「緊急警報!医療区画にて騒乱発生!繰り返す、医療区画にて元戦自隊員による威嚇行為!」
ヴンダーの巨大な鉄骨を震わせる甲高い警報が、冷たい艦内に、悲鳴のように響き渡った。ブリッジで最終調整の報告を受けていたシンジとカナメは、反射的に顔を見合わせた。レイのいる医療区画、あの隔離された場所だ。騒乱という報せに、彼らは一瞬、全身の血の気が引くのを感じた。
「レイが……」
シンジの喉から掠れた声が漏れる。レイの無表情の奥にある、わずかな、しかし確かに彼に向けられた信頼の記憶が、彼の脳裏を駆け巡った。
「急ごう、シンジ君!」
カナメは、嫌な予感に、全身の神経が張り詰めるのを感じていた。カナメはミサトやリツコら幹部たちに先んじて、シンジの手首を掴むようにして、通路を疾走した。
廊下を照らす非常灯の赤が、二人の焦燥を煽る。シンジは息を切らせながら、カナメの背中を追った。
「どうして、医療区画なんだ?レイは……何かしたのか?」
「もしかしたら……。いや、レイは僕らの仲間だ。理由もなく攻撃される筋合いはない」
カナメは即座に答えたが、その声の底には、前回の戦いが脳裏をかすめ、複雑な感情が隠されていた。
辿り着いた医療区画の扉の向こう、開け放たれた病室には、元戦自の作業服を着た数名の男たちが、静かに佇む綾波レイを囲んでいた。部屋を満たす消毒液の匂いと、男たちが携える自動小銃の冷たい鉄の匂いが混ざり合い、緊迫感を極限まで高めていた。レイは、淡い病衣姿のまま、感情のない彫像のように立っている。その白い額に向けられた銃口は、人類最後の希望を担うパイロットというより、処理されるべき危険物に向けられていた。
男は顔を歪ませて叫んだ。
「動くな、使徒の手先!貴様は、碇ゲンドウの駒だろう!先の戦闘を見たはずだろう!あの生き人形……あいつらの顔とまったく同じなのが偶然か!?そんなわけないだろう。悪いがここで排除させてもらう!」
ミサトが、シンジたちの後ろから駆け付け、元戦自の前に立ちはだかった。その鋭い眼光は、一切の躊躇を許さない指揮官のものだ。
「やめなさい!彼女らの安全は私が保証します!銃を下ろしなさい!」
「黙れ、葛城一佐!貴様は、碇ゲンドウの残した毒が、この船を蝕むのを許すのか!」
男はミサトを牽制し、銃口をレイから外そうとしない。元戦自の目には、レイの顔が、先の戦闘で自信を襲った無数の綾波型クローンと重なって見えている。彼らの恐怖は、正当な防衛本能だった。
激高する隊員に対し、シンジが衝動的に前へ出た。
「違う!綾波はそんなことしない!」
彼の声は上ずっていた。彼は信じたかった。この少女が、奴らとは違うことを。
だが、カナメはシンジの前に静かに進み出た。カナメは、レイの真実を知っているが故に、彼女を道具として終わらせるわけにはいかないと決意していた。彼の冷静さは、シンジの混乱とは対照的だ。
「銃を下ろせ」
カナメの声は静かだが、その瞳には、その瞳には強い意志が宿る。
「レイは、僕らが知るパイロットだ。理由もなく攻撃はしない。銃を、下ろしてください。」
シンジは、カナメの冷静な擁護の言葉を聞きながら、レイをまっすぐ見つめた。どうしても目の前で起きた光景が、あの地獄の光景とダブって見えてしまう。その予感が、シンジの胃を強く掴んだ。
「綾波…綾波は、綾波だよね?」
レイは、銃口を向けられたまま、シンジをまっすぐ見つめた。その表情に、わずかな動揺が走った。そして、彼女は、これまで彼女を縛り付けてきた「命令」ではなく、「感情」から生まれた言葉を紡ぎだした。
「わからない。だけれど。わかりたい。今の私は、みんなが好き……だと思うから。みんなと一緒に明日を迎えたい」
男が構えをさらに強めた――その絶対的な危機を前に、リツコが一歩前に出た。彼女の頬は青ざめていたが、その声は鋼のように硬い。
「やめなさい!彼女は私たちを襲った使徒とは違うわ。性質も作られた意味もね。……彼は、綾波レイの真実を知る権利があるわ」
リツコは、冷たい銃口の前で、男に毅然とした態度で告げた。
「彼女は、碇ユイのクローンよ。彼女は、碇指令の妻に似せて作られた、人型の器なの。」
シンジは、その言葉に凍り付いた。全身の血液が、L.C.L.に変わったかのように冷たく、重くなった。すべてが、あまりにも完璧に、一つの残酷な事実へと収束した。父の行動の全てが、レイに向けて時折見せたわずかな優しさも、自分に向けられる完全な無関心も、全てがこの一点に集約していたのだ。
「ああ…そうか…」
シンジの瞳から涙が溢れた。彼は絞り出すように呟く。
「だからだ……だから、父さんは…レイにだけ、微笑んでいたんだ……」
リツコは静かな憐憫の情を浮かべ、シンジの傍に歩み寄った。彼女の表情には、レイ個人への憎悪はなく、ただ科学者としての事実の認識と、この哀れな運命に対する静かな悲哀だけがあった。
「そう。彼女は、あなたの父の、愛の亡霊よ。」
彼の目の前で、世界の構造よりも重い、個人の真実が崩壊した。父が求めていたのは、生きた自分ではなかった。母の亡霊を再現した、この無垢な少女だけだったのだ。
「僕は何だったんだ…?」
シンジは、父が愛したのは、レイという存在を媒介とした、失われたユイの幻想に過ぎなかったという事実に、吐き気を催した。父は、母を失った悲劇から逃れるために、母をコピーしたレイを創り出し、同時に、自分を、生きてそこにいる息子を完全に切り捨てたのだ。彼は、自分が父にとって、母を失わせた罪の象徴か、あるいはただの失敗作だったのではないかという、悍ましい確信に打ちのめされた。
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちる。守りたいと願ったレイという少女が、父の歪んだ愛の産物であったという真実は、シンジの存在の根幹を揺るがす鉄槌だった。父は自分に何も与えず、ただ「乗れ」と命じた。そのくせ、レイには、誰も見たことのない、一瞬の微笑みを向けたのだ。
絶望は、自己否定の波となって、シンジを飲み込んだ。この少女を擁護することは、父の歪みを容認することに他ならないのではないか?この虚ろな器を助けることに、意味はあるのか?彼は、心の底からレイという存在を、父の愛の具現として、拒絶したいと思った。全身の筋肉が痙攣し、呼吸が乱れる。彼は、もう一度エヴァに乗る、その意味を、この瞬間に完全に失った。
その絶望の底に、シンジを溺死から引き戻す、微かな光が射した。それは、レイの言葉だった。
「私は……みんなと、一緒に戦いたい。役目じゃなく、みんなの役に立ちたいから。」
シンジは顔を上げた。この言葉は、父に作られた「器」から漏れたものではない。それは、彼女自身の意志だ。父はレイを人形として作り、愛の亡霊として閉じ込めた。しかし、レイは、シンジやミサト、そしてカナメと共に戦い、生きる中で、魂を獲得し始めていたのだ。
彼女は、「碇ユイのクローン」という過去ではなく、「綾波レイ」という現在を選び取ろうとしている。父に作られた器ではなく、僕らと共に生きることを選び始めた「人間」として。レイの瞳には、まだ戸惑いがあるが、その奥に宿る「生きたい」という微かな炎は、シンジ自身の絶望を打ち消す熱を帯びていた。
シンジは、傍らに立つカナメを見上げた。黙って見守る彼。カナメはなぜ動じない?彼もまた、この世界にいる誰かの想いを背負っているからか?レイの存在を、その出生ではなく、彼女が今、ここにいることで評価しているからだ。カナメの静かな眼差しは、見ている現実の重みを訴えかけている。
父の呪縛は、レイを否定し、自分を否定することによって完成する。ならば、レイを擁護し、彼女の選んだ未来を共に戦うことが、父への最大の抵抗になる。レイは父の過去ではない。彼女は、シンジと同じ、今を生きるパイロットだ。
シンジは、泥まみれの感情を振り払い、力を込めて立ち上がった。彼の視界は涙で滲んでいたが、レイを見つめる瞳は、もう父の影を追ってはいなかった。
リツコによる衝撃の告白と、シンジの絶望的な悟り。艦内に重い静寂が広がる中、レイに銃口を向けていた元戦自の男は、戸惑いと恐怖に顔を青ざめさせていた。
「バカな……おかしいだろ……」
男の手から、銃が力なく床に落ちる。
ミサトは、その隙を見逃さなかった。冷徹な眼差しで、男と周囲の元戦自隊員を一喝する。
「あなたたち!何をしているの!ここは戦場ではないわ!この艦の指揮官は私、葛城ミサトです!艦内の秩序を乱す行為は一切許しません!レイは今、我々と同じ乗員であり、人類再建の最後の希望を担うパイロット!直ちに持ち場に戻りなさい!またここでの会話は秘匿案件とします。」
その声には、加持リョウジの遺志を継いだ指揮官としての絶対的な権威が宿っていた。隊員たちは、ミサトの迫力と、レイを巡る真実の重みに押され、すごすごと銃を拾い、退散していく。
シンジは、レイへと歩み寄った。
「レイ。君が誰のクローンだろうと、誰の道具であろうと、僕には関係ない」
シンジは真っ直ぐにレイを見つめ、全てを受け入れるように深く息を吐いた。彼の言葉は、父の過去を断ち切るための、自分自身への誓いだった。
「綾波は綾波だ。他に思いつかない。」
カナメは、静かにレイの前に立ちはだかった。その声には、力強い連帯感が宿っている。
「レイ。君が何者であるかなんて、僕らには関係ない。僕らが知っているのは、君が僕らと共に戦い、今もここにいる、ということだけだ。」
ミサトもシンジに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「シンジ君。つらいだろうけど、これが現実よ。それでも、私たちは進まなければならない。レイも、アスカも、そしてあなたも。誰もが、今を生きるためにここにいるのよ」
シンジは、ミサトとカナメの強い意志に触れ、頷いた。彼の目の前には、父の歪んだ愛と、それを具現化したレイがいる。そして、そのレイと共に、父を止めなければならないという、あまりにも重い使命が横たわっていた。
「……はい、ミサトさん。僕、行きます」
彼の瞳には、涙の跡は残っていたが、迷いは消え、南極での最終決戦に向けた、微かな決意が宿っていた。
――――――
『次回予告』
終焉の地、あるいは始まりの地。その地を前に人々は何を思うのか。終局へと加速するこの世界で一末の希望にすがることはできるのか。
次回「奇跡の禍地へ」