エヴァンゲリオンAnotherWorld   作:時雨光多

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第参拾八話 座標、魂の共鳴点

初号機は、暗い深淵をくぐり抜け、マイナス宇宙へと突入した。

エントリープラグ内の視界は、一瞬にして激しいノイズと光の飽和に包まれ、シンジとカナメの意識は激しく揺さぶられた。

 

「うっ…!」

 

シンジは耐え難い圧迫感に呻き、カナメは壁に強く押し付けられた。

次の瞬間、ノイズが晴れた。彼らの目の前に広がっていたのは、世界の理が完全に反転した、光のない、奇妙に輝く宇宙だった。

そこは、距離感を持たない茫漠とした空間だった。星々は黒い渦となって蠢き、光を放つはずのない物体が青白く輝いて静止している。あらゆる色彩が反転し、虚無そのものが形を持ったような、美しくも恐ろしい景色だった。

 

「ここが……マイナス宇宙……」

 

カナメは、畏怖に満ちた声で呟いた。

 

「すごい…けど、気持ち悪い…」

 

シンジは、全身の細胞が拒否反応を示しているのを感じた。

彼らの乗る初号機は、光の輪を背負いながら、その異質な空間を力で押し進んでいた。8号機から受け継いだアダムスの器の力がなければ、一瞬で存在を否定されていたであろう空間だった。

空間の遥か彼方に、巨大な構造体が不規則な動きを見せながら浮かんでいた。それは距離感を持たない茫漠とした空間にあって、その不確かさゆえに、かえって絶対的な存在感を放っていた。

シンジは、それを冷静に見定めようとする。

 

「あれは?」

 

カナメが固唾を呑んで見つめる中、第13号機から、ゲンドウの声が、直接、シンジの意識に響いてきた。

 

「ゴルゴダオブジェクトだ。人ではない何者かが、アダムスと六本の槍とともに神の世界をここに残した。私の妻、お前の母もここにいた。全ての始まり。約束の地。人の力ではどうにもならない。運命を変えることができる唯一の場所だ」

 

空間を移動するエヴァ両機が、ゴルゴダオブジェクトに近づいた。

黒い支柱で造られた十字をいくつも組み合わせて構築した巨大遺跡――それがゴルゴダオブジェクトの外観だった。その大きさは桁外れで、支柱の表面には白い未知の紋様がびっしりと敷き詰められていた。

シンジはゲンドウの言葉を聞きながら、長い長い支柱の側を滑空する。彼は、ゲンドウに追いつくことだけを考え、加速した。

そして十字の交差する場所を通過して、末端に近づいた時、最後の突出した部分に初号機は衝突した。

 

――そこで、ぐらり、と視界が揺れた。

身体を突き上げるような衝撃が、一瞬にして熱い空気に変わる。

耳の中で、先程までのノイズやシンジの咆哮が、別の音へと塗り替えられた。

――ジリジリ、ジリジリ、ジリリリリ……

やかましく、頭が割れそうなほどの蝉の声。真夏の太陽が照りつける、懐かしい日常の音だった。

目を開くと、僕はアスファルトの上に立っていた。

灼熱の夏空。真上から容赦なく照りつける太陽。僕は、エヴァのエントリープラグの中ではなく、見慣れた街中に、一人でいた。

シンジ君は?初号機は?ゴルゴダオブジェクトは?

まるで、それら全てが一瞬の夢であったかのように、僕の身体には傷一つない。さっきまで感じていたエントリープラグのシートの硬さも、激しい痛みも、跡形もなく消えていた。

周囲を見回す。そこは、僕とシンジ君が通っていた第三新東京市立第壱中学校の裏手の道だった。

目の前には、シンジ君の通学路にもなっている、見慣れた急な坂道が伸びている。坂道の脇には、緑が生い茂った土手があり、その向こうには、青い空と、積み重なる白い入道雲。

全てが、あまりにも現実的で、あまりにも静かだった。

僕は、自分の手が確かに存在していることを確認するように、手のひらを握りしめる。指の間に感じる熱い空気の感触。

 

「…ここ、は?」

 

思わず、声が漏れた。誰もいない。聞こえるのは、蝉の声と、遠くで犬が吠える音だけ。

僕は、マイナス宇宙での出来事が、脳内で熱に浮かされた幻影だったのではないかと、深い混乱に陥った。

カヲル君の死も、ヴンダーの危機も、碇司令の計画も、全てが終わったのだろうか?

あるいは、これが人類補完計画の最初の段階なのだろうか?

僕は、立ち尽くしたまま、この非現実的な日常を、ただ見つめることしかできなかった。

その時、背後から、静かで、しかし聴き慣れた声がかけられた。

 

「…ここにいたか。」

 

僕は、全身の血が凍るのを感じながら、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、碇ゲンドウだった。彼は、土手の縁に、まるで日常の風景のように静かに座っていた。その背後には、真夏の入道雲が、僅かに不規則な歪みを見せていた。

静かな、優しさのようなものがこもった声色で声をかけてきた。そして、彼の顔には、まるで皮膚がひび割れたかのように、赤い稲妻状の聖痕が走り、その中央で、星形に赫く光っていた。その異物感が、この日常風景の不気味さを一層際立たせていた。

 

「碇……ゲンドウ…?」

 

思わず、声が震えた。

 

「君と話してみたいと思っていたんだ。あの時の言葉に他意はない」

 

ゲンドウは、穏やかさすら感じさせる声でそう言った。しかし、その声は僕の緊張を解くどころか、怒りを激しく掻き立てた。

僕の理性が一瞬で吹き飛んだ。全てがこの男のせいだ。カヲル君の死も、ミサトさんたちの絶望も、シンジ君の苦しみも。

 

「なんでこんなことをしたんだ!!」

 

僕は反射的にゲンドウに掴みかかった。胸元を鷲掴みにする。ゲンドウは、掴みかかられても微動だにせず、その静かな姿勢を保っていた。まるで、僕の行動そのものが、彼の計画の一部であるかのように。

 

「ユイさんが! あなたの奥さんが、そんな事をしろと望んだのか!? 今まで死んでいった人たちは、あなたのエゴで片付けられるのか! カヲル君だって!!」

 

僕は、最後に最も重要な問いを絞り出した。

 

「……シンジ君はどこだ!?」

 

ゲンドウは、初めて僕の目を見ようとするかのように、わずかに顔を傾けた。その顔の奥に、感情の読めない深い闇が垣間見えた。

ゲンドウは、掴まれたままの衣服を見下ろすこともなく、静かに答えた。

 

「シンジとは、決着をつけるつもりだ。この結末を迎えるためにも」

 

彼の声は、諦めでも憎しみでもなく、ただ遂行されるべき運命を語るかのように淡々としていた。

 

「そのために君をシンジから引き剝がさせてもらった」

 

その言葉は、僕が初号機から切り離され、この幻の日常にいる理由を突きつけた。

 

「しかし君にこの世界は関係ないはずだ。なぜそんなにもこの世界にこだわる」

 

ゲンドウの問いかけは、僕の存在そのものを揺さぶった。

 

「この世界の理の外側にいる君は、儀式が終われば元の世界に帰るという願いすら叶えられるというのに」

 

僕の全身が、ゲンドウの掌の上にいることを、痛いほど理解した。この男は、僕の全ての秘密を知り、僕の心の揺らぎすら利用しようとしている。

僕は掴んでいた手を離さなかった。しかし、その手には力が失われていた。

 

「元の世界……」

 

僕の知るエヴァのいない日常。それは、カヲル君が僕に託した、「やり直すための世界」だったはずだ。だが、ゲンドウの口から出ると、それはただの誘惑であり、この戦いを放棄させるための口実に過ぎなかった。

 

ゲンドウは、服の袖をわずかに持ち上げ、顔の赫い聖痕に軽く触れた。

 

「君の世界に生れ落ちていれば、私はユイを失うことも、孤独に怯えることもなかったのかもしれないな」

 

その言葉には、セカイを呪った怨念が含まれていた。そして、ゲンドウは静かに、しかし確信に満ちた声で言った。

 

「この世界に来て、初めて理解した。カナメ君、君はエヴァのない世界、使徒もリリスも存在しない世界から来たのだな」

 

ゲンドウは、胸元を掴んだままの僕を見上げた。その瞳の奥には、僕の全ての秘密を受け入れた、冷酷な論理が宿っていた。

 

 

「君たちの望むエヴァのない世界。だが、私にとってはエヴァがあろうがなかろうが、今更どうでもいいことだ」

 

ゲンドウは断言した。彼の目の奥が冷たく光る。

 

「理外の生命体が存在しようがしなかろうが、孤独と他者への恐怖を育むことに変わりはない。それならば、私は孤独も他社への恐怖も持つことのない全てが同一の存在として生きることを望む。」

 

彼は、僕の存在を一瞥した。

 

「君という存在を知り、エヴァのない世界で一度やり直せたら、と一瞬考えはした。だが、それはIFだ。そこでユイとまた巡り合うことができなければ、それを行った意味がない。」

 

ゲンドウは、僕の手を振り払うことなく、むしろ諭すように続けた。

 

「君の現実の世界は、私が望む新しい世界の雛型にはなり得ない。私が求めるのは、A.T.フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界。ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」

 

ゲンドウの目は、僕の背後の虚空を見据えた。

 

「君の現実の世界を下し、私の理想の世界をもってしてこの儀式を完遂して見せる。あちらでの決着もじきに着く。そろそろまた、お別れのようだな」

 

その言葉と同時に、蝉の声が急速に遠ざかり始めた。アスファルトの熱、入道雲の輪郭、全てがぐにゃりと歪み、激しいノイズへと戻っていく。ゲンドウの姿は、既にそこにはなかった。まるで朝霧のように淡く崩れ、一瞬で消え失せていた。

彼の言葉通り、「シンジとの決着」のために、彼はマイナス宇宙の本体へと戻ったのだ。今では先ほどの空間の歪みがまるで嘘のように、何もかもが夏の風景のままだった。

――ジリジリ、ジリリリリ……

蝉の声だけが、しつこく鳴り響いている。この日常が、今はものすごく気味が悪い。

 

「くそっ、このままお払い箱かよ!」

 

僕は、立ち上がった。全身に強い焦燥感が駆け巡る。この空間は、僕がシンジ君の傍に戻るためのインターフェースであると同時に、ゲンドウが僕を閉じ込めるための檻でもある。

僕の使命は、カヲル君から託されたエヴァのない世界を再構成すること。そして、シンジ君が誰にも決められない未来を、自分で選べるようにすることだ。

 

「僕だってやってやる。この世界の行く末を変えるんだ」

 

決意を固めたところで、僕は戸惑った。この概念の空間で、僕は何をすればいい? ゲンドウの論理を打ち破るには、彼のエゴでは決して到達できない「何か」が必要だ。

僕は、目の前の坂道を見上げた。

――シンジ君との思い出の地を回れば、何かヒントがあるかもしれない。

そうだ。この「幻の日常」が、シンジ君の心象風景から借りてきたものだとしたら? ゲンドウがユイとの思い出を探したように、僕はシンジ君との確かな繋がりを探せばいい。

 

「駅のホーム、学校の教室、ミサトさんのマンション……」

 

シンジ君の孤独と繋がりが生まれては壊れた、強い感情の座標。

僕は、蝉の声だけが響く急な坂道を、一歩踏み出した。

 

――――――

 

『次回予告』

 

マイナス宇宙の虚無に引き剥がされたカナメは、碇ゲンドウの論理の檻、「幻の日常」に囚われる。 灼熱のアスファルト、蝉の音だけが響く第三新東京市の風景。 その非現実的な日常の中で、彼は碇シンジの孤独と繋がりの感情の座標を辿る。

 

ミサトのマンションで拾い上げた、孤独の象徴(S-DAT)。 学校の教室で気づいた、他者への信頼という名の鍵。

果たして彼は、それを使って幻の日常から脱出できるのか!?

 

次回「ただの、人間らしく」

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