レースを心から楽しめなくなったのはいつからだろう。
シービーは歩きながら考える。片手には松葉杖をつき、片足にはギプスが巻かれている。
ミスターシービーの脚部不安が判明したのは春の天皇賞が終わって間も無くのことだった。完全な故障には至らない、脛骨に精密検査でもなければ知りようのないほんの小さな傷が入っている軽度のものだが、世間は大きく落胆した。
皇帝シンボリルドルフに三度目の敗退。そしてトゥインクルシリーズを通しての度重なる脚部不安。
もうミスターシービーはダメなのではないかという噂が何処からともなく囁かれ始めた。一部の人間が流したその噂話はSNSによって瞬く間に広がり、今では検索のサジェストに『ミスターシービー 引退』と出るまでになった。
例えば、ネットニュースにはこのような記事が載っている。
『ミスターシービー、復帰は絶望的か。ここ最近頭角を現してきたカツラギエースや、先日ついに五冠を達成したシンボリルドルフらの栄光とは逆に、かつての国民的スターであるミスターシービーの凋落ぶりにはいたたまれないものがある』
『天皇賞・春の終盤では一度は先頭に立ち、かつての菊花賞を彷彿とさせたものの、結局伸び切らず最終直線ではシンボリルドルフを筆頭に次々と抜き返され五着という結果に沈んだ。その走りに全盛期の切れ味は無く、凡走という評価も仕方のないものだった』
『現在、脚部不安が発覚したことにより再び休養期間に入ったとのこと。ファンからは期待よりも心配や不安の声が大きい。当初、世間を賑わせていた三冠ウマ娘対決も今回のレースで決着はついてしまったと見ていいだろう。一部の専門家はミスターシービーを早熟型の選手と評し、既にピークを越えた今、トゥインクルシリーズのトップ層やドリームシリーズで強豪と渡り合うのは難しいだろうという見解を出しており……』
パッと、そのニュース記事を映していた液晶画面が暗転する。トレセン学園のはずれにある喫煙所でニュースを読んでいた老年の男は深くため息をついた。片手には吸いかけの両切りタバコ。口に含んでいた煙が広がり、換気扇に吸い込まれていく。
「なーに辛気臭い顔してるの」
唐突に喫煙所の扉が開き、一人のウマ娘が入ってきた。松葉杖をついたミスターシービーだった。
一瞬肩をビクリとさせた男だったが、やって来たのがシービーだと判ると息をついて苦笑した。
「ここは学生の来るような所じゃないぞ。煙臭いだろ、シービー」
「トレーナーのせいで慣れちゃったよ。まあ確かにちょっと煙たいけど」
「足はどうなんだ。痛むか」
「ううん。痛くも痒くもないのにギプス着けなきゃならないなんて本当嫌になるよ。ねえ取っちゃダメかな、トレーナー?」
「君みたいなウマ娘が無茶するからギプスが要るんだよ」
隣に腰掛けたシービーを横目に見て、トレーナーと呼ばれた男は残り僅かなタバコの火を消した。
「あと、元トレーナーだろ」
ミスターシービーの言葉を訂正する。細かい事を、とシービーは笑うが男にとっては聞き流せなかったらしい。
「つれないなあ。私にとって吉田さんはずっとトレーナーなんだけど」
「嬉しいがね、今のトレーナーに失礼だろう、それは」
「いいのいいの。もう関係無いし」
年老いた男性トレーナーこと吉田の小言に対し、かつての教え子であるミスターシービーは笑ってみせた。気楽そうでいて、どこか諦念の混じった複雑な微笑。
「私、もうチーム辞めたからさ」
さらりと重大な発言をしたシービーは、スマホを取り出して適当にウマスタグラムなどを見始める。何でもないことだと言い張るように。「お、このお店美味しそう」
それでもミスターシービーは誤魔化すのが上手なウマ娘ではなかった。ウマ耳が僅かに吉田の方に向いている。画面をスクロールする指の動きは単調で、食べ物の写真など全く見ていなかった。
シービーの様子を見ていた吉田は少しして「そうか」とだけ言った。淡白な返事にシービーが不満そうな顔をする。
「そうかって、なんか軽くない?」
「君がこうと決めたのなら異論は無いさ。無理して続けることもない」
「……うん、そうね。無理することないよね」
吉田は言いながらギプスが巻かれたシービーの足をちらりと見た。歴史に残ると讃えられた脚。三冠を取った、あるいは吉田に三冠をもたらした才能の塊。
今も自分が彼女のトレーナーだったら。そんな思いが込み上げ、吉田は戒めるように眉間を揉んだ。
ダイヤの原石だったミスターシービーを三冠ウマ娘に磨き上げたのは間違いなく吉田の手腕があってこそだった。
長年かけて築いたチームを若いサブトレーナーに託し引退を視野に入れていた吉田が、最後に担当したウマ娘。それがミスターシービーであった。
入学して間も無い中、シービーはすでに学園中を我がもの顔で楽しそう走り回っていた。ダートだろうが芝だろうがその日の気分で矢鱈めったら駆けずり、匂いが良いからという理由でウッドチップの敷き詰められたコースを何周もしたり、高等部中等部を問わず見かけたウマ娘を誘って併走したりと、その自由奔放さは当時から有名だった。
奇遇にも、吉田は神出鬼没なシービーを何度か目にすることがあった。ただ単純に、楽しそうに走る彼女を眺めることが、いつしか吉田の楽しみにもなっていた。
そんな姿勢を気に入ったのか、シービーの方から吉田に声をかけ、逆スカウトの形で専属契約と相成ったのである。
二人はトゥインクル・シリーズを駆け上がった。デビュー戦からクラシック三冠を取るまでの約二年はまるで綺羅星のように一瞬で過ぎ去り、日本全土を沸き立たせ、競争の歴史に大きな蹄鉄の跡を残した。
しかし栄華の時代は長く続かなかった。シービーがシニア級に上がり、脚部不安から長期休養に入った折、二人は紆余曲折あって契約解除に至った。
当時のことを思い出す度に、吉田の中では言い表しようのない感情が渦巻き、心に暗い影を落とす。
ギプスの巻かれたシービーの足を横目に見ながら考える。自分は本当に正しい道を選ぶことが出来ていたのかと。
懐にあるタバコの箱に手が伸びる。自分が無意識に新しいタバコを咥えようとしていたことに気付いた吉田は、それを恥じるようにそっと懐へ戻した。
「チームを抜けるってこと、まだ公表はしていないのか」
さっきまで見ていたネットニュースを思いながら吉田は聞いた。ミスターシービーがチームを脱退するとなれば必ず話題になるはずだが、そういった情報はまだ公に出回っていない。
「今朝、チームトレーナーに退部届を出したばかりだからね。でもまあ普通に書類受け取ってくれたし、受理されると思うよ。そうしたら私は一躍時の人ね」
引退疑惑が騒がれる中でチームを辞めたことが報じられれば、いよいよミスターシービーの競技者人生は幕を閉じることになる。三冠ウマ娘の引退とはれば、一時的にではあるが、各メディアがこぞって大々的に取り上げるには十分な話題性があるだろう。
「向こうのトレーナーは何て言ってた」
「別に、何も。まあホッとしたかもね。私ってほら、自分で言うのもなんだけど変わり者じゃん。なのに肩書きは三冠ウマ娘だからさ。外野からも色々と言われるだろうし扱いにくかったんじゃないかな」
「……なかなか自分のことを客観的に見れるじゃないか、シービー」
「えー、ひどーい。そこは「そんなことないぜ」とか言って慰めるところでしょ」
わざとらしく文句を言うシービーに「事実じゃないかね」と吉田が笑う。冗談で笑い合ったのも束の間、吉田はシービーに尋ねた。
「それで、これからどうするつもりなんだ」
聞かれて、シービーの表情がにわかに固くなる。しかしそれも一瞬のことで、普段通りの飄々とした微笑を作ってみせた。
「なーんにも考えてない。まあ当分は走らないかな」
足もこれだしね、とギプスを巻いている方の膝を叩くシービー。
「トレーナーはさ。どう思う?」
レースを続けるか、辞めるか。自分の行く末を問うシービーの声は僅かに低い。吉田はしばらく間を置いてから月並みな答えを出した。
「君のやりたいようにやれば良い。なに、走るだけが人生じゃないさ」
「……ま、そうだよね。私は私らしくなくっちゃね」
私らしく、自由に、何にも囚われず。
聞かずとも吉田の言葉をあらかじめ知っていたシービーは呟いた。
彼は出会ってからずっとそうだった。ウマ娘の意思を尊重し、レースで勝って名を上げるよりも幸せであったり将来を明るいものにすることを重視する。
だからこそ吉田と組めていたことを、シービーは今になって自覚した。
一般的なチームに入ってみて初めて、自分はどうも人と上手く折り合いを付けられないことに気付いた。気性難と呼ばれる部類に入るらしい、とシニア二年目になってようやく悟った次第である。
気乗りしないからと、そんな理由でサボることも何度かあった。併走する時も「前を抜かすな」とか「ここで抜け」と細かく指示されるのが思いのほか窮屈だった。
天皇賞春を走り終え、ウィニングライブでのバックダンサーの務めも果たした後で開かれた反省会でのこと。シービーの着順に対してチームトレーナーはどこか納得している風だった。このくらいが妥当だろうと言外に言われた気がしたのは自分の勘違いではないだろうと、ミスターシービーは思うものだ。
そこからチーム脱退までの話は早かった。レース後に義務である精密検査を受けてみれば今回の脚部不安が判明し、それを機にシービーから脱退を宣言。用意してもらった申請書にサインと判子を押して、さっさと引き上げてしまったという訳だ。
なんていったって私は自由の代名詞。一つのことに拘るなんてナンセンス。常に楽しくなくちゃ仕方がない。
ミスターシービーは心の中でそう唱える。
「何にせよ宙ぶらりんじゃ色々と都合が悪いだろう。シービー、トレセン学園で孤立無援は割とキツいぞ」
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、吉田は厳しい現実を突きつける。トレセン学園はあくまで競争ウマ娘の育成を目的とした場所だ。トレーナーと契約を結ぶかチームに加入するか、或いは教官の指導を受けて鍛錬に励むか。そういった立ち居振る舞いが当然のものとして求められる。
例えば、怪我を治すための医療費とて無条件で立て替えられるわけではない。その後の復帰への意欲があってこそ、理事会から多額の補償が認められる。チームは辞め、トレーナーもいないシービーは今やトレセン学園における社会的弱者だ。吉田が言っているのは、そうした現実的な問題についてだった。
「どうかね。私と契約するとか」
さらりと出た吉田の言葉に、シービーは目をパチクリとさせた。
「えっ、トレーナーが、私の担当になってくれるの?」
「仮契約で一応の面倒を見るという形だがね。君さえ良ければ」
「いやー、うん。そうしてくれると私としてはすごく助かるんだけどね」
珍しく言葉を濁すシービーに「どうした」と吉田。シービーは気まずそうに視線を泳がせる。
「やっぱり変かなあ。トレーナーとの契約解除を言い出したのは私の方だし、て言うか私がほとんど強引に押し切った感じだったし……」
吉田とシービーが袂を分かったのは昨年の春頃のことだ。原因はシービーの脚部不安にあった。三冠を取った後、断腸の思いでジャパンカップと有マ記念を回避した吉田の判断は結果として正しかった。
柔軟性に優れるシービーの足は天性の加速力を持つ反面、故障しやすいという厄介な特性もあった。日本ダービー後にもその兆候はしばしば見られたが、シニア期に入ってついに表面化した。
当時、貴重な三冠ウマ娘を管理できていないとして吉田はバッシングに晒された。大抵の場合、ウマ娘の不調、故障の責任は全てトレーナーが背負うことになる。当然の事実であるため老練の吉田は記者の追及にあっても泰然としたものだったが、シービーはそれが許せなかった。
シービーは激怒した。烈火のごとく憤り、偏向的な記事を書いた大手出版社に
そうして最終的に、これ以上吉田に迷惑をかけないためにシービーは契約解除を申し出た。
「元々は引退しようとしてたトレーナーを私が無理やり捕まえたようなものだからさ、きっと今が潮時なんだよ。私なら大丈夫。三冠ウマ娘なんて引く手数多だし、他のチームにでも入ってレースに復帰して、ばんばん勝っちゃうから」
一年前、今と同じように飄々とした態度と楽天的な笑顔でシービーは言った。
最初こそ反対していた吉田だったが、シービーがいつまでも頑ななことと、彼女自身の競技人生を考えた末に、契約を解除する方向で話はまとまった。吉田が受け持っていたチームに入るかという話も出たが、それだと吉田との繋がりを完全に断ち切れず悪評のネタにされるかもしれないからと、シービーが断った。
昔とった杵柄で指導するには、彼女の才能は手に余る。吉田は常々そう感じていた。もっと若くて溌剌としたトレーナーに任せた方が将来的にシービーのためになる。そう考えた末の妥当な、苦渋の決断であった。
その時のことを引きずってか、シービーの歯切れは悪い。吉田は気にする必要などないと宥めた。吉田も今は担当ウマ娘を持たず、教官への指導や地方での講演など、もっぱら後進の育成に力を注いでいる身だ。
人気の三冠ウマ娘を受け持っていた一年前とは状況が何もかも違うのだ。形だけの仮契約を結ぶくらい迷惑でも何でもない、というのが吉田の意見だった。
ミスターシービーも自分の立場を本気で不安に思っていたのだろう。申し訳なさそうにしつつも、結局は吉田の提案を受け入れた。
「じゃ、これからまたよろしくね。ミスター・トレーナー」
「こちらこそ。とは言っても君の当面の仕事は絶対安静だから。これからはこんな所までほっつき歩いちゃダメだよ。散歩も当分禁止だ」
「えー! やだやだやだ、つまんない!」
「落ち着きがないところは本当に変わらんなあ君は。ほら、もう夕暮れだよ。今日は大人しく寮に帰りなさい」
「あーもうなんかやる気なくなった。絶対安静ならさ、寮まで私のこと負ぶって行ってよ、トレーナー」
「無茶言うな。もう七十近いんだぞ」
狭い喫煙所から吉田とシービーが出て、それぞれの帰路に着く。
片方は松葉杖をつき、片方は腰を曲げており、どちらも歩みは遅い。赤い夕陽が二人の影法師を長く伸ばしていた。
斯くして、三冠を巡って世間を賑わせた二人はトレセン学園でも稀な再契約を結んだ。
目標のレースも無い。トレーニングも行わない。復帰の目処も立っていない。ただ現状を引き延ばしにするためだけの、仮初の契約を。