URAファイナルズ決勝戦を目前にした記者会見では、二人のウマ娘が特に注目を集めていた。
一人はいつも通り予選から危なげなく勝ち進んできた七冠の皇帝、シンボリルドルフ。
もう一人は好敵手カツラギエースを討ち取りその勢いのまま決勝に上りつめてきたミスターシービーだ。
シービーが壇上に立つと、大量のカメラのフラッシュが彼女を出迎えた。決勝への意気込みや身体の調子など、普遍的な質問に答えていく。
「決勝戦ではついにシンボリルドルフ選手と戦うことになりますが、ミスターシービー選手は本レースに臨むにあたってどのような心境でしょうか」
絶対にされるだろうと思っていたルドルフ関連の質問。きちんと事前準備をしてきたシービーは落ち着いて答えた。
「緊張していないと言えば嘘になります。相手が格上であることも認めなければいけない事実です。しかしその上でも自分なりに最高の走りをしたいですね」
するとそれを皮切りに、他の記者たちも続々と手を上げ、対ルドルフについての話を深掘りしていく。勝算のほどや具体的な戦術について知りたがる者、ルドルフが走った先の有マ記念やジャパンカップへの感想を聞く者、あるいは過去にシービーがルドルフと戦った春の天皇賞などのレースについての意見を求める記者もいた。
中には敗戦という名の傷に塩を塗り込むような失礼な質問もあったが、シービーは吉田とアイコンタクトを取りながら答えられるものとそうでないものに分け、真摯かつ無難に対応してみせた。
そして最後の段になって、ある記者が手を挙げた。
「URAファイナルズが始まってから準決勝まで、ミスターシービー選手は全て先行策で勝利を収めていますよね。世間では勝つために先行策を身に付け、追い込み策には見切りをつけたと噂されていますが、それは事実なのでしょうか」
シービーは口元に手を当てて考える素振りをした後、にこりと笑ってみせた。
「私が追い込みで走るか、先行で走るか。そんなのはどうでもいいことでしょう」
「えっと……どういう意味でしょうか」
「意味なんて無いってこと。ただ全力で走る。今も昔も、変わらないのはそれだけだということです」
はぐらかされるような形の答えをもらった記者が首を傾げている間に、シービーは吉田を伴って壇上から降りて行った。たくさんの人々がまだ質問があると彼女を引き止めるが、それをすげなく躱してシービーは会場を後にした。
その日の晩にはシービーについての考察やURAファイナルズ決勝での予測に関するネットニュースが次々に更新されていった。中には記者会見での一件を受けて、やや辛辣な非難めいたニュースも上がっている。
曰く『シービーは敗北の屈辱に耐えられず、先行策に逃げたのだ』と。
○
記者会見から少し経ったある日、決勝戦も間近だからと体調を整えることに注力するよう言われたルドルフは生徒会室から締め出しを喰ってしまった。
走り込もうにも、チームトレーナーの東条ハナにトレーニングメニューを徹底管理されているため勝手は出来ない。
とは言えトゥインクルシリーズ四年目ともなればこういった扱いにも慣れたもので、ルドルフは大人しく部室で雑誌の最新号に目を通していた。
チーム・リギルの部室は東条ハナの意向で整然と片付いており、本棚には常に新しいレース情報誌が並べられる。ルドルフが何気なく手に取ったその中の一つにザ・ターフという大御所のものがあり、そこには以下のような記事が載っていた。
『ミスターシービーは勝利に貪欲になった。今までの追い込みを捨てて先行策をとったのがその最たる証拠だ。彼女がまたターフに立つようになったのは喜ばしいが、ミスターシービーのファンとしては平凡な先行策に傾倒し、彼女の代名詞でもあったあのトリッキーな追い込みと決別して、走りから自由さを失ってしまったことは寂しくもある』
気に食わないと言いたげに、ルドルフは眉を顰めた。続けて他の評論家も似たような感想を記事の中で述べている。
『ルドルフには敵わないだろう。これまでの戦歴も黒星ばかりだし、何よりシービーの付け焼き刃の先行はルドルフの絶対的な走りに通じない。勝ち目は薄いと言わざるを得ない』
ルドルフが苛立たしげに雑誌を閉じたのと、部室の扉が開いて人が入ってきたのは同時だった。ルドルフは模範生に相応しくない態度を見せてしまったことに焦りかけたが、入ってきた人物が恩師の一人である東条銀だと分かると肩から力を抜いた。
「ピリついてるね、ルドルフ」
そう言ってチョコレート菓子を渡してくる。引退した身だからとあまり部室に顔を出さない東条銀だが、今日はルドルフの様子を見るという目的がてら甘い物を差し入れに来たらしい。
チョコレートだけに「ちょこっとだけだよ」と銀が言うと、親父ギャグ好きのルドルフはそれだけで破顔し、目に見えて緊張が解けたようだった。
銀の好意に甘えて茶も淹れてもらい、包み紙からチョコレートを一つ取り出して食べる。
「珍しいね、あんたが雑誌なんかの記事に腹を立てるのは」
「面目ありません」
「いいさ。普通のことだし、そう畏まるもんでもないだろ。それで、そこに書いてあることは私も読んだが、あんたはどう思ったんだいルドルフ」
聞かれて、ルドルフは厳粛な口調できっぱりと言い放った。
「無知蒙昧と言わざるを得ません。彼らは評論家と名乗っているにも関わらず何も分かってはいない」
彼女らしくもない辛辣な酷評。銀は面白がるように笑い、続きを促した。
「私も予選から準決勝までのシービーの走りを見ていました。特に予選のカツラギとの勝負。あれを目にして何故、付け焼き刃などと言えるのか理解に苦しみます。勝利に固執して自由さを失ったなどと、どうしてそのような見方になるのか」
ルドルフは静かに熱く語った。全く逆であると。シービーは追い込みに拘らなくなったのだ。戦術の幅を広げ、より自由に走るようになった。それがルドルフの見解だった。彼女の真剣な眼差しは、目の前にいる東条銀ではなく、ターフに立つ強敵を見据えて輝いている。
絶対王者としての地位を手に入れたルドルフには、しかし慢心も油断も一切無い。銀は満足そうに頷いた。
「まあ私もルドルフとだいたい同じ意見だよ。逃げってことはないだろうが、今のシービーはどの位置から仕掛けてくるか分からない。私たちはレースが始まるその時まで、常にいくつかの選択肢を抱え続けなきゃならないってわけだ」
「はい。その迷いは少なからず走りに影響を及ぼすことになるでしょう。他のウマ娘にとっては」
他、とルドルフは断言した。すなわち自分は違うと。シービーがどのように走ろうが絶対に動揺することはないと確信を持って告げた。
「私は、自分の最も強い走りを知っています。どんな状況になろうともそれを見失わず徹底するのみです」
「そこまで分かってるなら、トレーナーとして何も言うことはないね。頑張りなよルドルフ」
「はい」
ところで、と銀は言葉を続けた。ふとした思い付きを気軽に話すような口調で。それでいて相手を核心を射抜くような鋭い視線で。
「一つ聞いておきたいんだが、ルドルフ、あんた誰のために走るんだい?」
どこかで聞いたことのある質問だった。以前はなんと答えたのだったか。
ルドルフは少し考えた後、先ほどとは違いやや力なく答えた。
「……わかりません。皆のため、これからのレース界のために走りたいという思いと、シービーとの対決を心待ちにする私欲的な思いがあって。どちらを優先させるべきなのか、今の私には……」
悩むルドルフに銀は微笑んで、もう一つチョコレートを手渡した。
「なに、急いで結論を出すもんでもない。我武者羅に走っていれば自ずと分かることもあるさね。だから思い切り、後先なんて考えずに走ってくるといい」
何気ない励ましの言葉。しかしことシンボリルドルフに対して、銀がこうも念を押して言うことは今までに無かった。
故にルドルフは決して忘れまいとして「思い切り走れ」という言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。
○
真冬の東京レース場にかつてない大観衆が詰めかけていた。今日に限っては全国津々浦々から老若男女を問わず、コアなレースファンから普段はそれほどウマ娘のレースに興味のない層まで、多くの人々が集まって来ている。
第十一レース、つまりメインレースに設定された決勝戦を目的に観客は続々と入って来ており、その来場者数はすでに前年の天皇賞・春にて京都レース場で記録された九万人を軽く超えている。
優駿たちの頂点を決めるというふれ込み、そして一部では実現し得ないとまで言われた四度目のミスターシービーとシンボリルドルフの対決。この二つの要素が社会現象と言えるほどに日本全土を沸かせたのである。
「うわぁ、すっごい人数ですよ、カツラギ先輩」
「うん。予選の倍以上は観客いるね、確実に」
カツラギエースもまた、チーム総出で客席の最前列に陣取り、レースの開始を今か今かと待っていた。後輩の一人は興奮のあまり落ち着かず、特大サイズのポップコーンを持たされて早る気持ちのままにモグモグと食べている。
「勝てますかね? シービー先輩」
「さてね。相手が相手だから」
ターフの上に選手たちが出揃い始めている。一番乗りはシンボリルドルフだ。彼女が現れただけで会場からは爆発したような歓声が響く。
カツラギの横で後輩たちがレースの予想を巡って侃侃諤諤の議論を重ねていると、その反対側からぬうっと黒沼トレーナーが現れた。
「先行策を取るならば、ミスターシービーにとって至極厳しい戦いとなるだろう」
カツラギたちが黒沼トレーナーの方を向き、話に耳を傾ける。
「どういうことですか?」
「シンボリルドルフの走りは次元が違う。予選でうちがミスターシービーにやられたような不意打ちなら分からんが、手の内が割れている今は同じ土俵で戦うには難しいものがある、ということだ」
「じゃあ、シービー先輩は負けちゃうってことですか?」
「えーそれ困る! カツラギ先輩に勝ったんだから、決勝戦でも勝ってもらわなくちゃ」
「念を送ろう、念!」
「勝て〜勝て〜」
「まだシービー先輩入場してないけど?」
両手を前に突き出して謎の念を送り始めたウマ娘たちを横目に、黒沼トレーナーはカツラギに聞いた。
「カツラギ。現在のミスターシービーと戦った者としてお前はどう思う、このレース」
「……トレーナーの言う通り、シービーの先行策がルドルフに通じるかは厳しいところだと思います」
「ふむ」
「しかしそれはあくまでシービーが先行で走った場合です。私は世間で言われているように、アイツが勝ちに拘って先行策を身に付けたとは思っていません」
「ではミスターシービーは従来の末脚勝負の差し、もしくは追い込みに戻して走ると?」
そう聞かれて「どうでしょう」とカツラギ。シービーと走った彼女にも、そこから先の展開など予想しようもない。仮にシービーが追い込み策に戻ったとして、それですんなり勝てる戦いでもないだろう。結局のところレースに絶対は無く、蓋を開けてみるまで勝負の綾は分からない。
しかし、とカツラギは言葉を続けた。
「このレースは勝ち負け以上の意味を持つ試合になるかもしれません。特にルドルフにとっては」
どういう意味かと黒沼トレーナーが問おうとしたその瞬間、ルドルフが入場した時と同じか、それ以上に大きな歓声が上がった。誰が姿を現したのかは見るまでもなく明らかである。
「シービーの走りはなんて言うか、本当に自由なんです。走るのが楽しくて楽しくて仕方ないといった感じで」
拍手喝采の中、堂々とターフに舞い降りた黒鹿毛のウマ娘を見ながらカツラギが言う。相変わらず真面目な顔をしてはいるが、その目はキラキラと輝いていて、まるで漫画のヒーローを目の当たりにした子供のようだった。
「そんな奴と全力でぶつかれたら、少なくとも、私は……」
○
時間は少し遡り、選手控室でのこと。
シービーが柔軟をこなしている部屋の外で、吉田と他数人の大人たちが話し合っている声がする。
つい先ほど、アポ無しで取材を求めて記者がやって来たのだ。たまにこうした輩がいる。選手の集中力を欠くわけにはいかないので大抵はトレーナーが断りを入れるが、それですんなりと相手が引き退ることは少ない。
彼らが聞きたがっているのは挑戦者としてのシービーの意見だ。王者シンボリルドルフにどう立ち向かうのか。三冠ウマ娘という肩書きの重みをどのように捉えているか。まだ一度も先着できていない現状をどう思っているか。
それら興味本位の質問に試合を控えた選手のメンタルに対する気遣いは無く、吉田は取材陣を控室から締め出した。
しばらく話し声が続いた後、ぞろぞろと複数の足音が遠ざかっていき、吉田一人がシービーの控室に戻ってきた。
「しつこかったがURAの職員に手伝ってもらって帰らせたよ。全く、ああいうのは今も昔もどこにでもいるなあ」
「ありがとねトレーナー」
「何の。それより身体はほぐれたかい、シービー」
「ばっちし」
吉田が聞くと、シービーは笑顔で答えた。
「温まったしそろそろ行くよ」
控室を後にして地下バ道に赴く。もう他のウマ娘たちはレース場に向かったのか、二人だけで歩くトンネル形の道は静かなものだ。
歩くにつれて歓声が近付く。
しばらくして吉田は立ち止まった。ここから先は神聖な不可侵の領域。勝ち上がってきたウマ娘のみが入ることを許される特別な舞台。見送り、声をかけられるのはその手前までだ。
「シービー、気負わんようにな。君は君の思うがままに走れば良い」
吉田の言葉に振り向いたシービーは首を傾げ、ややあって「ああ、さっきの取材のこと?」と笑った。
「別に気にしてないよ。トレーナーが追い払ってくれたし、私はなーんとも思ってないよ」
「そうか。それなら良いんだが……」
本人がそう言うのならと納得しつつも、どこか思い詰めた表情が消えない吉田にシービーが微笑む。こんなにも心を砕いてくれる人が側にいるのにどうして不安なことがあろうか。そんな意志の強さと温かさを込めてシービーは言った。
「あはは、逆にトレーナーの方が気にしてる感じじゃない。大丈夫大丈夫。せっかくの大舞台なんだしさ、もっと楽しんでいこうよ」
その楽天的なセリフは、吉田にかつての菊花賞の出走前を思い出させるものだった。何か一つでも良い戦術はないものかと頭を捻っていた吉田に、シービーは言ったものだ。気楽に走って、それで勝ったり負けたりするくらいで良いと。
目の前にいる少女は、実際にそうして三冠ウマ娘になってしまったのだ。何かに縛られることもなく、悠々と、ただ己を貫いた結果として。
「君は、何も変わらんな、シービー」
吉田の言葉に「もちろん!」とシービーは胸を張る。
「ねえトレーナー、ここからでも聞こえるでしょ? ものすごい歓声が。あれを一身に浴びて熱くなってさ、その燃えた気持ちのままに走る。私は結局、それだけで良かったんだよ。三冠ウマ娘としてとか、追い込みの代名詞とか、自由に走らなきゃとか、そんなのはどうでもよくてさ。どんな風に走っても私は結局ミスターシービーなわけよ。他の誰でもない、唯一人のウマ娘」
達観しつつも無邪気に笑うシービーに吉田もそれ以上何か言うことは無く、笑って手を振った。
それに軽く手を上げて応え、シービーは踵を返して再び歩き出す。
頂上決戦の舞台に向けて。すぐそこに待つ、因縁の相手の元へ。
———それにさ、誰に何を言われようと。
URAファイナルズ芝中距離部門、決勝。
その幕が開ける。
———レースが始まったら、そこは私たちの世界。でしょ?トレーナー。