6月17日。
ソフィアはいつもの習慣としてアニメーガスの魔法を唱えるために夜明け前に目覚まし魔法で目覚めた。
まだ閉じようとする目を擦り──ふと、いつもより部屋が暗いことに気がつく。
目覚まし魔法の時間を間違えてしまっただろうか?と思い、ベッド脇にある時計を見たが、薄暗い中、針が指す時間は夜明けの10分前だった。
寝起きでまだ覚醒しきっていないソフィアはぼんやりとその時計を見ながら首を傾げていたが、ハッと目を見開くとすぐにベッドから飛び降り窓辺へ駆け寄った。
「──やったわ!」
思わず歓喜の声を叫び──慌てて口を押さえ、ルームメイト達が起きてしまっただろうかと身をこわばらせた。しかし、部屋の中に響く音は外からの雨音と、そして、遠くから聞こえる低い雷鳴の音だけだ。
ついに、なによりも待ちわびた雷雨の日がやってきた。1ヶ月間口にマンドレイクの葉を含み、それが終われば毎日日の出と日の入りに呪文を唱えていた。この日、雷雨の日に完成するアニメーガスの魔法薬を作るために。
ソフィアは日の出と共にアニメーガスの呪文を唱える。強い鼓動を感じる事にも──当初は胸を押さえ暫く呻いていたが、最早慣れた。
今、ソフィアの胸を強く打っているのはアニメーガスの呪文のせいだけではなく、魔法薬が完成しているかの不安感と、成功していればアニメーガスになれるという、大きな期待からだろう。
すぐに服を着替えたソフィアは暫くベッドの上でそわそわと体を動かしていたが──ついに耐えきれず自室を飛び出した。
雨音と、雷鳴の轟く音だけが響く薄暗い廊下を早足で歩く内に──気が付けばソフィアは駆け出していた。顔を輝かせ、息を弾ませながらマクゴナガルの研究室にたどり着くと、呼吸が落ち着くまで何度か深呼吸をし、扉に向かって手を上げた。
「…あ、…ここには居ないかしら…」
つい、いつもの癖で研究室に来たが、まだ早朝だ。きっと研究室ではなく、自室にいるのだろう。──いや、まだ寝ているかもしれない。
ソフィアは研究室の隣にあるマクゴナガルの自室の扉をチラリと見た。
そわそわとした勢いのままここまで来てしまったが、冷静になった今、どう考えてもこんな時間に訪問するのは緊急事態でもない限り、非常識だろう。
ふう、とため息をつきソフィアはそっと扉から離れた。まだ5時を少し回った時刻であり、寝ていても可笑しくはない。
──どうしよう、このまま扉の前で待っていようかしら。
そうソフィアが思った途端、ガチャリとマクゴナガルの自室の扉が開いた。
「──おや、ミス・プリンス。おはようございます」
「お、おはようございます、マクゴナガル先生!」
現れたのはまだ寝巻き姿のマクゴナガルであり、ソフィアは驚いたがぱっと明るい笑顔を見せながらマクゴナガルに駆け寄った。
「ちょうど、声をかけに行こうと思っていたのです。──待ちに待った雷雨の日ですね」
「はい!」
マクゴナガルは優しく微笑む。
この日を心待ちにしていたのはソフィアだけではない。マクゴナガルも自分の教え子が高度なアニメーガスを習得する日を楽しみにしていた。
ソフィアがこのために沢山の知識を得て、論理的にアニメーガスを理解し、日々のコツコツとした積み重ねをこなしてきた事を知っている。マクゴナガルもまた、学生時代同じように忍耐強く、大変な日々を耐えたのだ。
「教室に行きましょう。どのような動物になるのかは分かりませんから。広い方が安全です」
マクゴナガルは持っていた小さな箱をそっとソフィアに渡す。ソフィアはしっかりとその箱を受け取り、真剣な顔で頷いた。
変身術の教室に入ったマクゴナガルは杖を振るい机と椅子を教室の壁際まで移動させ、広い空間を作る。
2人とも真剣な表情を浮かべしばし、見つめあう、少ししてマクゴナガルは「それでは、はじめましょう」と静かに告げた。
ソフィアは頷き、そっと箱の蓋を開ける。
小さな瓶の中の薬は、透明度の高い赤い液体で満たされており、繭などは全て溶けて消えていた。──成功だ。
「……!これが、アニメーガスの魔法薬…」
「ミス・プリンス。飲む前に警告しておきます。──かなりの衝撃と、混乱があるかと思います。しかし、自分は──ソフィア・スネイプという人間である、この姿はアニメーガスである。…その事を、強く考えなさい」
「はい、わかりました」
ソフィアは箱をそっと足元に置き、取り出した小瓶を目を閉じてぐっと胸の前で祈るように持った。
暫く目を閉じていたソフィアは、緊張と期待が孕む瞳を開き、瓶の蓋を開けると息を止めてその薬を全て、飲み干した。
「──ッ!!」
喉が灼ける──いや、身体が、骨が、血液が灼けている。心臓が大きく脈打ち、張り裂けてしまいそうな衝撃。
「うっ!──ぁ、あっ!!」
「ミス・プリンス、耐えるのです!」
ソフィアは苦しそうに呻めき、小さく喘ぎながらその場に膝をつき──手に持っていた小瓶が音を立てて砕けた──自分の体を強く抱きしめていたが、鼓動に合わせて痙攣するように身体が大きく跳ね、耐えきれず床に倒れ込む。
その時、一際大きく体がぶるり、と震えた。
──熱い、苦しい、心臓が、破れそう!わ、私…私は何?…なん、だっけ…?
朦朧とする意識の中、ソフィアは必死にマクゴナガルから言われた言葉を何度も脳内で繰り返した。
──私は、ソフィア、ソフィア・スネイプよ!
ソフィアは閉じていた目を開き、意識を奮い立たせた。
すると、動悸や苦しみがすっと消え、少し冷静さを取り戻すことが出来──ソフィアは自分の手を見た。
──これ、は…。
「ミス・プリンス…!成功です、おめでとうございます!」
頭上からマクゴナガルの喜びに震える声が聞こえ、ソフィアは顔を上げた。
いつもよりかなり大きく見えるマクゴナガルの身体と、そして視界の端に映るのは人間ではないふさふさとした体毛に覆われた前足。
ソフィアは自分の手を不思議そうに見つめていたが、どこか失敗しているところはないかと自分の体を見回した。
「心配せずとも、完璧なアニメーガスになれていますよ。──ごらんなさい」
うろうろと視線を彷徨わせるソフィアに、安心させるように優しくマクゴナガルは声をかけ、杖を一振りすると大きな姿見を出現させた。
──フェネック…。
大きく薄い三角の耳に、長く太い尻尾。
鏡に映るのは、ソフィアの髪色と同じような黒いフェネックだった。真っ黒な中、瞳だけは、宝石のような輝く緑色をしている。
アニメーガスは守護霊魔法で出現する動物と同じだと知っていたソフィアは、フェネックになった事に特に驚愕する事なく、おぼつかない足取りでぐるぐると床を歩き、キラキラと輝く目でマクゴナガルを見上げた。
「きゅーん!」
やりました!とソフィアは喜びの声を上げたが、その口から出たのは高いフェネックの鳴き声であり、ソフィアは少し目を瞬かせる。そうだ、人間の言葉が話せるわけがない。
何故か恥ずかしくて耳をぺたりと伏せたソフィアに、マクゴナガルは小さく笑いながらアニメーガスへと姿を変える。
「良かったですね、ミス・プリンス」
「はい!──アニメーガス同士だと、言葉がわかるのですね」
「ええ、この姿だと他の動物の言葉も理解し、会話する事ができるでしょう。──特にネコ科、イヌ科の動物との意思疎通は無理なく出来るはずです」
「うわぁ!素敵です!」
ソフィアはぴょんぴょんと嬉しそうにその場で飛び跳ね、自分より小さな猫の姿になったマクゴナガルを見下ろしにっこりと笑った。フェネックの姿であり、表情はあまり動かなかったが──綺麗な目が細められたのを見て、マクゴナガルはソフィアが笑っているのだと思った。
「さて、ミス・プリンス。次は元の姿に戻らねばなりません。アニメーガスの呪文を心の内で唱えながら、人の姿の自分を強く想像なさい」
「はい、わかりました」
ソフィアはそっと目を閉じてアニメーガスの呪文を唱え、脳裏に元の人間の姿である自分を強く思い描く。すると、どくり、と一度大きく心臓が震え──再び目を開いた時には、いつもの視線の高さで、姿形も人へと戻っていた。
変化が残っている箇所はないかと、ソフィアは姿見の前でまじまじと自分を見つめ、尻をそっと押さえた。フェネックの時のような体毛もなく尾が生えている様子も無い。
マクゴナガルもすぐに元の姿に戻り、優しい目でソフィアを見つめアニメーガスの成功を讃えた。
「──大丈夫なようですね。本当に、よく頑張りました。…何度か変身を繰り返していれば、よりスムーズに変身ができるようになります。変身時の衝撃も軽減されていく事でしょう。1週間程度──そうですね、三校対抗試合の前日まで、夜7時に私の研究室に来なさい。変身の訓練をしましょう」
「はい!よろしくお願いします!」
「後は、魔法省に登録する書類を数多く準備しなければなりません。アニメーガスだという証明写真を撮り、また──保護者にも、幾つかのサインをもらわねばなりません。書類は私が直接渡し、説明しておきます」
「ありがとうございます!」
マクゴナガルは杖を振り、部屋の端に寄せていた机や椅子を元の場所に戻した後、教卓の引き出しから数枚の書類を呼び寄せソフィアに手渡した。
ソフィアはしっかりとそれを受け取り、何度も「ありがとうございます!」とお礼を言い、軽い足取りでグリフィンドール寮へ戻る。
まだ外は分厚い雷雲に覆われ薄暗かったが、ソフィアはその大粒の雨を降らせる夏の嵐の朝を、まるで晴れ渡った空を眺めるように嬉しそうに見つめていた。