜の君を正式に帝配として迎え入れ、彼が公私共に自身に不可欠な存在であることをより一層内外に向けて示した。それは一種の示威であり、万世に不羈である黒曜の君を擁することは、彼女の思惑通りアッシリアの隆盛を劇なるものにすることに貢献した。謂わば女帝へと向けられる畏敬に含まれる恐れを、黒曜の君への強固な崇拝を持ち出すことで相殺した上でより強固な支持の獲得に繋げたのだ。独占欲が働かなかったと言えば度し難い虚構であるが、それ以上に誰も彼もに…或いは己を捨てて何処にいるともわからぬ両親への幸福自慢であり、アマロとの想いを叶えて余裕を手に入れた彼女なりの意趣返しでもあった。

 

 

 

第三の目曰く、国葬によって過去と決別したセミラミスは、王妃の死から十月十日後に男児を出産した。次代の帝王となるべく、女帝セミラミスと帝配アマロの間に産まれた男児はアダド・ニラリ3世と名付けられた。

 

 

 

第三の目曰く、アダド・ニラリ3世はセミラミスの特徴を多く受け継いでいた。幼い頃から聡明であり、御髪は漆黒であった。体躯のしなやかさにも恵まれていた。そして、その情感もまた避け難い共鳴があった。

 

 

 

第三の目曰く、女帝はアマロを自身の私宮の奥深くに秘匿した。セミラミス34歳の時、アダド・ニラリ3世が10歳の時であった。

 

女帝は卓越した統治者であったが、しかし人の親としては一人前とは言い難かった。とはいえ、本来ならば長い時間をかけて、第一子を手本に、互いに教え教えられの関係を通じて、親子の情を育むものであった。世情に疎いとは言え、セミラミスもまたアマロに育まれたものとして理解できぬわけでもなかった。

 

しかし、理解できることと、実行するかどうかは違う。彼女には、元よりアマロしか眼中には無かったのである。

 

公において独身であった頃、宮廷内外でも指折りの大臣や将軍からの求婚が後を絶たなかった。しかし、求婚者を二桁大も毒殺する内に一人として求める命知らずは居なくなっていた。そして、それこそ彼女の思惑通りであった。

 

自分を求めて良い者は、自分が求める者のみ。

 

断固として、己の欠片なりとも、残滓なりとも部外者には与えたくない、奪われたくないという内向きの独占欲とも自尊心とも取れる激情がセミラミスの内にはあった。その激情に突き動かされるまま、彼女は然るべき力を振るった。

 

そして、その力の矛先は我が子にも向いていた。

 

万代を跨ぎ、黒曜の君こそは時に親子の円満を導くこともあれば、親子の破局を招くこともあった。敢えて釈明すれば、両者の間に確執はあれど、それは紛うことなき愛情からくるものであった。邪を知らぬ底抜けの情動に従ったが故の、爽快な決裂とも言うべきことであり、肝心である当事者達には後ろめたさも、悔いもあろうはずがなかった。

 

 

 

第三の目曰く、アマロが隠されてから十と数年が経った頃、次代の王として教育を受けていたアダド・ニラリ3世が母女帝への謁見を申し入れた。

 

時に女帝は46歳、アダド・ニラリ3世は22歳であった。既に若盛りを過ぎていたがその肌は瑞々しく、女帝の美貌に敵うものは宮廷にもいなかった。アダド・ニラリ3世の頑強な肉体と整った顔は親譲であった。

 

謁見の間にて、アダド・ニラリ3世は女帝へと己の重大事に関して嘆願した。

 

アダド・ニラリ3世は言った。「陛下、私は今日貴方の子としてこの場に参りました。そして、父上の子として、帝配アマロ様にお会いする許しをいただきたくこうして参りました。」

 

アダド・ニラリ3世の言葉は駄々広い謁見の間に反響した。冷たく澄んだ空気が、須臾の間に猛烈な熱波に呑まれる錯覚を覚えてアダド・ニラリ3世は顔を上げた。

 

女帝は犬歯を剥き出しにして、体から空恐ろしい気配を発しながら応えた。

 

セミラミスは言った。「次代の王、我が子アダド・ニラリよ。貴様の言いたいことはわかった。だが、貴様の願いも、その願いを生んだ…忌々しいほどに肥大した重しのことも、我はよく理解しておる。だが…理解していようとも、それだけは許し難い。」

 

女帝の言葉の内に、母の姿はなかった。アダド・ニラリ3世は母の言葉を受け止めると、唸る様に反駁した。「陛下、なぜですか。私がそれほどまでに憎いのですか。いえ、憎まれていても構いませぬ。母上が望まれる様になさってください…しかし、あくまで母上の願いに限ればの話。果たしてこれは父上の願いなのですか。父上は私のことを憎んでおいでなのですか。」

 

アダド・ニラリ3世の言葉は序に激しい気性を蒔き、次いで冷徹な言葉面を淡々と述べた。そこには、女帝との、母との決裂を悟った者なりの腹を据えた落ち着きがあった。

 

アダド・ニラリ3世の豹変に、セミラミスは尚以って冷淡であった。否、それは丹から来る振る舞いではなかった。寧ろ、到の昔に既知であった者の納得であった。やはり、思っていた通りではないか。そう、責めるような眼差しは何処へ向かうのか、目を伏せることもなく氷の瞳を子に向ける彼女には始めから迷いなどなかった。

 

だから、言わねばなるまい。荒ぶ謁見の間で、初めて彼女の表情から私情が抜けた。事務的な、尚一層冷淡にも見える表情は、彼女なりの忍耐の表れであり、無骨な心意気の表れであった。例え、それが我が子への餞別となろうとも。

 

沈黙もそこそこに、女帝は次代の王に向けて言った。「アマロが貴様を憎んでいるのか…だと?馬鹿も休み休み言え、彼奴ほど貴様を大事に思っているものなどこの世にはおるまいよ。ただ許せよ、獲得者は我なのだ。アマロは我を選んだ。我は選ばれた。我が望み、我の望みをアマロは優先し、そして受け入れた。ただそれだけのことよな。」

 

序は冷たく均して、次いで愉悦と自信の横溢の儘に言い放った。それは明確な宣戦であった。

 

アダド・ニラリ3世はぬらりと溶岩が火口から迫り上がるように仁王立つと、己が越えるべき女帝を真っ直ぐに見据えて応じて言った。「女帝陛下の御下知、この胸に確と承った…然らば、私も私の赴くままに進むことに致します。」

 

それだけ言うと、アダド・ニラリ3世は謁見の間を後にした。足取りは堂々として快であった。

 

我が子と袂を別ち、感慨に耽るまでもなくセミラミスは私宮へと向かった。

 

 

 

第三の目曰く、女帝とその子が袂を別つ、その根本たる事件が起こったのはある晩のことであったという。

 

セミラミスがアマロを奥宮に隠すまで、アダド・ニラリ3世をアマロが自ら育てていた。不器用さがいつまで経っても消えない手つきだったが、無垢な慈しみに富んだ様子を見て彼女の心には複雑な思いが産まれた。

 

それはアマロが己に向ける情量が我が子にも奪われるのではないか、という懸念ではなかった。

 

それは、彼に真心を注がれた我が子が彼に熱烈な思慕を抱くのではないか、行く行くは己のアマロとの蜜月を妨げる存在になるのではないか…という懸念であった。

 

まだ、罷り間違っても母への思慕ならば理解できた。自惚れはなくとも、絶世の美女としての自覚が無いわけがないセミラミスである、老若男女問わず己へ慕情を募らせた挙句に抹殺された者の数は両手両足の数では足りぬほど知ってた。

 

しかし、彼女の懸念はそうではなかった。彼ならば、それは当然の帰結として有り得るのだ。

 

殊ここに限れば、彼女には己が夫の美貌に遠く及ばぬどころか、根源的にその質に隔絶した差が存在することを認めずにはおられない。そうであるならば、我が子が父に向けて並々ならぬ想いを抱くこともまた、看過することの出来ない必然を伴っていた。

 

故に、故に、それは彼女なりの親心でもあった。女帝としての矜持もあった。女としての嗅覚が、その対応を鋭いものとしたことを否定はしない。しかし、そこに我が子への憎しみはなかった。

 

到底、手遅れであったことは既知のことであるが、彼女が親子間紛争を避けようとしたことに偽りは無い。実を結びはしなかったが、母にも親心があったことを子が理解するには十分であった。

 

こうして、歴史に埋もれた親子の闘いが幕を開けた。

 

 

 

第三の目曰く、アッシリアの頂には暗雲が垂れ込めていた。宮廷闘争は朝議において、互いの素行不良を糾弾し合うことから始まった。

 

女帝の粛清が度を過ぎていること。「いずれ、神意も民意も離れることは避けられない」とはアダド・ニラリ3世の言であった。

 

これに対して、「先の謁見に際して、世界の王たるアッシリアの女帝である我への無礼は、実母への無礼であると雖も看過されるべきでは無い。王位継承者としての分を弁えるべきである」とはセミラミスの言であった。

 

その後両陣営によって、公私の別なく互いの一挙手一投足に向けての非難合戦へと発展したのは無理もない。そして、それは単に見苦しい茶番という訳ではなく、明確にどちらの陣営に参加するのかを中立を気取る宮廷の実力者たちに迫る為に用意された場であった。

 

本格的な手段を問わない抗争が我が身に迫っていることを悟った古参の有力者の多くは現女帝セミラミスの陣営へと向かった。対して、アダド・ニラリ3世の元には現女帝の施政に対して不満を持つ者、周辺諸国との繋がりの深い地方領主達が挙って参仕した。

 

この朝儀後間も無く、アッシリアは二つの派閥に分かれて激しい抗争を開始した。

 




では、また。
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