B8 偶稀、代償、結縁 (後)
第三の目曰く、ヴィヴィアンは意外と頑張った。
アマロ曰く「魔法って凄いね。」
ヴィヴィアンが閨で如何な技術を披露したのかは兎も角も一夜明けて、ヴィヴィアンはモルガンを妖精族から返還してもらえる様に全力を尽くす旨をアマロに約束した。
そして、アマロは前夜に言伝た追加の御礼として、腰に佩いていた大層立派な剣をヴィヴィアンに譲った。
ヴィヴィアンは「この世に二つとない代物ですよ?」と、本当に人に譲っていいものなのかと問うたが、アマロは「城の中にあったものだけれど、私には代わりに差し上げられるものがないからね。代わりに差し上げられるものが見つかったら、その時は交換して欲しい。」と言った。
ヴィヴィアンはその優れた審美眼で、この剣が明らかに人に譲っていい代物ではないことを理解していたため、アマロの言葉を二つ返事で了承した。
アマロはヴィヴィアンからモルガンを受け渡されるまでの間、ヴィヴィアンの宮殿で逗留する事を勧められた。
剣を受け取ったヴィヴィアンはなるべく早急に返還する為に、剣を返す口実に相応しい御願いを探すことに頭を悩ませた。そんな折、記憶の片隅に山を丸々と占領しているドラゴンの存在を思い出したのである。
乱世になっても我関せずのこの紅い竜は、随分前に白い竜との乱闘以来眠ったままだった。何時の間にやら泉の近くの岩山に陣取っていたらしく、周辺はすっかり禁域の様に人っ子一人いない有様であった。
ヴィヴィアンはアマロとの一夜を通じての経験則からまず間違いなくアマロが殺される様な事はないだろうと考えた。何故かと言えば、大魔法使いであり最高等の妖精でもあるヴィヴィアンをも魅了してしまったアマロであるから紅い竜とて例外ではないだろうという、打算とも確信とも取れぬ考えも浮かんだからであった。
「アマロ様には是非とも岩山に巣食う紅き竜の気を宥めてきて欲しいのです。かの巨竜の鼾で私は大層な騒音被害を受けていますから解決して下さればとても助かるのです。貴方様がお帰りになった時に、私が預かっている剣をお返しします。これは大変なお仕事ですが是非とも成し遂げてくださいませんか。」
「勿論、成し遂げてみせるよ。その間はモルガンをよろしく頼むよ。」
「えぇ、お任せあれ。無事にお返しいたしますわ。」
斯くしてアマロの逗留から三日目、ヴィヴィアンは依頼の達成により剣を返還する旨を伝え、此れをアマロは快諾した。
翌明朝、アマロは岩山に向けて出立した。
泉の底から透き通る螺旋階段を登って地上に出たアマロは、途端に湧き出した靄に包まれて、気がつけば森の只中に立っていた。
泉など無かったと言わんばかりの光景だったが、アマロは魔法なり魔術なりには慣れっこである。特に驚いた様子もなく、寧ろ自然体で歩き始めた。
向かう先は遠望できる丸裸の岩山、その岩壁を刳り貫くように開いた巨大な洞穴の奥に潜む紅き竜の御許である。
片道数時間程の距離にその岩山はあった。岩山と言いつつも、大きさは小ぶりな丘ほどであった。森を抜けてから、その丘の中腹に開いた洞までは動物の息吹が全くと言って良いほど感じられず、不気味な静寂の中で腹の底を揺さぶる様な鼾だけが微かに、しかし鮮明に響いている。
風に飲まれない程度の音量で響くそれは、紛れもなく竜の鼾であろう。
アマロは気を引き締めて洞穴に足を踏み入れた。
洞穴の中は驚くほど湿気が無かった。本来ならばジメジメとしている筈の其処は、砂漠の中の様に乾燥した熱風で満たされていた。アマロはどうして竜の棲家に入ろうと言う輩が存在するのか疑問に思った。誰しもが竜殺しを最高の武勇伝だと口々に言った。その中にはアマロの獲得者とて含まれていようが、しかし、こうして入ってみれば竜の棲家になど常人は入っただけで生死を彷徨ってしまうだろう。行き止まりがあるとはいえ、まるで見えない太陽が照りつける砂漠のど真ん中を進むようなものなのだから。
口の中はパサパサと乾き切るだろうし、ましてやこんな中を鎧を着て歩くなど…火の海で遊泳するようなものである。
そんな些細な不思議を思いつつ、アマロは軽やかな足取りで、抑えきれない好奇心を抱きながら奥へ奥へと進んだ。
洞穴の奥へと進めば進むほど、入り口に比べて暑さが強くなっていく。アマロの体感としては真夏の照りつける太陽の下にいるような暑さであり、これを常人の体感温度に直せば煮えたぎる油で茹でられる熱さである。
アマロはやや息を切らせて、「ふぅふぅ」と色っぽく吐息ながら進み続けた。入り口にはチラホラと雑草が見えたが、奥に進むにつれて乾涸びた雑草に変わり、遂には草本も生えない有様であった。風が吹けば視界を覆う粉塵が立ちそうな乾いて細粒の砂が地面を覆っていた。入り口では石畳のように硬質な岩の地面だったが、今では歩くたびに足跡が残るように変わっていた。岩壁の風化が入り口に比べて早いのかも知れない。それだけ深部に来たと言う意味でもあった。
歩き続けて体感では約数時間。何処までも続きそうな巨大な洞道の中は途中まで真っ暗であった。それは陽の光が届かない岩山の奥なのだから当然だった。
しかし、数時間も進む頃には当たりが淡い光で照らされるようになっていた。手元くらいしか見えなかったものが、気がつけば足元も、さらに進めば数十歩先までも見えるようになっていた。
目を凝らせば、ちらちらと粉雪のように紅い鱗粉が舞っていた。不規則に舞うソレは、地面に落ちると萎むように光を失ったが、次から次に現れては辺りを照らしていた。
何処から湧いてきたのだろうか。
不思議だ。直にそう思ったアマロは、この鱗粉を辿り、その源に向かおうと考えた。奥の奥から吹きこぼれ続けるこの鱗粉の源主こそ、目当ての紅き竜なのではないかと、そう当たりをつけたのである。
紅い鱗粉を吐き出しているところは何処なのか、誰なのか。舞っては堕ちて、萎んで消える紅い鱗粉の軌跡を慎重に手繰り寄せていけば、その光の筋が奥から奥から来ていることに気がついた。
アマロは洞穴の奥の奥、より暑い方へと、更に熱い方へと進んだ。
辿り着いた。其処は一際巨大な口を開けた、まるで門のような大穴であった。門を潜り左へと続く洞道を曲がれば、件の鱗粉の主人が鎮座していることが、距離があるにもかかわらず漏れ出る熱波を伴う赤い光から容易に推測された。
足を踏み込んだ。足元からはジクジクという靴底が煮立つ音や、岩肌が焼けて濁ったような香ばしい臭いが漂い、先ほどまで疎だった紅い鱗粉も、今では手で掴めるほど其処らじゅうに舞っていた。
一歩進むごとに赤々と辺りを照らす光は熱く、常人であれば肌を泡立たせていたやも知れない。到底、人理では太刀打ちのしようがない超越的な力がその場を支配していた。そして、数十歩も進んだ所で、アマロは遂にその支配者と見えたのだ。
第三の目曰く、それは見上げるような巨躯であった。全身を紅く輝かしい鱗に覆った巨大な竜がそこにはいた。両前足を顎の下で重ねるようにして眠りにつく紅き竜。その鼻息が数多の鱗粉を産んでいた。ドラゴンにとっての穏やかな寝息はしかし、万夫からしてみれば灼熱の息吹であり、一息、一息が岩肌を灼き付け溶かした。竜の、ドラゴンの鼻先にある岩肌は無惨にも黒々と焼け爛れており、恐らくは燃え尽きた試しがないのであろう残り火が燻り続けていた。
巨大なドラゴンの全身を両瞳に収めることは難しそうだったが、しかしその身体はしなやかにして頑強であることが誰の目から見ても明らかだった。手足指は練り上げられた鋼で組まれたように緻密な鱗が覆い、剣も槍も歯が立ちそうにない。微動だにしない尻尾は壁に沿って窮屈そうに曲げられて、まるで軟体の丸太のように逞しい。表面が紅い蜜で固められたように透き通っていて美しいが、常人では触れることも叶わぬほどに強烈な熱を帯びている。
否。それは尻尾だけに限らない。全身が、ドラゴンの全身から。まるで内側から噴き出すように焔が纏わりついているのだ。透き通るまで赤熱した溶岩を身体中から滲み出しているようにも見えた。
身じろぎひとつしなくても、岩肌は爛れて、ドラゴンから離れた所で流れ落ちて溜まり、黒くて硬質な岩石に変質した状態で固まっていた。
ただ、ドラゴンの背骨に沿うように生えた黄金色に輝く鬣だけが燃えることも溶けることもなく無風の下で、炎熱に煽られるように雄々しく騒めいていた。
自然界での食物連鎖で頂点に立った人間種程度では、この威容に対して如何程の脅威となりうるだろうか。万人が崇め敬い、時に恐怖と憧憬を禁じ得ない理由も理解できよう。なぜならば、ソレは眠りつつも圧倒的な理不尽と暴力を感じさせる生命体だからである。その在り方は、最早空想の咎をも噛み砕くが如き凶暴さを湛えていた。対峙者は総じて目の前の存在から、何人にも触れ難く、侵犯し難く、ただ目の前の存在の成すことを粛々と受け入れることのみを定義された己の矮小さをしろ示されるように感じてしまうことだろう。
然る存在の前に、アマロはいた。
第三の目曰く、アマロはドラゴンの元へと気負いなき足取りで近寄った。言葉はなく、ただ穏やかな顔で足を進めた。敢えて言い換えるならば、悪意が無さ過ぎる表情であった。人はソレを、特に何も考えていない状態とも呼ぶかも知れない。
好奇心で体が動いた時のような、地を滑るように滞りのない足取りで、アマロはドラゴンの鼻先に辿り着いた。
ぽーっ、という表現が実に似合う表情であった。目の前の存在に対して堪えきれずに、背伸びしたアマロはドラゴンの鼻頭を優しく一撫でした。
ぶおーー。
手が触れた瞬間、灼熱の息吹がアマロの全身を包んだ。真っ青な火をまばらに帯びた白焔がアマロの立っていた一点上に向けて集中的に放出された。白焔は淀みなく、一瞬にしてドラゴンの寝床を天井まで届いた。火焔の勢いは凄まじく、その熱は天井を瞬時に溶かし、焔が消える頃には恐ろしく巨大な鍾乳石が天井にびっしりと生えていた。少なくない鍾乳石が自重に耐えきれず落下したが、ドラゴンの鱗を軽快に鳴らすだけであり、ドラゴンには些かの痛痒も与えた様子はなかった。
言うまでもなくアマロの立っている場所の被害が最も深刻であった。
火焔と呼ぶには莫大な質量を伴うその息吹は、ドラゴンが無意識下に続けていた寝息とは紛れもなく異質な、絶望を具現化したような威力を発揮していた。
大きく抉るような穴が空いていた。アマロの半身を埋めるほどの噴火口のように大きな窪みができていた。真っ黒に焼け付いており、未だに火が燻り続けていた。陽炎が其処彼処に立っており、腕一本分先の人影すらも歪んで見えよう。
火を吐いたのは誰か。ドラゴンである事は自明であった。ぐぐん、と敏捷な動きで畳んでいた後脚を立てて、重ねていた前脚の爪を地面に立てたドラゴンは、もたげた首を高くに上げて、高所から吹き付けるように開いた口元で、第二射となる豪炎を溜め始めた。
そこまでの挙動に戸惑いはなく、一見すれば鷹揚に侵入者と相対する支配者たる風格とは無縁であった。機械的なまでに迅速な迎撃体制を整え、剰えとどめを差して何としても侵入者を塵殺せんとする強固な意志を感じさせる一連の行動からは、寧ろ過剰なまでの臆病さを垣間見ることさえ出来よう。
ドラゴンという種族に対しての偏見は何の役にもたたない。そのことの証左を実演するように、ドラゴンはそれから何度も確かめるように豪炎を一点に向けて吐き出し続けた。塗り重ねるように執拗なまでに白焔を放出すること四度、五度を数える頃には、ドラゴンの吐き出す炎からは白い炎が姿を消していた。勢いも弱として青くなり、赤くなり、それまでの灼熱に比べれば涼しささえ感じる小ぶりな炎に代わっていた。
疲労を感じさせる荒い息を吐きながら、両足下を確かめるように踏み締めるドラゴンの仕草は、火焔による遠距離戦から、己の強靭な肉体を武器とする肉薄戦への移行を予見していることを意図していた。ドラゴンの紺碧の瞳に慢心の色は見えなかった。
第三の目曰く、ドラゴンが極めて個体数の少ない種族でありながらも存続し続けてきたのは、彼らが個体として極めて強力であるのは勿論のこと、脅威となり得るかなり得ないかに関係なく、極めて臆病かつ執拗な性質を持ち合わせているからであろう。
この岩山に住まう紅きドラゴンにとって、己の寝床に侵入者が現れる事は初めてのことではなかった。ドラゴン同士でも諍いはある。その中で、己の棲家に殴り込みを掛けてきたドラゴンがいないわけではなかった。もしも相手がドラゴンであるならば、その時は鷹揚に、あくまでも同族同士で少なからず相手との闘争に敬意を払って闘争に望んだだろう。
しかし、目の前の存在は違った。
それまで一度として同種以外が、紅きドラゴンの棲家に辿り着いた試しはなく。また同様に自らの肉体に触れられた試しなどない。一度として、である。
ましてや、眠っている自身の肌に触れられた試しなど…同族のドラゴンにさえ許した試しがない事であった。
己の洞穴の最奥、ドラゴンの寝床に辿り着いた時点で、それは脅威として認定するには十分すぎる理由であった。加えて、眠っていた、完全に油断している状態の自分の肌に触れたのである。全く警戒を抱かせずに、一摘みの殺気すら漏らさずに接近した侵入者。そんな相手は、紅きドラゴンの全生涯を通じて後にも先にも目の前の存在だけになろう。そう思える程に、紅きドラゴンにとって計り知れない恐怖の具現が正に目と鼻の先に存在していたのだ。
寝起きの浮遊感は掻き消え、冷静に直近の脅威に対処する臨戦態勢へと移行した。挙動は鋭く的確に、何より無駄と慢心を排除したものでなければならなかった。相手が自らよりも矮小な存在であると分析する理性とは裏腹に、野生的でどこまでも摂理に従順な本能からの警鐘を優先して行動した。そこに容赦は存在しない。冷酷無慈悲という感覚とは異なる、一種悲壮なまでの必死さを感じる対応であった。
ドラゴンは力の続く限り焔を吐き出した。気配を感じる一点に向けて、只管に浴びせ続けた。
岩場が泡立ち悶えるように鳴いていた。超越的な熱に炙られて無惨にも辺りはドロドロに溶けるか中途半端に冷え固まった歪な岩石群が散乱していた。燃焼に次ぐ燃焼によって足りなくなった酸素を呑み込むように、ドラゴンの寝床へと続く気流が形成されて、岩山の外にまで轟々と凄まじい遠吠えが響いていた。
次第に燃焼が収まり始めると、今度は一寸先も見えない程の煙が充満した。火の勢いが弱まったものだから、邪魔するもののいなくなった其処で広々と幅を利かせ始めたのだ。
ドラゴンは動かなかった。否、動けなかった。目の前の煙幕の奥を凝視していた。その紺碧の瞳で、唯の一点を凝視していた。
影が、見えた。
影が動いた。前へと、ドラゴンの元へと。
形もわからなかった黒い影が、毎瞬形を持っていく。煙幕で漂う虚像が、明確な形と共に実像へと立ち替わる。次第に輪郭がはっきりと見えて来る。顔の無い脅威の正体がドラゴンの前に立っていた。
全裸で。
第三の目曰く、男は言った。
「断りも入れずに触ってしまってごめんなさい!乙女に対して余りにも失礼だったよ。こんな風に肌蹴てしまっていては誠意も何も無いのだが…。本当にすまない…思慮が足りなかった。本当にごめんなさい。」
男…アマロの姿は肌蹴るという言語表現を用いるのに必要な文化的に最低限度の布面積さえも喪失してしまっていた。だが、敢えて言葉を選ぶとするならばそれ以上のものがないのだから仕方あるまい。
当然だがアマロの持ち物は古来から身に纏っている装身具を除いて本当に何も残っていなかった。磨き抜かれた裸体は無傷であった。その素晴らしさには美術的な価値を認めざるを得ず、しかし、不思議なことにある一定の条件を満たして許しを得た者が見れば忽ちに情欲を誘う淫靡な造形をしていた。
首元には黒い山羊角が輝いており、憤慨するように明滅していた。左の手首に巻かれた紫玉にも傷はなく、耳元に添えられた青い花にも欠けたるところは見られなかった。他にも幾つか見受けられたものの、装身具が霞むほどにアマロの肉体は隔絶した魅力を放っていた。
その魅力は正に理不尽な暴力であり、その理不尽の前にはドラゴンも沈黙する他なく、その紺碧の瞳はアマロの邪竜に釘付けであった。形や大きさもさることながら特にその点に気を取られているわけでは無い。どうにも真性の神秘の気配をドラゴンはビンビンに感じて警戒していたらしい。秘めたるものの莫大さは比肩するところがなかった。正に宝具と呼んで差し支えなかろう。否、差し支えはあるのだが。
隠すべき部分を隠す事なく堂々と降臨させつつ、己の身形になど脇目も振らずに誠心誠意謝罪に励んでいるアマロは滑稽ではあった。しかし熱意は伝わった。
第三の目曰く、アマロの謝罪は一旦の終わりを迎えた。
暫く頭を下げたまま、ドラゴンの目の前で直角に腰を曲げて平謝りしていた。無論、全裸であった。
一通りの謝罪を終えて、未だ申し訳なさそうな表情のアマロはその場から動かないように気を配りつつ、努めて優しい声でドラゴンに語りかけた。
「謝罪を受け取って欲しいなんて虫のいい事は言えないけど、少しだけ私の話を聞いて貰えないだろうか?」
呆然と警戒を半々にしたドラゴンは先ほどから沈黙を守っていたが、アマロが顔を上げたことにより姿勢を低くした。
アマロは申し訳なく思いつつも続けた。ドラゴンはアマロの顔…より下にある邪竜の方を凝視していた。
「実は山から離れた泉の精から頼まれていてね、君を起こしにきたんだよ。そのぅ…乙女にこんなことを言うのはとても心苦しいのだけれど、君の鼾が随分と聞こえていたみたいなんだ。でも、余所者から起こされる事は腹立たしい事だからね。君さえ良ければ…私を生贄だと思って好きにして貰っても構わない。」
出来れば時間は有限でお願いしたいのだけれど、という言葉を最後に付けて、アマロは全裸のまま身を差し出すようにゴロリと横になった。
ドラゴンは困惑した。
アマロは「さぁ、お食べ」とでも言うように、至極穏やかな表情で仰向けに横臥している。あっ、コラコラ、そんな所をぴこぴこさせるんじゃない。
ドラゴンは困惑した。
横臥するアマロを前にして、彼女は本来ならば滴るはずもない冷や汗を噴き出すような気分であった。そもそも、鼻先をひと撫でしただけで雌雄を嗅ぎ分けている時点で目の前の存在が異常であることは間違いがなかった。
それから暫しの間、ドラゴンとアマロの間には妙な沈黙が続いた。アマロは自分が死なない以上は何を差し出しても誠意が足りないだろうと考えて、文字通り全身を捧げているつもりである。対して、ドラゴンからすれば竜生において比較対象の存在しない脅威が何をして来るでもなく、己の目の前で無防備に寝そべっているのだ。ドラゴンは言い知れない恐怖と困惑に呑まれていた。
更に数時間の後、アマロは鼻提灯を浮かべながら眠ってしまった。眠たくて寝た訳ではなかった。ドラゴンが自分に何もできないのは、自分を警戒しているからだと気がついたからであった。だからといって眠りこける事を選択する辺りの価値観の相違は置いておいて、ドラゴンはアマロの堂々たる眠りっぷりに寧ろ感心していた。
警戒心を解く代わりに、観察に努められる程度には緊張感を和らげたドラゴン。彼女にとってアマロというものは興味深い存在だった。数メートルの距離を置いてドラゴンは眠りこけるアマロの顔を覗き込んでいた。何人にも許してこなかった肌に初めて触れた存在が、まさか同種ではなく、ましてや人間でもない不可思議な存在だったのだから。
隙を見せる事は無かった。弱肉強食の理こそ絶対であり、その通りにドラゴンは生きてきた。誰にも憚る事なく暮らしてきたが、その内心には常に過剰な臆病が蟠を巻いていた。彼女にとって、脅かされないことは、即ち何人にも脅かされうるという事だった。圧倒的な存在はあまりにも眩しく、周囲の全てに対して恐れと畏れを振り撒く。望む望まずに関係なく、ドラゴンとして生まれたからには常にその恐怖との闘争を続けなければならなかった。
数百年か、或いは数千年か。ドラゴンの長い生涯を振り返っても目の前でのほほんと眠る存在に勝るような脅威も、そして興味も抱いた事は無かった。ドラゴンにとって紛れもない未知が目の前にいた。
第三の目曰く、紅きドラゴンはアマロを我が身に抱いて再び眠りについた。岩をも溶かすような熱は朗らかな陽気に変換されて、アマロに心地よさと安心感を与えた。アマロを抱いているドラゴンにも心身が火照るような感覚が生まれていた。初めて感じるそれは、恐らく前例のない感覚だった。
だが、その感覚を解明できぬままにドラゴンとアマロは身を寄せて休息した。屢々人間大の鍾乳石が崩落する洞窟の中、優しく気負いない寝息が二つ絡まるように木霊した。
第三の目曰く、ドラゴンは己を前にしても自然体でいるアマロのことを大層気に入った。帰ろうとするアマロを、帰すまいと剛腕で抱きすくめては数日単位で眠った。アマロも、抱きすくめられれば快く寝床を共にした。というよりも、ここ暫くのアマロの寝床はドラゴンであった。
奇妙な同棲関係はドラゴンが何としてもアマロを帰すまいと動いた事で早くも一ヶ月が経った。
食事を必要としないアマロは、人間種なのに大丈夫なのかとドラゴンに心配される始末であったが、これ即ちアマロとドラゴンの間には当初の緊張が全く解消された事を意味していた。
そうして更に一月が経つ頃には、昼と夜となくドラゴンはアマロの側から離れることがなくなっていた。片時と離れずに、ピッタリと体を合わせていなければドラゴンは地団駄を踏んだ。ドラゴンの癇癪で鍾乳石がアマロの頭めがけて落ちてきたことも一度や二度のことではないが、その度に落としたドラゴン本竜が庇っているので問題は起きていない。
二月も経てば、ドラゴンはすっかりアマロに夢中だった。ドラゴンは言葉を話さなかったがアマロの言葉をよく理解した。ドラゴンが好きで堪らないという様子で喉を鳴らすようになったのは最近のことではないので、あっと言う間に懐柔してしまったとも言えた。
しかし、懐柔するつもりはアマロには全くなかった。寧ろ、己を抱いて眠る彼女の無聊を慰めようと気を配っていた。言葉が返ってこなくてもアマロは気にせずに語りかけ続けた。側から見れば不気味なほどドラゴンに語りかけては嬉しそうにしている美丈夫という残念な画になるかもしれない。無論、アマロにとってみればドラゴンの細やかな反応、それこそ喉を鳴らすだとか、アマロをガシガシと撫でる仕草から彼女の感情を的確に読み取ることなど朝飯前であった。
抑、アマロにとってドラゴンと暮らす事は初めてでは無かった。その上、これ迄に太陽神やら巨大なタコ、ヘビ、オオカミやらとも番になった経験があるアマロからすればドラゴンとの同棲など大した気負いすら必要としない事である。
故に、ドラゴンからの愛情表現に応えることも全くも以って吝かでは無かったのである。
第三の目曰く、ドラゴンは己の中に生まれた火照りを明確に意識し始めていた。それは、同棲生活開始から三ヶ月が経った頃のことであった。
ドラゴンにとっての三ヶ月は、アマロという存在への理解が深まった三ヶ月だった。そして、己がアマロという存在に対して抱いている強烈な感情に対する理解をも深めた三ヶ月であった。
ドラゴンは悟った。己はアマロという存在を雄として見ているのだと。本来ならば有り得ない話だった。だが、ドラゴンはすっかりアマロの事を己の番として認識していた。この雄の卵を産む事が己の役目であるとまで考えていた。そして、この雄と同じ人間種に己が身を近づけてみたい、とも。
前者に関してドラゴンは可能であろうと考えていた。だが、後者に関しては面倒な手続きが必要であった。そして、後者の条件を全て満たす頃には己は生きていないだろうと思われた。
ドラゴンとて永遠の命をもつ訳では無かった。終わりは確かに存在しており、そして彼女にとっての終わりとは、然う、遠い話では無かった。紅きドラゴンが番を求めようとしてこなかったのは単に、己に相応しい同種を見出すことが終ぞできなかったからであった。しつこく付き纏ってくる同種のことは嫌というほど見てきたし、返り討ちにしてきた。だが、己の全てを捧げたいと、子を産みたいと思えるほどの雄とは終ぞ巡り会えなかった。
傷一つなく頑強無比の孤竜として君臨し続けてきた彼女の生き様こそ、その証拠だった。その在り方は多くのドラゴンを惹きつけて止まなかったが、同時に何人にも侵されざる存在として誰一人彼女のお眼鏡に叶う事は無かった。紅きドラゴンは孤独だった。若い頃は何の問題もなかった。強靭な己こそが全てであり、己こそが最も美しく素晴らしいものだと確信できた。だが死期を悟った今や、孤独とは耐え難い苦痛であった。終わりに向かうだけの、その最期の瞬間まで衰えざるドラゴンにとって、誰よりも強く美しい自分の最期が誰よりも孤独であることに紅きドラゴンは絶望を禁じ得なかった。
超越者として凡ゆる生命を凌駕しておきながらも、ドラゴンは孤独を克服する事なく死んでいく。その筈であった、だが今や彼女には違う運命が拓かれていた。それは僥倖であり、何よりの救いであった。突然に終の棲家に現れた人間種の男はこれまでに見たことがないほどの未知であった。同種にも触れさせたことのない無防備な肌を撫で、紅きドラゴンの全身全霊の火焔を受けても傷ひとつ負わなかった。剰え、紅きドラゴンのことを人間のメスに呼びかけるように、まるで心の底から可憐な令嬢を遇するように語りかけたのだ。紅きドラゴンはあまりの出来事に目を回した。
数日経って知った男の名前はアマロと言うらしかった。紅きドラゴンは目の前の男の化けの皮を剥がすのも一興だと思い、力一杯に抱き寄せて眠ったり、態と熱い息を吹きかけたり、口の中に突っ込んだり、尻尾で振り回したり…兎に角思いつく限りにのちょっかいをかけた。果たして結果はどうだったか、アマロは楽しそうにキャッキャっと喜んだり、或いは眠ったまま起きなかったり、逆に耳に息を吹きかけてきたり、口に入れて時には意趣返しで唇を奪っていった。全く、とんでもない雄だと紅きドラゴンは思った。
そして、気がつけば喉を鳴らしてアマロの帰りを阻んでいた。縋るように抱き寄せて甘える己の姿を、出会ったばかりの時の紅きドラゴンが見れば間違いなく閉口して気絶したことだろう。それくらいに、紅きドラゴンの心は容易くアマロのものとなった。アマロは恋人だとか夫婦だとかという便宜上の関係はそこまで気にしていないが、愛情を向けられれば返すことを良しとしていたため、喜んでドラゴンに愛情を表現した。紅きドラゴンが喜んだのは言うまでもない。
そうして身長差が甚だしい恋仲の生活は続き、終わりの予感は唐突に訪れた。終わり。この場合は二つの道があった。一つはアマロの帰還、もう一つはドラゴンの死期であった。そして、歩みの先に待ち構えていたのは後者だった。
第三の目曰く、紅きドラゴンはアマロに懇願した。最初で最後の、人間の言葉での告白であった。
ある時、紅きドラゴンは眠るアマロを揺さぶった。驚くこともなく、パチリと瞳を開けたアマロを見下ろす紺碧の瞳には涙が溢れていた。
アマロは静かに項垂れる紅きドラゴンの鼻先を撫でた。外は真夜中であろうに、ここは真昼のように明るかった。光源であるドラゴンの喉奥から、一度、音が消えた。
そして、アマロの耳元で囁くように声が聞こえてきた。とても綺麗な声であった。
声の主人は紅きドラゴンであった。淡々と、しかし、安らぎを与えるような声音でドラゴンは語った。
「アマロよ、強き雄よ、貴方との番になりたい。貴方との間に子孫を遺したい。」
「私にはもう幾許かの時間も遺されていない。だから、貴方に私が生きた証を遺したい。私は貴方のおかげで孤独から解放された。私はもう直に終わる。けれど、貴方は終わらない。これからも、貴方は多くの番をもつことだろう。多くの誰かを救う分、多くの誰かから奪いもするだろう。貴方はこれからも続いていく。」
「私は貴方に私を遺す事はできない。けれども、私と貴方の間に生まれた子は私の生きた証となり、この子が産んだ子がまた、私と貴方の生きた証になり、私と貴方の間に生まれた子が生きた証となる。生き物とはそう言うものだ。」
「だから、私は貴方の為に、貴方に道の続きを遺そう。何処までも続く貴方の道の、ほんの一歩であっても。貴方の道に、私との消えない轍が遺るのだから。」
ドラゴンの独白に対して、アマロは瞳を閉じて答えた。ドラゴンは優しげに微笑むアマロにのしかかり、出会った頃に比べると遥かに弱々しげに焔を抑えてから、アマロの鼻先と己の鼻先を合わせた。
アマロは紅きドラゴンを受け入れた。
三夜の果て、紅きドラゴンは新しい生命を胎に宿した。そして、四日目の朝にアマロが目を覚ました時、辺りは真っ暗であった。
忽然とドラゴンの姿は無く、代わりにアマロの腕の中にすっぽりと収まるようにして人の赤子ほどの大きな真紅に照り輝く卵のみが遺った。
アマロは問いかけた「もう行ってしまったの?」と。
見上げるような巨体は影も形も残らずに消えて無くなっていた。高い天井にアマロの声がよく響いた。
第三の目曰く、アマロの旅立ちから三日が経つ頃には、仕事の早いヴィヴィアンはモルガンを取り返していた。だが、中々帰ってこないアマロのことが次第に心配になり、虫の知らせのようにマーリンを呼び寄せた。苦肉の策であったが、ヴィヴィアンの警戒とは裏腹にマーリンは協力的であった。
ドラゴンを前にしては、魔法使い二人でも厳しいところがあった。結局、協議の末にアマロの帰りを待つことになり、待つ間に幼いモルガンの隅々までを研究することになった。ヴィヴィアンとしても、妖精たちが執拗に取り返そうとしたモルガンには興味があり、何よりマーリンに任せておけばロックなことにはなるかも知れないが、碌なことにならないのは明らかだったからだ。
対してマーリンもヴィヴィアンの監視の元ではあまり踏み行った研究は出来ないと思ったが、しかし、何か新たなことがわかればモルガンを騎士の王として据える計画を革めても良いと考えていた。というのも、アマロだけが知らないことではあるが、マーリンはアマロの家出と共にイグレインに魔法をかけてアマロの本心を聞き出しており、少なくない負い目をアマロに感じていたからである。しかし、モルガンに対する負い目自体は感じていなさそうな点に、妖精の血を感じる点には辟易を禁じ得ない。
両者共に事情は様々であったが、途中から明らかにモルガンの秘密に迫ることに夢中になった事はマーリンもヴィヴィアンも同じだった。
初めの一月で粗方を調べ尽くした両名はそれぞれが、アマロを待つ間の無聊をモルガンで解消することにした。もしもこの魂胆を知れば、温厚なアマロでも顔を顰めたことだろう。
果たして、続く二ヶ月間でヴィヴィアンはモルガンに妖精族の扱う魔術・魔法の真髄を徹底的に教え込み、マーリンはモルガンに妖魔の持ち得る狡猾で妖艶な術を本能で実現できるようにと素養を鍛え続けた。片手間に行われたえげつない行為を、ヴィヴィアンとマーリンはその妖精の血に従って嬉々として実行した。
そこに悪意はなかったが、明確な愉悦が渦巻いていた事は言うまでもない。赤子に教え込む、赤子を鍛えると言っても直接どうこうするまでもなく、大魔法使い両者の手によって緻密で複雑な魔法をモルガンのより本能に近い部分に流し込み続けることであった。曰く、素養の醸成に関して当代随一のキングメーカーの右に出るものはいなかった。千里眼を用いた所で、全ての悲劇を回避できる訳でもなし。万事が操者次第であり、殺意も悪意もないマーリンの、当の本人にすら理解不能な魔性の悪辣なる烈業を恨むことなど、アマロは思考の端にも上げないことだろう。ただ、真正面から立ち向かう業の担い手に並び、その苦痛と歓喜の前に身を晒すのみである。
アマロとその腕に抱かれた紅き卵の帰還により、モルガン魔改造の夜は漸く日の出を迎えた。例え手遅れであったとしても、マーリンは構わなかった。それで苦悩するアマロのことをマーリンは本気で心配するし、瀕死の誰かの為に悲しみに暮れるアマロに縋られれば喜んで死地にも赴くことだろう。否、寧ろ頼られる事は何よりも甘美である。マーリンは純粋に喜ぶ自分の姿に苦笑した。ヴィヴィアンもまたマーリンと同質の思考を持っていたが、しかし、その趣を異にしていた。
とはいえ、何にしろ事情を知らぬ全裸のアマロが人間の赤子ほどの大きな卵を持ち帰ったことで、ヴィヴィアンとマーリンは大歓喜し、アマロは久方ぶりに目にするモルガンの姿に大号泣した。
第三の目曰く、アマロとモルガンとマーリン、そして真紅の卵はヴィヴィアンの元を後にした。
アマロの帰還から数日間逗留したのち、マーリンの魔法により風に流されるように一行は飛び、ヴィヴィアンの泉から王城の一室に向けて帰路に着いた。
一行が帰路についてから数刻、ヴィヴィアンはアマロに剣を返すことを忘れていることに気がついたが、泉から離れられない身であるから、何にせよアマロが再び訪れるまで待つことにした。水底の宮殿で安楽椅子に座り胎を摩るヴィヴィアンの表情は淫貪なまでに晴れやかだった。
第三の目曰く、ブリテンの始まりと終わりは近く、然るべき時とは全てが揃い、全てが孵る時であろう、と。
第三の目曰く、モルガンが一歳を数えた日に真紅の卵の殻にヒビが走った。
片時と手放さず、毎晩アマロが我が身に抱いて眠った卵が孵った。卵から産まれたのは一歳児ほどの大きさの赤子であった。
金髪碧眼の赤子であった。
赤子はアルトリアと名付けられた。
すんごい難産でした。一万字近く書き直しましたが、何とか書き切れてよかったです。では、また。もんなみはー。