B0.6 セミラミス 後
第三の目曰く、宮廷闘争は宮廷のみには留まらず、地方にも飛び火した。アッシリア全土に派閥が生まれ、それを外部勢力が後押しした。
油を注がれ、日夜両陣営の暗部が活躍し、多くの有力者が命を落とした。
闘争に終止符が打たれたのは一年後のことだった。
その日、彼女は自身の生誕日が今日であることを思い出していた。何処で間違ったのか、などとは考えたこともなかった。国の荒廃こそなかったが、弱体化は免れないだろうことも理解していた。だが、それでも尚セミラミスとアダド・ニラリ3世は親子喧嘩によって手に入れることを選んだ。
生誕日、それは女帝としての運命が生まれた日であった。セミラミスという傑物の生まれた日であった。
後悔などないが、少しばかり彼女は疲れていた。暗部に鞭打ち、新興勢の有力者を潜在的脅威を感じられる順に排除した。一時的に落ち込んだ力が果たして戻るのかはわからなかったが、こそぎ取られた栄華の痕を埋めてこそ、次代の王に相応しいと考えることにしていた。
彼女の内に潜んでいた「私」はいつの間にか居なくなっていたように思う。寂しくはなかったが、喪失感は拭えなかった。
しんみりと玉座に背を預けたまま、装飾を凝らした窓の外を眺めていた。開け放たれた窓の外、何処かから慌ただしい鉄の音が迫ってくるのが聞こえて。耳鳴りか、幻聴か…それが何であるのか己の中で納得が行く前に、玉座の間に肩から矢を生やした側近衆の一人が駆け込んできて言った。「謀叛でございます!既に、宮殿は包囲されました。」
言葉では説明できなかったが、セミラミスには合点が入った気がした。終わりが近づいていた。だと言うのに、彼女は自分がとても落ち着いていることに気がついた。不思議と体は力んでいない。腰も抜けていない。少し、意識して微笑んでみた。
報告に来た側近は女帝の様子に怪訝な顔をしたが、直ぐに焦燥を張り直すと彼女に言った。「陛下。我々が血路を開きます故、どうか遠くへお逃げ下さい!直に、王子の私兵が乗り込んで参ります。さぁ、お早く!」
焦った側近の声。差し迫る槍の石突の音、つん裂くような戦士の悲鳴が聞こえてきた。
だが、彼女は小揺るぎもしなかった。優雅に腰を上げた彼女は側近の顔を上げさせると言った。
「これまで実に良く働いてくれたな。彼奴とて、我とアマロの子だという自覚があるならばお前のような有能な者を無闇に殺めたりはしまい。それに、そもそも誰を恨んで始めた戦でもない故な。さぁ、行け。命を繋ぐが良い。そして、彼奴を支えてやれ。大いに殺しあったのだ。癒すのには一人でも人手がいる。まして、我と彼の居なくなった国を立て直すのだ。励めよ。」
側近は何か言おうとしたが、彼の口が開くのを待たずにセミラミスは玉座の裏から宮殿の奥へ、奥へと姿を消した。彼女が向かった先は私宮だった。
第三の目曰く、セミラミスは宮の最奥を抜け、アマロの庵に辿り着いた。セミラミスにとって、そこは始まりの場所だった。そして、彼女が自分の最後に相応しいと望んでいた場所でもあった。
布で遮るばかりの不用心な戸口から、何も言わずに入った彼女を待っていたのは、予想外にも旅装のアマロの姿であった。
目を丸くするセミラミスのことを目に留めると、不穏な状況にそぐわない表情でアマロは言った。「待っていたよ。私の支度は万端だけど、君はどうにも外行きの格好には見えないな。さぁ、急いで急いで!」
状況を飲み込めぬままに、セミラミスは彼の予備の旅装を、正装の上から身に着けた。幾つか皮袋を渡されたところで、やっと彼女は今が非常時であることを思い出した。血相を変えて、彼女はアマロの肩を掴むと言った。「アマロよ!今はそれどころでは無いのだ…もう直、終わりが訪れるのだぞ?どうしてそれほど落ち着いて居られるのだ?逃げ場すら、もう何処にも無いのだぞ?」
アマロはセミラミスを真正面から抱き締めると、彼女と鼻先を重ねたまま応えた。「君が私の所に来たのは、私と死ぬ為なの?君が望むならそれもいいけれど、君は君が望むままに生きるんじゃなかったの?自分のためだと、本当に思うなら生きるという道もあると思うんだ。」
セミラミスは強かに頭を打たれた気がした。塞がらない口をゆっくり噤んでから、呆れたように言った。「は、ははは…然り、であろうな。」
彼女の心内に灯ったのは、この期に及んで未知を掘り当てたような達成感だった。自分のことを誰よりも知っているという自負は何処に行ってしまったのか…セミラミスは自分の中で国という概念や、女帝という地位を夫に比べれば例え得ぬほどに矮小なものだと断じてきた。
しかし実際は、それらが皆、彼女にとってかけがえのない価値あるものとして、自分が思う以上に重く、大きくなっていたことに今気づいたのだった。何か、一つしか取れないと言われれば迷いなく夫を取るだろう。だが、彼女はまだ何処か実感が無かったのだ。今までの落ち着き払った振る舞いも、達観したような余裕のある表情も、どれもがその時を、その瞬間を、本当が起きてしまった今という現実からの逃避からくるまやかしに過ぎなかったのだ。
理解した。彼女は自分を本当に理解したのだ。自惚れがあった、全能感があった、責任感があった、覚悟があった、風格があった、自負があった…。だが、あまりにも自分の人間らしさを忘れていたような気がした。
そのまま、アマロの言葉になど耳を貸さずに進めば或いは完全無欠の女帝としての死の極みにあってさえも語り継がれる英雄譚を遺したやもしれない。だが、現に彼女が手に入れたのは後世語り継がれる物語でもなければ、悲劇の内に酔うための火酒でもなかった。
「あぁ、そう…だな。このまま、死ぬなど言語道断だ…まだ、まだ我は何もしていない…。まだ、何も望みを叶えていないぞ…。まだ、まだだ…我は、我は死にとうないッ!!」
セミラミスの心中を悟るまでもなく、アマロは続けて言った。「ねぇ、セミラミス。一緒に旅をしよう。ずっとお仕事ばかりだったからね。それにほら、あの子も独り立ちできたみたいだし。二人で彼方此方を巡ろうよ。私はね、今度は西に行こうと思ってるんだ。あっちは少し寒いかもだけれど、どうかなぁ?」
アマロの言葉は暢気なものだった。門が軋んで強引に開かれる音が聞こえてきた。あぁ、もうそこまで彼奴は来ているらしい。我を呼ぶ声が聞こえた。我は可笑しくなって笑った。「ぷっ…ははははっ!!あっはっはっはっはっ!!!あぁ、全く愛い奴め!!そうだな、そうしようなぁ…そうだな…まだ我は観ていないな…そうだ…。」
我は腹が捩れるほど笑った。ここまで悠然としていた自分の姿が滑稽に思えて余計に笑った。そうだった、そうだった。全てが馬鹿らしく思えてきたぞ、お前のせいだぞアマロよ。自分が情けないな…だがアマロに言わせれば、これまでの我も本物。そして、これからの我も本物なのだ。
我はアマロの手を引いて言った。「さぁ、行こうか我が伴侶よ!何時迄も、我と共にあるのだろう?我を看取ってくれるのだろう?」
我は意地悪な笑みを浮かべて告げると、すぐさま走り出した。鈍臭いアマロも、この時ばかりは必死に着いてくる様が、やはりどうしようもなく爽快であった。真面目腐って宮廷闘争だと?今までのこと全てを忘れて駆ける自分を、数刻前の自分が見れば赫怒するかもしれぬ…いや、きっと羨ましがるに違いない。
我がにやけているとアマロが器用に神妙なのに嬉しそうな声で応えて言った。「勿論だよ!でも、今は看取るなんてこと言わないでよ!私が想像して悲泣きたくなっちゃうじゃないか!まだまだ死ぬのは先送りしておくれよ。私は君ともっと一緒に居たいんだよ!」
我は腹の底から「我もーーー!!!」と答えた。そしてまた笑った。
走りながら哄笑する我を、逃げ惑う貴人や詰めていた兵士達が雷が頭に落ちたような顔をして見送った。そうだろう、そうだろう、ピクリとも微笑みすら浮かべずにこれまで女帝の椅子に座っておったものな。快活に笑いながら、全速力で駆け抜ける我らの姿はさぞかし見ものであったろう。
庵を後にした二人が辿り着いたのは、セミラミスの行った公共事業の中でも最も大規模な、かの空中庭園であった。二人は辿り着いた端から、休む間もなく天への階を駆け登った。宮殿から続く直通路には包囲が敷かれて居なかった。都の全てを凌ぐ、いと高き頂に登ったところで逃げ道はなかったからだ。
だというのに、二人は逡巡の素振りも見せずに駆け登り、新緑の潤いに満ちた庭園の頂から都を見渡した。気がつけば庭園に向かって包囲の中から一軍が躍り出た。見知った顔に率いられて、精強な軍団は神聖な庭園へと突入した。
間も無くして、黄昏れるセミラミスとアマロの元に、首謀者たるアダド・ニラリ3世が兵士を引き連れ現れた。傍には都の守護を任せた将軍が侍っていた。そこでセミラミスはようやく、宮廷闘争で互いに暗黙の禁としていた国軍の動員が行われた訳を理解した。謀反の背景には、アダド・ニラリ3世を担ぐ新興勢が頑強なセミラミスの地盤を崩せぬことに業を煮やし、功を焦った結果将軍を懐柔したのだと、彼女は断じた。
呆気のない幕引きは味気ないと言うよりは、こんなものであろうな、という今度こそ本当の達観を伴うものだった。肺腑の息を入れ替えてから、セミラミスは己の子と向き合った。
セミラミスは言った。「遅かったではないか。随分と手こずったようであるな…して、此度の謀叛は何事か?」
アダド・ニラリ3世は謀叛という言葉に息を呑んだが、目をきつく開いて応えた。「否!これは謀叛に非ず!宮廷を掻き乱し、剰え我が国の国力を疲弊させた悪帝に向けて正当に抗議するものなり!これまでの壟断には目を瞑ろう。しかし、これ以上は許すべからざるなり。疾く、王位を次代に委譲すべし!」
アダド・ニラリ3世の言葉は、新たな統治者として、その門出を飾る分にはよくできていた。堂々たる体躯、整った顔、鋭く意志の強さを伝える瞳、澄んで良く通る声。どれをとっても、王者の風格を残して居た。だが、それはあくまでも王として、統治者として卓越して居たに過ぎなかった。
少なくとも母の目から見れば、我が子の目的が自らの王位には無いことは一目瞭然であった。瞬きをすると見せかけていても、アダド・ニラリ3世の視線はアマロに釘付けだった。威勢を上げて宣告する演技で誤魔化してはいるが頬の赤みも体温の上昇も歓喜の叫びに他ならない。
セミラミスが意識して己の体でアマロへの視線を遮って見せると、目に見えて憤怒を表した。青筋が浮いた顔。今となっては、セミラミスにとって息子の様子は中途半端なつい先ほどまでの自分の姿を見ているようで面白可笑しく感じた。
セミラミスの感慨の表情は、その場に居合わせたもの達からすれば不敵な笑みを浮かべているように映ったため、自分の想いを弄んだ挙句、小馬鹿にされたと認識したアダド・ニラリ3世が癇癪を起こした。
主人の憤激に圧されて、控えて居た兵士らが剣を抜いた。主君から下されるただの一声で、彼らは猛った獅子の如く二人に襲い掛かるだろう。
だが、アダド・ニラリ3世が赤ら顔で下知を飛ばそうとするのを遮るように、不敵な笑みを消して神妙な顔になったセミラミスが言った。「ふん…畢竟、貴様も無駄な前置きをせねば己の想いの一つも遂げられぬではないか。いや、我が言うことではないか……」
誰かが息を呑んだ。セミラミスは一時、女帝に戻った。覇気に当てられた者達は、その場に居合わせた者達は微動だにするを許されず、沈黙の中で女帝の許を待った。
そして、彼女は、女帝セミラミスは微笑みながら言ったのだ。
「さらばじゃ、我が民よ。ここまで大儀であった。共はいらぬ。我はこれから好きにする故、汝らも好きにするが良いぞ…そして王よ、アダド・ニラリ3世よ、精々気張るが良い。然すれば、旅の噂に馬鹿息子を思い出すのも吝かではないぞ…上々、励めよ。」
剣を振り上げたまま、兵士の動きが止まっていた。その隙を突いて、セミラミスはアマロと抱き合った体勢で身を乗り出すと、空中庭園の縁へと足を掛けた。
アダド・ニラリ3世が叫んだ。「ま、待て!!ぁああぁ!ちっ、父上ぇッッ!!!!」
時間がゆっくりと動いていく。天高く聳え立つ庭園の頂から、不自然なほど寛いだ様子で、淡く白い二つの影が舞い落ちた。
新王の声が虚しく響くより早く、セミラミスは今更ながらに瞳を閉じた。
あぁ、終わるのだ。
彼女は生きることを望んだ。だが、慕う男との生を渇望する己がいる一方で、現実の非情に心折られ、儘に身を任せようとする己がいる。
何方も捨てられないまま、彼女は空中庭園への道を走って居た。清々しい哄笑が響いた。己の笑い声だった。だがそれは、結末を悟ったが故の自らへの嘲笑であり、乾きひび割れた絶望感から来る笑いであり、そして何より最期まで己を選んで、片時も離れず、裏切らず、疑わずに共に歩む健気な男を道連れにする算段を淡々と弾く自分の醜さを憎んだ、懺悔すらも赦されない為に己への慈悲をも捨てた冷笑であった。
あぁ、静かだ。轟轟と激しい風が体を打つ。俄に寒さが足先から這ってきて、まるで死と絶望の底なし沼に微々と沈み始めた気分だった。そんな時であった。彼の声が聞こえたのは。
「…セミラミス、どうか泣かないでおくれ、そんな悲しい涙を流さないでおくれ。私の可愛いセミラミス。どうか、私を見ておくれ。私は君を見ているから。どうか、私を信じておくれ。私は君を信じているから。何も怒っていないよ。大丈夫だから、ほら、君の瞳を私に見せておくれよ。」
懐かしい声だった。ずっと、ずっと、昔のことだった。忘れていた声だった。わかった気になっていた。ゆっくりと瞼を開くと、目の前にはセミラミスが愛してやまない男の顔があった。それは父の顔であり、友の顔であり、夫の顔であり、他ならぬアマロの顔だった。許された気がした。寧ろ、初めから咎める気もなかったのだろう。セミラミスは自分が一人で見当違いに、もがいていたのが情けなくなった。だが、それ以上に安堵を感じていた。
のほほんと温厚な表情だ。セミラミスを真正面から抱き締めたまま、額を合わせて、怖がる子供に言い聞かせるようにゆっくりと、けれど意思の込められた言葉が胸を鎮めてくれた。音も、寒さも忘れていた。彼女は全てから守られているような錯覚にその身を任せた。
うるる、形を変えて音を奏でるアマロの唇が視界の端にあった。ぼんやりと滲む視界で、自分が堕ちている最中にあることを忘れて、セミラミスは彼の口に吸い付いた。潔いまでに躊躇が無かった。歯が当たっても気にしなかった。彼女は力の続くだけ、静寂の中で潔く涙を流しながら力一杯に唇を押し当てた。
それからどれだけの時間が流れたのか、何時迄経っても衝撃も、死の実感も訪れなかった。そのことに死の回避を差し置いて恐怖したが、明らかな異変に対する不安と好奇心に我慢が効かなくなったセミラミスはようやっと周囲に意識を巡らせた。
辺りは一面が真っ白であった。
セミラミスは驚いて言った。「ぷぁっ…あ、アマロよ、ここは何処だろうか?もしや、既に我は死んでいたのか?何処なのだ?ここが神の座なのか?」
混乱したセミラミスの問いに、息継ぎなしの接吻から解放されたアマロが応えて言った。「ぶはぁっ!!はぁ、はぁ…セミラミス、足元を見てご覧よ…ほら、私たちは死んでなんかいないよ、この子達が運んでくれたんだよ…!」
物知り顔のアマロの言葉を受けたセミラミスは、弾かれたように、無論未だアマロとは抱き合った状態で、己の足元を見た。
「この子達とはなんだ?…ん?わ、わわ!!なんじゃ!これ、ふかふかだぞ!これは…生き物か!?…はっ、鳩か!?この雲の如きの全てが鳩なのか!?」
セミラミスの素っ頓狂な声が上がった。セミラミスの声にアマロは楽しそうに笑って言った。「そうみたいだね、何とも運がいいや。偶然にも、私達はみっちり詰まって飛ぶ白鳩の群れの上に落っこちたみたいだ。」
嬉しそうなアマロの様子に納得の行かないセミラミスはぐぬぬと頭を捻った。
「(アマロの言が真だとしても…群れにしては密度が高すぎる上に、どうして翼を組むようにして飛んでいられるのだ?着地していたとしても…気付かぬほどに衝撃がなく、加えて随分と物々しく周囲を旋回する直掩鳩の姿まで見えるではないか…)」
セミラミスが頭を悩ませていると、彼女の腰からアマロが手を解いた。
「あぁ!アマロ!危ない!!」
咄嗟に伸ばされたセミラミスの手を、アマロは微笑みだけ返してぬるりと避けた。瞬時に顔中から血の気が引いたセミラミスの体から力が抜けた。あっ、と間抜けな声を出してこてんと転げたセミラミスは死を覚悟した…が、何も起きることはなく、ほんのり温かい羽毛に埋もれただけであった。ぐでりと羽毛の海に浸かって脱力したセミラミスの隣に、小悪魔のような笑顔のアマロが寝転んで言った。
「大丈夫だよ…君は、もう十分頑張った。これからは、のんびり色々なものを見て回りながら過ごそうよ。ほら、そろそろ見えてきたよ…あの海だ。あの海を越えたところに、私が昔散歩がてらに立ち寄った場所があるんだ。人も沢山いて、セミラミスの故郷とは肌の色や言葉も違うんだ。きっと、知らないものを沢山知れるよ?」
先ほどまでの絶望も、情けなさも、苦しさも、恐怖も、不安も…今はすっかり洗い流されてしまった。考えたこともない不思議な出来事に肝を取り換えられてしまったような気分だった。
セミラミスは今度こそ心の底から楽しそうに笑った。つい数刻前とは違う、憂のない綺麗な笑顔であった。否…アマロからすれば、彼女の憂のある表情もまた、彼女の本物の笑顔であると、そう言うのだろうが…。
美顔を綻ばせたセミラミスは横で同じように寝そべるアマロの腹を小突いて言った。「ククク…たしかに、貴方の言う通りであるな。そうだな、のんびりと…今度こそ貴方とのんびりと暮らすのか…それは素敵よな。だが…二度と先程のように我を避けるような真似はしてくれるなよ?戯れと雖も、だ!」
遠望が効くとは言え、まだまだ海は遠い。ちらりと鳩達が、先ほど見えた海の手前の村に着くまでどれだけの時間が残っているかを瞬時に算出したセミラミスは続いてアマロを見た。その視線は舐め上げるような…何かを見定めるような目である。アマロは拗ねたセミラミスの膨らんだ頬を指で突いて空気を抜く遊びに没頭していたが、何かを感じたのか福々しい笑顔を一転、何処か焦ったような冷や汗の浮かんだ表情でそっぽを向いた。
ニヤリと口角を上げたセミラミスは、「(悟ったのならば、話は早い)」と心中で悪どい微笑みを浮かべると腰を浮かせて起きあがろうとしているアマロの頭を己の胸に寄せた。
「心の臓が裏返った心地だったのだぞ!…反省しとらんな?こ、こら!そう言う切なそうな顔をするな!腹が疼くだろう!むむむ……よし。貴方には分別をつけてもらおう。その為にも、"次"を早いところ拵えなければな?」
優しい声音に油断したアマロは"次"の意味するところを理解すると何とか不安定な場所での格闘から、セミラミスの肉体への負担を心配して、逃れようと藻がいた。
が、無情。セミラミスとて、閨での生存を懸けて伊達に怪物と組み合ってはいない。心も体も交わすとは、即ちこの男との場合は尋常ならざる覚悟が必要であった。
もともと肉体的には卓越している訳でもないアマロである。何とか体を抑え込んだセミラミスは両眼を炯炯と滾らせて彼へと迫った。
「ふふふ、此処が安全だと教えてくれたのは貴方だぞ?ほぉれ!その傷一つない肌を我に晒さぬか!これこれ逃げるでないわ!!逃げる場所などないことは知っておろう?落っこちたくなければ疾く観念せよ!…これぞ真の空中庭園!!そういえば…アダドもそうであったなぁ。あの時は、三回戦目にして酔った貴方と繋がれたままであったな!!月下、貴方が庭園の散策へ繰り出したのを我は忘れておらんぞ!!」
赤裸々な惚気を他ならぬ当人に語りながら、興を削ぐどころか自ら猛り出したセミラミス。
ヒクヒクと鼻先を戦がせたアマロは肩を抱いた。何とも目の前の雌が淫靡に匂ひ始めていた。状況は非常に不味い。
今こそ報復の時!!とでも叫びそうなセミラミスは、己の衣を放り投げると肩を抱いて怯えるアマロに襲いかかったのであった。
もう一人分の衣が空高くを舞ったのと、情けないアマロの声が上がったのは同時であったとさ。
遥か昔のこと、偉大な女帝がアッシリアを治めていたと語る古老がおったそうな。
第三の目曰く、女帝の名はサンムラマート。その名が意味するは白い鳩であった。
彼女は先王シャムシ・アダド5世の妃の地位を、都から外れた寒村の出にも関わらず射止めた。彼女は有能な政治家であり策略家として王を補弼した。
だが、彼女は有能だったが強欲であった。王や王の重臣を次々に毒殺しだしたのだ。
誰も彼女に逆らえなくなった頃合いを見計らい、彼女は先王に任命された摂政の地位を自ら辞し、女帝を僭称したのである。
偉大なるシャムシ・アダド5世の実子であり、王位継承権第一位のアダド・ニラリ3世は女帝による壟断に心を痛めていたが、しかし度重なる暗殺により彼は力を削がれていた。彼は王子としての地位に甘んじて女帝の専横を憎み志あるものを密かに募った。
王子が力を蓄える間も、女帝はその王権を縦にして汚した。のみならず、様々な男に色目を使い、大臣や、将軍や、剰え同性の女にまで手を出し、飽きれば証拠ごと抹殺した。
また、女帝は大規模な公共事業を起こすと民に過酷な労働を強いた。国力は疲弊し、宮廷は周辺諸外国と通じる密使や、密使と通じた売国の徒が跋扈した。
そして時は来た。満を持して王子は挙兵した。謀叛という汚名を着せられたものの、女帝の圧政を嘆いた国軍の将軍の協力を得たアダド・ニラリ3世はセミラミスから王位を奪還した。
女帝の放蕩は深い傷跡を残した。女帝の呪いによりアッシリア各地は乱れた。
王となったアダド・ニラリ3世にもまた試練が課された。謀叛の咎が重石となり、官僚や地方領主に力が分与され、結果的に王権は弱体化を余儀なくされたのであった。
王アダド・ニラリ3世はその生前、母は鳩となって天高く飛び去ったと語ったという…。摂政時代も合わせれば42年間にもわたるサンムラマートの支配は歴史上稀に見る、卓越した女性の一人として列せるに余りあるほどであると言えよう。
「アッシリアの歴史〜謎大きな女帝編〜」
(黒曜出版社)より
謎の多い女帝の存在は世界史全体を見れば意外に多い。そのほとんどには共通点があり、それはその死が有耶無耶とされている場合が殆どである点だ。これは古代も中世も同様であり、また、死んでいないと仮定しても、その足跡を辿ることは困難を極めるであろう。
しかし、世の中は広く、また奇遇に満ちている。機会は思わぬところから湧き出すもののように思う。
さて、そんな奇遇の覚えめでたき時計塔にも縁のある「黒曜の君」研究の第一人者の一人がギリシャにて不思議な口伝承を耳にする機会に恵まれたようであった。
なぜギリシャに居たのか、と聞かれれば彼は戦友の時空を超えての里帰りに手を貸したまでだ、と答えるだろう。何も故郷はギリシャではないというのに、わざわざギリシャにも寄り道するとは…相当にポリスへの憧れが熱いのか、呆れ気味の彼が日程上休日返上である以上は元を取ろうと、思い出作りに立ち寄ったのが、現地人の間で口伝譚にかけてはギリシャ一番と言われる御老人の庵であった。
「ボロ屋…って言ったら怒られるよねぇ…。でも歴史があるとかで済ませないくらい傾いちゃってるし…はぁ、ライダーを置いてきたのは正解だったなぁ。惰弱也!!とか言って柱に掌底かましそうだもんな…。ギリシャの思い出が重要文化財の強奪と住居の破壊とか…最早国際問題だよ。ウジウジしてても仕方ない。よし、行こう!」
苦労人なのか、話を聞く前から愚痴とため息が止まらない様子の青年だったが、気を取り直すと建て付けの悪い所に手をかけた。
「ごめんくださーい…あの、今日の公聴会に参加予約をしていた者ですが…。」
「はい。料金は前払いですからね、どうぞ中へ。語り部が今話し始めるところですよ。」
「…ありがとうございます。」
室内はひんやりとしていた。電灯がなく、いかにも語り部らしい御老体の前に置かれた蝋燭の火が揺れていた。昼間だというのに、窓もない真っ暗な室内で小さな火が浮かんでいる様は何処となく神妙な雰囲気を漂わせるのに一役買っていた。
使い古されて塗装の剥げたL字型の木の杖に手を按じながら、安っぽい白のプラスチック製の椅子に腰掛けて老人が口を開いた。
火が時折隙間風に吸い寄せられて白いプラスチックにテラテラと反射した。話し始めれば、それは引き込まれるに値する、言ってみれば荒唐無稽、言ってみれば他では耳にする機会もなく死んでいたであろう非常に興味深い情報だった。
今日、ギリシャと呼ばれるに至った地の話。
幾星霜の古の頃のこと、東方の大国が大いなる加護を失い、均衡が崩れた。
騒乱に追われた民は、廃墟に祷る影になれ果てた。闇夜の時代が訪れ、食い荒らされた弱種の残骸ばかりを残した。
悲痛と旧習は時の濁流に押されて次代を肥やして。いずれ来る復興を夢と見た。
東方の由々しき事態はしかし、ここ西方に届く前に石鏡の剣で裁断された肉の如く、その憤禍の跡を絶ち、新たな時代を慈しむための寿のみが齎された。
そして、斯様な時代に、先んじて西へと渡った夫婦がいたという。
妻の名前はセミラミス。夫の名前は残っていない。が、夫婦共に大層な美人であった。特に夫は脳膏を穿つような、薫り立つような美貌であった。その美しさに形を持たせることは叶わず、ただ言葉に訳するのならば理想、幸福、或いは希望と称するほか許されぬであろう。
そして、もう一人が妻の腕に抱かれていた。赤子の名前は残らなかったが、しかしその子孫は未だにギリシャの何処かに居を構えているという…。
伝え聞くところ、かの一家は東の大国を捨ててこの地に辿り着いたらしかった。この地に渡るには海を越えねばならなかったが、女が言うには親切な鳩の群れに運ばれ、この地の岸に渡ったのだという。実に不思議な話ではあるが、しかし、その証として彼らは鳩の羽を掌に乗せて見せた。それはこの地の誰もが見たことのないほどに巨大な鳩の羽であった。白く美しく、そして逞しい羽は凶鳥のものと言われても納得してしまうほどであった。
果たして辿り着いた一家は、早々に仕事を見つけた妻が働き、夫が家事を担いこの地に根を下ろした。
妻の歳は、聞くところによると五十に届かんとしていたが、その容貌は先述の通り若々しくかつ気力に満ち溢れて病を宿すことは終ぞなかった。妻はこの地に着くと異郷人でありながら、この地の言葉を一年と経つ前に使いこなし、夫の方は古風で難解な話具合ではあったが始めからこの地の言葉を使いこなしていた。その夫も間も無くこの地で当時使われていた言葉を使いこなせるようになっていた。
妻はこの地について間も無く、学識に秀でたものとして様々な難儀を解決して周辺の村落からも一目置かれる程の存在になっていた。求婚が後を絶たなかったため未婚の女たちからは嫌われていたが、しかし求婚した端から男を殴りつけて振り払うものだからか、男の悲哀を慰めるのに託けて婚姻が円滑に進んだ結果に多くの夫婦が生まれていた。
夫の方は妻が勝ち得た信頼により建てられた小さな庵で年々とこさえた子供たちの世話に忙しそうにしていた。夫の美貌は言語に絶するものであったから、夫を一眼でも拝むためにと毎日のように手伝いが訪れていた。
伝承で知られる一つ目鬼のように強く、これまた伝承に聞くところの海の賢者の如く聡明な妻が帰宅するまでの間、つまりは昼間のほとんどの間は誰彼かが甲斐甲斐しく夫の手伝いに集まっていた。そうしているうちに、夫のいる家は頼んでもいないのに無償で増築が繰り返され、日替わりで手伝いの者が十人も侍る大きな館となっていた。
妻は呆れていたが、夫が毎夜その日はどんな親切を受け取ったのか、どんなお返しをしたのかという話を楽しそうにするものだから仕方なく許すことにしたのだ、という旨を仕事仲間に話す程度には集落にその身を落ち着けていた。
毎日のように夫が出迎えた訪問者の中には遠方からの客人も多く、いや、次第に遠方からの名士ばかりが訪れては熱心に夫へと求愛していた。
それは集落の風物詩となり、気がつけば夫を求めて、また妻の手によって整えられた集落の住み良さを求めて、人に次ぐ人が集まって一つの大きな街となっていった。
そして、一家が越してきて三十年余りが経ち、妻は老い衰えて眠るように死んだ。老いも衰えも見せない夫に看取られた。老いも、衰えも感じさせない完全な美貌のままに死んだ妻の肉体に宿る神秘は、更に多くの人を呼んだが、それは敬うべき、慕うべきものでなく、強欲に従えられた愚かな波となり、波が引く頃には妻の亡骸は無論のこと、夫の姿すらもが掻き消えていた。
村は神の逆鱗に触れたかのように瞬く間に廃れ、村の中心に建てられた伽藍堂の館だけが残った。人々が小さくなった街を捨て、小さくなった村を捨て、そして草の根さえもが土塊に姿を変えてから、更に幾星霜が流れた今、再び人々の華やぐ穏やかな大地に根ざした街が建てられたのである。
夫の姿を最後に見た者がいた。その者の言うことには、夫は妻の亡骸を横に抱いて街門から堂々と彼方へ向けて旅路に出たのだと言う。
彼らの残した家を、すでに自立していた二人の子孫が今日まで遺した。
時には打ち捨てられ誰もが忘れた家だったが、こうして今日まで遺されているのは、或いは確かに彼の一家がこの地で生と死を営んだ証として消えまいと、この土地に眠る古人の意志が固く、その風化を、忘却を拒んだからなのやもしれぬ。
また、このような話もあった。ある時、まだ村に居を構えて間もなくの時分であった。妻が子供を連れての旅路は辛かったろうと言われた。その際、妻は今の子供は海の上で空の上で出来たのだ、と答えた。問いかけた者が更に聞いた所、夫婦は海を渡る鳩の翼の上で交わり、海を渡り切る前に今の子を腹に宿したのだと言う。次男であるらしいその子供は、後に父から母の名前が白き鳩を意味する所であると聞くと、生涯鳩に対して深く感謝したと言う。
古老の話は終わった。そして話に聞き入っていた研究者、ウェイバー・ベルベットの胸には弾けんばかりの確信が生まれた。
「(ありえる!ありえるぞぉぉぉぉ!!!いやしかし…この話はライダーにだけは聞かせてはいけない気がするなぁ…このお爺さんが問い詰められてグロッキーになるのが目に浮かぶな…。)」
一目惚れした知己の、未だ全貌知れざる世紀の所業の編纂に勤しむ青年の懸念はしかし、最悪のタイミングで、最悪の結果を産もうとしていた。
帰り際に一言感謝を述べてその場を辞した青年。戸に手をかけた所、建て付けの悪いそれは中々開かなかった。いや、と言うよりも向こうから違う力が作用して尋常ならざる頑強さを発揮していた。
「あれ?あれ?おかしいな?さっきはこっちで開いたはずなのに…どうして?」
「あぁ、お若いのどうかもう少しお優しくお願いいたします。この庵こそ、先程お話しした、朽ちた本館の中で唯一残っている遺跡なのです。なので、どうぞ落ち着いて!!軋んで、軋んでおります!!」
少しずつ雑になっていく青年の様子に、先ほどまでの神聖な雰囲気を崩して、焦った様子の御老体が彼を諌めて言ったが、御老体の願いも虚しく扉越しに野太い声が響いた。
「ん?その声はウェイバーか!?我がマスターの身でありながら我を置いて何をしておるのか!さては…また我に隠し事か!?」
今一番会いたくない英霊の声が扉を突き抜けて青年の耳に刺さった。後ろで御老体が身構えるのがわかった。そりゃそうだろう、目に見えて家が軋んでいる。
「おい、ライダー!!やめろ!僕が手を離すから!だからそれ以上その常時展開型の馬鹿力を入れるんじゃなーーい!!頼むから!!本当に大問題が起きようとしてるから!!」
必死に叫ぶが青年の声は届いていない様子である。いや、届いてはいるが聞く耳を向こうが持っていない。
所変わって扉一枚挟んで向こう側、人集りの渦中でギチギチの正装に身を包んだ巌のような肉体の大男が木製の引き戸に手をかけていた。扉の向こうに届く適切な音量を無視した、二軒先まで届きそうな大音声で数度、控えめだが必死さの伝わる声の青年とやり取りをしていた。本人の自覚なく、力を込めすぎた取手には既に罅が入り目も当てられぬ状態である。
そして、何かに気づいたのか、鼻を仕切りに動かし始めた。それは悲劇の序曲であった。
「何ぃ?それほどまでに秘匿したいと!そうか!ならば良い!推して参る…ん?くんくん…くんくん…。」
冷や汗がワイシャツを濡らし始めて久しい。頭を働かせてこの場を切り抜ける手段を検索するが、最適解がヒットするより先に征服王が得意の電撃的勘違いによって最悪解を導き出してしまった。
「ぬぉぉぉ!!!よりにもよってッ!貴様!ウェイバー・ベルベット!!大抵の隠し事に対して余は寛大である。しかし!!こと、我が至宝に関しては別である!!この扉の取手に未だ残る!!黒宝の郁香が!!余の鼻腔を擽るぞぉぉぉ!!!ぬぉぉぉぉ!いじらしいぞ!逢いたいぞ!!余のアマロォォォ!!!!今、そっちへ行くぞぉぉ!!!」
埃や木屑が物凄い勢いで青年の体に落ちてくる。既に横へとずらすという正しい開け方を諦めた大男が、両手で力任せに扉を引き剥がしている。ズタズタに砕かれんとしている扉の隙間から覗く大男の顔に理性はない。雌馬のフェロモンに当てられたて猛り狂う悍馬のような形相である。メキメキと音を立てて遂に粉々に弾け飛んだ扉。遮る者がなくなり、全速力で征服王の突進が弱々しい支柱をも砕いた。瓦礫の山が自重の解放によって勢いよく青年を呑み込んだ。
瓦礫に呑まれる直前、青年は感情を失った顔で立ち尽くしながら他人事のように思った。
「(あ°っ…終わったわコレ…)」
その日、ギリシャ屈指の歴史遺産が無惨にも破壊された。何の恨みがあってか、柱から何から粉々に破壊されており、あまりの無惨さに卒倒した語部の高齢者一名が負傷した。損壊の犯人は二名とされており、一名は見上げるような浅黒い肌に紅毛の大男、もう一名は痩せ型の黒髪の白人青年である。
現地の警察の調べによると、大男の方が雇われた実行犯であり、大男に担がれて逃走した白人青年が本件の首謀者として見られており、現在は余罪と手口などに関しての調査が進められている。
「二度とお前の里帰りに付き合うのはごめんだ!!!一度付き合っただけで、どぉーーーして、国際指名手配される羽目になるんだよォォォ!!!!」
この世界のどこか、善意の結果世紀の大事件の首謀者に勘違われた一人の苦労人。その虚しき悲哀が叫ばれたのは言うまでもない。そして後日、破壊された遺跡が外見上は何事もなかったように修復されたのもまた言うまでもないことであろう。
「のぅ、貴方は幸せだったか?」
寝台の上で、瞼を閉じてセミラミスはアマロに問うた。
「うん。大満足さ…そう言う君は?満足できたかな?」
問われたアマロは迷いなく答え、逆にセミラミスに問うた。
「…ふんっ。満足など、できるものではない。貴方といると、我は我ではなくなったように感じてしまう。これ以上、何も望まないのにもっともっとと貴方が欲しくなった。それに…」
瞼は閉じられたまま。セミラミスはくすぐったそうに笑って言った。感慨に耽るような口振りだった。弱々しく、何かが立ち昇り消えていくようだった。
「それに…?」
静かで細い呼気だった。鼻で笑われたのだと気づくのに時間を要した。アマロは息が詰まった。腕を、痛くもないのに震えていた腕を摩った。摩った方の手でセミラミスの髪を掬い撫でながら、誤魔化すように聞いた。
「…こ、子供を、我があれほど子供を産むことになろうとは…人とはわからんものだな」
頬が赤く灯る。健康的な赤みには程遠かった。それでも、いくらか胸を撫で下ろした。
「そうかな?…そうかもね?」
セミラミスの顔。匂い。頬。唇。姿形の全て。それらばかりに目を奪われていた。生返事になってしまった。
「ふっふっ…我より余程、経験も豊富であろうに…いや、この話は止めよう、我が嫉妬に狂う故な」
アマロの様子を思ってか、セミラミスは少し力んで笑った。そして、冗談めかして言った。
「ふふふ…ここ80年は君とばかりだから安心してよ」
アマロの笑い声は弱々しかった。だが、何か言わなければいけないと思い、いや、勘違いもされたくないとも思い、ない混ぜの内悶を素直に吐露した。事実であり、アマロなりに揺るがなかった事だった。セミラミスが来てからと言うもの、王とも王妃とも持たなかった。それに従ってか、王も王妃も互いを尊重する関係になったのだから、それこそわからないものだ。
「…80年。寂しくはなかったか?それまで、独りだったのだろう?」
セミラミスの言葉に含まれる独り。その独りとは、アマロを深く知るものだけが理解に達する、極めて特殊な孤独だった。確かに、セミラミスの以前の相手というのも、或いはそれほど遡らなくとも居たのかも知れなかった。
「あ〜…うーん。そうなのかも。でも、ちょっと違うかもね。うーむ…説明が難しいけど、ずっと誰かと一緒にいるんだよね…うん。だから、一つ、一つ、私の中から溢れていってしまうようで、その瞬間が来るたびに寂しいし、怖くなるよ…でも、そうじゃなかった頃は、どれだけ独りぼっちでも寂しくなかったよ。だって、別れもなかったから」
アマロは言葉を濁したわけではなかった。ただ、己という存在の莫大なことを、当人も未だ完全には理解しきれていないのだ。奇跡とは同時多発的に起こる。あくまでも荒唐無稽な事実、そこにアマロは生きている。この世に誰が、「同じ時間に違う誰かと運命を共にしている。ほら、今も」などと言われて理解できるだろう。その全てが、完全に同一で唯一のアマロであったと言葉で伝えられても、それは矛盾を克服しているただ独りの彼自身にしか実感できないものである。
だから感じるがままにアマロは語った。
「……いまは、どうだ?寂しいか?そろそろ、我も逝かねば、ならんぞ?」
アマロの全てを理解できたなどとはセミラミスも考えていない。だから、その都度に聞く。いままでもそうしてきた。アマロとセミラミスは、互いを信じている。信じているからこそ聞く。本当を知りたいから。貴方のことを知りたいから。貴女に知って欲しいから。互いに、互いを捧げ合うために、父として、娘として、妻として、夫として。そして、唯一純粋なる伴侶として。
「…………、…、…ん…寂しい、よ。それは、もう…寂しくて、とても、暗くて冷たいよ」
涙は流さなかった。まだ、まだだろう。瞼の向こうから、セミラミスに見られている気がした。だから微笑んで見せて。セミラミスが夢中になった優しい微笑みだった。険の無い、すっかり懐を預けたような笑みだ。セミラミスは一度だけ、その微笑みを、自分にとって親の笑みだと言った。
「……暗くて冷たいの、は、いやか?」
手が伸びてきた。アマロの頬にセミラミスの手が伝い伸びる。向かったのは首元、掛けられた腕は力無い。華奢で、美しい腕を胸に抱く。こっちに来てから、少し日焼けした気がするセミラミスの腕。この年の始め、倒れてから外には出ていなかった。いつの間にか、また白くなっていたんだな。流れそうな熱を堰き止める。
「……ん…、うん。温かい君が好きだ。どんな君のことも。でも、暗くて冷たくなってしまうのは、止められない、そう、今までも、これからも」
できるだけ強く。出来るだけ優しく。混乱したまま、ただ目についたものを片端から捧げるように言葉を繋ぐ。声を絞る。なるべく、湿っぽくはならないといい。
「…つらい、思いを、させるな…許せ…いや、憎め、恨め、妬め…た、だし…我だけだ…」
アマロの努力を知ってか知らずか、セミラミスは顔を仄かに歪めた。眦に光の粒が浮かんで、消えた。アマロがセミラミスの瞼に触れる程の、柔らかく唇を落とした。何度も。何度も。涙は甘かった。
「…もう。そういうことは言わない約束だよ?忘れちゃ…忘れて、欲しくないなァ」
気障たらしく言ってみせた。声が震えているのを誤魔化してみる。今のセミラミスは、誰よりも強いに違いなかった。だから、きっとそんなことを言えるのだ。けれど、それはアマロにとって何よりも自分が嫌になってしまう言葉だった。
夥しい奇跡に愛されながら、必ず、必ず、こうして。その度に、己の無力さを噛み締める。日頃、富めば富むほど、恵まれれば恵まれるほど、愛されれば愛されるほど、続けば続くほど。
奪われるわけでもなく。当然として失われていく。目の前からじわじわと失われていく。死ぬこともできず、産むことも出来ず、ただ、ただ。
堰きは今にも放たれそうだ。
「わす、れぬ…例え、この身が朽ち果てようと…そ、れ、だけは、忘れぬ…」
セミラミスの瞼が開いた。目は何処も見ていない。ただ、掠れた穏やかな眼光が、自分の方を向いていた。それでも、堰きは止まった。代わりに笑った。優しく、壊れてしまいそうなくらいに。
「…眠たいの?…寒いの?」
セミラミスの瞼は再び閉じた。アマロは努めて声をかけた。
「……ぁぁ…眠、い…な……あた、ま…を、なでて」
酷く幼く聞こえてセミラミスの声。愛おしさ、痛ましさ、何者をも憎むを許されぬ悲哀をどうすれば癒せるのか。ただ溢れそうなそれを、空を見上げることで堪えた。見上げた天井の傷んだ木材に残る焦げ跡が見えた。生まれたばかりの三男の為に重湯を寝台の近くで煮たせいで火が伝ったのだ。運良く全焼しなかったが、まだ焦げ臭いのだったか。思い出の中の善意の結果に知った、自分の不器用さにアマロは苦笑した。
「…うん、撫でるよ…こう?」
優しく撫でる。頭だ。髪は嘘のように傷みを知らない。惚れ惚れするほどに最高の状態で保たれていた。まるでずっと、生きていてくれるような気がする。でも、そうじゃないことを既にアマロは知りすぎている。
「ぁぁ…ここち、よい、な」
セミラミスの口角が上がらなくなってきた。鼻を啜る。
「ねっ…ねぇ!何か、もっとして欲しいこと、言って、私に教えておくれ!」
耳元で言う。必死で、暑苦しいだろう。だのに、セミラミスはしばらく何も返さなかった。
「…さ、寒い、な…だか、ら…抱いてくれ…」
時間が経ってから答えが返ってきた。青い顔のまま、アマロは寝台に潜り込んだ。
「ほら、どうかな?あったかい?布団の中で、一緒だよ。私と、君だけだよ」
頬を擦り付け、頭を撫でた。額にも唇を落とした。息が浅く、早い。自分の方が余程死んでしまいそうだな、とアマロは思った。また、この感覚だ。あぁ、直に、直に、直に…
「…ぅぅ……」
セミラミスは口を開いたまま。か細く息を吐いた。喉を震わせて僅かに何かを言った。愛の言葉じゃ無い。告解でも懺悔でもない。其れだけはわかった。もっと、もっともっともっと…他愛のない話だ。昨日の晩御飯の話かな?もっと、味気のあるものを食べさせてやりたかった。一緒に、同じものを食べたかった。そういえば、しばらく水さえ飲んでいなかった。
「………いい子、君は本当にいい子だよ…大丈夫だよ…大丈夫…もう、私は大丈夫…私はちゃんと、最後まで君の傍にいる。ここにいるよ…最期まで、君のものだ。君の、最期の一息まで、私には君が全てなんだ…ずっと、ずっと忘れないとも」
セミラミスの瞼は閉じたまま。開いたままの口も閉じてしまった。いいや、アマロが閉じたのだ。しっかりと閉じておかなくては。しばらくすると固まってしまうからだ。
「……………」
じっとセミラミスの顔を見つめた。寝台から身を起こした。髪に手を通す。滑らかで、そして綺麗だった。
「……………」
唇も柔らかくて、甘かった。彼女に最後に求められたのは、昨日だったか。昨日の、寝る前だった。彼女は接吻を好んでいた。
「……………」
手には、東にいた頃にはなかったタコができていた。アマロより、余程力持ちだった。農作業を楽しいと言っていた。農民が羨ましい、だなんてセミラミスは本気で言っていた。すぐに、偶にする分には、と言い加えていたが。
「……………」
八十年も前は、あんなに小さかったのにな。今では、私の指よりしなやかで長い指だ。赤ん坊の頃に咥えていると君が口寂しいのを教えてくれた親指、人を指し示す偉い人の人差し指、気が立つと仕切りに机を叩いていた中指、約束を契った小指。そして、契りを果たした薬指。
「……………」
私は自分の薬指を見た。鈍く黒い指輪が煌めいた。いつにも増して美しい。潤んでいるのは気のせいだろう。折角の指輪が、磨かれた私の宝が、今だけは塩辛く、水浸しだ。
「……………」
まだ、私の旅路は続いていく。
私は歩む。ただ、君を忘れない為に。
全てを、君のために使うよ。全ての今を、全ての君に使ったように。
これからも、ずっと、ずっと。神様になんてなれない。奇跡なんて、私が起こしているわけじゃない。全てを救うなんて私は御免被る。
私は、ただ君が為に。
セミラミス
私の可愛い娘
私の大切な友
私の愛しい妻
そして、私の伴侶よ。
きっと、君が私だったらこう言うのだろう。
良い旅路であったな、我のアマロよ。
あぁ、そうさ。良い旅路であったな、私のセミラミスよ。
また…何処かで…必ず…君と…。
感想をもらうと嬉しい。では、また。