B6 偶稀、代償、結縁 (前)
妖精の血は 碧く冷めて
淡々と蠢き 光明を嬉々招来し
積み木細工の感動よ
冷たい歓呼は 砂を喰み
爛々と 惨憺と 影が縋る
君を呼ぶ 君を呼ぶ
何処や知れぬ夜を待ち侘びる
火を炊いて 火を炊いて
光よ畢れと 火を炊いて
毒と知れ 毒と知れ
影こそ希望の 毒と知れ
愚純の衆く縋れば
優しき君が 茨の檻で身を抱く
鎖が光る 君の涙は鈍く
御髪は淡く銀と鳴り 締じるは君の碧き瞳
冷たき榮が 稚き君を焚くよ
光は悪辣に咲き 希望は闇に沈み混む
君の瞳に 澱は沈むよ
儚き御手の震えを抱いた
君を裂く 君を裂く
稚き毒が 君を裂く
手折るのか 手折るのか
優しき夜灯を 手折るのか
鎮む紅き竜は 閑かに息吹して
待人の来訪を寿きて その瞳を啓く
心に響くは 黒麗の痛み
光の疚しき仕打ちに 黒き君は悶うよ
翼を展げ陰を和ぐ 紅き竜は陰を抱く
紅き君は慎かに 胸に湧ける熱を摘み
黒き君は朗らに 肩を寄せて幸を編み
秘めたる談りは安らかに
二柱は一つの陰となれ
身を寄せて 身を寄せて
睦言は甘く饒舌に
耳に寄せて 耳に寄せて
孤独は夢と鮮烈に
尊き二つは陰に交わり
竜は紅く 竜は紅く
産むは紅き君
御髪は黒く 御髪は黒く
生むは黒き君
紅き君の懐影(おもかげ)を仄かに
希望は静かに君を呼ぶ
鱗が燐として 真紅の卵は温まれて
壁よ砕けよ 目覚めの時
金の御髪は靭く透け 闢くは君の碧き瞳
希望の陰が君を抱くよ
紅きを衷に秘め守り
君は行く 君は行く
陰に抱かれて 君は行く
君を呼ぶ 君を呼ぶ
契りの剣が 君を呼ぶ
第三の目曰く、イグレインの娘モルガンの誕生は祝うべきことであった。しかし、モルガンの誕生を祝ったのは決して人間種のみに限られなかった。
夫を亡くしたイグレインの身柄はウーサー王が後見したが、その関係性は正妻待遇と言っても良かった。
ウーサーには妻がなく、また親しい側女も居なかった。如何なる美貌にも食指の動かぬ王に対して周囲が後継者の心配をしたことは曰く当然であった。
しかし、後継者は半ば強引にも決定づけられた。無形の誓約として、鉄床に打ち建てられた選定の剣を抜いた者へと王国は、いや、ブリテンは継承されることになった。
この話に異議を唱える者は少なくなかったが、一方で何時ぞやとも知れぬ選定者の出現に希望を見出す者は少なくなく、外患の棘が徐々に身を食んでいくような鬱屈とした世情から、貴賎を問わずに多くの者が救いを求めていた。
故に遍くブリトンの人々が、貴姫モルガンの誕生に心からの祝福を贈った。彼女は、恵まれて生まれたはずであった。
そして…わかりやすく、光に溢れて陰を嫌い、潔癖な希望を求めたのは人間種だけではなかった。
アングロ・サクソン人やピクト人の侵攻が始まって間も無くして、ブリテン島には数限りない怨嗟が木霊した。その声は強く、強く、血と涙と共に大地に染み渡った。
大地の根深き処へと、揺るぎなき怨念の混沌を根付かせるには余りある時代であった。
ブリテンの島の心臓に沈んだ紫毒の針は、より明確な変転をもって島に棲まう全ての生物種に対して、その拒絶の旨を宣檄した。
ブリテン島は現世にして現世に在らずと成り、世に憚るべき渾沌の標として、島の各地に伝説の怪物や悪虐な魔物が次々に劫掠と共に登場し、人影潰えし恐怖の荒野と共に君臨した。
異形の者どもは、遥か古より島に住まう竜種とは根本から異なり、人間種の手により殺すことも可能であった。しかし、その一死を勝ち取るために百の屍を生む覚悟を求められた。
人々は救いを欲していた。蛮族による暴力が身を打ち叩くのであれば、異形のものどもはブリトン人の身を生きながらに噛み千切らんとする。
異形の魔はブリテン島の支配的な生物種の全てに対して見境なく牙を剥いたが、その事実は侵略する蛮人達にとっても、興亡の只中で諍うブリトン人にとっても、自民族のことで手一杯の彼らには些事に尽きた。
そして、ブリテンに棲まう支配種は人間を除いてもう一角存在していた。その種族は密やかに、しかし厳然と根付く種族であった。
その種を人は妖精と呼び、数限りない物語と教訓の糧としてきた。
人間の遥かな昔よりブリテン島に深く根付いて繁栄してきた妖精族は、紀元以後より急速に失われた超常なる神秘の一角に数えられるべき存在であった。万能の術に通じ、依然として強く存在感を示すブリテン島の妖精族は世に稀な、神秘の滅びを免れた例外とも呼べた。
第三の目曰く、魔に連なる者どもに踏み躙られたのは人間だけではなかった。妖精もまた、その存亡を今今の際へと詰め寄られていたのだ。
人間が救いを求めたように、妖精もまた救いを求めた。ただ、両者の間には明確な差が存在していた。
その差とは曰く、人間はただ明日の日の出を見るためにと、安穏と生存のためにと救いを求め祈り伏したが、一方で妖精は同族の生死に頓着することはなく、暮らし行きへの不安もなく、しかし、その享楽が終わりに向かうことを受け入れられないが故の、思いつきと惰性から呟いたような軽佻な懇願であった。
第三の目曰く、妖精の懇願した先は島そのものに対してであった。
世の中には誤算というものが屢々存在する。例え全てを見通すことができたとしても、必ずしも全てを清算することも、救済する力も持ち合わせているわけではないのだ。
魔法使いマーリンとて、そのことに相違はなかった。今や、アマロの背丈を越してスラリとした麗しの青年へと育った彼は、己の思惑通りに全てが進むものとは考えていなかった。しかし、進められるところまで進み続けることを選んだ。
そして、一度立ち止まらなければならなくなったのだ。その時が来たのだ。
第三の目曰く、モルガンが誕生して三日と経たない夜半に彼女は忽然と姿を消した。
城は蜂の巣を突いたような大騒動へと発展し、世話役の乳母を含めて多くの者達が一時身柄を城が預かる事態となった。
モルガンの失踪は多くの意味と、衝撃を齎した。それらは決して前向きな変化ばかりとは言い難かった。
ウーサーは心労で目の下に隈を作り、イグレインは高熱を出して倒れてしまった。
そして…
「私はあの子を探してくるよ。今回は私一人で行くことにしたんだ…マーリン、君はイグレインのそばにいておくれよ。」
「…アマロ、私は…いや、少し寂しくなるね。」
「うん…」
「ね、ねぇ!僕も、やっぱり僕がなんとかするから、だから君がっ、アマロがイグレインの傍に居るのではダメなの、かな…?」
「………」
アマロはマーリンの呼び声には答えずに、モルガンを探すために旅立った。持ち物は一振りの剣のみ。
第三の目曰く、ブリテンの暗雲は未だ晴れず。モルガンという光は強く、その光を一度でも浴びたもの達は脆かった。
イグレインの処遇は正妻扱いであった。ウーサーとイグレインの間には如何なる血肉の情も結ばれることはなかったが、しかし信頼関係に基づき、またウーサー自身が見せかけとはいえ子を宿した妻の存在を必要としていたために両者の関係性に翳りはなかった。
果たして両者の合意の元に、誕生したモルガンは名義上はウーサーとイグレインの間に、戦後生まれた子供であるとされた。
これによりモルガンはウーサーの第一子として位置付けられると同時に、マーリンの手によりブリテンの救済者たる王として立身する道筋が定められたのだ。
マーリンの魔法は既に、ウーサーなりの誠意としてティンタジェル夫人の故き良人のために使い果たしてしまっていた。
既に契約は履行されていた。あとは、モルガンをマーリンへと直接預けるだけであった。だが、結果としてモルガンは失踪し、モルガンの失踪と共に盤石なものとして伸長を迎えたはずのブリテン王国は、またしても苦難に直面したのだ。
人々は希望の喪失を幻視した。そして、モルガンの誕生を祝っていた人々の気力は時の経過に抗えず、次第に弱々しく萎んでいった。
第三の目曰く、マーリンの激怒は一種の同族嫌悪に基づいて噴出した。
激怒の矛先は下手人共に対してであり、彼奴という者は莫大な魔法使いであり、楽観的であり、鷹の秀眼を持つ己の立場を理屈や秩序の場外、番外の者として飄々と振る舞い、そこから染み出す些かの悦を何処かに抱えて余あり、そして何より生純な何者でもなかった誰かの運命を、淡々として、嬉々として、組み木細工を手繰るように狂わせんとしていたことに、欠片も悪意を抱いていないのであり、即ちは度し難き手前に連なる者共であった。
然はあれ!世に有り難き花の魔法使いマーリンを出し抜ける者など人の間には居るまいて。
果たして、モルガンを攫ったのは妖精であった。
ブリトン人の希望となる、救いの王としてマーリンの手に預けられるはずであったモルガンの身に何があったのか、その仔細をマーリンは間も無く知ることとなった。
モルガンが失踪した晩に何が起こったのか、マーリンの目が見通したものは、至極単純な犯行の一部始終だった。
満月が爛々と光を注ぐ深夜に、城深くへと忍び込んだ妖精の一団に囲まれて、宙を泳ぐ揺籠が音もなくモルガンを連れ去っていった。
ただそれだけ。マーリンにとって、不覚というべきことだった。そして、あのアマロが気づくこともなくにモルガンを奪われた事実にも僅かな違和感を感じていた。
マーリンは思考した。アマロが敢えて何もしなかった、ということだけは否定できる。しかし、彼が魔法に惑わされたとも考えられなかった。
千里眼の持ち主は考えた。その生涯でも有数の熟慮の末、マーリンが導き出した答えはアマロは単に眠っていただけであり、千里眼を通しても知り得ない気紛れによりマーリンは不覚をとったというものであった。
その答えは間違っていない。ただ、得体の知れない気紛れが何なのか、そのことはマーリンの力を尽くしても理解できそうになかった。
果たして、その正体が星の気紛れなのか、牽制なのか、或いは強制力なのか…それは誰にもわかるまい。
…しかし、これだけは言わねばなるまい。
「…私の力を尽くしても、わからないものがあることは嫌というほど理解したよ…。」
「けれどね…」
マーリンは月下で微笑みながら、朝焼けを背に城から飛び出していった最愛の人の後見を思い出して独り言た。
「私にはキミが誰なのか、ヒトなのか、モノなのかすらわからないけれどね、僕にしかわからないこともあるんだ。例え…キミが逆立ちしたってわからないことさ。」
マーリンの微笑みは挑発的な色を浮かべていたが、同時にその瞳には明瞭に慈愛が溶け込んでいた。
「僕はかれこれ十年以上の仲だからね…流石にわかるさ。僕と一緒の時でさえあれ程破茶滅茶に呼び込んだんだ、だのに、今度の旅は彼一人。」
「キミには到底できっこない。変えられっこない。いや、彼がその気になったんだ、彼自身にその気がなくったって…僕にも想像できない、何か特別なものを抱えて帰ってくるに違いないよ。」
「きっと、さぞかし優しい顔で帰ってくるんだろうね…少し、彼の顔を見る前から嫉妬してしまいそうだ。」
マーリンはそう言い終えると、月に向かってぷいと外方を向いた。ゆったりとしたマントが翻り、花の薫りが凛々と囀る。
側から見れば、マーリンの姿は実に自信に満ちた表情で長々と独り語りかける麗しくも怪しい青年の姿だ。
その美しい容姿のお陰で不審というよりも、どこか妖しい狂艶な雰囲気が演出されていた。月は人を狂わせるというが、マーリンには効きそうもなかった。狂いを忘れた穏やかな笑みを捨て台詞に、マーリンは一陣の花弁と共にイグレインの元へと、月の見守るテラスを辞した。
第三の目曰く、アマロは旅に出た。アマロにとって、何度となく繰り返してきたことだった。嘗ての全てがどれも異なる色を纏う旅だった。そして遍く旅の記憶こそが、アマロの持てる全てである。
アマロの旅装はお世辞にも優れてはいなかった。城を出る前に通り抜けたウーサーの玉座の間、玉座の後ろ、そこに立てかけられていた矢鱈と目立つ剣を一振り腰に佩くばかりで、他は着の身着のままである。慣れない剣を携えたのは、モルガンを何としても取り戻したいという思いからだろう。
慣れない武器など、振り方もわからぬのに腰に携えてどうするのか…装備に頓着することなく旅へと向かうのは、アマロなりの旅へと全てを賭すという覚悟の現れなのかも知れない。とはいえ…少しばかり、天然染みた抜けがあることは否めないのであるが。
「……まずは進もう。何処ともわからないが、それでも私が立ち止まる理由にはならない。」
「私は無能だ。私は愚鈍だ。だが、私には畢りというものがない。畢りがないのだから、愚かな私は愚直に進もう。」
「私に出来ることはいつだって同じだから、私は君の元へ辿り着こう、君の傍に寄り添おう。いつだって…いつまでも私は、然うなのだから。だからモルガン、モルガン、君の元へ。モルガン、モルガン、あの子の傍へ…。」
アマロの旅はこうして始まった。アマロにとって、この旅は決して始めてのことではなかった。だが、一つ初めての点があった。それは、マーリンという獲得者の元から一時的にとは言え、その身を切り離した点だ。
これには他でもなくアマロが誰よりも大きな驚愕と、大きな困惑を抱いた。だが、それらを超えて尚余りあるような、何処か遥かな…だが間違いなく自分自身が望んだからこそ生まれた衝動に突き動かされている感覚があった。
アマロは、その衝動に身を委ねた。
アマロは、マーリンから一時だけ身を切り離した。それは初めてのことであった。
どうしてなのか。
アマロの有する、その狭小な一点にのみ突き抜けて、極めて鋭敏な直勘に分析を委ねたならば、アマロはこう答えるだろう。
「魂魄が、幾つもあるような実感。」
それはアマロの魂魄でもあるし、アマロと心を捧げ和うに足る誰かの魂魄でもある。
ようなと言いつつも漠然とした感覚ではなかった。身の内に迸るような、尽くして明晰な心身に満ちる実感であった。
だが、実感を伴っていてもわからない。何故ならば、その実感を知るのは万の次元、万の時代を通じて唯独りで有るからだ。誰とも「比較」の効かない体感が、しかしアマロには断然として存在している。
この実感は底知れぬ意義を沈黙の下に孕んでいたが、そのことに気づくヒトもモノも存在してはいなかった。過去にも、未来にも、或いは見捨てられたもう幾つの霊長史にも。
ただ、この時にアマロさえも生涯を通じて初めて覚えた其の実感は、間違いなく遠い未来に「偉大なる意志」を成すものなのだ。
全ての悲劇も惨劇をも振り払い、全てを踏み躙ることも厭わぬ程に、其れは彼らを彼女らの身を掻き抱いて離しはしないのだ。
柔和に、暖かに、愛しげに、穏やかに其れは成すのだ。
何処までも…何処までも寂しげなアマロの意志を、其れは成し得るのだ。
だけれども、それはもっと、ずっと先のお話。
斯くして、アマロの旅は始まり、そして畢りなき旅は孤独の旅人に否応なく運命を誘う。彼を誘うのではなく、彼の元へと運命を誘う。その悲しみを、その哀しみを、アマロが共に抱き解し得る誰かの為に。その痛みを、その悼みを、我が身をアマロが捧げて和らげ慈しまれ得る誰かの為に。
還るべき奈辺をも、もたざる永久の旅人は、その身一つで陰を成し、眩さに惑う君の手を取る。
真の希望とは暗闇に差して君を導く、一筋の光明に非ず。希望とは暗闇を歩み続ける君に寄り添う、畢りを知らぬ永遠の陰也。
第三の目曰く、ブリテン島には第三の支配者が存在していた。かの存在は支配者と言うよりも島自体の深くに根幹を成す存在であると言う方が適切であろう。
時に破壊を司り、時に守護者として、雄大なる伝説の中心に君臨し続けてきた彼ら。
彼らを人はドラゴンと、竜と呼んだ。高潔な貴種はその悠久の寿命に支えられて世界を見守ってきた。そして時々、気まぐれのように現れては変革の波を呼び込み、時に破壊の限りを尽くした。
故に人々は竜を畏れ敬った。
時に、竜は一度大きく動いた後には数百年単位で眠りにつくことがある。それは彼らからすれば午睡にも等しいのだが、人間からすれば封印された旧世界の支配者にも見えたに違いない。
紀元を経て、概ね殺し尽くされたはずの疑い得ない神秘という存在はしかし、この時代には未だ健在であった。
そして、ここブリテンにも眠りの中に篭ったままの竜が一柱存在した。根本的に現世の生物からは隔絶した存在感を発揮する竜種の中でも、ブリテンにおいては右に出るもののいない巨大な個体であった。
焼け跡が残るばかりのヴォーティガーンの尖塔から暫くに口を開けた大穴から、更に暫くの処に広大な森が存在していた。
森を駆け抜けて、森の端から遥かに広がる草原に囲まれた黒々とした岩山が遥かに見えた。
その岩山の奥の奥、大きな洞窟を人間一人分の先も見えない暗闇に呑まれながら進むと、次第に明明とした赤色の光を源として、蒸し暑さが洞の奥から漏れてくる。
洞穴の最奥に辿り着けば、そこには巨大な竜が身を横たえていた。小山の様に巨大な体から熱波をひしひしと放射しては、穴ぐらの岩壁を仄かに黒く焦がしていた。
真紅の鱗、磨き抜かれた剣のような豪爪。
そして、誰かの気配に気づき開かれた宝玉よりも澄み切った碧い瞳と、火の粉舞う息吹に揺れる金色の髭鬣が美しかった。
第三の目曰く、紅き竜の元へとアマロが辿り着いたのは例の如くに全くの偶稀であった。
アマロの旅が三ヶ月になるかと言う時のことであった、彼の旅は前途洋々とは言い難かったが、持ち前の美貌と人間力だけを武器に、寝食を忘れてブリテン王国の諸都市群の隅々までを渡り歩き終えていた。
しかし、モルガンを見つけることはできなかった。それでもアマロの意志を砕くことは無く、直様にブリテン王国で未だ手付かずの地を求めて、深い森に片端から足を踏み入れていた。
彼の足取りに躊躇は無く、また彼の心は常にモルガンのためにあった。とはいえ、屢々寂しさの余り独りで泣き出すことも一度や二度のことではなかった為に、全く堪えるものがなかったとは言えまい。
そんなアマロの旅は、案の定危険とは無縁であった。
とある森の奥、アマロは「いつも通り」に煮炊きの煙を見つけると、一泊させてはくれまいかと交渉する為に木の柵で囲われた物々しい拠点へと進んでいた。
この拠点は山賊が占拠する処であったが、見張りは目を凝らした先に見えたものに驚愕の余り目を見開いて言葉を失った。
胸を張り、迷いのない足取りで山賊のアジトに直進してくる旅人の顔は…そう、余りにも美し過ぎたのである。
邪な感情を滅殺し、代わりに幼い頃に見上げた先、晴天の空に泳ぐ涼雲の美しさを思い出させるような極上の視覚の暴力であった。
「フオォォオォ!!か、顔が!!顔がいいぞぉ!!なんてこってぇ!お頭!お頭ーー!!見てくれよ!なんか、目が覚めるような美人が来たぜ!!」
野太い声で山賊の男が絶叫した。遠目にも分かる美しさに混乱しているようだ。
「うおおおお!?!?目が、目が焼けちまうぅ…!こんな美人は見たことがねぇ!」
呼ばれて飛び出たお頭は間近で目があったが為に即死級の美しさをその身にうけて腰を抜かしてしまった。
「お、お頭ぁ…俺たちゃあ…今まで、何やってたんだろう…なんか、目から水が伝ってくらぁ…」
見張りの男は訳もわからずに涙を流して拝み始めた。
「……あぁ、心が…心が洗われるみてぇだ…」
対してお頭と呼ばれた男も、目から鼻から口からと、穴という穴から熱いものを溢れさせている。
「クンクン…ブハァッ!!ックァーー!危険だ!鼻から幸せが昇ってきたぞ!頭ん中だけ雲の上に居るみてぇだ!…グァ!?か、かひゅッ……。」
「うぉぉぉ!!い、いい匂いがする!っておい!だいじよ……ガハッ!?うっ……。」
お頭と見張りの絶叫を聞いて駆けつけた連中は開かれた門を通って現れた旅人の尊顔に、興味津々の勢いに任せて顔を近づけては鼻をヒクヒクと動かした。瞬間、心臓を潰されるような衝撃を与えられて数名が気絶。心が汚れていれば汚れているほどに、彼の薫りにより意識を刈り取られることは当然のことである。
「御免ください…私はアマロと申します。実は旅をしておりまして、一晩泊めていただけませんでしょうか?…あれ?だ、大丈夫かい!?なっ、何があったんだ!誰がこんなことを……」
山賊を意図せずに全員打ちのめしたことに気づくはずもなく、アマロはいつも通りに無傷で入城。一泊逗留の許可を貰うより先に、アマロは子供のような寝顔で気絶している総勢十数名の山賊達の介抱に追われるのだった。
後日、アマロが一週間三食お酒付きの逗留許可を無事に勝ち取ったことは言うに更なりである。
アマロの旅は、案の定危険とは無縁であった。
それは何故か…というのも、彼は先述した通りに何度となく夜盗に山賊に傭兵にサクソン人にピクト人に…とにかく物騒な連中とはほぼ毎週の頻度で遭遇していたのだが、遭遇するたびに、拝まれるなり歓待されるなりされてしまい対処に困るほどであったからだ。
また、山賊や夜盗団に喧嘩をする荒くれ者がうじゃうじゃと居たとしても、団の頭や幹部連中が勇み足で出迎えた客人であるアマロを一眼見てしまえば、先ほどまでの喧騒や険悪な雰囲気は何だったのだろうと感じるほど、喧嘩を放り出して接待し始めるなど急変したのであった。
場違いにのほほんとした歓迎を受けること、三ヶ月の間に実に数十回程度。
時にはアマロに後生だからと、一晩だけ伴柄になってはくれまいかと、頼み込む者もあったのは言うまでもない。
この頼みに対して、相手が毛むくじゃらの巨漢であろうと痩せぽちの小男であろうとも、アマロは欠片も頓着を見せることもなく笑顔で快諾し、その都度に翌朝には生まれ変わったように品行方正な人材を次々に生み落としていったことは尚更に言うまでもないことだろう。
さて、楽しい思い出は積もり、寂しさも募る頃になっても未だに一度として鞘から抜かれることすらなかった剣だったが、ある時遂にアマロの手によって振る舞われる機会が訪れた。
そして事件が起こる。
ある意味で、この事件こそがアマロと紅き竜の出会いの直接的な前日譚と呼ぶに相応しいものだった。
第三の目曰く、アマロはある時森の奥で魔女と出逢った。
深い森には屢々不思議な現象が起こるものだ。森の奥に存在すると噂される清い泉を次なる目的地としていたアマロの前に現れた濃霧もまた、そのような類であったのかもしれない。
霧に呑まれたアマロは歩いてきた道も分からなくなり、完全に道に迷いながらも歩き続けた。
歩き続けた先に現れたのは美しい泉ではなく、荘厳な宮殿であった。
宮殿に入ろうか入るまいか、悩んでいたアマロに声をかける者がいた。
その声は言って曰く、「旅のお方、旅のお方、よく遥々いらっしゃいました。もし宜しければ、私の館で歓待させて頂けませんか?」
姿を見せない声の主に、怪しいことこの上のない濃霧の中での誘い語り。常人であれば話の内容が何であれ健全な警戒心から一度は断っておくべきところである。
しかし、この男は断るどころかその顔を綻ばせ、その瞳を煌めかせて言って曰く、「なんて素敵なお誘いなんだろう。親切なあなたのご厚意に甘えさせていただきましょう。」
アマロがそう答えると、次には声の主人の鈴を転がすような笑い声が真後ろから聞こえてきた。
振り返れば其処には、イグレインに勝るとも劣らぬ絶世の美女が佇んでいた。
美女が言って曰く「それは何よりです。さぁ、こちらへ。私がご案内致しましょう。」
美女はアマロに手を差し出した。引いてくれると言うことか、とアマロは首肯してからその手を取った。
宮殿の中は絢爛に彩られていた。壁には等間隔で素晴らしい装飾品や宝物の数々が展示されており、その列は長い廊下が続く限りどこまでも伸びていくようだった。
アマロは疑うこともせずに、並べられている宝物の曰くに関する美女の解説を聞きつつ歩き続けた。何もないところでも躓きがちなアマロであったが、転ぶことはアマロが躓く度に美女が華麗に支えてくれるお陰で終ぞなかった。
手を引く力は穏やかだったが、手を握る力は何処か頑なであった。
明るい廊下は次第に様変わりした。大きな門扉が現れた。気後れするアマロが手を引かれて門扉をくぐれば、透明な水底に陽光がか細く射し込んで居るような、光の垂れ飾りを思わせる幻想的な光景が現れた。
アマロは言って曰く「とても綺麗だ…そういえば、私は君の名前も聴いていなかった。私はアマロと申します。君の名前を教えて貰えるかな?」
光の回廊が現れた。回廊の奥からは高貴に着飾った夥しい数の騎士や召使の行進が迫ってくる。目前に迫った所で行進は二つに別れて壁に沿って整列した。客人を歓迎するための荘厳な出迎えであった。
美女はアマロに応えて曰く「私は貴方様のことを存じておりましたよ?…遅れ馳せながら名乗らせていただきます。私はヴィヴィアン…ようこそ私の宮殿へ…歓迎いたしますわ、アマロ様。」
美女…ヴィヴィアンはアマロの手を引いた。いや、手を握り留めたまま、二人の足元がゆっくりと動き出したのだ。
ゆったりとした速度で、螺旋を描きながら泉の水の階により、光の射し込む宮殿の上階へと運ばれてゆく二人の姿は美しいという外に無かった。
ヴィヴィアンとの出逢いはアマロにとって僥倖であった。そして、アマロとの出逢いはヴィヴィアンにとって幸甚に尽きて…それでいて二度目の出来事であった。
眉唾物語ではあるが…二人の因縁は遥か古に遡る。
その昔のこと、地の果てまでを征服せんとした大丈夫が存在した。大丈夫はある時、不思議な泉の精と邂逅した。大丈夫の傍には黒髪のそれはそれは見事な美人が侍り、大丈夫とは極めて深い仲であることが伺えた。
泉の精はブリテンの遥か遠くから現れた大丈夫に、その目的を尋ねた。
大丈夫は言って曰く「最果てを求めて幾星霜…果たして夢を目前としながら友を喪い…今や根無草の身よ。友が死んだことは分かっていたが、受け入れられずに全てを投げ出してここに来た。最愛の宝だけを抱えて、宝に連れ出されて…葛藤の海で遭難しておる。目的などという高尚なものはない…強いて言えば、そうだな自分探しだ。」
大丈夫は…いや、大丈夫とはこの時に限って言えそうにもなかった。纏う覇気にも歪みが目立っていた。鋼の如く鍛えられた厳なる巨躯にも、本来あるべき威圧感や調伏力というものがないように思えた。
その空間は不可思議であった。本来ならば交わるはずもない両者が対峙していた。
引き合わせたのは、文字通り人生に迷っている大丈夫の手を引いた…のは良いが、土地勘に疎いことも気にせずに只管直進した結果に大陸外れの島へと迷い着いたアマロの名状し難い手腕による。
アマロからすれば、らしくない大丈夫の姿も好ましいと思っていたが、しかし、それは大丈夫自身が望ましいものとは思えなかった。アマロにとっても無二の人物を喪失したのだから傷心の中にあることは二人とも同じだった。
しかし、アマロには自身の数奇な出会いの数々が必ず別れと、そして再会により因果づけられていることを、誰に教えられるまでもなく直感している。故に、彼は進み続けられる。歩き続けられる。其処には、もう一人や二人に肩を貸して、背に負うても構わぬ程の気概と、アマロには似合わぬような頼もしさや強靭さが育まれている。
時が来れば、出来ることをする。アマロにとって、今こそが大丈夫の危急だった。如何に劇烈な戦闘を勝ち抜いてきたからと雖も、アマロからすれば己を見失い、部下に当たり散らすような、まるきり破裂寸前の大丈夫の姿にこそ危篤を感じたのだ。
そして、アマロは時に思いがけない決断をする。夜の内に自分より遥かに背の高い大丈夫を、その酔い潰れて酒臭い巨躯を背負って、小船一艘と身二つで海へと出たのである。自殺行為だったが、現に二人が遥か遠くの離れ島に辿り着いたことを考えれば、思いがけない決断とはいえ流石はアマロと言うべきか。
斯くして二人は不思議な泉にたどり着いた。
大丈夫の悩みを聴き届け、泉の精は言って曰く「貴方の目的はよく分かりました…しかし、こればかりは私にも出来ることは何もありません。強いて言うならば…一心に貴方を想って、遥かな海をも越えさせた隣のお方のことを信じてみては如何ですか?」
この言葉に大丈夫は憤慨して言って曰く「何を言うか!さては貴様…たわけであるな!余がどうしてアマロを疑うのか!余の…唯一の宝を、唯一…遺された宝を!股肱と共に愛した我らの宝を…託された宝を…どうして、余が疑うことがあろうか?」
大丈夫の声は次第に小さくなっていった。
泉の精は言って曰く「だから、です。貴方は心の底から伴柄の御方を愛しておられるのでしょう…それこそ一時とて全てを捨ててしまうほどに…しかし、だからこそ…貴方はいついつ喪われるのかと戦々恐々としておられる。私にとって故人の方がどのような存在だったのか存じませんが…きっと、貴方にとっては余りにも喪ったものが大き過ぎたのでしょう。」
続けて泉の精は言って曰く「だから、貴方はこれ以上に莫大な絶望や悲痛を与えられるであろう、目の前の…貴方に寄り添うその御方の死を恐るのです。」
大丈夫は俯いて問うて曰く「では…余はどうすれば良いのか…余は、これ程にへファイスティオンの死を嘆き悲しむとは考えても見なかった。だが、今こうしてアマロを遺して先に逝った彼奴のことを悼むと…言いようのない恐れが背筋を撫ぜるのだ…。」
大丈夫は胸を張って、今度は大口を開けて吼えて曰く「今の余は、あらゆる上で情けない!!だが、どうしようもなく恐ろしいぞ!」
大丈夫は、ぐいい、と風を切るように首を動かした。
隣で八の字眉で見守っていたアマロの肩を掴んで、大丈夫は噛み付くような勢いで訴えて曰く「アマロよ!!余は恐ろしいぞ!お前が、本当はいつか余の目の前から居なくなってしまうのではないかと!ただ、只管に恐ろしいぞ…一度として、彼奴が死ぬなどと…どうして考えついただろうか。だが、現に我が最愛の同胞は死んだ!死んだのだ!…ならば、どうして御前が死なないなどと思えるだろう…余は、兄弟以上に深く心を交わした彼奴を喪った。喪って、こうして我を見失ったのだ…なら、御前を喪ってしまったら余は如何なるのだ?余は…御前を喪うことが恐ろしいぞ…。」
大丈夫の話を聞き届けたアマロは、肩に優しく置かれた大きな手を両手で包み込んで、背伸びをするように見上げながら語りかけた。
アマロは語って曰く「そんなに心配してくれることは嬉しいよ。けれど残念なことに、私はね、死にたくても死ねるものでもないんだ。それにね…ねぇ、アレク…剣を貸してよ。」
大丈夫が「否」と口にするより先に、アマロは彼の腰から短剣を抜き取ると、自らの体に突き立てた。
大丈夫は張り倒す勢いで「やめろ!!!」と咆哮したが、時すでに遅し。刃は真っ直ぐに軌道を描いてアマロの喉に突き刺さる…ことなく、肌に触れる直前で首元の黒い山羊角が眩く極虹色に点滅したかと思えば、恐ろしい程の重圧が全方位に対して放たれた。
次いで、アマロの身に纏う様々な宝物が次から次にと明滅し、怒り狂った様な叫びがアマロを震源に響響と木霊した。
一人を包み込む様に現れた不可思議は、他ならぬ当人の手によって突き進まんとする刃を根本から、それこそ枯れ草を燃やす様に崩壊させた。
柄すらも遺さずに燼滅した短剣に唖然として、言葉もなくした大丈夫の顔を両手で押さえ、瞳同士を合わせたアマロが神妙な顔で言った。
アマロが語って曰く「アレク、私を見ろ。君の心配は残念だけれど杞憂なんだ。だから、安心して君は進め。君が私を思う気持ちもよくわかる…嬉しいさ。」
「でもね、だからといって君は君自身を疎かにしていい筈がないんだ。未来…もしかしたら私も死ぬかもしれないね、けれどそんなのは君が死んでから更にずっとずっと後の話かもしれない。」
「だからね…私が言いたいことは、君が見ないといけないのはね、アレク…過去でも未来でもなくて、今なんだ。」
「説教なんかできる立場じゃないから、これは私の経験を語るだけだよ。でもね、人間が間違いなく生きていられるのは、今しかないんだ。」
「過去にも、未来にも、君はいないんだよ?私と一緒に居るのは、過去のアレクなのかい?それとも未来のアレクなのかい?…違うだろう?今、こうして私と見つめあってる君じゃないか。」
アマロはそう言うと大丈夫の頬肉を二度三度引き伸ばすように解し、微笑んでからその手を離した。
ぽけーっと口を開けて、呆然とした、恍惚とした表情で大丈夫は束の間、静かにアマロを見詰めていた。気恥ずかしげに頬を掻いて見せるアマロはあざとく、恐らくは幼い女子にも負けぬほど可愛らしかったのではないか。
瞳に雄力が宿る。大丈夫は顔を空に向けた。死んだ人間が空に帰るとは考えていない。ただ、何とも目の前の宝は守らせて貰えるばかりではなかったようで、考えていたよりもずっと頼もしい存在だったのだと…そんな驚きと発見を、せっかちにも先を逝った友と共有したかったのだ。
アマロの言葉は、或いは冷たくみられるかもしれない。けれども、大丈夫にはこれ以上なく暖かく感じられた。
ふと横に目を向けると、いつの間にか泉の精は居なくなっていた。
それから間も無く、同じような紆余曲折の末に無事二人は海の向こうの遥かに築き上げた帝国へと舞い戻った。
幾星霜の年月の先で、よく笑い、よく泣き、よく人を困らせてから、アマロの大切な大丈夫は死んだ。後悔はしないように頑張ったらしい。大丈夫は散々に迷惑もかけたようだが、アマロは自分を神とは思ってもいないし、抑、自分で万民をどうこうしようなど、世界をどうこうしようなどとは考えていない。ただ、自分の隣にいる誰かを、隣に居たい誰かの為に全身全霊で寄り添い遂げるまでだ。
また一人、見届けてから遥かな年月が経った。
そして今、あの時の泉の精…ヴィヴィアンとの再会を、アマロは思いがけずも果たしたのであった。
暫し週一投稿となりますです。理由は、今の場面は何となくゆっくり大事に書いたほうが良さげだと感じたからです。あと、前書きと後書きも以後しばらくは淡白にします。理由は、あんまり沢山書くのは良くない気がしたからです。
世の中…何が起こるか分からないものですね。僕は政治的なことも宗教的なこともココでは言いません。しかし、告知だけしておきます。皆様が忘れた頃に、次章「処女獅子は嘆かない」編を予定しておりますので悪しからず。
では、また。