「いこう、シンジ君」
カナメの言葉は、シンジの疲弊した心に、確かな足場を与えた。
「ああ、カナメ」
シンジは、深く息を吸い込み、エントリープラグの操作レバーを握りしめた。彼の瞳に迷いは消え、強い光が宿る。カナメの存在が、シンジの孤独な決意を揺るぎないものに変えた。
その瞬間、初号機のコアが、カナメの存在と、シンジ自身の覚悟により、凄まじい力を解き放った。
初号機の背後の光の輪が輝きを増し、マイナス宇宙の虚無を照らし出した。
碇ゲンドウが、静かに言った。
「来たか、シンジ。その理の外側にある者の力を借りるか。だが、運命は変わらない」
ゲンドウの第13号機は、四本の腕をむき出しにし、絶対的な神の威容を示していた。彼の顔の赫い聖痕が、戦いの興奮を映すように、激しく脈動する。
「決着をつけよう、父さん」
シンジの固い声が、初号機を通じてマイナス宇宙に響き渡った。
初号機が動く。その巨人は、空間の概念をねじ曲げながら、第13号機へと突進した。
第13号機は、四本の腕を広げ、まるで息子を抱き潰すかのように、その巨体を迎え撃った。
概念を揺るがす鈍い音とともに、二体のエヴァの拳と装甲が衝突する。
「母さんを失った孤独から逃れるため、他人の命も世界も、全てを踏み台にしたエゴを、僕は認めない!」
シンジの怒りの声が、ゲンドウの意識に直接叩きつけられる。
「エゴだと? シンジ、それがヒトの世の理だ! 自分の願いを叶えることこそが、生きるということ! そして自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。」
ゲンドウの冷徹な言葉が、第13号機の装甲を歪ませるほどの力をもって初号機に叩き返された。
それは、存在理由と憎しみ、そしてわずかな愛をぶつけ合う、父と子の舌戦を含めた殴り合いだった。
初号機は、その反動を押し殺し、第13号機の四本の腕を二本で受け止め、押し返す。
「じゃあ、僕の願いはどうなるんだ! 僕は、誰も不幸にならない世界を望む! 父さんのエゴで、みんなの願いを踏みにじることなんて、許されない!」
シンジは叫んだ。それは、カナメが示した常識、つまり他者の存在と願いを尊重する世界の証明だった。
「誰も不幸にならない世界だと? 笑わせるな! それは偽善だ、シンジ!」
ゲンドウは、初号機の頭部に、第13号機の肘を叩きつける。初号機の装甲から、光の粒子が激しく飛び散った。
「私とユイが再会すること、独りにならぬこと、これ以外に『真の願い』などない! 他人の願いなど、ノイズだ。お前も大切な人間を失えば、私と同じになる。孤独こそが、お前を私の世界に引きずり込む!」
ゲンドウは、自分の孤独がシンジにも伝播することを確信していた。
その言葉に、シンジは一瞬のひるみを見せた。父の言葉は、シンジ自身が最も恐れていた自己の弱さを的確に突いていたからだ。
第13号機の四本の腕が、初号機を容赦なく締め上げる。
「お前も私と同類だ、シンジ!」
ゲンドウは吼えた。
「他者と関わることを拒絶し、他者に嫌われることを恐れ、傷つく前に自ら扉を閉じる。自分の弱さを認めず、現実から目を逸らす臆病者だ!」
四本の腕が絞る力は、概念の虚空さえも軋ませる。
L.C.L.の中で、カナメはシンジの精神に力強く語りかける。
「違う! 彼が言っているのは過去の君だ! 君はもう一人じゃない。君は変わったんだ!」
シンジは、カナメの言葉を力の源とした。彼は、自己の弱さを初めて真正面から受け入れた。
「そうだよ、カナメ!」
シンジは叫んだ。
「僕は、僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で。僕は僕が嫌いだった。」
初号機の機体が、L.C.L.の海にシンジの涙を溶かし込むように、微かに震えた。
このシンジの弱さの告白は、ゲンドウの絶対的な論理に対する最大の反逆だった。
第13号機の締め付けが一瞬緩むが、ゲンドウは即座にさらなる追撃を仕掛ける。
「そうだ、その弱さが、お前を再び傷つけるのだ、シンジ!」
ゲンドウは冷徹に断言した。
「他者は、常に裏切る。私が裏切ったように、葛城もレイも、そしてその理外の存在も、最後はお前を独りにする! お前の自己否定など、私の計画の前には無力だ!」
ゲンドウは、自己の経験を絶対的な真実としてシンジに押し付けようとした。
だが、シンジはもうひるまなかった。
「違う! 僕は、もう裏切られることを恐れない!」
シンジは反論した。
「裏切られても、また笑える場所を探せばいい! みんなと出会って、良い事も、嫌なこともあったけど……僕は楽しかったんだ。みんなと一緒にいることがうれしかった。その喜びは、偽物じゃない!」
カナメの光の存在が、シンジの背後でさらに強固になる。
「それに、僕はここにいてもいいんだって、気づいたから。」
シンジの最後の告白は、ゲンドウにとって最大の敗北を意味した。それは、父の孤独とは全く別の道を、息子が選んだ瞬間だった。
ゲンドウの世界に、一瞬の沈黙が落ちる。
「ユイ…」
ゲンドウの微かな声が、第13号機のコアに虚しく響いた。
初号機のコアが、爆発的な光を放つ!
シンジは、第13号機の四本の手を弾き飛ばした。
「さよなら、父さん」
初号機は、第13号機の胸部コア目掛け、渾身の拳を叩き込んだ。
ゲンドウは、激しい衝撃に意識をほとんど失いかけていた。身体を貫く苦痛は、もはや物理的なものではない。精神の深部が、崩壊を始めている。
赫い聖痕が、最後に一度だけ、激しく脈動し、やがて沈黙した。
「……負けた、のか」
ゲンドウは、虚ろな目で視線を巡らせる。
彼の意識に、シンジの最後の叫びが残響のように響いていた。
「他人の悪意にさらされてなお、他人に希望を抱くか。大人になったな、シンジ」
その言葉は、諦念とわずかな肯定を含んでいた。ゲンドウは、息子が自分とは違う道を選んだことを、敗者、いや、実の父親として認めたのだ。
L.C.L.の代わりに満ちる、白い光の粒子。
その光の上を見上げると、そこには、長年追い求めた、愛する女性の姿があった。
ショートカットの髪と、優しい眼差し。白いプラグスーツを纏ったユイが、ゲンドウを慈愛の目で見下ろしていた。
「……ユイ」
ゲンドウの口から、微かな吐息のように彼女の名前が漏れた。
「ようやく、会えたな。……この時をただひたすらに、待ち続けていた」
ユイは、悲しげに微笑んだ。
「バカね」
そのユイの声が、ゲンドウの胸に静かに響いた。
「私はずっと、あなたのそばにいたのに」
ゲンドウは受け入れた。薄々感づきつつも否定していたその事実を。
「……私が傍にいると、シンジを傷つけるだけだ。きっと私はあの子に苦しみしか与えられなかった。ならば、何もしない方がいい……そう思っていた」
「それに……自分が人から愛されるとは信じられない。私にそんな資格はない」
ユイは、ゆっくりとゲンドウの頬に手を添えた。
「でも、私はあなたのことを愛しているわ。だからこそ、あなたの孤独を終わらせるために、ここに来たのよ」
ユイは、優しく、そして強い意志をもって告げた。
「シンジは今、外から来たカナメ君と一緒に、人類の未来を紡ぐわ。私たちの子が、人類の行く末を決めるのよ」
ゲンドウの視界が、ユイの光に包まれ、ゆっくりと白く染まっていった。
そして、ゲンドウはシンジのいる方向へ、消えかけの意識を向けた。
「すまなかったな、シンジ」
父として、初めて吐露された、懺悔の言葉だった。
初号機の渾身の拳が、第13号機のコアを打ち砕いた後、マイナス宇宙の虚空は、静寂を取り戻した。
L.C.L.の海に満たされたエントリープラグ内で、シンジは疲弊しきった体をカナメの存在に支えられていた。
すると、空間の概念が再び書き換わる。
プラグ内のL.C.L.が静かに引き、周囲がシンジの慣れ親しんだ光景へと変貌した。
それは、シンジの心象風景である列車の中、カナメにも同じ風景が目に映った。シンジは、プラグスーツ姿のまま、車両の最前部に立っていた。傍らにいるカナメは、どこか場違いな服装をしていた。
それは、彼が転生前に着ていた、新世紀エヴァンゲリオンのキャラクターがプリントされたTシャツだった。彼自身が世界の外側にいた証拠であると同時にエヴァへの憧れの象徴だ。
カツカツと、硬質な音が響いた。
車輌の長椅子に学生服を着て腰掛けていた少年が、ゆっくりと立ち上がった。
渚カヲル。
彼は、全てを見透かすような瞳で、シンジとカナメを静かに見据えていた。その背後には、崩壊しつつある世界が淡く霞んでいる。
「碇ゲンドウ、彼が今回の補完の中心、円環の元だ。」
カヲルは、澄んだ声で言った。
「ここからは僕が引き継ぐよ、碇シンジ君」
カヲルは、カナメに一瞬視線を送り、感謝と承認を示すように頷いた。カナメがカヲルの託した世界の常識をシンジに繋ぎ、円環の構造を最終的に破るための希望となったことを知っているのだ。
終焉の車輌に、渚カヲルの澄んだ声が響き渡る。
「君は何を望むんだい?」
シンジは、カナメの存在に支えられながら、深く息を吸った。彼の瞳は、過去の痛みと未来への希望を同時に映していた。
「僕らは、人を傷つけて、傷つけられて。でも、それでも僕らは明日を迎えなくちゃいけないんだ」
シンジは、自らの弱さを受け入れた上での決意を語る。
「どれだけ自分が嫌いでも、どれだけかなしいことがあっても。それを受け入れて進んでいく。みんなに出会って、それが必要なんだって、思ったから」
その言葉は、ゲンドウの孤独な論理を否定する、『繋がり』への肯定だった。
「いいこと、楽しかったこと、笑い合ったことだって、確かにあったんだ。その記憶も、僕にとって消えない大切なものだから……」
シンジは、ミサトやアスカ、トウジ、そしてカナメと過ごした日々の光を心の底に再確認した。
しかし、シンジの声は一瞬揺らぐ。過去のトラウマが、再び彼の心を支配しようとする。善意の裏側に潜む、人間関係の危うさ。
「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を……見捨てるんだ」
それは、ゲンドウの言葉が残した傷であり、シンジの根源的な恐怖そのものだった。
カナメは、Tシャツ姿のまま、そっとシンジの手を握った。
シンジは、その手の温もりを感じ、瞳を閉じ、最も純粋な願いを絞り出した。
「でも……それでも、父さんや、綾波。皆に僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」
カナメが公衆電話で告白した、シンジへの揺るぎない『信頼』。あの時の感情が、シンジの勇気を呼び覚ました。
シンジは、カヲルへ視線を戻す。
「だから、僕はみんなともう一度出逢いたい。エヴァも使徒もいない世界で。導きも破滅もない世界。カナメの世界を、僕が望む」
その言葉は、世界の概念を書き換える力を持っていた。シンジは、カナメが持ち込んだ『常識』を自らの願いとして選び取ったのだ。
カヲルは、静かに微笑んだ。その微笑みは、シンジの答えを承認するものだった。
「了解した。君の願いは、僕の願いでもある」
カヲルは、背後の崩壊しつつある世界へ振り返った。彼の全身が、巨大な光を放ち始める。
「全ての存在をリセットし、再構成する。エヴァという概念のない世界を、僕が創造しよう」
車輌全体が、銀色の光に包まれた。
「シンジ君、カナメ君」
カヲルは、最後の優しさをもって語りかけた。
「さあ、新しい世界を開く。君たちは、君たちの選んだ結末を生きるんだ」
カナメは、シンジの手を握り返した。
「ありがとう。君に会えて、本当に良かった。」
カヲルの光が、車輌を飲み込む。
光が収束したとき、シンジとカナメの意識は、静かに、温かい場所へと移行していた。
――――――
『次回予告』
「そして、彼らは巡り合う」
マイナス宇宙での父との決着、カナメとのシンクロの果てに、碇シンジが見たもの。
それは、エヴァのない世界。
母と父が微笑み、日常が満たされる、安穏な朝。 喪われたはずの絆と、取り戻されたはずの日常。
綾波レイ、式波・アスカ・ラングレー、鈴原トウジ、相田ケンスケ。 彼らが、エヴァのない世界で、再会する。
カナメが望み、カヲルが託した、「普通の世界」。 しかし、その日常の穏やかさの奥には、どこか大切な何かを忘れている気がしてならなかった。
次回「エピローグを、あなたに」