アルトリアと呼ばれる少女には父がいる。一人は血統上の父であり、もう一人は戸籍上の父、そしてもう一人は彼女の養育を担った父である。この際、そこに別段に複雑な事情などなく、単純自然なモノとして受け取っていただければよい。
一人をアマロ、もう一人をウーサー、そしてもう一人をエクトルと言う。
「彼女」と申したように、アルトリアは女性である。彼女を育てたのは養父エクトルとその息子ケイであったが、しばしばアルトリアはアーサーと呼ばれた。
というのも、エクトルの言うところではアルトリアは行く行くは義兄ケイが養父の騎士爵を襲爵するのに伴い、晴れて騎士となったケイの従僕アーサーとなるべくして育てられているのだと言い聞かされたからだ。
今のうちに慣れておくように、ということらしい。純朴なアルトリアは養父の言葉を素直に信じ、自ずと公の場では…とは言っても養父の下賜された所領の巡回と称した散歩を指す程度なのだが…騎士エクトルの末子アーサーと名乗り、家屋の或いは私的な場面においてはアルトリアの自称を使い分けるようになった。
アルトリアという人間の住まう世界はこの時点ではまだブリテン島の片隅にのみ限られていた。それは決して広大とは言い難く、また彼女の知る世界とは老騎士エクトルが彼女の主君であるウーサーから与えられた所領のみであり、百人程が暮らす村を除けば馬で駆ければ一日で踏破出来てしまうような小さな森だけだった。アルトリアは血生臭い戦場も、野心や嫉妬や憎悪が渦巻く宮廷の権力闘争も知らない。
彼女の知る世界とはブリテン島の片隅でひっそりと営まれる中世騎士の耕された土の香りがする代り映えのしない日常であった。
その日常の中で彼女は育ち、自分の生きる世界を狭いとも、広いとも疑ったことはなかった。ただ、時折耳のするサクソン人やピクト人の略奪や野蛮な噂に対する嫌悪や、ウーサーや彼と共に外敵と戦ってきた騎士たちの武勇伝への憧憬を胸中に揉むこともあった。だが、決まってそう言う類の憧れや焦燥、嫌悪といったものが彼女を大きく変えることはなかった。また、何か激しい衝動に任せた行動を起こさせたりすることもなかったのである。
アルトリアの生きる世界は決して広くない。だが実際のところ彼女の生きる何処かは決して生死が煩雑に行き交う修羅場から遥かな安全地帯でもなかったのである。だのに、一時とはいえそのような喧騒から離れ、長閑で平穏な何処かで育ち養われたという事実は彼女にとって早々に忘れ去られるものでもなく、しかして強烈な刺激や、劇的な誘惑を前に縋りつくような…それら以上に夢を思い描ける拠り所にはなり得なかったのである。
それはとても非難のしようがない事実であった。彼女の生きる世界とは平穏であったが何か夢のような、人生を懸けるに足るような莫大なものを求めれば与えてくれるような環境ではなかったのである。
果たして、彼女の前に突如として現れた栄光の道があったとして、彼女はそれらを振り払えたのだろうか。
「それまで浴びたことのない熱視線は私を貫き、祝福の歓呼が言葉すら交わしたことのない貴人たちから惜しみなく振舞われた。」
「英雄の誕生に謝して主を讃える神官の祝詞が歌声の如く響き、用意された美酒、美味は元の通りの全生涯を顧みた時に果たして私の口に届いたのか、どうか。」
「生まれの改かな美男美女のみが集められた世話役が、耕土の匂いの染みついた私の衣服を清め、金銀に飾られた鎧兜で私の身を貴めた。」
「私を囲んだ誰しもが満面に笑みを讃えていた。幸福か、安堵か、愉悦か。何れにせよ、痛苦とはかけ離れていた。快楽があり、刺激があった。」
「たった一時が幻想のように感じられた。掛けられた試しのない美辞麗句が私を襲い、身に浴びたことのない期待と祝福が私を包んだ。」
「教会の尖塔を見上げれば光が私に降り注ぎ、周囲の人々は歓声を上げた。」
「口々に、彼らは言った。神が望んで居られるのだと。」
「兜は私の視野を狭窄にした。鎧が重く私を拘束していた。陽の光が中天を突き、眩い熱が私を灼いた。」
「押し付けるように腰に佩かれた剣は何も言わず、鉄に包まれた狭い視界の隅に女の姿を見た。」
「白髪の女は目を見開き、私のことを見ているようだった。…いや、私ではなかった。私の腰に重く垂れた剣を見ていたのだ。」
「滑稽なほどに身を飾られた私に負けないほど、その女は華美で煽情的なドレスを身に纏っていた。だが、女の意思ではないのだろうことは明らかだった。」
「女は不格好なことを承知で腰に剣を佩いていた。細剣ではない。肉厚の騎士の剣を佩いていた。」
「女は射殺すように剣を見つめていた。私はいたたまれなくなり視線を外した。祝福と豪奢な饗宴の中にあって女は異質であり、そのことに私は困惑した。」
「ふと、違和がなくなったことに思い至りあたりを見回すと女はいつの間にかいなくなっていた。」
「女がいた場所には、腰にあったはずの騎士の剣が乱雑に打ち捨てられていた。」