ニューヨーク・トレセン学園の練習場には模擬レース用に各地域の主要競バ場を限りなく再現したコースが存在する。ベルモントパークやサンタアニタやキーンランドなど、本番前の調整には事欠かない。
冬はオフシーズンなので利用者は減るのだが、今日に限っては多くのウマ娘やトレーナーが一ヶ所に集まり、本番さながらの盛り上がりを見せている。
チャーチルダウンズ競バ場を模したトラックに設定された10ハロンのコース。つまりケンタッキーダービーの仕様である。
取り巻く観客は選抜レースを凌ぐほどに多く、牽引車を使って運ばれたスターティングゲートは二十人用の長大な物だ。
この大規模な模擬レースの主役は二人。学園きっての問題児サンデーサイレンスと異国の優駿ミスターシービーである。
当初はいつも通り二人で勝負をしようしていたが、『ケンタッキーダービーと同じ条件で』という話を聞いたチャーリー氏が「俺に任せろ」と張り切って準備をし始めた。
その結果、十八人のウマ娘たちが急遽レースに参加することになった。それもただ適当に集められたのではなく、デビュー戦を快勝した新進気鋭の者やジュニア級の重賞を勝っている者など相当の実力者が揃っている。そこにサンデーとシービーも加えてちょうど二十人。
ケンタッキーダービーの模擬レースが催されるという噂は燎原の火のごとく学園中に駆け巡り、あれよあれよと言う間に観客が集まってきた。
『10番人気は皆さんご存知、暴れん坊のサンデーサイレンス。続きまして11番人気にミスターシービー』
どこから現れたのかマイクを持った司会役のウマ娘が参上し、いつの間にか決まった人気順に出場選手の名前を読み上げていく。
サンデーとシービーは二十人中の10番と11番という何とも微妙な順位。元々は二人のレースであったものの、そんなことは観客には関係ない。1番人気には重賞レースを二連勝中のホープが推されている。
出走ウマ娘の誰もが見るからに気炎万丈といった雰囲気で、サンデーとシービーの二人を立てようという様子は一切無い。全力で勝ちをもぎ取りにいく。そんな意思が見て取れる。
久しぶりに感じるピリピリと張り詰めたレースの空気に、シービーは胸を躍らせた。
抽選によりそれぞれに出走枠が割り振られる。
サンデーは一枠一番の最内。シービーはその正反対の大外枠での出走となる。無論、二十人という大人数でのレースでロスのある外枠は不利でしかない。
ゲートが開き、ウマ娘たちが一斉にスタートを切った。
牽制しあった結果、十人を超える先行集団が一つに纏まっての混戦状態となる、その中でも一際背が小さいサンデーサイレンスは懸命に好位置をキープし続ける。
後続の集団からさらに下がり、殿から虎視眈々と機を狙うのはミスターシービーだ。
(今回は追い込みか……)
サンデーはバ群に飲まれないよう四苦八苦しながらも、シービーの動向をちらちらと確認している。
全体的に俯瞰して見ればスローペースの展開。しかし場の空気はゴールが近付くにつれてどんどん緊迫していく。
向正面の半ばを過ぎ、コーナーに差し迫る頃合いで勝負の質が変わる。ペースの保持と相手のかく乱などを含めた位置取り争いから、スパートの仕掛け時を探る心理戦に移行する。
定石は、先行なら最終コーナーを曲がってからのスパート。後ろならもう少し手前で仕掛ける。
上がり三ハロンを自己ベストで駆けるのが理想的。あとは他のウマ娘の動きによって変化する状況にどれだけ対応できるかが勝負を制する鍵となる。
『後続が先団に追いつき第3コーナーを曲がります。抜け出すのは容易ではありません。1番人気はまだ控えたまま』
意識の切り替わるタイミング。
思考の隙間。
そんな幾許にも満たない瞬間に割り込むように、シービーの鬼脚が炸裂した。
『この中から誰が……いや来ました。最後方から一人、ものすごい勢いで上がってくる。11番人気ミスターシービーがまくって上がる!』
自分がいつスパートを切るか。そのことに思考を割いていたウマ娘たちを、シービーは大外からまんまと出し抜いた。
競り合いに持ち込む暇など与えない。晴れ続きで固く締まったダートを蹴り、順位を上げ続ける。
歓声を上げるギャラリーに混じって、観察眼に優れた何人かのトレーナーが驚嘆しどよめいた。
シービーの加速があまりにも滑らかだったのだ。アメリカ人であれば誰もが知る伝説を彷彿とさせるほどに。
ビッグレッドの異名を持つレース界の至宝、セクレタリアト。
アメリカのクラシック三冠をはじめとして数々の伝説を作った彼女の最大の武器として知られるのが等速ストライドだ。
走り方には大別して二種類ある。歩幅は狭く歩数で速度を出すピッチ走法と、その逆のストライド走法。どちらに向いているかは先天的なものがあり、それによって得意バ場や脚質が変わってくる。
無論、どちらとも使いこなせれば確実に武器が増えるので、どの競争ウマ娘もそれなりに練習を積む。
しかしセクレタリアトはストライド、つまり歩幅をコースやレース展開に合わせて自由自在に変えることが出来た。彼女にしてみればピッチ走法やストライド走法の中にもいくつもの細かい段階があり、常に最適解の走り方をすることであらゆるバ場に対応してみせた。そこに天性の筋力とバネが加わり、無類の強さを誇ったのである。
これと比べれば、二種類の走法しか持たない普通のウマ娘はせいぜい3段変速付きの自転車のようなもの。前後輪合わせて22段階のギアを仕込んだロードバイクに勝てるわけがない。
「やってくれるぜヨシダ。いつの間にこんなとんでもねえ飛び道具を用意していやがった……!」
見る者を竦ませるような笑みを貼り付けたチャーリー氏の額に冷や汗が滲んでいる。そんな彼の横でレースを観戦している吉田の表情は涼しいものだ。
「なに。留学に来る前から地道に教えてきただけさ。それにまだ本家ほどの完成度ではないだろう。等速ストライドもどき、と言うべきものだよ」
「チッ、あれで"もどき"などと、人が悪いぜ」
シービーの走りには全く無駄がない。足の回転数はさほど変わらないのにストライドは徐々に伸び、それに伴ってぐんぐんと加速していく。
この走法の最も素晴らしいところは足への負担が軽減されることにある。スパートに入っていきなりストライドを最大まで広げる従来のものとは異なり、段階的に広げていくことで負荷を分散する。
しかも地面を蹴る際に余計な力がかからないため、加速をスムーズに行える。追い込み策を得意とするシービーにとってはこれ以上なく適合する走法であった。
この高等技術を覚えるための才能は元から十分にあった。難点と言えば飽き性なシービーの性格だったが、一念発起した初夏から現在の冬にかけての鍛錬が、この異国の地でついに実を結んだのである。
最終コーナーを曲がり終え、直線の入り口に突入する頃合いでシービーは先頭に立った。
勢いは保ったまま。いやさらに増している。もともと股関節が極端に柔らかい彼女が叩き出す最高速度は凄まじい。スタミナとパワーを十分に鍛えた今、レース終盤でその速度が翳ることは無い。
日本のウマ娘を格下だと侮っていた周囲のウマ娘やトレーナーは、その圧巻の走りにただ唖然としている。
『最初に抜けてきたのはミスターシービー。足色は衰えない。このまま決まってしまうのか』
勝負を決するべく後続を突き放しにかかる。
しかしそこに一人、追ってくる者がいた。
「シービーィィ!」
コーナーからの立ち上がりで集団を切り裂くように飛び出してきたのはサンデーサイレンスだった。名前を叫ばれてシービーが後ろを見れば、サンデーが恐ろしい気迫と速度で追って来ている。
唯一、彼女だけがシービーの早仕掛けを察していたのだ。これまでに何十回と併走をしてきたことで得た好敵手への理解がサンデーにはある。
だからこそ加速を合わせることが出来た。
それまでは内ラチ側に控えていたせいで前を塞がれ多少のロスが生まれたものの、自分よりレース経験が豊富なウマ娘たちをねじ伏せて進出してきた実力と根性は驚嘆に値する。
「あれが本当にデビュー前の子か」と、何処からともなくそんな声が漏れ聞こえる。
前を走るミスターシービーと、それを追うサンデーサイレンス。差はたったの半バ身。コースは言わずもがなサンデーの得意なダートであり、スタミナも早々にスパートをかけたシービよりは余裕があるはず。
しかし縮まらない。
ラスト1ハロンを過ぎても尚シービーの勢いは留まるところを知らず、サンデーはその背中を見続けている。常に競り合いの強さで相手を負かしてきたサンデーの粘り強い末脚が、もう一押しのところで通じない。
ふと、鬼気迫る表情で走っていたサンデーの顔が和らいだ。ほんの一瞬の、刹那にも満たない時間。
しかしゴールの直前、シービーの後塵を拝するサンデーの顔は確かに穏やかだった。
『サンデーか、シービーか! 先頭は変わらない! これが日本のサムライスピリッツ! ミスターシービー、今、先頭でゴール!』
ワッ、と大きな歓声が上がる。
走り抜けたシービーは速度を緩めつつ、燃焼しきった身体に酸素を取り込むように天を仰いで息を吸った。
久しく味わっていない、晴れやかな気分だった。
周囲を見渡せばウマ娘やトレーナーの区別なく、全員がシービーコールを叫んでいる。スタンドの前で立ち止まり、拳を高々と掲げて見せればさらに爆発的な大歓声が響き渡る。まるで本当に G1レースを制してしまったかのような盛り上がりだ。
「ゼェ、ゼェ……ハァ」
少し遅れてシービーの側に来たサンデーは、息が整うのも待たず「おい!」とシービーに叫んだ。
「お前ずりぃよ! あんな隠し玉持ってるなんてよ!」
「あははっ、真剣勝負だもん。奥の手の一つや二つ隠してるもんだよ」
「ああ、チクショウ、チクショウ! めちゃんこ悔しいぜクソッタレ!」
今までの併走トレーニングで負けた時の比ではないほど地団駄を踏んで悔しがるサンデーだったが、ひとしきり叫んだ後、改めてシービーの方に向き直った。
「でも、めちゃんこ楽しかったぜ、シービー!」
快晴の空のように清々しい、汗に濡れた満面の笑顔。あまりに明け透けで屈託のないサンデーの言葉に一瞬だけ面食らったシービーだったが、彼女もまた嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も楽しかった。最後サンデーが追って来ているのを見て、すっごいワクワクしたよ。またこんな風に走ろうね。サンデー」
「当たり前だ。また、な」
どちらからともなく手を差し出す。二人が握手を交わした瞬間、周りからはゴールした時よりも大きな拍手喝采が鳴り響く。吉田とチャーリー氏も、一緒に走った他十八人のウマ娘たちも、皆がこの模擬レースの主役だった二人に賛辞を送っている。
シービーは堂々と胸を張り、サンデーは照れ臭そうにしながらも、たくさんの人々に手を振っていた。