エヴァンゲリオンAnotherWorld   作:時雨光多

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第参拾九話 ただの、人間らしく

僕は、蝉の声だけが響く急な坂道を登り始めた。

アスファルトは太陽に焼かれ、現実以上に熱い。この体感温度が、ここが物理的な現実ではなく、概念で構築されたマイナス宇宙の一点であることを否応なく意識させた。

一歩、また一歩。登るごとに、僕の心は焦燥に駆られた。シンジ君は今、碇司令と「決着」をつけている。その「決着」が、世界とシンジ君の未来を永遠に固定してしまうかもしれない。

 

「座標を合わせるんだ。シンジ君のいる場所に…!」

 

僕は、頭の中でシンジ君との日々を必死に辿った。初めて会った時の駅のホーム。共同生活が始まったミサトさんのマンション。アスカやトウジ、ケンスケと過ごした学校の教室。

最も濃密な感情が詰まっているのは、やはりミサトさんのマンションだろう。シンジ君が「居場所」を求めていた、あの温かい、そして危うい場所。

僕は、坂道を曲がり、見慣れた第三新東京市の街並みに入った。だが、街全体が無音の劇場のように静まり返っている。車も、人も、エヴァの残骸すらない。ただ蝉の声と、アスファルトの熱だけが、異常な日常を構成していた。

やがて、僕はミサトさんのマンションの前に辿り着いた。

見慣れたマンション。玄関ドアには、ミサトさんの表札がそのまま残っている。だが、ここにも人の気配は全くない。

僕は、躊躇なくドアを開けた。

 

「シンジ君! ミサトさん!」

 

誰もいない。広々としたリビングには、散らかったビール缶も、アスカのゲーム機も、そのままなのに。まるで、住人が突然消えた後のようだ。

しかし、空間の隅には、強い『違和感』があった。

それは、シンジ君がいつも座っていた窓際の席――その床だった。

僕は、違和感の正体を探るように、床に目を凝らした。埃が積もる一角に、小さな黒い物体が落ちていた。

近づいて拾い上げると、それはシンジ君が肌身離さず持っていたS-DATだった。

 

「これ……!」

 

僕の全身に微かな電流のようなものが走った。手のひらで感じる、冷たいプラスチックの感触。

S-DATは、シンジ君が外界と自分を隔てるために使ってきた、孤独の象徴だ。そして、碇司令がシンジ君に遺した、物語の鍵でもある。

僕は、S-DATの再生ボタンを押した。

――ピピッ、ピピッ、ピピッ……

途切れることのない26曲目と27曲目の間の無音が、この空間に冷たく響き渡った。

その無音は、シンジ君がここで感じていた『孤独』と『安らぎ』の二律背反の感情そのものだった。

僕の意志が、このS-DATを通じてこの座標に干渉した。僕の『常識』は、他者との違いを受け入れ、自分で居場所を作るというものだ。それは、シンジ君がこの場所で到達できなかった答えそのものだった。

次の瞬間、窓の外の青空に、一筋の黒い歪みが現れた。それは、マイナス宇宙の虚無が、この座標に接触しようとしている兆しだった。

 

「繋がった! シンジ君の座標に近づいている!」

 

僕は、確信した。次の場所へ行けば、この隔離された座標をシンジ君の座標と重ね合わせ、彼と再会できるかもしれない。

僕は、S-DATを握りしめて、マンションを飛び出した。次は、学校だ。

 

僕は、灼熱のアスファルトを走り抜け、第三新東京市立第壱中学校に辿り着いた。

校門をくぐっても、やはり人の気配はない。静まり返った校舎は、まるで時間を止められた巨大な標本のようだ。遠くで鳴り続ける蝉の声だけが、この「日常」の異様さを強調していた。

僕の目的は、シンジ君との感情の座標を探し、S-DATを通じて干渉すること。僕たちが最も他者との繋がりを感じた場所、そしてアスカやトウジ、ケンスケといった友人の存在がシンジ君の心を動かした場所……それは教室だ。

僕は、廊下を駆け上がり、2年A組の教室のドアを開けた。

教室の中は、がらんどうだった。机も椅子も、チョークの粉さえもそのまま。見知った教室だが、気配はみじんもない。

 

しかし、僕は確信した。ここが、シンジ君が初めて『居場所』を感じた場所であり、同時に、他者の存在に『恐怖』と『喜び』を同時に感じた場所だ。

僕は、シンジ君の席があったはずの窓際に立つ。

手のひらに握りしめたS-DATが、微かな熱を帯び始めた。

 

「シンジ君。ここに、みんながいたんだ」

 

僕は、S-DATを通じて、僕の知る『常識』をこの座標に流し込んだ。

――他者は、孤独を埋めるための道具ではない。

シンジ君が、ゲンドウ司令が望むような単一で差のない世界を望むなら、それはこの場所で培った『繋がり』を否定することになる。

その瞬間、S-DATが激しく振動した。

窓の外の青空に現れた黒い歪みが、教室の壁を侵食し始める。その歪みは、巨大な十字架の影のようにも見えた。

 

「座標がさらに近付いた。でも、まだ足りない…!」

 

僕の頭の中に、アスカ、トウジ、ケンスケの顔が浮かぶ。彼らは、シンジ君にとって外界であり、自分の心を映す鏡だった。

欠けているのは、シンジ君がこの場所で他者と共有した「痛み」と「和解」の記憶だ――そう、僕は思い込んでいた。

しかし、赫く光る聖痕を持つゲンドウ司令の言葉が、僕の思考の奥底に一筋の光を投げかけた。「なぜそんなにもこの世界にこだわる」

 

「違う……」

 

僕は、窓際で立ち尽くしたまま、S-DATを握りしめた。

欠けていたのは、僕のほうだったんだ。

僕は、いや、僕が、恐れていたんだ。

いつもシンジ君は僕のことを信頼してくれていた。僕の言葉を、存在を、素直に受け入れてくれていた。

にもかかわらず、僕は、外から来たことを告げたら、あの時、シンジ君の友人として転生した僕がこちらの僕とは別物だって知ったら、シンジ君が僕を受け入れてくれないんじゃないかと、僕自身のことを話せず、恐怖していただけなんだ。

この座標に欠けていたのは、僕がシンジ君へ寄せる揺るぎない「信頼」だった。

僕は、S-DATの冷たい感触を手のひらに押し付け、深く息を吸った。

 

「……行こう」

 

僕は呟いた。

僕は、S-DATを握りしめ、学校の階段を駆け降りた。次は、この世界に初めて来たときに僕が立った、シンジ君が葛城ミサトと待ち合わせるために立っていた、あの公衆電話のある場所に向かう。

僕は、S-DATを握りしめ、学校の階段を駆け降りた。

行くべきは、シンジ君の感情の最も純粋な始まりであり、僕がこの世界に初めて意識的に関わった場所だ。公衆電話のある、あの無人駅の近くだ。

再び、灼熱の街を走る。蝉の声と、僕の足音だけが、異常なほど静かな日常に響き渡る。

途中の街並みは、崩壊の予兆をさらに強めていた。建物の輪郭が、時折黒い砂のように崩れ、一瞬で修復される。この概念の座標が、マイナス宇宙の主座標に引き寄せられている証拠だ。

 

「急がないと。シンジ君が…!」

 

僕は、走りながらS-DATを再び再生した。ピピッ、ピピッ、ピピッ……。途切れない無音のリピートが、僕の焦燥を駆り立てる。

僕は、シンジ君がこの世界で感じた孤独を、僕自身の孤独と重ね合わせるように、走った。外の世界から来た僕が、この世界で居場所を見つけたように、シンジ君にも自分で居場所を選んでほしい。

ついに、僕は最初の地、公衆電話のあった場所に辿り着いた。

そこは、人影のない駅前広場。真夏の強い日差しの中、古い公衆電話が、ぽつんと立っていた。周囲の風景は、シンジ君が初めてエヴァと、そしてミサトさんと出会った、あの日のままだった。

僕は、公衆電話の受話器にS-DATを押し付けた。

 

「シンジ君!」

 

「僕は、この世界の外側から来た! 14歳まで君と過ごしていたこの世界の僕とは中身が違うんだ!……でも、僕は僕だ。僕でいたいし、君とまた過ごしたい!」

 

碇司令に真実を見抜かれ、僕自身が最も恐れていた事実を、僕はシンジ君に全てぶつけた。

 

「でも、僕は、シンジ君たち、皆が好きだ。だから皆といたい!」

 

僕の揺るぎない『信頼』の感情が、S-DATの無音を共鳴させた。

次の瞬間、公衆電話が設置されていたその空間全体が、白く、強烈な光を放った。

光は僕の全身を包み込み、蝉の声も、アスファルトの熱も、全てを飲み込んだ。

そして、光が収まった後、僕の視界の前に広がっていたのは、真のマイナス宇宙の光景だった。

僕の立っている場所は、もはや現実の街角ではなかった。足元は黒い粒子が漂う不安定な虚空。

僕の目の前にあったはずの公衆電話は消滅し、その代わりに、視界全体が鈍い音を立てて砕け始めた。

――ギィン、ガギィィィン!

白と黒の光が交錯する中で、僕が立っていた「夏の日常」の座標が、巨大なひび割れによって真っ二つに裂けていく。

その裂け目の向こう側、距離感を持たない茫漠とした空間の中心に、存在感の塊が浮かんでいた。

裂けた世界の先に、光の輪を背負った巨大なエヴァンゲリオンの姿が、不規則な動きを見せながら、静かに、しかし絶対的な力を以て浮かんでいた。

――初号機だ。

その初号機は、第13号機と対峙していた。

遠すぎて、中のシンジ君の様子はわからない。だが、僕の意識は、公衆電話でS-DATを通じて繋いだ『信頼』の糸を頼りに、初号機の存在を強く感じていた。

僕の身体は、裂けた世界の概念の渦に吸い込まれるように、光速で初号機へと接近していく。

 

「シンジ君!」

 

僕の叫びは、マイナス宇宙の虚無の中では音にならなかった。しかし、僕の体は、初号機のコアへ向かって決意の光となって飛び込んでいた。

そして、僕の光は、初号機の巨大な装甲を、抵抗なく透過した。

次の瞬間、僕の意識は、L.C.L.の温かい感触と、シンジ君の深い絶望、そしてわずかな希望の光が混ざり合う空間に融合した。

――エントリープラグ内部だ。

シンジ君は、第13号機の圧倒的な存在と、ゲンドウ司令の冷酷な論理を前に、呼吸を乱していた。

そのシンジ君が、ゆっくりと顔を僕の方向へ向けた。

彼の驚きの混じった瞳に、僕の姿が映る。そして、ほほ笑んだ。

 

「カナメ、なぜかわからないけど……聞こえてたよ。君の声が」

 

その声は、L.C.L.の海に溶け込みそうなほど微かだったが、僕にははっきりと届いた。僕が公衆電話で心の全てを叫んだ『信頼』の証だった。

 

僕は、シンジ君の隣に立ち、彼の肩にそっと手を置いた。

「遅くなって、ごめん、シンジ君。もう独りじゃない。僕がいるから」

 

僕は、シンジ君の目を見つめ、力強く、最後の言葉を告げた。

 

「いこう、シンジ君」

 

それは、世界の命運をかけた最後の戦いだった。

 

――――――

 

『次回予告』

 

マイナス宇宙での終末の儀式、碇シンジと碇ゲンドウが、ついに最後の決着へと向かう! カナメの信頼を力に変え、初号機は第13号機へ猛然と突進。 概念を揺るがす父と子の殴り合いは、存在理由と孤独、そして愛をぶつけ合う舌戦となる。

 

「エゴだと?それがヒトの世の理だ!」

 

ゲンドウの冷徹な論理が、シンジの最も恐れる弱さを的確に突き刺す! しかし、カナメの光に導かれ、シンジは自己の弱さを乗り越えられるのか!?

 

「僕は、もう裏切られることを恐れない!」

 

孤独に終止符を打った息子の告白は、父の絶対的な論理に対する最大の反逆! 初号機が解き放つ爆発的な力は、父の計画を打ち砕けるのか!?

 

次回「たった一つの、冴えたやり方」

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