08黄金色の伴侶 前編
真夜中に、ウルクの民が上げた高らかな喜びの声は、豊穣と美の女神イナンナの目を覚ましてしまった。
美しいことをなによりも大事であるとして、自らが美しいことが全くもって然りであると断ずる、この女神は機嫌が頗る悪かった。
寝ぼけ眼で見つめた空には、何と月がないではないか。
イナンナは今日がきっと、最も美しい新月の日に違いないと早とちりすると、愛牛グガランナに乗って神々の神殿の端まで行くと、ウルクの街で、まだ起きている巫女を探した。
巫女を探すことしばし、太陽神シャマシュのいびきが三度聞こえた頃に、イナンナは一人として巫女が起きていないことに気づいた。
腹を立てたイナンナは、ウルクに生きる者の中で、巫女を務めている人間の中で過去にも未来においても最も美しい者を、最も醜い者に変えてしまう呪いをかけた。
イナンナは清々したと、湿り気を帯びた息を一つ吐き出してから、再び神殿に戻り二度寝した。グガランナは神々の神殿の端で、一晩忘れ去られてしまった。
ギルガメシュとアマロは宮殿に入ると、煌びやかな黄金が飾られた美しい宮殿の、一際素晴らしい王の座に導かれ、王ルガルバンダとその廷臣達に歓迎の儀を催されていた。
ギルガメシュは父王に「ただいま戻りました。ここにおわす御方こそ、古代のマルドゥーク王にも奉戴されし、神秘に愛されし黒曜石の希望、その人でございます。」と改めてアマロを紹介した。
アマロは「こんばんは、貴方が今の王様であらせられますか。マルドゥークの時は大変お世話になりました。まさかまたこんな機会があるだなんて…また旅に出なくて良かったなとつくづく思います…。」としみじみと言った。
王と廷臣達は「おぉ、この方こそ正に、伝説の黒曜石の希望であらせられるか…。なんと有難い。なんとお美しいのだ。」と目を見開き、中には涙を流して祈りを捧げているものもいた。
王ルガルバンダは威儀を正すと、「改めて、貴方様の御名前を教えていただけませんか。私は神々の僕にして、ウルクの王、女神リマトニンスンの夫、そしてギルガメシュの父であるルガルバンダと申す。」と恭しく名乗り、アマロは問いかけと名乗りを受けて「いえいえ、こちらこそ改めてご挨拶いたします。私はアマロ・カジャタムと申します。貴方も、また良いお子さんを産んでいただいたのですね。」と誠実に答えた。
ふと引っ掛かりを覚えたルガルバンダは、その疑問を問おうとして、ギルガメシュの声に遮られた。
ギルガメシュは言って曰く、「アマロ様は、お子様がおられるのですか?」と。
アマロはギルガメシュが初めて見るような、寂しげな、しかしそれを上回る愛おしさと懐かしさが込められた表情と声音で、「うん。子供がいたんだけどね。今はもう居ないんだ。」と答えた。
ルガルバンダは「アマロ殿…申し訳ないことを聞いてしまったな…どうか、今日は宮殿で休まれよ。今、急ぎ神殿を建てておる。貴方が落ち着かれるように、ウルクの名士達が国一番の宝で作り上げているから、どうか待ってくだされ。」と言い、衛士と侍女にアマロを部屋に案内するように言いつけた。
案内の者がアマロを手で促したが、アマロは不満げにもせず、ただ淡々と「王ルガルバンダよ、お気遣いはとても嬉しいのだが、私はギルガメシュと不別の誓いを立てているのです。」と、ギルガメシュと繋いでいる手を胸の高さまで上げることで答えた。
ルガルバンダは「不別の誓いですかな。では、いつまで別れずにいるのですかな。」と問うた。
今度はアマロではなく、ギルガメシュが答えて、「ボクがアマロ様を心の奥底から、少しの残滓なく求めなくなるまで、です。」と言った。
廷臣達の中には「それでは、ギルガメシュよ、王の子よ、貴方は執務の時や祈りを神々に捧げる時でさえ、アマロ様と共にあると言われるのか。」と言うものもあった。
これに対してギルガメシュは「無論です。ボクは、ボクが知る限り、片時も、一生涯のアマロ様を知って以来の始まりから、その終わりに至るまでの間、決して離れるつもりはありませんよ。」とさも当然の表情で答えた。
廷臣達は何か言いたいのかも知れなかったが、ルガルバンダはこの、賢くも勇敢でもあるが、どうしても人を見下すところの直らない息子を、しかし大切に思っていたので、廷臣達の不満を手で制すると、「アマロ殿、ギルガメシュは貴方様によく尽くすでしょうが、時としてよく甘えるでしょう。どうか息子をよろしくお願いします。」と、軽く頭を下げて見せた。
ギルガメシュもこのことには流石に驚いたが、アマロは驚くこともなく「いえいえ。心配なさらずとも、ギルガメシュは立派な王に成長しますとも。私はただ、ギルガメシュの隣で、立っているだけですから。」と微笑んで答えた。
ルガルバンダはギルガメシュの部屋にアマロを案内するように侍女や衛士に命ずると、目頭を抑えて玉座を辞し、妻リマトニンスン神の神殿へと向かった。ルガルバンダはそこで、「おぉ、我が妻よ、リマトニンスンよ、お前の夫は役目を果たしたぞ、お前の子はよく学び、よく愛を知ったようだ。世継ぎも何を気にするものぞ。あの子らがきっと、ウルクを導くことだろう。」と妻に報告した。
妻のリマトニンスンは「あぁ、よく…よく頑張りました。貴方はよく働かれました、よく戦われました。ギルガメシュはきっと、私たち神と、貴方のような良心に認められた人間を繋ぎ止めてくれるでしょう。あぁ、よくここまで耐えましたね。」と言うと、神殿から自ら出てきてルガルバンダを抱擁した。
あれから十度目の新月を前にして、ルガルバンダはリマトニンスンの神殿の階を昇り、二度と玉座に戻らなかった。
凱旋の儀式の後、ギルガメシュとアマロは共に宮殿での暮らしを楽しんだ。
ギルガメシュはどんな時もアマロと共にあった。アマロもまた、ギルガメシュと共に過ごす時間を何よりも楽しんだ。
ギルガメシュは宮殿で父王ルガルバンダの涙を見て以来、以前に比べてずっと長く、この深慮な老王と共に過ごすようにした。心の距離を近づけた父と子は、まったくもって理想に叶った関係とは言えず、やはり神の血を受け継ぐギルガメシュは、アマロ以外の前では、例え父親の前であっても、決してその心の底を覗かせなかった。
時として見下し、時としてあしらい、だが決して互いに嫌い合っているわけではなく、むしろ父親であるルガルバンダはギルガメシュに父親らしい愛を注ごうとしていた。
ルガルバンダのというよりは、人間の何たるかすら知恵の神エンキの全てを見通す瞳により、労せずとも理解してしまうギルガメシュは、父の情けない姿を、父親らしく子供の成長に一喜一憂する姿に、飲み込み難い気恥ずかしさを感じていたのである。
古老曰く、「ギルガメシュ様は思春期であらせられる。」
不治の病と言ってもいい。ギルガメシュは悩みつつも、少しずつ父との間に石の橋を積み上げていたのだ。そのような中で、父ルガルバンダはあまりにも穏やかになくなった。
ギルガメシュは歩み寄り切れなかったことを悔いとせず、しかし、父ルガルバンダの満足げな死に顔に何とも言えぬ不満足を覚えたのであった。
時は頼まれずとも経ち、ギルガメシュの肉体は美しく頑強に完成の形を見せ始め、顔は可愛らしいものから凛々しく立ち込めるような魅力に満ちているものへと成長した。声もまた雄大で聡明な青年王に相応しいものへと成長し、その瞳は僅かに険を帯びてこそいたが、それはギルガメシュが王としての器を構築するまでの過程で、アマロとの時間を割かなければならなかったことに対する苦痛に耐えるための変化であった。
ルガルバンダの死を経て、ギルガメシュはウルクの王となった。ギルガメシュはアマロから離れることを断固拒否し、王の最側近として大神官の地位を与えた。
ギルガメシュは父の死に際して心を乱した。その未熟な奔放さと怒りに任せてウルクの民や廷臣達の些細な不手際を厳しく詰問したり、ウルクの民の生活を脅かすような豪遊をしたりしようとした。
だがギルガメシュは結局このような、実に愚かな暴君の所業を、一度として行うことがなかった。何故ならば、唯一の心の支えとも言えるアマロがギルガメシュの側に常にいたからである。
凱旋式から十度目の年の暮れのことであった。
父の死に心を乱したギルガメシュは亡骸が母リマトニンスンの神殿に捧げられ、その昇天を目に焼き付ける前に、宮殿の私室へと逃げ込んだ。
死というものに初めて触れたギルガメシュは涙を流さなかったが、体を酷く震わせて、怯えた様子で傍に寄り添うアマロへと問いかけた。
ギルガメシュはか細く風が漏れるような息を頻りに吐いたり吸ったりしながら「アマロ!父は死んだ!死んでしまったのだ!これが死、なのか!あぁ!アマロ!我のアマロよ!どうかいかないでくれ!どうか、どうか我と共にいてくれ!側に居てくれ!我が、我が死ぬまででいい!それまででいい!だから、どうか我の瞼が二度と開かなくなるまではそこに居てくれ。我の耳が、もう死の足音しか知ることができなくなるまで、その優しい声で囁いてくれ!」とアマロの胸に顔を埋め、縋りついて言った。
アマロは「ギル。大丈夫。私はここにいる。君は私が必要で無くなってしまったのかい。それとも、君は私にどこかへいってしまって欲しいのかい。」と諭すように問いかけた。鼻水まで垂らしたギルガメシュの顔を、その大切な獅子の皮の毛布を惜しげなく汚して、清め、瞳と瞳を合わせて諭すアマロの声に、頑なに瞑られていたギルガメシュの瞳は恐る恐る開き始め、そしてアマロの美しい瞳を目にした途端に、体を虫が這い回るような、絶えようもない不快感や恐怖感が綺麗に消えて無くなり、それどころか怯えた瞳の様子はすっかりトロンとしてしまった。
年頃の娘が見れば、言葉もなく虜になるだろう色気を滝のようにアマロへと注ぐギルガメシュ。アマロは少しも美貌に揺らぐことなく、ただ真っ直ぐと、大人というには幼すぎるギルガメシュの瞳の奥、その心までを見つめて語りかけていた。
ギルガメシュはアマロの瞳を通して自らの瞳の奥に潜む、心に邪な者達は口汚く罵るような、とても王としての矜持には不似合いなほどに、沸々と煮立つ情動を自覚し、その衝撃を受け止め切れずに我に帰った。
ギルガメシュはこの一件から、より一層、アマロから離れようとはしなくなった。そして傲慢な王の仮面を被るようになった。きっと、離れてしまえば、それはウルクによからぬ王が立つことと同義であると、他ならぬギルガメシュ自身が思ったからだった。