立ち上がれ、ミスターシービー   作:ふーてんもどき

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十六話:私たちの世界

 

 

 

『ついにこの日がやって来ました! URAファイナルズ芝中距離部門、決勝! 距離は2400メートル。コースも日本ダービーと同じ条件で行われます』

『優駿たちの頂点を決めるにはこれ以上なく相応しい舞台ですね』

 

 ファンファーレが鳴り止み、出走するウマ娘たちが続々とゲートに入っていく。ここまで勝ち上がってきた十八人の顔はそのどれもが精悍であり、発散される熱意は見る者に冬の冷たく澄んだ空気を陽炎で歪ませているような錯覚さえ与える。

 

『二番人気はミスターシービー。二枠三番での出走です』

『先行策に転向して安定感が増しましたから、この内枠は彼女にとって有利に働くでしょう』

 

 名前を読み上げられたシービーが観客席に向けて手を振れば、団扇やメガホンを持ったファンや横断幕を引っ提げて駆けつけた人々が沸き返る。

 その中に静かにこちらを眺めるカツラギエースの姿を見つけて、シービーは彼女に向けてウインクしてみせた。呆れたように顔を背けられる。シービーは予想通りの反応が返ってきたことに満足しつつ、一つ深呼吸をした。

 

『そして一番人気はやはりこのウマ娘、五枠九番シンボリルドルフ。静かにスタートを待ちます』

 

 観客を沸かせるシービーとは対照的に、ルドルフは腕を組んで目を瞑り泰然とした構えを取っている。彼女が既に高度の集中状態にあることは誰の目にも明らかだ。今にも放電現象が起こりそうなほど空気が張り詰めているのを、観客さえも肌で感じ取っている。

 

 トップクラスのウマ娘が2400メートルを走るのにかかる時間はおよそ二分半。たったそれだけの時間に彼女たちの努力と夢と覚悟の全てが凝縮されるのだ。

 

 全ての選手がゲート入りを完了する。

 その瞬間だけは誰もが息を呑む。瞬きすら許されない、痛いほどの静寂が流れる。

 

 

 緊張が極限まで高まった瞬間、ゲートが開かれ、弓から放たれた矢のようにウマ娘たちが一斉に駆け出した。

 出遅れは一人もいない。横並びでのスタート。

 

 徐々にそれぞれが己の位置を定めて縦に長い列が形成されだした時、ほとんどのウマ娘が何かを探すようにきょろきょろと左右を見回し始めた。

 彼女たちの探しものは前にも横にも無い。

 当然だ。それは最後尾に着けているのだから。

 

『ミスターシービーは後ろの方。後ろで脚を溜めています。この最終戦で追い込みのミスターシービーが帰ってきました』

 

 準決勝までで育てた先行のキャリアをあっさり捨てての最後方追い込み態勢。それに対して動揺したウマ娘が半分。もう半分は警戒しながらも乱れず自分の位置取りを保持することに徹している。

 その中でも一人、シンボリルドルフだけは全く後ろを振り返ることもなく集団の前の方で最適な位置をキープし続ける。

 

 2コーナーを抜けて向正面に入る。1コーナーの中程からここまで長い下り坂となっているが、それにしても全体のペースがやや速いことを後ろで見ていたシービーは察する。

 

 今、このレース展開を作っているのはシービーでもなければ、ハナを進む逃げウマ娘でもない。シンボリルドルフだ。

 彼女がいつでも抜け出せる好位置にいる。ただそれだけの事実が周りのウマ娘の緊張を高めてペースを早めていた。

 おそらくは無意識下での作用。トップ層のウマ娘をしてさえ精神力を消耗させられるその威圧感こそ、シンボリルドルフが真に皇帝たる由縁である。

 

 まるでルドルフを中心に強力な磁場が発生しているようだった。周囲を巻き込み、引き寄せ、いつの間にか全体を自分のペースに合わさせてしまう。

 単純な速い遅いでは片付けられない、勝負としてのレースでの強さ。

 

 シービーはその磁場から離れた場所で機を伺う。

 二、三人のウマ娘がシンボリルドルフを何とか押さえ込もうとしてかなり外側を走っている。巨壁の如く聳えるあの先行集団をぶち抜くための機会をシービーは息を潜めて探り続ける。

 

 

 直線が終わって3コーナーを曲がり始める。残す距離はちょうど1000メートル。すでにレースはその道程の半分以上を過ぎ、いよいよ佳境に入る。

 

 ここからは緩やかな長い上り坂が最終直線まで続く。東京レース場のホームストレッチは525.9メートルと長く、しかも入ってすぐのところに高低差2メートルの急な上り坂が待ち構えている。勝つためにはそこを抜けて尚、他を圧するだけの余力を残しておかなくてはならない。

 

 必要なのは好位置の堅持。最終コーナーを曲がり切るまでロスを減らしてスタミナを蓄え、しかし決して先頭から離され過ぎない。

 この優駿たちの中で勝とうとしたら、そういった立ち回りにならざるを得ない。

 

 そんな中、シービーは未だに最後尾から二、三番手あたりを走っていた。勝利を目指すのならば徐々に位置取りを上げて前の集団に食い込まなければいけない段階。

 

 しかしシービーには一つの思惑があった。

 

 心臓がうるさいくらい跳ねている。大胆な大仕掛けをするのはいつだって心が震える。ワクワクして、足にはとっくに火が点いていて、もう我慢なんて出来そうにない。

 

 シービーの口元に笑みが浮かぶ。

 レース前。まだ直撃インタビューの記者たちが来る前の時間、シービーはほんの少し吉田と戦術について話し合った。戦術とは言ってもあまり具体的なものでもなかったが。

 

 

 

「身体は十分にほぐしておくんだぞ。腕周りもしっかりな」

「そりゃそうするけどさ、他に「こう走れ」ってアドバイスとか無いの?」

「無いよそんなの。シービー。今の君は私が知るなかでも最高の選手だよ」

 

 吉田からの賛辞を軽く受け止めたシービーは「それじゃあさ」と思い付きを口にした。

 

「レースの中盤くらいでも、私が行きたいな〜って思ったら仕掛けちゃっていいわけ?」

 

 それは菊花賞を彷彿とさせる言葉だった。

 三冠がかかったあの時も、シービーは吉田に同じようなことを聞いた。どこで仕掛けて良いのかと。それに対して吉田は位置取りを少し上げてもいいという意味で「向正面からぼちぼち行っていい」と指示を出したのだった。

 二年越しに同じ質問をされた吉田老人は、何も悩むことなく笑って答えた。

 

「君が行けると思ったその時に行きなさい」

「ぼちぼち? それともガーッと?」

「どちらでも良い。心の赴くままに———」

 

 

 

 控室でのやり取りが脳裏に過った瞬間、シービーの瞳に炎が灯った。

 

 先頭までの距離は約17バ身。

 その遥か先、ゴールに狙いをつけてギアを上げる。一つ、また一つと僅かずつ、しかし確実に。吉田に背中を押してもらった、その勢いのままに。

 

———全力でかっ飛ばせ。

 

「了解!」

 

 残り1000メートル弱。

 ミスターシービーが猛然と進出を開始した。

 

『さあ第3コーナーを回って第4コーナーへ……ここで、ここで上がってきましたミスターシービー! まだゴールまでは距離がありますが現在中団の半ばほどまで上がってきております。いや、まだ加速する! もうスパートに入ったのでしょうか!』

 

 レース場内の注目が一斉にシービーに集中する。外からするすると順位を上げ、すでに先行集団を捉える位置まで来ている。

 

 中団後方で控えていた差しウマ娘の何人かか慌てた様子でシービーのあとを追い始めたが上手くついていけない。

 それもそのはずだ。アメリカのダートで鍛え込んだシービーの加速は質が違う。無闇について行こうとすれば確実に伸び悩んで無理が来て、やがては失速する。

 ただ一人疾走するシービーは、ついに大外から回り込む形で先行集団を抜き去って行く。

 

 ルドルフの側を通り過ぎる。

 彼女だけは他と違い、シービーの方を見なければ一切の動揺も見せない。恐ろしさすら感じるほど自分の走りに徹している。

 

 シービーもまたその場で張り合うようなことはせず、そのままの勢いで逃げているウマ娘に迫り、スタミナ切れで垂れてくるのを待たずして第四コーナーの走行中に追い抜いてしまう。

 

『ミスターシービーが前に出ました。信じ難い早仕掛け。後続も追い縋っていますが差は徐々に開いていっています』

『スタミナが持つか心配ですね。あれで掛かっていないとしたら驚きですが……』

 

 周りから聞こえてくる評価も、観客の野次や声援も、ここまで来ればどこ吹く風。芝がめくれるほどの蹴り込みで勝負を決めにかかる。

 

 しかしその快進撃を阻む足音が、後ろから聞こえ始めた。

 

『シンボリルドルフが行ったー! 残り三ハロン、ここで来ました皇帝シンボリルドルフ!』

 

 それは春の天皇賞の再現か。シービーと叩き合いになった相手こそ居ないものの、終盤になってからのルドルフの追い上げはまさにかつての天皇賞そのもの。

 

 絶好の位置とタイミングで飛び出した七冠の皇帝が背後に差し迫る。

 シービーの額に冷や汗が滲んだ。

 

 

 風が唸っている。既に息切れは始まっている。

 

 周囲からは十万人を軽く超える人々の熱狂的な歓声が響く。しかし今、それを一身に浴びて走る彼女にはもはや聞こえてすらいない。

 

 最後の直線を迎えるに当たって、上がってきたルドルフとの差は三バ身と余裕がある。

 

 しかしその差がまるで心許ないことをシービーは知っている。残り約500メートルの道のりが途方もなく遠く険しいことを、彼女は知っている。なにせ後ろから迫る相手は別格だ。

 

 同じ三冠の栄誉を手にしているというのに、彼我の間には笑ってしまうほどの差があった。今までに何度、苦渋を飲んできたことか。

 決して勝てないと思い込み膝を折るのに十分な敗北を重ねてきた。それでも今こうして遮二無二走っていることを彼女自身も可笑しく思っている。

 

 最終直線の難所、坂を駆け上がる。ルドルフとの差がさらに詰まる。等速ストライドを身につけて尚、皇帝の盤石な走りが上回るのか。

 

 風が唸っている。息はとっくに上がっている。

 激しく伸縮を繰り返す肺が痛む。ラスト1ハロンを示すハロン棒が目前に迫る。

 

 迫り来るルドルフとの差はすでに一バ身未満。じわりじわりと詰められている。あと少し粘れば、もうちょっとを駆け抜ければ辿り着ける栄光の頂があまりにも遠い。

 これまでの経験を鑑みれば負ける展開だ。確実に負けると、シービーの記憶がそう告げる。

 

(けど、それでも……)

 

 

 懸命に腕を振る。頭の中が真っ白になりスパークを起こす。限界に達しつつある足は今にも千切れてしまいそうだ。

 

『ミスターシービーここまでか!?』

 

 気配が真横に並ぶ。

 そうか、もうそこまで上がってきていたか。

 

 意識も朦朧とする中、シービーはふと視線を並んできたルドルフに向けた。

 そこに大した意図はない。どんな余裕顔で上がってきたのか気になっただけのこと。

 

 霞む視界。横を見て。ルドルフの横顔を見て。

 

 

 シービーは瞠目した。

 

 

 そこには余裕など一欠片も無かった。

 必死に、荒い息を吐いて、血眼になるほど目を見開いて。その端正な顔を歪ませて、ルドルフは我武者羅に走っていた。

 なりふり構ってなどいない。皇帝の威厳も七冠バの誇りもかなぐり捨てて、ただ一人のウマ娘として全身全霊で駆けている。

 

(……そうか、勝ちたいんだね、ルドルフ)

 

 静止したように感じられる時の中で、シービーは息を深く吸った。

 

(私と全力で戦ってくれるんだね)

 

 胸に熱いものが宿る。もう燃え尽きたかに思われた何かが火を吹いて蘇り、心の臓腑を拍動させる。

 

(嬉しいよ。走ろう。一緒に走ろう。魂から焼き付いて離れない、最高のレースをしよう)

 

 ギアが上がる。

 有り得ざるもう一つの段階に移行する。

 

 それはスピードの向こう側。

 ウマ娘の可能性の極致。否、そこを超えた先にあるもの。

 

 シナプスが弾け、インパルスが走る。

 迸る想いが心臓を熱くする。沸騰しそうなほどのパワーを秘めた血液が押し出され、体の隅々に巡る。

 大腿を通りつま先にまで達したそれはシービーの全細胞で爆発的な燃焼を起こし、全てが、加速する。

 

「行くよ、ルドルフ!」

 

 大地を弾ませるようにその黒鹿毛は飛んだ。或いは、天を翔けるように楽しげに。

 

 今、この瞬間、この土壇場で。

 誰よりもレースを愛する天衣無縫のウマ娘、ミスターシービーが蘇った。

 

『並ばない、並ばない! ミスターシービーさらに加速する! 並びかけたシンボリルドルフを抑え込んでまだ伸びる! 皇帝を相手に三冠バの意地を見せるかミスターシービー!』

 

 

 ルドルフは必死に食らいつきながらも、僅かに前にいるシービーの背中を見つめている。

 

 全身の細胞は狂喜していた。前へ進めとただそれだけを命じている。

 前へ、前へ、ひたすらに前へ。

 

 たったそれだけのことが堪らなく楽しい。前を追いかけて全力で走るこの瞬間が何物にも代えがたく愛おしい。

 ウマ娘としての幸福、その最たるもの。レースの最中だというのに、ルドルフの心はそんな勝敗など度外視した思いで一杯になった。

 

 集中力が外界を遮断する。真っ白になった世界の中でシービーだけが色鮮やかに駆けている。それに引っ張られるように自分も全力で走っていた。

 

 眩しい太陽の光を見るようにルドルフの瞳が細まる。

 胸に満ちるのは焦りでも怯えでもない。可能性という名の希望を追いかけ、心は生まれたてように無垢に洗われる。

 

 

 

(ああ、そうだシービー。君はいつだってそうだったね)

 

 

 

 彼女はその脚で常識を覆し、闇を吹き飛ばす。

 

 何よりも単純で、明るく、楽しく、輝いている。

 

 

 

(私にとって君は———)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴール板を先頭で駆け抜けたのは、ミスターシービー。

 

 その瞬間。満天下のもと、優駿たちの頂点が誕生したのだ。

 

『ついに、ついについにやり遂げました! URAファイナルズ決勝、そして四度目の三冠ウマ娘対決を制したのはミスターシービーです! 会場からは今、割れんばかりのシービーコールが鳴り響いています!』

 

 大気を震わせる歓声の中、シービーが腕を振り上げる。

 吉田も、東条銀も、カツラギエースも。皆が皆、笑顔で拍手を送り、シービーの勝利を祝福していた。

 

「おめでとう、シービー」

 

 賛辞は観客席からだけではなく、後ろからもかけられた。シービーが振り向けば、自分と同じくまだ肩で息をしているルドルフが、清々しい微笑みを浮かべて拍手を送っていた。

 

「素晴らしい走りだったよ。まさに天衣無縫かつ勇猛果敢。あまりの気迫に総毛立ってしまったほどだ。文句なく君がこの舞台の王者だよ」

「ありがとう。ルドルフも凄かったよ。並ばれた時、もう駄目かもって思ったくらい」

 

 二人が握手を交わす。シービーが差し出した手をルドルフが取り、柔らかく握った。

 

「いいや、私ももっと努力しなければと思ったよ。研鑽を積み更なる高みを目指すとしよう」

 

 話すうちに、ルドルフの唇がわななき始めたことにシービーは気付いた。

 

「だから……だからね、シービー……これから……」

 

 気丈に振る舞っていたルドルフの声が震える。握る手はいつの間にか固く、熱い涙が零れて頰を伝う。

 

 観衆が見守る中、恥も外聞も無く、ルドルフは鼻を啜って声を上げ、幼子のように泣いていた。

 

「次は、私が勝つから……! だからまた、一緒に……!」

「うん、うん。何度でも走ろう。大丈夫だよ。私はずっとターフの上にいるから」

 

 たった今、友情よりも深い絆で結ばれた二人を、観客たちの拍手喝采が讃える。

 それはゴールした瞬間よりもさらに大きく、しかし温かな慈しみに満ちたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ウマ娘が走る意義とは何か。

 なぜ彼女たちは走ることに幸福を見出すのか。

 

 その普遍的な答えは未だに見つからず、ウマ娘の数だけ存在する運命が、千差万別の思いが、今日もターフを駆けている。

 

 しかしインタビューで何故走るのかと聞かれた際、ミスターシービーは満面の笑みでこのような答えを残している。

 

「走る理由? そんなの、私がミスターシービーだからに決まっているでしょ」

 

 

 

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