参考までに両手の花   作:氷の泥

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05 コペンハーゲン解釈

 倉田海(くらた・かい)……人間界にて社会人二年目。人間。男性。

 クナリ……人間界にて社会人?年目。サキュバス。大人っぽい方の先輩。

 カルタ……人間界にて社会人?年目。サキュバス。子供っぽい方の先輩。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日の昼休み。いつもの休憩スペースに立ち寄った倉田は、突然ガタッと音を立てて起立したカルタに驚き、びくつき、その身を硬直させた。と言っても、それは何らかの「予感」があったから……ではない。

 直角な道を曲がる拍子に、向こうから来た人とぶつかりかけた時のような、そういう硬直が訪れたのだ。

「倉田くーん、ちょうどよかった」

 年端もいかない少女のような、軽快かつ無邪気な足取りでカルタは近づいてくる。そして彼女はそのまま倉田の手を取った。

「カルタ、なんか今日おなかすいちゃって。ちょっとだけいい? すぐ済ませるから」

「えっ」

 同じような台詞を、倉田は何か月か前にも聞いたことがあった。そしてその経験は一度ではない。何か月か前に聞いたことも、そのさらに何か月か前に聞いたことも、なんなら入社間もない頃に聞いたことさえあった。

 お腹が空いたから、ちょっといい? その言葉の意味するところはいったいなんだろう? ……倉田はそのあたりきちんと理解していた。

 カルタという名の先輩社員は、サキュバスなのである。サキュバスの空腹を満たす行為といえば一つしかない。

「もうっ、初めてじゃないしいいでしょ? おいでおいで」

「えっ、ちょ、えっ」

 倉田はカルタに手を引かれるがまま、どこか薄暗い、めったに人の通らないような場所に連れていかれるのだった……。

 ……それから約三分後。

「ただいまー」

「早くない?」

 満足した様子のカルタと、呆然とした顔でどこか宙を見つめる倉田が、二人連れ添って休憩スペースに戻ってきた。

 そのまま呆然具合を崩さずに着席した倉田に、面白がってクナリが話しかける。

「おーい、初めてじゃないでしょ? いつまでそんな顔してるの」

 彼の顔がいつもの無表情に戻った。

「何回体験しても衝撃なんですよ」

「みたいね。表情に出るなんて」

「オゾン草食べた時のトリコみたいになりますからね毎回」

「それはよく分かんないけど」

 クナリはトリコを読んだことがなかった。

 一方で倉田は、自身の口から思いつきで飛び出たそんな言葉からあることを思い出す。骨抜きにされたはずの彼だったけれど、そこにはしぶとく余計な妄想が付いてきていた。

「あの、前々から気になってたことがあるんですけど、今思い出したので聞いていいですか?」

「なに?」

「……サキュバスの人ってみんなカルタさんくらい上手いんですか?」

 カルタが「もう~褒めても何も出ないぞ~」という顔をしている。

「口でするのがってこと?」

「いや、まぁ、そうですね。それ含め全体的にです」

「カルタはどう思う?」

「うーん、上手い下手で他の人のこと見たことないかも。好き嫌いは結構あるイメージだけど、それって人間もそうだし」

「そうだね。私は、そもそも他の人がしてるところをあんまり見ないなぁ。……というか、逆に倉田くんは「人間の男ってみんな倉田くんみたいな感じ?」って言われたら困らない?」

「あー……。たしかに。すみません」

「いや別に論破したかったわけじゃないけど。……まぁでもそうだなぁ、倉田くんも自分の目で確かめるしかないかもね」

「というのは?」

「私たちは世の男たちが倉田くんみたいなのかどうか、それなりに知ってるから……ってこと。ね?」

「うん」

 同意を求められて当然のようにうなずくカルタ。

 そう、サキュバスとは皆そういうものである。ある男が自分自身について「自分は他の人と比べてどうなのだろう」と思う時、大抵は「本人」よりも「一度関係を持ったことのあるサキュバス」の方が詳しいのだ。なぜなら踏んできた場数が違うから。

 つまりカルタは、倉田にかけた「三分」という時間がどの程度の度合いに位置するものなのか、よーく知っているのである。……彼女がそれを口にするのかどうかは、それとはまた別の問題だけれど。

「ところで倉田くん、私も前から気になっていたことがあったんだけど」

「なんでしょう」

「倉田くんって、カルタみたいな体型の子、好き?」

「えぇ?」

 答えづらい質問! と倉田は内心で顔をしかめた。ノーと答えては失礼に当たるが、じゃあ「もちろん大好きです!」と答えればそれが正解なのかというと、そうとも限らないのがこの手の話題のネックである。

 彼がカルタの方を見ると、話題に上げられた本人はキョトンとしていた。いったいどういう意味のキョトンなんだ……と倉田は困惑するが、しかし答えるしかない。未だかつて、彼が回答に(彼なりの)誠実さを欠いたことはなかった。

「……バレてるんでしょうから正直に言いますけど」

 そう前置きした瞬間、いつになく二人からの注目が集まった気がした。

 バレている……というのは、サキュバスは男の中に眠る性欲の「量」をリアルタイムにある程度感知することが出来るので、そのことを指している。倉田はサキュバスのその性質を踏まえて、いっそぶっちゃけてしまうことにしたのだ。

「カルタさんのこともクナリさんのことも、そりゃ多少そういう目で見てますよ」

「多少~?」

 ニヤつきながらそう問い詰めたのはカルタだったが、一方で今度はクナリがキョトンとした顔をしていた。

 サキュバスに感知できるのは性欲の「量」だけ。その向かう先は、人間と同じような方法でしか確かめることが出来ないのである。クナリは予想を外したのだ。

「えっ、そうなんだ。てっきり私には興味ないんだと思ってた」

 言いながら、クナリは自分の胸をわざと組んだ腕で持ち上げて見せる。サキュバスとしてはさほど珍しいわけでもないFカップを、これみよがしに。

 たわわに揺れるそれに対して、倉田の視線は、いや、眼球は、まったく微動だにしなかった。むしろ彼の視線は、真っ直ぐとクナリの目元にこそ向かっている。

 だが続けて彼の口から出てきた言葉は、その視線とはチグハグの内容をしていた。

「逆に疑問なんですけど、なんで興味がないと思うんですか……?」

「だって倉田くん、私の胸全然見ないじゃん。今も」

「見たら失礼に当たりません?」

「まぁそうなんだけど」

「また胸の話してる」

 中学生のような体型のカルタがぼそりと不満を漏らした。といっても彼女は、劣等感という物とは全く無縁の存在であるのだけれど。「劣等感の無さ」と「なんか気に食わない」という気持ちは別の物であるというだけのことで。

「でもやっぱりみんな見るよ? まさか当然見る権利があると思っているわけでもあるまいし、見る見ないの差って興味の差じゃないの?」

「うーん……。…………じゃあこの際ですし言っちゃいますけど」

「うん」

「見てるんですよ、俺も。視界の隅で。今もずっと」

 一見すると感情にも性欲にも乏しそうな目で、倉田はクナリの目を依然一直線に見つめている。

「いや、だいぶ目が合ってるけど」

「だから、その状態の視界の隅で見てるんですよ。まさか目が合ってる時に見てるとは思わないだろうなと思って」

「いやいやいや、見えないでしょ。そういう小細工を試みる人って結構いるけど、私そういうの分かるし。目が合ってるってことは、倉田くんから私の胸は見えてない」

「そうでもないですよ」

「いやいや……。……じゃあちょっとカルタ、倉田くんと同じ視点に立ってみて」

「ん、どれどれ」

 椅子から立ち上がったカルタが、倉田の視点に限りなく近い視点を手に入れるため、自分の頬を彼の頬に無遠慮にすりつけ始める。その状態で彼女はクナリと目を合わせてみた。

「あー、ちょっとだけ? 見えなくもないかなーみたいな。露出のある服装だったら谷間が見えるかもなーみたいな、そんな感じだね」

「谷間は見せてないわけだけど」

「いや、そこまで見えたら大体のことが分かるじゃないですか」

「大体のことって……?」

 目を凝らして倉田の言う「大体」を探し求め、カルタは未だに彼に密着している。そしてそんな彼女をひきはがす勇気が倉田にはなかった。彼の中では「言葉のセクハラ<視線のセクハラ<触れるセクハラ」なのだ。最も程度の低い物がお互いになあなあで許されているからといって、その先のことは分からない。

 だから彼は努めて冷静に振る舞うように、淡々と持論を語った。

「例えば誰かの上半身だけが見えれば、その「上半身」を見るだけで、その人の「脚の長さ」が大体分かるじゃないですか。地面と上半身までの距離がほぼそれですから」  

「ふむ」

「ってことは胸も、上の方だけ見えれば、あとは大体想像することが出来るんです。大きさに関わらず、胸の形ってある程度決まってますから」

「いやそれはおかしくない……?」

 そんな、サイコロの片面を見れば向かいの面の数字も分かるみたいな、そんな理屈で「上だけ見えた胸」から全体像を想像できるものだろうか……? いや、仮に出来たとして、男性諸君の「女性の胸に対する興味」ってそういう類のものだったろうか? そんな想像で満足できるものなのだろうか? ……そんなわけはないはずだ。クナリは場数を踏んでいるサキュバスだからこそ、それはおかしいと確信していた。

 しかし彼女はまだ知らない。この世には「おかしい人」もいるのだということを。踏んできた場数のなお斜め上を行く男もいるのだと、まだ知らなかった。そしてその斜め上の男とはまさに目の前の彼なのだということを、一年と少しの付き合いだけでは把握しきれていなかった。

「でも、実際そうやって見るしかなくないですか……?」

 いっそ不思議そうな口ぶりでそう言う倉田の中に、彼女は何らかの得体の知れなさを感じ取ったのである。

「……なんか、なんかあれを思い出したよ。シュレディンガーの猫」

「なんでですか」

「結局倉田くんはさ、箱を開けていないわけでしょ。猫が死んでいるかどうかは箱を開けないと分からないみたいに、倉田くんの想像する私の胸が「実際」と同じかどうかは、「実際」をちゃんと見てみないと分からないわけで」

「ははぁ。……でもそれって、確かめる意味がありますか?」

「え、じゃあやっぱり興味ないじゃん」

「いやそうじゃなくて。そんなことを言い出したら例えば、俺とカルタさんがさっきの短い間に何をしていたのかも、クナリさんからすれば箱の中のことじゃないですか?」

「……まぁ確かに? でもそれはカルタに聞けば分かるから」

「でも、別に聞こうと思わなかったでしょう? 俺もその気になったらクナリさんの胸をまっすぐ見ることは出来ますよ。でも実際にはしてない。やってることは同じですよ、そんなにおかしなことじゃないはずです」

「むむ……。なんかすごくどうでもよくなってきた、この話……」

 行く末が迷子になりつつある話題にクナリが愛想を尽かしかけたその時、倉田のすぐ横でずっと話を聞いていたカルタが何かをひらめいた。

「あ、カルタその話知ってるよ。シュレディンガーの……ってつまり、こういうことでしょ? ……あのね倉田くん、カルタを相手にして三分っていうのはね、他の男の子と比べて言うと……」

 ……そこまで言って、カルタは急に声を小さくする。言葉の続きは倉田にだけ耳打ちで伝えられた。

「さぁ、カルタは今なんて言ったでしょう?」

「……それはなんか違わない? ただのクイズでしょ」

「え、どう違うの……?」

 そんなやり取りをよそに、カルタから耳打ちされた言葉をいつもの仏教面で噛みしめる倉田だった。

 

 

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