エヴァンゲリオンAnotherWorld   作:時雨光多

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第参拾六話 ただ涙にひちて

「カナメ!カナメ!!しっかりしろ!!」

 

遠く、耳鳴りの奥から、シンジの焦燥に満ちた叫び声が聞こえる。

 

「う……」

 

カナメは、瞼の裏を灼く激しい光の残像に耐えながら、かろうじて意識を取り戻した。彼の世界を覆っていたノイズが引き、目を開く。

視界に飛び込んできたのは、シンジの初号機の巨大な右腕だった。その腕は、カナメがいる床の頭上で、何かに力強く噛みつかれ、ギチギチと軋み音を立てている。

カナメの鼻腔に、強烈な腐臭が流れ込んできた。それは、生肉と古びた鉄、そして何世紀もの間、泥に沈んでいたような土の匂いが混ざり合った、おぞましい悪臭だった。

アダムス。

繭から飛び出した白き巨人の正体。

初号機の右腕は、寸でのところで、その巨人のおぞましい口に噛みつかれていた。

四つ腕の巨人は、まるで腐りかけの巨神兵のように、皮膚がドロリと溶け、赤茶色と白の体液と歪な骨格が剥き出しになった姿をしていた。その顎は、初号機の紫色の装甲に食い込み、メリメリメリッ! と鋼鉄をねじ切るような音を立てている。

巨人の眼窩には、生命の気配のない空虚な光が宿り、そのおぞましい口の形は、カナメを捕食しようとしていたことを明確に物語っていた。

 

「シンジ君!」

 

カナメは、喉から絞り出した声で叫び、反射的にUSPを握り直す。

 

「こいつ……僕を喰おうと……ッ」

 

初号機は、巨人の凄まじい力に耐え、機体からわずかな火花を散らしながら、一歩も引かずにカナメを庇っていた。

その様子を、碇ゲンドウは、静かに見つめている。彼の顔のバイザーには、初号機と巨人の戦闘の反射光が、冷たく、無感情に輝いていた。

 

「うおおおおおおッ!!」

 

シンジの激しい咆哮と共に、初号機が噛みつかれた右腕を力任せに引き抜こうと藻掻くが、アダムスの顎の力は尋常ではない。紫色の装甲が剥がれ、機体の生々しい皮膚が覗き始め、L.C.L.が滲み出している。

 

カナメの目の前では、親友の命が、そして世界の命運が、この男一人にかかっている。

碇ゲンドウ。全ての狂気の根源。

カナメは、USPの銃口をゲンドウの眉間に固定したまま、震える手で引き金に指をかけた。

 

(ゲンドウを殺せば、全てが終わる。この儀式は瓦解する。シンジ君も、世界も助かる――)

 

彼の脳裏に、友人の親を、いや、人を殺してはならない。という、彼の知る世界の倫理観が、冷たい鉄の枷のようにのしかかる。

 

「……ッ」

 

カナメの視界は、初号機とアダムスの激しい肉弾戦、そして目の前の冷酷な男に二分されていた。

殺意と倫理。救済と罪悪感。

 

(僕は……人を殺せるのか?たとえそれが、世界を救うためだとしても……)

 

カナメの指は、引き金を押し込む直前で、恐怖と躊躇によって、コンマ数ミリのところで止まった。

その一瞬の躊躇を、ゲンドウは見逃さなかった。

 

「ムダだ。君の倫理が、君の行動を縛っている。それが、君がこの世界に持ち込んだ、最も愚かな足枷だ」

 

ゲンドウは、嘲笑すら浮かべず、ただ静かに、事実を指摘した。

 

「シンジ君!」

 

シンジの悲痛な叫びと共に、初号機の右腕の装甲が大きく砕け散った。アダムスがさらに深く噛みこみ、L.C.L.が血のように飛び散る。

カナメの視界は、眼前の凄惨な光景と、手の内の銃口の先にある男とで、激しく揺らいでいた。

 

(このままでは、シンジ君が……!)

 

カナメは、自らの倫理の枷が、目の前の親友を死なせる原因になるという絶望的なパラドックスに直面する。彼は歯を食いしばり、もう一度、USPの引き金を引こうと、震える指に力を込めた。

その時、Mark.09が再び動いた。

祭壇の壁面に激突して体勢を立て直していたMark.09は、その巨体をゆっくりと揺らし、初号機とカナメへと、複数の敵を同時に見据えるかのように、重心を移し始めた。

 

「ムダだ。抗う時間も、君の迷いの時間も、もう終わりだ」

 

ゲンドウは、終わりの始まりを告げるかのように、静かに言い放った。Mark.09は、カナメを再び狙うかのように、腕をゆっくりと持ち上げる。

カナメの手からUSPが抜け落ちた、その地面に落ちた銃に目もくれず、シンジの初号機の方へ視線を向けた。万策尽きた、という絶望が全身を支配する。

 

 

 

 

その時――。

 

 

「終わりにしましょう、この愚かな儀式に」

 

どこからともなく響き渡った、涼やかで、しかし確固たる声。

 

「……来たか」

 

予定外の状況のはずだが、ゲンドウはいたって冷静に状況を受け入れているように見えた。

次の瞬間、その強大なATフィールドが、Mark.09の巨体を容赦なく捉えた!

ギィン!!ズドォォォォン!!

まるで巨大な見えざる手に叩きつけられたかのように、Mark.09は再び地面に叩きつけられた。 今回は、先ほどとは比べ物にならないほどの衝撃音と爆発を伴い、装甲が大きくひび割れる。

カナメとシンジ、そしてゲンドウがその方向を見やる中、祭壇の黒いドーム型の天井から、淡い光を放ちながら、一人の少年がゆっくりと降下してきた。

渚カヲル。

その姿は、黒い指令服を纏い、神秘的な微笑みを浮かべていた。彼の手には何も持たず、ただ静かに、しかし絶対的な存在感をもって、この狂気の儀式の場に舞い降りたのだ。

彼の瞳は、カナメ、シンジの初号機、おぞましい姿のアダムス、地面に叩きつけられたMark.09、そして碇ゲンドウへと、静かに、しかし全てを見通すかのように向けられていた。

 

「痛い役回りを任せてしまったねカナメ君。申し訳ない」

 

カヲルの声が、この閉鎖された空間に、清らかな鈴の音のように響き渡った。

カナメは、地面に横たわったまま、その美しくも異質な少年を見上げた。その言葉には、やはりどこか安心を感じる確固たる響きがあった。

 

「カヲル…君は、如何してここに…」

 

カヲルは、穏やかな微笑みをカナメに向けた後、ゆっくりと、碇ゲンドウへと視線を移した。

 

「リリンの王、シンジ君の父君。『裏死海文書外典』に記された通り、ゼーレの筋書きは、既に破綻しています」

 

ゲンドウは、カヲルを真正面から見据えた。彼の顔のバイザーの奥は、未だ表情を窺い知れない。

 

「…神の儀式に障壁はない。ゼーレの少年、いや第1使徒渚カヲル。」

 

ゲンドウの言葉には、カヲルの正体を理解しつつも、一切の敬意も動揺もない。

カヲルは、その冷徹な言葉にも表情を変えず、静かに続けた。

 

「あなたもまた、碇ユイという個人への執着により、継ぎ接ぎのシナリオを強行しているに過ぎない。しかし、その行為は、生命の書に記されない特異点によって、既に歪められすぎている」

 

カヲルは、アダムスの方へ、憂いを帯びた視線を投げた。

 

「そして、アダムス。その腐りかけた不完全な躯では、フォースインパクトは起こせない。あなた方が求めた完全な進化とは、あまりにもかけ離れている。これはリリンを犠牲にした醜悪な計画に過ぎない。」

 

カヲルは、この場の支配者として、冷徹な事実を次々と突きつけた。

ゲンドウは、カヲルの言葉に微動だにせず、冷ややかに、しかし確信に満ちた声で反論した。

 

「醜悪、か。円環の理にとらわれた君には、そう見えるだろう」

 

ゲンドウは、一歩前に踏み出した。彼の全身から発せられるプレッシャーは、アダムスの腐臭とMark.09の機械的な重圧をも凌駕する。

 

「だが、私には、ユイとの再会という究極の目的がある。そして、その目的の前には、ゼーレの筋書きも、使徒の運命も、取るに足らぬ障害に過ぎない」

 

「君たちの存在は、確かに枷だ。君が持つ世界の真実という名の絶対的な制約と、彼が持つ人類の情という名の感情的な足枷」

 

ゲンドウは、バイザーの奥の瞳を細めた。

 

「だが、私は、その枷すら踏み越える」

 

「最後の儀式には、使徒の贄が必要だ」

 

ゲンドウはつづける。

 

「当初は、理外の存在である第五の少年を排除し、贄とする予定だった。だが、どちらでも構わない。君たち二人、あるいはどちらか一人の存在が、ユイへと至る私だけの道を切り拓くための最終燃料となる」

 

カヲルは、そのゲンドウの傲慢で、かつ恐ろしいまでの執念を前に、静かに目を閉じた。彼の神秘的な微笑みは消え、深い憂いの表情に変わる。

 

「悲しいことです。あなたは、愛の名の下に、生命の根源を弄んでいる」

 

「法則など、私が塗り替えれば良い」

 

ゲンドウは、カヲルを無視するように、静かに、しかし絶対的な命令をアダムスに向けた。

 

「最後の執行者よ」

 

アダムスは、ゲンドウの声に反応し、血のようなL.C.L.を滴らせながらゆっくりと頭部をゲンドウの方へと向けた。

 

「第1使徒そして、特異点の存在を貴様への贄とする。それが、ユイへと至る道を切り拓くための、最終燃料となる」

 

ゲンドウは、カナメとカヲルという二つの「贄」を前に、躊躇なき最終決断を下した。

 

「始めろ。」

 

アダムスの巨体から、禍々しい咆哮が響き渡った! 咆哮と共に、カヲルのATフィールドを押し破るかのように、そのおぞましい腕が解き放たれる!

ギィン!!

アダムスとカヲルの間で、目に見えぬ力の激突が始まった。

腐りかけた巨体から繰り出される動作は、その見た目に反し優雅で流麗であり、荘厳さを伴っていた。

カヲルは、アダムスの繰り出す美しくも致命的な一撃に対し、自身のATフィールドを展開して防御する。が、アダムスの特異な力に押し切られ、わずかに体勢を崩した。

シンジは、アダムスの冷酷な一撃が迫るのを目前に、激しく損傷した右腕を振り払うと、地面に横たわる、半壊した三号機の方向を見た。三号機は、Mark.09に引きずり込まれた際の衝撃でコックピット周辺が大きく損傷し、完全に機能を停止していた。

 

「カナメ!こっちだ!!」

 

初号機のエントリープラグハッチから身を乗り出したシンジは、命懸けの判断を下した。

 

「3号機はもう動かない!僕の初号機に乗って!早くっ!!」

 

シンジは、L.C.L.を滴らせる左手を、地面にいるカナメ目掛けて伸ばした!

 

「僕の右腕じゃ、もうこいつを抑えられない!」

 

カナメは、アダムスの破壊の舞いが迫る中で、シンジの切羽詰まった瞳を見つめた。迷いは、一瞬で消えた。

 

「わかった!シンジ君!」

 

カナメは、3号機のプラグから飛び出した際の装備のまま、飛び散る瓦礫とL.C.L.を避けながら、シンジの差し伸べられた巨大な左手目掛けて決死のジャンプをした。

シンジは、カナメを左手でつかむと、初号機のエントリープラグハッチへと、乱暴に押し込んだ。

カナメは勢いよくプラグ内の座席の横に着地し、シートの横の壁に背中を預け、体勢を低くした。

 

「これで十分だ!シンジ君、構わないで、操縦を続けてくれ!」

 

その瞬間、アダムスが、カヲルのATフィールドを完全に押し破り、初号機の巨体目掛けてその1対の腕を振り下ろした!

 

「ぐあああッ!!」

 

初号機の機体が激しくのけぞる! プラグ内は激しい衝撃に見舞われ、赤色の警告ランプが点滅する。

カナメはすぐに冷静な分析へと意識を切り替えた。

 

「シンジ君、一旦引こう!この場は危険すぎる!!」

 

カナメの鋭い声が、プラグ内の空気を引き締めた。

 

「え?で、でも…カヲル君が、僕たちに託してくれたんじゃ……」

 

「違う!託してくれたのは生きるための時間だ!ゲンドウの狙いは、僕かカヲル君か、どちらかをこのアダムスに捧げること。僕らがここにいる限り、儀式は必ず完遂されることになる!追い詰めるつもりが、追い詰められてたんだ!」

 

カナメの言葉は、ゲンドウの

 

「最後の儀式には使徒の贄が必要だ」

 

という冷酷な宣言と、カヲルと自分自身が特異点であるという事実を明確に結びつけた。

 

「Mark.09はカヲル君のATフィールドで地面に押さえ込まれている!今ならまだアダムスと距離を取れる!これ以上の戦闘は、ゲンドウの計画に加担するだけだ!」

 

シンジは、眼前のアダムスの恐ろしい姿と、父親の冷徹な顔、そして隣で冷静に、しかし切実に訴えるカナメの言葉を天秤にかけた。

 

「わかった、カナメ!」

 

シンジは、激しく損傷した右腕を無理やり起動させ、アダムスの攻撃から機体を引き剥がした! 初号機は、傷つきながらも、カヲルが展開するATフィールドのすぐそばを通り抜け、壁を突き破って侵入してきた場所目掛けて、全速力で撤退を試みる!

ゲンドウは、その光景を静かに見送った。彼のバイザーの奥の表情は、依然として窺えない。

 

「逃げるか、碇シンジ。だが、無駄な抵抗だ。」

 

ゲンドウは、アダムスへと視線を戻す。

 

「最後の執行者、そのまま、第1使徒を排除しろ。」

 

Mark.09は、カヲルのATフィールドに押さえつけられながらも、血のように赤いL.C.L.を滴らせていた。

カヲルは、初号機の去った方向を静かに見つめた後、深く息を吸い込んだ。彼の瞳に、決意が宿る。

「碇司令、あなたの愛は、世界の理を歪ませる。しかし、その歪みこそが、私に与えられた最後の役割のようです」

 

キィィィィィィィン!!

カヲルの全身から、純粋な白銀の光が放たれた! その光は、カヲルのATフィールドを何倍にも増幅させ、アダムスとMark.09の両方を同時に、空間ごと固定するほどの絶対的な力となった。

 

「私があなたの望む贄となりましょう。しかし、私が満たすのは、あなたの望みの一部です。」

 

初号機のエントリープラグ内。壁を突き破り、地下深くを猛スピードで疾走する機体の中で、シンジとカナメは、カヲルの強大なATフィールドの光と、彼の声を聞いた。

 

「シンジ君、カナメ君、どうか聞いてほしい」

 

声は、直接、二人のパイロットの脳内へと響き渡る。

 

「君たちは、シンジ君の父上から補完の主導権を奪い返すんだ。この世界を、やり直してほしい。君たちになら、その資格はある。」

 

シンジは、操縦を続けながら叫ぶ。

 

「カヲル君!君が何を言ってるのかわからないよ!」

 

カヲルの声は、まるで透明な涙のように響いた。

 

「遺言だよ」

 

シンジの目の奥が、絶望に歪む。

 

「カナメ君をここで終わらせるわけにはいかない。彼には、このシナリオの筋書きを終わらせてもらわなくちゃいけないんだ。普通の世界は彼の中にしか存在しないからね」

 

カナメは、シートの横で、カヲルの言葉の重みに息を飲んだ。彼の特異点としての存在が、この瞬間のためにあったことを悟る。

 

「どうか泣かないでほしい。また会えるよ、シンジ君」

 

その言葉が響き終わる瞬間、カヲルの白い光の核は、アダムスの巨大な口へと消えていった。

ズガアアアアアン!!

南極基地の地下深くに、宇宙の開闢を思わせる巨大な爆発が響き渡った。

初号機のエントリープラグ内は、激しい閃光と、機体を揺さぶる凄まじい衝撃波に襲われた! メインモニターの表示は一瞬で真っ白になり、警告音が悲鳴を上げる。

 

「カヲル君ッッ!!」

 

シンジの叫びが、L.C.L.の満たされたプラグ内に、絶望的なエコーとなって響いた。

ンジの咆哮は、親友の死と、父への憎悪に満ちたものではあったが、それだけではなかった。彼の瞳には、カヲルから託された補完の主導権を奪い返すという重い使命が、決意となって焼き付いていた。

その瞬間、カナメの心に、カヲルが自分を生かした意味が、重く、しかし明確な道標として刻み込まれた。彼は、生かされた者としての責任、そして普通の世界の記憶を託された者として、シンジと共に立ち上がる決意を固めた。

 

 

――――――

 

『次回予告』

神と化した父と、すべてを懸けて神殺しを挑む息子。 親友の犠牲と、マリの導きは、碇シンジに何をもたらすのか。

そして、カヲルに世界を変える鍵を託されたカナメは、自らが「法則の外の特異点」であることを武器に、ゲンドウの狂ったシナリオにどう介入するのか。

次回「今、約束の時」

 

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