「ラスト一本、気合い入れろ」
「はいっ!」
「ペースが落ちているぞ。そんなことで先行を捉えられるか!」
「はいぃぃ……!」
トレセン学園の練習場の一角、坂路トレーニング場にウマ娘たちの走る音が響いている。へろへろのウマ娘たちに檄を飛ばしているのは、トレセン学園でも一、二の厳しさに定評のあるチームを率いる黒沼トレーナーだ。
トレーナーの目の前を、先行していた一人のウマ娘が駆け抜ける。ピッとタイマーか押される電子音。
「良いタイムだ。カツラギ」
「ハア、ハア……ありがとうございます」
「一周軽く流して来い」
「はい」
苛酷な坂路ダッシュを終えた直後にも関わらず、すぐに息を整えたウマ娘、カツラギエースはトレーナーの指示に従ってクールダウンに向かう。
その後、続々と他のチームメイトもメニューを消化し、インターバルの時間に入った。
現在、カツラギエースはトゥインクル・シリーズの第一線から退いている。と言うのも、次のステージであるドリーム・シリーズに向けて一から鍛え直しているからだ。狙うは夏。ウマ娘の頂点の一つとも言えるサマードリームトロフィーが今の彼女の目標だった。
前回の有馬記念ではシンボリルドルフ、ミスターシービーと並んで三強と呼ばれたカツラギは、遥か先を見据え今もなお牙を研いでいる。次こそはライバルを超えるために。
「カツラギ先輩、やっぱり凄いです!」
「ほんと。今日は行ける!って思ったのに、全然追いつけませんでした」
「ありがと。二人も確実に強くなってるよ。最後まで粘る根性もついてきたし、自信持って良い」
カツラギエースが喉を潤しながら後輩と会話していると、中等部の新入りが小走りで駆け寄り話しかけてきた。
「あ、あの、さっきからカメラ持ってる人が先輩のこと撮っていて……」
記者だろうか。取材の予定は聞いていない。そもそも、そういった話はいち生徒である自分ではなくトレーナーに言うべきでは。すぐ側にいるんだし。
「あっちの方に」
後輩が指さす方を見て、カツラギは合点がいった。コースから離れた土手の上。確かに、黒鹿毛のウマ娘が大きなカメラをこちらに向けている。見知った顔だった。憎たらしいほどに。
カメラを携えたミスターシービーは、カツラギが自分に気付いたと知り、笑顔で大きく手を振った。それを見てカツラギがため息を漏らす。
「これちょっと持ってて」
スポーツドリンクの入った水筒を後輩に預け、坂を登ってシービーの元へ向かう。その背中からは何故かレースの時のような迫力が滲み出ていた。
「な、なんか先輩怒ってない? なんで?」
「さあ……」
カツラギが近付くと、シービーは「やあ」と軽く手を上げた。もう片方の手には一眼レフのカメラを持っている。落とさないよう首からバンドで吊り下げているそれは一目で高級品と分かる物だ。
「何の用? 敵状視察でもしに来たってわけ?」
「違う違う。暇だったからトレーナーが持ってたカメラ貸してもらってさ。学園の風景でも撮ろうかなーってね」
どこか棘のあるカツラギの物言いに動じた様子も無く、シービーはサッとカメラを構える。
「カツラギ選手、現在の調子はどうですか。なんちゃって」
「まったく……こっちは暇なんて無いってのに」
「あ、一枚撮るから笑顔でピースとかしてくれない?」
「しない」
心底面白くない、といった表情でカツラギは腕を組む。パシャパシャとシービーは何回かシャッターを切った。
「前のチーム辞めてから随分と楽しそうじゃん、シービー。ギプスもとれたみたいだし」
カツラギの視線が下に向き、シービーの足を見る。サポーターをしてはいるが、すでにギプスをしなくてもいいくらいには回復しているらしかった。
雨の中でも平気で散歩をするシービーにとって、安静にしなければいけない時期はさぞかし苦痛だっただろう。
「いやあ、やっぱり気の合うトレーナーと組んでると違うね。あれやれこれやれって言われないから、のびのび出来るし」
「のびのび、ね」
カツラギの呟きには僅かな含みがあった。
「あんたさ、まだ走る気あるの?」
一瞬、シービーが固まった。
畏怖と尊敬の混じった眼差しで遠巻きに二人のやりとりを見ていた後輩のウマ娘たちは、にわかに走った緊張に尻尾の毛を逆立てた。
シービーとカツラギの視線が交錯する。その刹那、僅かにシービーの目が逸れかけたことを、カツラギはしっかりと見ていた。
「そりゃあ私はウマ娘だもん。いつでもどこでも走るよ。ま、今は足を治すのが先決だってトレーナーに釘刺されてるけどさ」
「レースに出るのかって聞いてるの」
カツラギは答えをはぐらかされることを許さなかった。シービーの言葉に被せて畳みかける。
それでもシービーは笑顔を浮かべたまま、のんびりとした口調で言った。
「んー……どうだろうね。そこら辺はまあ、神のみぞ知るっていったところかな」
付き合ってられない、とでも言うようにカツラギは舌打ちをする。
そんな二人の元に後輩のウマ娘がおずおずと近付いてきて、もうそろそろインターバルが終わる時間だとカツラギに伝えた。練習場の方を見れば、チームメイトたちが指示を仰ごうと黒沼トレーナーの周りにぞろぞろと集合し始めている。
お邪魔しました、と言って駆けていく後輩の後を追い、カツラギも歩き出す。その背中をシービーが見送っていると、カツラギはふと振り返って言った。
「宙ぶらりんでいるくらいならサッサと辞めなよ、シービー。周りうろちょろされても迷惑だし、今のあんた見てるとなんかイラついてくるよ」
しばらくして、シービーの眼下で厳しい訓練が再開される。先頭をきって走るのはやはりカツラギエースだ。シニアの一年目を乗り切ってさらに熟達した彼女の走りは、遠くから眺めていても素晴らしいの一言に尽きるものだ。
その練習風景にシービーが再びカメラを向けることはなかった。間も無くして彼女が立ち去ったあとには、無音の風が吹き抜けるだけだった。
○
「でさあ、カツラギったら私のこと睨んでこう言うんだよ。周りうろちょろされたら迷惑だって。流石に酷くない?」
トレーナー室でソファーに深々と腰掛けたミスターシービーが愚痴を溢していた。一眼レフカメラを弄り、大容量メモリに記録されている写真を見ながらも、今日の不満をこぼし続ける。
「人のカメラを勝手に持ち出した罰と考えたら丁度良かろう」
パソコンで何やら作業をしている吉田が答える。物言いこそ辛辣だが、返せと言わないあたり大して気にしていないのだろう。シービーもそれが分かっているので「ごめんごめん」と言いつつも悪びれた様子は無い。
「しっかし、トレーナーが撮ってるの家族かウマ娘の写真ばっかりだね。せっかく良いカメラ持ってるのに、旅行とか行って綺麗な景色撮らなくていいの? 海とか山とか」
「トレーナー業をしていると遠出をする時間が無くてね。まあ今は昔よりも余裕があるんだが、今度は老いた身体がついていかん。ままならないものだよ」
「そっかあ」
勿体ないなあ、とシービー。
カメラの中に何百枚とあるウマ娘たちの写真はどれも写りが良い。大抵はどれもこれも走っている時のものだがブレが無くよく撮れている。
「何なら今年の夏、私と一緒に海でも行く? ほら、足も普通に歩けるようになったし」
「何か奢ってもらおうって魂胆だな」
「バレちゃったか」
冗談めかして笑うシービーにつられて吉田も微笑む。
「いいのさ。一番撮りたかった写真はもう撮れているからな」
「年頃のウマ娘の写真を? うわー、なんかそれ変質者っぽくない?」
「おいシービー、そういうことは言わんでくれ。いや本当に。女学園はそこのところ厳しいんだよ」
権威あるトレセン学園は常に不祥事の種が芽生えていないか監視の目を光らせている。古株のベテランとて、いち男性トレーナーである吉田は震えるばかりだ。
「でも私の写真は無いのね」
不服そうにシービーが口を尖らせる。メモリの最初まで遡ってみても吉田の最後の担当ウマ娘である自分が写っていないではないか。由々しき事態である。「シービーはどこだ」とミスターシービー本人は心の中で叫んだ。
「昔の写真は選別してUSBメモリとかに移しているんだよ」
「なんだそういうこと。ちょっと見せてよ」
「ここには無いよ。私の自宅に保管してある」
「じゃあ今からトレーナーの家に行こうよ」
「無茶言うな。これでも仕事中だから、こっちは」
そう言いつつ、吉田はパソコンの電源を落として立ち上がった。几帳面に整理された棚から書類を何枚か取り出してファイルに挟む。鏡を見て髪を軽く整え、白シャツの上からジャケットを着る。
他所行きの支度をしているらしい吉田に「どこへ行くの」とシービーが聞いた。
「ちょっと理事長に呼ばれていてね。君について話したいことがあるらしい。と言うわけで、君も一緒に来なさい。シービー」
「えー!」
唐突な話にシービーは柄にもなく叫び声を上げた。慌てるあまり手が滑ってカメラを取り落としそうになる。
稀代の三冠ウマ娘であるミスターシービーも、職員室に呼び出されれば拒否反応を示す程度には平凡な女子高生である。それも今回は一介の教師などではなく学園のトップに立つ理事長から直々に話があると言うのだから、悲鳴の一つも出るというもの。嫌そうな顔を隠しようもなかった。
「私はちょっと足がアレだし、ここで安静にしてるってことで……」
「何言っとるんだ。ギプスがとれたのを良いことに昨日も今日も学園中歩き回っとったじゃないか」
「本当に私も行かなきゃダメ?」
「当たり前だろう。君の進路の話なんだから」
「進路かあ。なんか三者面談みたいで嫌だなあ」
「まあその表現はあながち間違いじゃないな。私は保護者ではなく教師側だがね」
「尚更やだー」
文句を垂れながらも、今回は吉田が折れてくれないと悟ったシービーは重い腰を上げた。吉田の後に続いてトレーナー室を出て行く。
机に置かれた一眼レフカメラの液晶画面は、シービーが消し忘れたためにまだ光っていた。
そこには今日撮ったカツラギエースの走る姿が映されている。
かつての有馬記念で三強と呼ばれたうちの一人、格段に血統が弱く才能に恵まれなかったカツラギエースは、しかし誰よりも努力家だった。どれだけ辛酸を舐めても、本番のG1レースではシービーに勝てないという不名誉な評価をされても、決して諦めることはなかった。
静止している写真の中でも彼女の目は鋭く、闘志に燃えている。それがシービーの心胆を寒からしめるのであった。