ソフィアは周りの景色が落ち着いた頃、ふっと体にこもっていた力を抜き閉じていた目を開いた。
辺りは夜だということもあり薄暗いが、月明かりに照らされ、よく手入れされた芝生や花壇と一般的な一軒家が薄ぼんやりと見える。
近くにあるのはどうやら玄関ドアではなく、裏口らしい事はわかったがそれ以外何も情報が無い。
ここが不死鳥の騎士団本部だろうか、とソフィアは隣にいるジャックの服をくい、と引っ張った。
「…ここが本部?」
「いや、ダーズリー家の裏庭だ」
ジャックは自分の腕時計を確認しながら小声で答え、杖を掲げると口の奥でぶつぶつと魔法を唱えながら杖を振るう。
ふわり、と杖先から現れた銀色の狐が扉へと向かい躊躇する事なく中に入った。
魔法の事を知っているとはいえ、マグルの家の中に守護霊を侵入させていいのか、法令に反するのではないかとソフィアは困惑しジャックを見上げたが、ジャックは何も言わず真剣な表情で裏口の扉を見るだけだった。
狐が消えて数秒もしないうちにカチリ、と小さな音が響き扉が開かれた。
ソフィアはマグルが怒鳴り込んでくるのかと身構えたが、現れたのはジャックと同じような真剣な目をしたムーディであり、ソフィアは目を瞬き「ムーディ先生?」と小さく呟いたが、その呟きはさらに扉から続々と現れた魔法使い達により飲み込まれた。
「ジャック、用意できたか」
「……物じゃないんだから」
「ああ…。すまん」
ムーディはソフィアをちらりと見て謝ったが、とくに謝罪の色がない形式的な響きを持っていた。
現れた魔法使い達の中に、リーマスがいる事に気付いたソフィアは久しぶりに会えた事にぱっと嬉しそうに表情を明るくしたが、最後に見た記憶よりもさらに見窄らしい格好になり、満月の次の日よりも酷く疲れているかのような表情に──喜ぶ気持ちは萎み、心配そうにその顔を見た。
リーマスもソフィアに気付き、疲れ切っていたがふわりと昔と同じように優しく微笑んだ。
「やあ久しぶりソフィア」
「久しぶり、リーマス…その──」
「あなたがソフィアね?うわー!可愛い子!」
「あ、あなたは…?」
この場にそぐわぬ明るい声が響き、この中で一番若く、溌剌とした魔女──ニンファドーラ・トンクスが断りなくソフィアの手を取りぶんぶんと大きく握手をした。
「私は──」
「トンクス。自己紹介は後にしろ。時間が差し迫っている」
「──あー、そうね」
ソフィアはトンクスだけではなく、他の見慣れぬ魔法使い達が誰なのかと気になったが、ムーディの言葉に今聞くべきでは無いと判断し、口を閉じた。
大人達に囲まれるようにしてハリーがその中からひょっこりと顔を出し、ソフィアに向かって遠慮がちに手を振る。
その目は嬉しさも滲んでいたが困惑が強く、ソフィアは自分と同じように何が起こっているのかわからないのだと察した。
「お前さんたちに目くらまし術をかける」
「え?何しなきゃって?」
「目くらまし術だ、ほれ──」
ムーディが持っていた杖でハリーとソフィアの頭をこつん、と軽く叩く。杖で触れたところから何か冷たいものがトロトロと流れているような不思議な感覚に、ソフィアとハリーはまじまじと自分の手を見つめた。手は青々とした芝生と同化し、透明になっているわけではないがこれなら確かにパッと見て自分達がここにいるとは思わないだろう。
「どうやって行くの?また、姿現し?それともポートキー?」
「箒に乗って行くんだ」
「えっ…それなら箒持ってきたのに!私、持ってきてないわよ?」
ジャックの言葉にソフィアは慌てる。しかしジャックはふと小さく笑い、芝生と同じ質感になったソフィアの頭を撫でた。
「ソフィアはハリーに乗せてもらうんだ」
「え?」
「ええっ?」
思いもよらない言葉に驚いたのはソフィアだけでなく、ハリーもだった。
勿論ソフィア1人くらいは乗せて飛ぶ事は可能だろう、だがなんとなく気恥ずかしくて、ソフィアがいるだろう場所──よく見ると、そこにソフィアがいるとわかった──を見て頬を染めた。
「わしらは隊列を組んで飛ぶ。トンクスはお前の真ん前だ、しっかり後に続け。ルーピンはお前の下をカバーする。わしは背後にいる。他の者はわしらの周りを旋回する。何事があっても隊列を崩すな。わかったか?誰か1人が殺されても──」
「そんな事があるの?」
「──他の者は飛び続ける。止まるな。列を崩すな。もし、やつらがわしらを全滅させてもお前が生き残ったら、ハリー、後発隊が控えている。東に飛び続けるのだ、そうすれば後発隊がくる」
ハリーが心配そうに聞いたが、ムーディは無視して言葉を続け、脅すように低い声で続けた。
「大丈夫だハリー、俺たちはかなり強いから」
不穏な空気を払拭するようにジャックは言うと、ベルトポーチを探り箒を取り出し、ぶら下がっている固定装置にソフィアのトランクと、ティティが入った籠を括り付ける。トンクスも同じように自分の箒にハリーのトランクとヘドウィグの籠を固定した。
「わしは、この子達に計画を話しただけだ。わしらの仕事はこの子達を無事本部へ送り届ける事であり、もしわしらが使命途上で殉職しても──」
「誰も死なないって」
「箒に乗れ。最初の合図が上がった!」
ムーディとジャックの言葉を遮るかのように、空を見ていたリーマスが硬い声を上げ空を指差す。皆がその指の先の空の高い場所に、星々に混じって赤い火花が噴水のように上がっているのを見た。──魔法の火花だ。
「ソフィア、僕の後ろに!」
「ええ、よろしくハリー!」
ハリーは一気に真剣な顔をして箒にまたがるジャック達と同じく、素早く箒に跨りソフィアに自分の後ろを示す。
ソフィアは頷くとすぐに同じように跨り、ハリーの腰に腕を回しぎゅっと力を込めた。
「第二の合図だ、出発!」
リーマスが鋭い声で号令を出す。空には緑色の火花が高く上がっていた。
ハリーは地面を強く蹴り、僅かに先に空へ舞い上がったトンクスの後に続いた。冷たい風が頬をかすめ、髪が躍る。プリベット通りの子綺麗な四角い庭はみるみるうちに小さくなり、街灯や大通りを通過する車のヘッドライトが夜空に浮かぶ星に負けずに輝く。
ソフィアは、足元に広がる偽物の星空を目を細めて見下ろした。
「ハリー、大丈夫?」
「うん、思ったより大丈夫だ。二人乗りなんて初めてだけど」
事実、ハリーは隊列を崩す事なく上手く飛んでいた。自分が重荷になっていないとわかると、ソフィアはホッとして重心を移動させないように気をつけながら辺りを見回す。
少し離れた場所を飛んでいるジャック達も、前を向きながら時々速度を落とし現れていない敵への警戒を続けている。
空の上である無防備な状態で狙われることの危険を重々承知しているソフィアは、ハリーの背中に額をつけ、どうか無事本部に行けますように、と心の底から祈った。
もう1時間は空を飛んでいるだろう。
ムーディの指示に従い、時々進路を変更しながら飛び続けている為、ハリーには今どの辺りを飛んでいるのかわからなかった。
飛び始めに感じていた胸を焦がすような高揚感や興奮も、すっかりと凍えるような風に吹き消されてしまった。
氷のような風が頬を切り、指先は感覚が朧げになってきている。ハリーは箒の柄をぎゅっと強く握り直しながら、ふと自分の腰に回っているソフィアの手が小さく震えている事に気づいた。
「ソフィア、大丈夫?」
「ええ…流石に、猛暑とはいえ…夜は寒いわね」
「かなり高いところを飛んでるから」
「でも、…ハリーの方が寒いんじゃない?」
ソフィアはぎゅっと腕に力を込め、さらに密着した。風を正面から浴びているハリーの方がよっぽど寒いだろう。凍えるような風の冷たさに、少しでもハリーが温まってくれたら良いと思っての事であり、その他に他意はない。
だが、ハリーは背中に一層感じたふにゃりとした柔らかな感触に、気が動転し、箒がゆらりと左右に揺れた。
「どうした!?」
「い、いえ!大丈夫です、寒くて、手が悴んで…!」
「ならいい、気をつけろ!」
隊列を乱したハリーに、すぐにムーディが後ろから叫んだが、ハリーは慌てて取り繕い箒の柄をしっかりと持ち、背中に触れている柔らかさの正体を深く考えないように必死に頭をぶんぶんと振った。
「ハリー?」
「あ…だ、大丈夫!ソフィアが抱きしめてくれてるから、背中はあったかいから、うん!」
「そう?ならよかったわ」
ハリーは動揺し声が震えていたが、ソフィアはきっと寒さのせいだろうと思い、そのまま何も言わずにハリーを温めるためにぴたりと密着した。
ふと、一年生の時はそれほど体格が変わらなかったのに、ハリーの背中の広さと逞しさに、ソフィアは気付いた。
どきどきと高鳴る鼓動が、ハリーの背中からソフィアに伝わり、ソフィアの耳にも届いたが、ソフィアの鼓動もまた同じように早かった。
しかし、ハリーと違いソフィアはこうして長時間抱きしめていることへの照れや興奮からではなく、何が起こるかわからない緊張のせいだった。
それからさらに1時間は空を飛んでいただろう。ソフィアに後ろから抱きしめられているとはいえ、前からの風は防ぐ事ができず一刻も早く地面に降り立ちたい、そうハリーが10回は思った時、リーマスが叫んだ。
「下降開始の合図だ!トンクスに続け、ハリー!」
ハリーはトンクスに続いて急降下する。耳元で風が唸り、足下にあった分厚い雲を突き抜けその先に小さな無数の光が群を成しているのが見えた──街明かりだ。
「さあ、到着!」
トンクスが叫び、人気のない小さな広場の芝生の上に殆ど無音で降り立った、すぐにハリーはその後ろに着地し、箒から降りようと脚を上げたが、腰に回ったままのソフィアの腕が一向に離れない。
「ソフィア?降りるよ?」
「あ、ま、まって…腕が、凍って…!」
長くハリーの腰回りに手を密着させていたソフィアは、雨粒や風のせいでハリーの服と腕がくっついてしまい、上手く動かす事が出来なかった。
ハリーは悴んで上手く動かない手で必死にソフィアの腕や手を摩ったが、ハリーの手もまた感覚がなく、触れているはずなのに何も感じなかった。
「う、──んんっ!…は、離れたわ…」
ソフィアはなんとか指先を動かし少しずつ手を温めると、そのままの勢いをつけて腕を外す。よろめきながら箒から降り、まだ動きがぎこちない両腕を擦っていれば、すぐにそばに降り立ったジャックがソフィアを抱きとめた。
「体が凍えきってる…ごめんな、ここではまだ炎を出せないから」
「ええ…わかってるわ」
どうやらここはマグルの街らしい。
それは少し離れた家の中にいる人達が四角い箱をじっと見ている様子から、なんとなく察していた。
ムーディが火消しライターで街灯の火を消しているが、あまり派手な魔法を使えばマグルに見つかるかもしれない。──いや、マグルならばまだマシだろう。なによりも避けなければならないのは、死喰い人に見つかる事だ。
「これで、窓からマグルが見ても大丈夫だな。──よし、行くぞ、急げ」
ムーディは火消しライターを胸ポケットに突っ込むと、そのままハリーの腕を掴み走る。ジャックもまた、寒さに凍え上手く動けないソフィアの手を引いた。
ムーディが杖を持ったまま先頭を歩き、ハリーとソフィアは中央の最も安全な場所をすすむ。四方をジャック達護衛がしっかりと固め、手には油断なく杖を掲げ慎重に辺りを見据えていた。
いくつかの歩道と家を通り過ぎた後、痛いほどの無言だったムーディは唐突にぴたりと足を止める。ハリーとソフィアはその背に衝突しそうになったが、なんとか脚を踏ん張りこらえ、一体どうしたのだろうかとムーディを見た。
「ほれ、急いで読め、ちゃんと覚えるんだ」
ムーディは目くらましがかかったままのハリーの手に一枚の羊皮紙を押し付け、ソフィアにも覗き見るようにと顎で示す。
暗い中でも見えるように、ムーディは自分の杖先をルーモスで照らすと、羊皮紙に近づけた。
ソフィアはハリーの隣に並び、半分に折り畳まれていた羊皮紙が開かれ、その中から現れた文字を読んだ。
『不死鳥の騎士団本部は、
ロンドン グリモールド・プレイス 12番地に存在する』
細く縦に長いその文字に、ハリーはなんとなく見覚えがあった。
「これは?──」
「ここではダメだ!中に入るまで待て!」
思わず口に出したハリーに、ムーディは低く唸りながら鋭く言葉を遮ると、羊皮紙をひったくり杖先でそれに火をつけた。すぐに羊皮紙は赤い炎に飲まれ、残ったのは黒い煤だけであり、それは風に吹かれひらひらとどこかへ飛んでいく。
「でも、どこが──?」
ハリーは不安げに呟く。
それもそのはずだ、目の前にある看板には11番地と、13番地しか書かれていない。つまり、12番地はどこにも存在していないのだ。
困惑するハリーを見て、ソフィアはこれこそが家を隠す守り人の魔法なのだと察した。きっと、12番地は目の前に存在するのだ、ただ見えないだけで。──近くに住むマグル達は、12番地が無い奇妙さに気付く事も出来ないのだろう。
「2人とも、いま覚えたばかりの事を考えるんだ」
リーマスが静かに言う。
ソフィアとハリーは先程羊皮紙に書かれていた言葉を深く、考えた。
たちまち、11番地と13番地の間にどこからともなく古びた扉や薄汚れた壁と煤けた窓も現れる。
まるで両側の家を押し退けてもう一つの家が膨れ上がってきたようだったが、11番地と13番地に住む人間達は何も感じずソファに座り夜のニュースを見ていた。
ハリーとソフィアが唖然としていると、すぐにムーディとジャックが2人の背を押し扉を潜るように促した。
大人達の緊張が伝わり、ハリーとソフィアはごくりと固唾を飲みながら目の前に現れた石段を上がった。
──ここが、騎士団本部。
ソフィアは汚れた扉に付けられた銀色の蛇のノッカーを見つめる。
ここには、
そう、ソフィアは思い大きく息を吐いた。
ハリーとソフィアは促されるままに開かれた扉を抜け、玄関ホールへと脚を踏み入れた。
その中は湿った埃のような臭いと、饐えたカビのような臭いがした。
打ち捨てられた廃屋のようなどこか不気味な雰囲気が漂い、誰も何も話さない。
不安そうに身を寄せ合ったソフィアとハリーの頭をムーディが杖先で軽く叩き、今度は暖かくトロトロとしたものが表面を伝い流れ落ちるような感覚がした。
きっと目くらましを解除したのだろう、とソフィアは自分の手を見たが灯りのないこの玄関ホールでは全てが暗い灰色にしか見えず、目くらましが解けたのかどうかはよくわからなかった。
「みんな、わしが灯りをつけるまでじっとしていろ」
ムーディが嗄れ声で囁き、ジャック達は神妙な顔で頷く。暗闇の中それぞれの表情を読むことはできないが、まだ緊張は続いているようだ。
ダンブルドアが設立した不死鳥の騎士団本部としては、どこか彼らしくない陰鬱な雰囲気が漂っていた。ここは安全地帯であるはずなのに、何故こんなにも声を顰め気配を消さなければならないのか、ソフィアは疑問が次々と沸き起こったがこの場の雰囲気でそれを口には出来なかった。
火を灯す音が聞こえ、壁沿いにかけられていた旧式のガスランプが点った。
柔らかな橙色の色がつき、互いの表情が見えるようになったとはいえ──暗く沈んだ雰囲気は、ちっともマシにならなかった。長い陰気なホールには剥がれかけた壁紙と擦り切れ汚れたカーペットが敷かれている。天井には、おそらく磨けばかなり美しいだろう大きなシャンデリアがあったが、蜘蛛の巣に覆われ霞の向こう側にあるように見える。
立派な彫刻が施された机に置かれた燭台や肖像画の枠、全てに蛇のモチーフがなされていた。
ハリーとソフィアが身を寄せ合いながら薄汚れ陰湿なホールを眺めていると誰かが急足で駆け込んでくる音が聞こえた。
一番奥の扉がパッと開き、ソフィアの記憶にあるよりも痩せて青白い顔をしているモリーが目に涙をためながら現れた。
「まあ!ハリー、ソフィア、また会えて嬉しいわ!」
モリーは感激しながらも、声は極限まで顰め囁きながらハリーとソフィアの2人を纏めて抱きしめた。
あまりの強さに2人は同時に小さく呻めき──肋骨がぎしりと嫌な音を立てた──ぎこちなく笑った。
すぐに2人を離したモリーはハリーを調べるかのようにまじまじと頭の先から爪先までを眺め、肩をトントンと優しく叩きながら言った。
「良かった。あんまり変わってないわね、まぁちょっと顔色は悪いけど…。夕飯はもう少し後よ。──あの方が今しがたお着きになって、会議が始まっていますよ」
モリーがハリーとソフィアの後ろに控えていたムーディ達に声をかければ、ざわりと興奮とも関心とも取れぬ雰囲気が一瞬彼らの間で走った。
次々とハリーとソフィアの隣を通り過ぎ、ムーディ達はモリーが先ほど出てきた扉へと向かう。ハリーはつい、リーマスについていこうとしたが、モリーがすぐに手を掴み引き留めた。
「だめですよハリー。騎士団のメンバーだけの会議ですからね。ロンもハーマイオニーも上の階にいるわ。会議が終わるまで一緒に待ちなさいな。そのあとお夕食よ。それと──ホールでは声を低くしてね」
「どうして?」
「何にも起こしたくないからですよ」
「どう言う意味?」
「説明は後でね、今は急いでいるの。私も会議に参加する事になってるから…あなた達の寝るところだけ教えておきましょう」
ハリーは困惑し、ここに来てもなんの説明も十分にされないのか、と箒を使い空を飛んでいる時には忘れていた怒りや憤りがふつふつと胸の奥から湧いてくるのを感じた。
だが、ハリーが口を開く前にモリーはくるりと踵を返し、古びて虫食いだらけのカーテンの前を足音一つ立てないように慎重に歩いた。