エヴァンゲリオンAnotherWorld   作:時雨光多

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第参拾壱話 エピローグを、あなたに

2015年の冬が終わりかけた、肌寒い季節。

シンジは、規則正しく鳴り響く目覚まし時計の音でゆっくりと目を開けた。

何か遠い、大事な夢を見ていた気がする。それは重く、悲しくて、でも大切な思い出、壮大な物語だったような気がするが、目覚めの瞬間には手のひらから砂のようにこぼれ落ちていく。

カーテンの隙間から差し込む朝の光は、穏やかで、何の予兆も持たない。

階下から、母の穏やかな声と、父の寡黙な返事が聞こえてくる。シンジはそれが何かとても愛おしいもののように感じた確かな感覚に包まれ、深く息を吐いた。

リビングへ向かうと、朝食の暖かい匂いが漂っていた。

テーブルには、父、碇ゲンドウが白いワイシャツ姿で新聞を読んでいる。黒い手袋も聖痕もない、ただの父親。母、碇ユイは、エプロン姿でトーストを焼いていた。

ユイはシンジを見て、微笑んだ。

 

「シンジったらぁ…せっかくの新学期だっていうのに、寝坊するなんて。しょうのない子ねぇ」

 

ゲンドウは新聞から目線を上げず、短く答える。

 

「ああ」

 

「あなたも、新聞ばかり読んでないでさっさと支度してください?」

 

「ああ」

 

「もう、いい歳してシンジと変わらないんだから。」

 

ユイは呆れたように笑いながら、ゲンドウのコーヒーカップに手を伸ばす。

 

「きみの支度はいいのか?」

 

ゲンドウが珍しく、新聞の裏側から妻を見上げる。

 

「はい、いつでも。もう会議に遅れて冬月先生にお小言言われるの、私なんですよ、毎回!」

 

「きみはモテるからなぁ。」

 

ゲンドウの不器用な冗談に、ユイは微笑みを返した。

 

「もう!馬鹿言ってないで、さっさと着替えてください!」

 

「ああ。わかってるよ、ユイ」

 

シンジは鞄を手に取り、玄関へ向かう。全てが満たされた家庭の風景が、彼の背中を押した。

肌寒い冬の空気の中、シンジは通い慣れた中学校へと歩を進める。

曲がり角を曲がったところで、シンジはいつもの光景を見つけた。

アスカ、トウジ、ケンスケの三人が、少し先で言い合いをしている。そして、その少し後ろを、静かに歩く少女がいた。

綾波レイ。

彼女はシンジに気づくと、少しだけ立ち止まり、無表情の中に微かな温かさを宿した瞳で、シンジを見つめた。

 

「おはよう、綾波」

 

シンジが挨拶をすると、レイは短く答えた。

 

「おはよう、碇君」

その自然なやり取りに、シンジは胸が満たされた。エヴァも使徒もない世界で、彼女は彼らの友人として存在する。

それがあまりにもうれしく思えてならなかった。

あれ、エヴァ...使徒って。

なんだっけ。何を言っているんだ?僕は。

シンジの意識の表面に、遠い夢の残骸のような言葉が一瞬だけ浮かび、すぐに日常の光に溶けて消えた。

レイは、シンジが何か考え込んでいることに気づいたようだったが、何も言わず、ただ静かに隣を歩き始めた。

教室に入ると、シンジは馴染みの喧騒に包まれた。冬休み明けの久しぶりの再会に、生徒たちが口々に思い出話を交わしている。

シンジが席に着くと、すぐさま、トウジが慌てた顔で駆け寄ってきた。

 

「シンジ!冬休みの課題見せてくれ~!」

 

トウジの焦った声が、教室中に響く。

その頭を、トウジの隣にいた委員長が持っていた教科書で軽く小突いた。

 

「相変わらずバカね、鈴原は!」

 

洞木ヒカリ。委員長は、厳しくも優しい眼差しでトウジを見上げた。

アスカは、シンジの席の傍にカバンを置きながら、不機嫌そうにトウジに向かって言った。

 

「宿題は自分でやりなさいよ、バカトウジ。!」

 

「うるせえな、委員長と二人でグチグチ言うなや!別にシンジに迷惑かけてへんやろ!」

 

トウジがムキになって言い返すと、アスカはさらに声を荒げた。

 

「はぁ!? 暇人なんだからこのくらい終わらせときなさいよ!」

アスカは叱責しながらも、シンジと目を合わせた。アスカは特に表情を変えることなく、小さくフン、と鼻を鳴らした。その無愛想さが、シンジには彼女の正直さであり、この世界の変わらぬ日常を象徴しているように思えた。

トウジは頭を掻き、ヒカリに小さく謝った。

 

「いい絵が撮れたな、トウジ。宿題を忘れる男の焦燥感、たまらん!」

 

ケンスケは、ビデオカメラでトウジの様子を撮りながら、満足そうに笑っている。

チャイムが鳴り響いた。

 

「ほーら、みんな席につきなさーい!」

 

ヒカリの声が教室に響き渡る。

ガラッと、教室の戸が勢いよく開いた。

 

「おはよう、諸君!」

 

葛城ミサト先生。彼女は教師のスーツを身に纏い、生徒たちに明るく挨拶をした。

 

「新学期早々だけど、授業はきっちりやるわよ!」

 

変わらぬ豪快な笑顔と世話焼きな性格は、この平和な世界でも健在のようだ。

シンジは、友人たちと先生の変わらぬ姿を眺め、この平和な日常を心の底から噛み締めた。

ミサト先生は、教壇にカバンを置くと、教室全体を見渡し、笑顔を一層深めた。

 

「さて、諸君。新学期だから、まずは新しい顔を紹介するわ!」

 

その言葉に、教室がざわめいた。シンジは特に意識することなく、ただその光景を見つめていた。

 

「ちょっと入ってきて!」

 

ミサト先生が廊下に向かって声をかけると、教室の戸の陰から、一人の少年が姿を現した。

少年は、ごく普通の学校指定の制服を着ていた。整った顔立ちだが、派手な印象はなく、教室の風景に自然に溶け込んでいる。

シンジは、その少年を見つめた。

 

「――船戸カナメです」

 

少年が教壇の横に立ち、一礼した。その声はどこまでも穏やかで、静かな常識をそのまま音にしたようだった。

シンジの遠い夢の残骸が、一瞬にして鮮明な記憶へと蘇る。

公衆電話。エヴァ。マイナス宇宙。そして、親友、カナメの存在。

全ては夢ではなかった。

 

「今日から、みんなのクラスメイトになる船戸君よ。みんな、仲良くしてあげてね!」

 

ミサト先生がにこやかに紹介を終える。

トウジが大声で叫んだ。

 

「お、船戸!よろしくな!早速やけど、席どこや!」

 

アスカはフン、と鼻を鳴らしたが、その視線はしっかりとカナメを捉えていた。

レイは微動だにしない。だが、シンジにはわかった。彼女の瞳の奥に、かすかな安堵の光が灯っている。

カナメは教室を見渡し、生徒たち、ミサト先生、アスカ、トウジ、ヒカリ、ケンスケ、そしてレイに視線を送った。

そして、最後に、シンジと目が合った。 

互いの魂の奥底で、壮大な約束が果たされたことが静かに確認された。

――また逢えたね。

トウジの賑やかな声、ミサト先生の指導、教室に広がる生徒たちのざわめき。その全ての音が、シンジの意識から遠のいていく。

シンジには、カナメの静かな瞳だけが見えていた。

遠い夢はもう必要ない。彼が選んだ居場所はここにあり、隣には彼を導いた『常識』が新しい命として存在する。

その時、窓際にいた生徒の一人が、小さな声を上げた。

 

「あ、雪……」

 

冬が終わりかけた、肌寒い季節。窓の外には、新たな始まりを告げるかのように、微かな雪が舞い落ちていた。

カナメは口角を微かに持ち上げた。それは特別な意味を持たない、新しい世界の住人としてのごく普通の笑顔だった。

シンジはカバンを握りしめ、静かに微笑んだ。

その再会と、雪が舞い降りる日常の中で、彼らの新しい物語が、今、始まった。

 

 

 

 

 

————————————————————————————————————

 

 

その教室での出来事から、数分後のこと。

誰もいない、学校の屋上。

渚カヲルは、冷たい柵によりかかり、眼下の街を見つめていた。冬が終わりかける空からは、微かな雪が舞い降りてくる。

彼は、遠い眼差しをシンジたちがいる教室に向けながら、独り言のように静かに語り始めた。

 

「今回の物語は、船戸カナメ君によってエヴァのない世界を作り上げ幕を引いた。何でもないこの世界で、彼らは生きていくんだね」

 

カヲルの視線は、雪の降る空へと移る。

 

「現実は、知らない所に。夢は現実の中に…… そして、真実は心の中にある」

 

「ヒトの心が、自分自身の形を造り出しているからね」

 

彼の穏やかな声は、風に乗り、誰に聞かせるわけでもなく、屋上に響いた。

 

「そして、新たなイメージが、その人の心も形も変えていく。イメージが、想像する力が、自分たちの未来を、時の流れを……創り出しているから」

 

カヲルは、静かに溜息をつく。それは安堵の息のようだった。

 

「ただヒトは、自分自身の意志で動かなければ、何も変わらない。だから、見失った自分は、自分の力で取りもどすんだ。たとえ、自分の言葉を失っても。他人の言葉が取り込まれても」

 

彼の口から紡がれる言葉は、カナメの優しい常識を肯定するものだった。

 

「そこにどんな辛い事があったとしても心配はないさ。全ての生命には、復元しようとする力がある。生きてこうとする心がある。生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるのさ。なぜなら、生きているんだからね。幸せになるチャンスは、どこにでもあるんだ……」

 

カヲルは、穏やかな微笑みを浮かべ、空を見上げる。

 

「太陽と、月と、地球が、ある限り……ね」

 

彼はふと微笑み、柵から離れ、屋上の出口へと歩き出した。

 

「さて、船戸カナメ君の物語は、これでおしまいだ」

 

彼の視線は、誰もいないはずの屋上の境界線を超えて、遙か遠い空間の向こう側を捉えていた。その瞳の奥には、『物語』の終焉を見届けた見知らぬ誰かへの穏やかな挨拶が宿っていた。

 

「僕かい? 僕はこれからシンジ君に呼ばれているからね。もう行くよ」

 

彼は屋上の出口のドアに手をかけ、最後に振り返る。その瞳には、永遠の時の流れと優しく揺らぐ未来が同時に宿っていた。

 

「かわいい後輩の為にもね。見ていてあげてくれるかい?」

 

カヲルは、静かにそう問いかけた後、優しく微笑んだ。

 

「それじゃあ…またね、いつかどこかで」

 

その確かな言葉と共に、カヲルの姿は屋上から静かに消えていた。ただ、雪だけが、新しい世界の日常を祝福するかのように、舞い落ち続けていた。

 

 

 

 

                                      終劇

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