闇の魔術に対する防衛術の教室に入ると既にアンブリッジは教壇に座り、生徒たちをにっこりとした笑みを浮かべ見つめていた。
魔法省からやってきたアンブリッジは、どのような授業をするのかまだ未知数だ。あの大演説からおそらく今までの教師とはまた異なる授業だろうと、ソフィアは予想していた。
「みなさん、こんにちは!」
生徒全員が座ると、アンブリッジはにこやかに挨拶をした。あまり授業開始に挨拶をする教師はいないため、虚を突かれ、何人かがぼそぼそと小声で挨拶を返す。
「チッチッ。それではいけませんねぇ。みなさん、どうぞこんなふうに。『こんにちは、アンブリッジ先生』──もう一度いきますよ、はい、こんにちは、みなさん!」
「こんにちは、アンブリッジ先生」
みんな一斉に挨拶し、あまり広くない教室中に響く。感情も敬意も込められていなかった挨拶だったが、アンブリッジは満足気な笑みを浮かべ、優しく頷いた。
「そうそう。難しくないでしょう?杖をしまって、羽根ペンを出してくださいね」
大勢の生徒が暗い目を見交わした。今まで杖を使わなかった授業が面白かった試しはない。今年も1.2年生の時のようにつまらない授業を受けなければならないのかと思うと憂鬱な気持ちになってしまった。
アンブリッジが異様に短い杖を出し、黒板を強く叩くと白い文字がふわりと浮かび上がる。
『闇の魔術に対する防衛術
基本に返れ』
「さて、みなさん。この学科のこれまでの授業はかなり乱れてバラバラでしたね。そうでしょう?先生がしょっちゅう変わって、しかも、その先生方の多くが魔法省指導要領に従っていなかったようです。その不幸な結果として、みなさんは魔法省がOWL学年に期待するレベルを遥かに下回っています。
ですが、ご安心なさい。こうした問題はこれから是正されます。今年は、慎重に構築された理論中心の魔法省指導要領どおりの防衛術を学んでまいります。これを書き写してください」
アンブリッジはつまらなさそうな顔をしている生徒たちの表情を見てもちっとも動揺する事なく再び黒板を叩く。
書かれていた文字が消え、『授業の目的』という文章が現れた。
1.防衛術の基礎となる原理を理解する事
2.防衛術が合法的に行使される状況認識をする事
3.防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめる事
数分間、教室は羊皮紙に羽根ペンを走らせる音で一杯になった。
ソフィアは授業の目的を書きながら、今年は一度も実践する事が出来ないのだと悟り、ちらりと隣に座るハーマイオニーを見た。ハーマイオニーは眉間に皺を寄せ、何度か自分が書き写した文章を読み、黒板を見て──そして小さく首を振る。ハーマイオニーもまた、この授業がどのようなものなのか理解したのだ。
その後の授業は防衛術の理論について書かれた教科書をただ読むだけだった。ソフィアは教科書を開き、目を通していたが書かれている文章はどれも堅苦しくわかりにくい綺麗事でしかない。
すぐに読む気が無くなり、なんとなく教室中を見回していると、生徒たちは誰もがつまらなさそうな顔をしているか、羽根ペンを回して遊ぶか──ハーマイオニーを見つめていた。
ハーマイオニーは教科書を開く事なく、背筋を伸ばしじっとアンブリッジを見ていた。その視線には並ならぬ強い意志が込められていて、退屈な授業に飽きた生徒たちはそれに気付くとハーマイオニーの様子をちらちらと盗み見る。
今まで、ハーマイオニーが教科書を開く事なく拒絶の姿勢を見せた事はない。あれほど嫌っている占い学であっても、始めの数回はきちんと教科書を開いていたのだ。
「この章について何か聞きたかったの?」
今までハーマイオニーを無視していたアンブリッジも、生徒の半数以上が教科書を読む事なくハーマイオニーを見ている状況を無視し続ける事もできず、ついにハーマイオニーと視線を合わせた。
「この章についてではありません。違います」
「おやまあ、今は読む時間よ。他の質問ならクラスが終わってからにしましょうね」
「授業の目的に質問があります」
「…あなたのお名前は?」
「ハーマイオニー・グレンジャーです」
「さあ、ミス・グレンジャー。ちゃんと全部読めば、授業の目的ははっきりしていると思いますわよ」
アンブリッジは優しい猫撫で声で──幼児に言い聞かせるように言うが、その笑みはやや固くなっていた。
「でも、わかりません。防衛呪文を使うことに関しては、何も書かれていません」
ハーマイオニーの言葉に、それに気付いていなかった生徒たちが一斉に黒板の方を向き、三つの目的をしかめ面で読んだ。
「防衛呪文を使う?」
アンブリッジは失笑し、ハーマイオニーの言葉を繰り返す。
どう考えても嘲りが含まれている言葉に、生徒たちはぐっと眉を寄せた。
「まあ、まあ、ミス・グレンジャー。このクラスで、あなたが防衛呪文を使う必要があるような状況が起ころうとは考えられませんけど?まさか、授業中に襲われるなんて思っていないでしょう?」
「魔法を使わないの!?」
つい、ロンが驚愕から声を張り上げた。
アンブリッジはハーマイオニーから視線を外し、ロンを見るとにっこりとした笑みを浮かべて優しい声音で答える。
「わたくしのクラスで発言したい生徒は、手を挙げること。ミスター…?」
「ウィーズリー」
ロンが手を高く挙げ、きっとこれで当てられるだろうと思ったが、アンブリッジはにっこりと笑ったままくるりとロンから背を向けた。
意地悪な先生だ、と誰もが思っただろう。
ソフィアは眉をきゅっと寄せたまま手を挙げる。ソフィアだけでなくハーマイオニーやハリーも手を挙げていたが、アンブリッジはチラリとハリーを見た後、ソフィアを指名した。
「そこのあなた、ミス…?」
「ソフィア・プリンスです、先生」
「では、ミス・プリンス、どうぞ」
「ありがとうございます、アンブリッジ先生。授業では、勿論私たちを襲うものはいないでしょう。しかし一度外に出た時に身を守るために──勿論、指導要領に沿い、理論を学ぶことも大切なことですが──防衛呪文を習得する事も必要ではないでしょうか?」
「ミス・プリンス。教室で防衛呪文を唱える必要はありません。あなた方が防衛呪文について学ぶのは、安全で危険のない方法です」
「それは、どのような方法ですか?」
「理論を正しく、学ぶ事です」
「理論…だけですか?」
「ええ、その通り──」
「そんなの、何の役に立つ?もし僕たちが襲われるとしたら、そんな方法──」
「挙手、ミスター・ポッター!」
ハリーはソフィアとアンブリッジの問答を聞いているうちに怒りが溢れ、勢いに任せ大声を上げたが、すぐにアンブリッジが言葉を遮った。怒りながら拳を突き上げたハリーだったが、勿論アンブリッジは当てる事なく無視をした。しかし、今度はハリー達だけではなく何人もの生徒が手を挙げた。
「あなたのお名前は?」
「ディーン・トーマス」
「それで?ミスター・トーマス」
「でも…ハリーの言う通りでしょう?もし僕たちが襲われるとしたら、危険のない方法なんかじゃない」
当てられたディーンはおずおずと発言したが、アンブリッジは人を馬鹿にするような笑顔を浮かべたまま、子どもにするように指を振った。
「もう一度言いましょう。このクラスで襲われると思いますか?」
「でも…ソフィアの言う通り、外に出たら…?」
「先ほど説明しましたように、理論さえ正しく理解すれば、このクラスで防衛魔法を練習しなくとも有事の際に正しく魔法は発現される事でしょう。それに、この学校のやり方を批判したくはありませんが──あなた方は、これまでたいへん無責任な魔法使いたちに曝されてきました。非常に無責任な…言うまでもなく、非常に危険な半獣もいました」
アンブリッジはくすくすと意地悪げに笑う。リーマスは人狼である。その事は既に周知されているが、彼の授業は素晴らしいものだった。授業だけではなく、彼自身を好んでいた生徒は多く、特にディーンは過去、リーマスがピーブズを簡単に退けるのを目撃してから尊敬している。
カッと顔を怒りで赤らめたディーンは挙げていた手を振り下ろし、強く机を叩いた。
「ルーピン先生のことを言っているなら、今までで最高の先生だった!」
「挙手、ミスター・トーマス!──いま言いかけていたように、みなさんは年齢に相応しくない複雑で不適切な呪文を教えられてきました。恐怖に駆られ、1日おきに闇の襲撃を受けるのではないかと信じ込むようになったのです!」
アンブリッジは怒りを滲ませるディーンだけでなく、ぐるりとクラス中を見回し有無を言わさない強い言葉で伝えた。
誰もが不満や疑心を持ちアンブリッジを見つめ、果敢に手を挙げ質問をぶつけるが──アンブリッジは何を言われても今までの授業がおかしく、新しい指導要領に沿い理論のみを学ぶべし、という姿勢を崩す事はない。
「さて、試験に合格するためには理論的な知識で十分足りるというのが魔法省の見解です。結局学校というものは、試験に合格するためにあるのですから。──それで、あなたのお名前は?」
「パーバティ・パチルです。それじゃ、闇の魔術に対する防衛術はOWLで実技はないんですか?実際に反対呪文とかをやってみせなくていいんですか?」
「何度も言っておりますが、理論を十分に勉強すれば、試験という慎重に整えられた条件のもとで、呪文がかけられないという事はありません」
「それまで一度も練習しなくても?はじめて呪文を使うのが、試験場だとおっしゃるんですか?」
まだOWL試験に筆記試験しか出ないのであれば理解は何とかできる。だが、試験に実技試験があるのならば授業で学ぶべきである。──それは、誰もが当然のように考え、流石にクラス中がざわついた。
ソフィアはざわざわと不穏なざわめきを聞きながら机の上に乗せていた手を強く握る。
魔法省は何があってもホグワーツで防衛魔法を使わせたくないのだろう。ヴォルデモートは復活していない、そんな事はハリーとダンブルドアの妄言だと示すために、闇に対する有効的な授業を行わないのだ。そのような備えを行わなくても問題がないと言いたいのだろう。
ヴォルデモートが復活したというハリーと、それをキッパリと否定するアンブリッジの激しい言い争いを聞きながら、ソフィアは大きくため息をついた。
セドリックの死について触れた時は、流石にクラス中が息を飲み、しん、と静まり返ったがアンブリッジは「不幸な事故だった」と言い切る。
何を言われてもヴォルデモートが復活しセドリックを殺したのだと譲らないハリーに、アンブリッジは初めて笑みを消し無表情になった。
しかし、次の瞬間には甘ったるい少女のような、妙に首元がざわざわとする声を出して微笑み、ハリーに何かを書き込んだ羊皮紙を渡し、マクゴナガルの元へ向かうように指示をした。
怒りが収まらないハリーは奪い取るようにして羊皮紙を掴むと、クラス中の視線を受けながら強く扉を開け、「壊れてしまえばいい」と思いながらむしゃくしゃする気持ちをそのままに、強く閉めた。
バンッ、と強い音で扉が閉まり、教室の後方に居た生徒はびくりと首を縮こまらせた。
しん、と気まずい沈黙が流れる中、アンブリッジは何も無かったかのようににっこりと微笑み、教科書を読むだけの退屈な授業を再開した。
誰もが不満そうな顔で教科書を見下ろし、時間が経過する中で頬杖をつきかくりと船を漕ぐ生徒もいたが、アンブリッジはとくに注意することはない。
彼女はただ、指導要領に沿って授業が出来ればそれでいいのだろう。
つまりこの授業はアンブリッジの自己満足を満たす、ただそれだけの授業であり、生徒達のことなど微塵も考えていないのだ。
ソフィアは真新しい教科書に書かれている文字の羅列を指で撫でながら、深いため息をこぼした。