「行こう、ハリー……」
「嫌だ」
「ずっとここにいるわけにはいかねぇ……行こう、ハリー……さあ……」
「嫌だ」
ハリーはダンブルドアの側を離れたく無かった。自分の肩を掴むハグリッドの手は震え、声は涙声だったが彼に寄り添う余裕は無かった。
「ハリー」
背中にとても暖かな温もりを感じた。
それはハリーを包み込み、「行きましょう」と囁きハリーを支えるように立ち上がらせた。
ほとんど何も考えずにぬくもりに支えられるままハリーは無意識に歩いていたが、ふと香った甘い匂いに自分を支えているのがソフィアだと気づいた。
言葉にならない声や啜り泣きがハリーの心を打ちのめす中、ソフィアは大理石の階段をゆっくりと上がる。床に転がっているグリフィンドールのルビーが、まるで滴った血のように見えた。
「医務室に行きましょう」
「怪我はしてない」
「みんながそこにいるわ。ロンも、ハーマイオニーも、ジニーも。それにシリウスにリーマスだって、あなたが来るのを待っているの」
廊下の端に血溜まりが見えた。
そこに横たわる人はもういないが、ハリーの胸の奥から恐怖が鎌首をもたげ襲いかかる。吐き気に襲われながら「誰か、死んだ?」と囁いたが、ソフィアは「心配しないで、私たちは大丈夫よ。ホグワーツ生も騎士団も、誰も亡くなってないわ」と柔らかい声で答えた。
ハリーが視線を向けた先には窓ガラスが半分割れた窓があり、その先、高い空の上にはいまだに闇の印が揺れていた。
天文台の塔の側を揺蕩い不吉なものを知らせる憎い印に、ハリーはぎゅっと拳を握る。
「……僕、行かなきゃならないところがある」
「ハリー……医務室に行くのよ」
足を止めたハリーにソフィアはまたダンブルドアの元に戻るつもりなのだと思い、気遣いながら言ったがハリーは首を振った。
「天文台の塔。ソフィアも、来て」
その後で、すぐに医務室に行くから。と妙に平坦な声で言うハリーに、ソフィアは暫し迷っていたがあまりにその目が闇を思わずほど暗く冷たいものであり、ここで拒絶してもハリーは自分を振り解いて行くだろうと考え、おずおずと頷いた。
廊下は至る所で床が抉れ、壁が崩壊していた。それは天文台に近づくほどに凄惨であり、戦いの激しさがよくわかる。
天井が崩れ、大きな瓦礫が散乱する廊下を進み、所々大きくかけた螺旋階段を登る。
ハリーは数分前までいた屋上に続く開かれたままの扉を通る。ダンブルドアが背にしていた防壁を一瞬眺めたが、ゆっくりと杖を振るい風を起こした。
何も無い空間が奇妙に歪み、その下からドラコが現れる。
ドラコは硬直呪文が解かれたのかその場に座り込み、呆然と何も無い虚空を見つめていた。
「ドラコ!どうして──」
「エクスペリアームス」
ハリーはドラコが力なく掴んでいた杖を武装解除魔法で奪う。ドラコの杖は綺麗な弧を描き、ハリーの手の中に収まった。
弾かれた衝撃で、はらり、とドラコの前髪が乱れ顔に流れたが、ドラコは魔法使いにとっての命である杖が無くなっても微塵も動くことはなかった。
何故こんなところにドラコがいるのか、それも生気が抜けたかのような土気色の顔で座り込んでいるのか。ソフィアは狼狽えハリーとドラコを交互に見た。
「立て、マルフォイ」
ハリーの声は氷のように冷たかった。
「全て説明しろ。……ルイスに言われただろう」
ドラコはその言葉に初めて反応し、ゆっくりと顔を上げた。そこで初めてソフィアがいることに気付いたのだろう、一気に恐怖で顔を強張らせると、ソフィアの困惑した視線から逃れるように俯き、よろよろと立ち上がった。
ハリーは自分が倒れていたあたりの床を手で弄り透明マントを掴む。杖を振りドラコの手を杖先から出る紐で拘束すると、そのまま透明マントを被せた。
「行こう」
「ハ、ハリー。どうしてドラコがここにいるの?ルイスに言われたって一体何があったの?」
狼狽し不安げにソフィアが聞いたが、ハリーは「後で」と静かな声で言い、扉に向かう。
ドラコは項垂れたまま抵抗することなくその後をついていった。側から見ると透明マントに隠され、ドラコの姿は見えないが、ハリーの手にしっかりと持たれている杖の先からは紐が垂れ、それは奇妙に揺れてふつり、と途切れている。間違いなくこの先にドラコがいるのだ、いつもの彼ならば抵抗し「こんなこと屈辱だ」と叫ぶだろうが、ドラコは一言も声を出さず静かなものだった。
ソフィアはただならぬハリーとドラコの様子に狼狽えたまま、その後を追った。
ソフィアとハリー、そして透明マントで隠されたドラコの3人は破壊された廊下を歩く。
ソフィアとハリーにとっては先ほど見た光景であり動揺することはないが、ドラコは壊れた壁や窓、そして血溜まりを見てカタカタと小さく震えていた。
自分の行動は、護りたいが為の行動だった、しかし、今この惨劇を目にすると苦しいほどの後悔が胸の奥から沸き起こる。
「誰か怪我をした?」
「ええ、命に別状はないけど、ネビルが入院することになったの。私たちも少しは擦り傷を負ったけど……私たちが擦り傷で済んだのは、あなたがフェリシスを残していってくれたからよ、みんなで少しずつ飲んで──だから、攻撃がスレスレで避けて行ったの。
……重症なのは、ビルね。その……グレイバックに襲われて、噛まれてしまったの、もちろん今日は満月じゃないわ。でも……どんな後遺症があるかはわからないの」
ハリーはソフィアの言葉を聞きながら病棟に続く扉を押し開く。
ネビルが扉近くのベッドに眠っているのが見えた、きっともう治療は終えているのだろう。
ロン、ハーマイオニー、ジニー、トンクス、リーマス、シリウス、マクゴナガルの7人は病棟のいちばん奥にあるもう一つのベッドを囲んでいた。誰もが俯き暗い表情をしていたが、扉が開いた音に気づき一斉に顔を上げた。
「ハリー!」
すぐにシリウスが飛び出し、ハリーの頭の先から爪先までを一通り見たあと、がしりと強く抱きしめた。
リーマスも心配そうな顔でハリーに近寄ってきたが、大きな怪我が無く錯乱もしていないとわかると少し表情を柔らかくした。
「ハリー、大丈夫か?怪我は?呪いは受けてないか?」
「うん、僕は大丈夫。……ビルは……?」
ハリーの問いには誰も答えなかった。ハリーはシリウスの胸を軽く押し離れながらベッドに眠っているビルを見下ろす。
左の頬が大きく抉れ、裂かれていた。おそらくそこを噛みちぎられたのだろう。マダム・ポンフリーが刺激臭のする緑の軟膏を傷口に塗りたくっていたが、その傷は治ることなく赤い血を滲ませていた。
「呪文か何かで傷を治せないんですか?」
「この傷にはどんな呪文も効きません。知っている呪文を全て試してみましたが、人狼の噛み傷には治療法がありません」
「だけど、満月の日に噛まれたわけじゃない。グレイバッグは変身していなかった。だから、ビルは絶対に──ほ、本物の──」
ロンはビルの顔をじっと見ながら早口で呟く。本物の人狼になんてならない──そう断言して欲しくて、ロンは戸惑いながらリーマスを見上げた。
「ああ、ビルは本物の人狼にならないと思うよ。しかし、全く汚染されないということではない。呪いのかかった傷なんだ。完全には治らないだろう。そして──そして、ビルはこれから何らかの、狼的な特徴を持つことになる」
リーマスの「本物の人狼にはならない」という言葉にロンは表情を輝かせたが、次に続いた辛すぎる言葉に顔をくしゃりと歪めた。
「でも──でも、ダンブルドアなら、何かうまいやり方を知っているかもしれない。ダンブルドアはどこだい?ビルはダンブルドアの命令で、あの狂った奴らと戦ったんだ。ダンブルドアはビルに借りがある。ビルをこんな状態で放っておけないはずだ──」
必死に呟き、ダンブルドアを探しに行こうと立ち上がったロンに、ソフィアはなんと声を掛ければ良いのかわからなかった。ダンブルドアは、亡くなった。
ソフィアは彼が殺された場面を見たわけではない、天文台の塔の上から落とされたのだろう、四肢があらぬ方向に向いていた惨い様子で床に横たわっているダンブルドアを見ただけであり彼が誰に殺されたのか、何故最も優れた魔法使いが死ななければならなかったのか、ソフィアにはわからなかった。
「ダンブルドアは死んだ」
「まさか!」
「そんな!」
ハリーの低い呟きに、リーマスは愕然と叫びビルのベッド脇の椅子にがくりと座り込み、両手で顔を覆った。叫んだのはリーマスだけではない、マクゴナガルも目に見えて狼狽し、呆然として動けないロンを押し退けハリーに詰め寄った。
「まさか、ポッター。そんな──」
「……私も、見ました。天文台の塔の下で……」
「ああ……!」
ソフィアの悲痛な声に、嘘や幻覚では無いとわかるとマクゴナガルは強い衝撃によろめき、足が震え立っていられずハーマイオニーにもたれかかった。ハーマイオニーは必死にマクゴナガルを支えていたが、彼女の目にも涙が浮かび体は大きく震えていた。
「どんなふうにお亡くなりになったの?どうしてそうなったの?」
トンクスが蒼白な顔で小声で聞いた。
「スネイプが殺した。僕はその場にいた。僕は見たんだ。僕たちは闇の印が上がったから、天文台の塔に戻った……ダンブルドアは病気で、弱っていた。でも、階段を駆け上がってくる足音を聞いたとき、ダンブルドアにはそれが罠だとわかったんだと思う。ダンブルドアは僕を金縛りにしたんだ。
僕は何もできなかった。透明マントをかぶっていたんだ。マルフォイとルイスが現れて、ダンブルドアを武装解除した。次々に死喰い人が現れて──スネイプが、それで……スネイプが……アバダ ケダブラを」
なるべく感情が篭らないようにハリーは簡潔に伝えたが、それでも声は震えていただろう。
しん、と病室内は静まり返った。ハリーはきっとダンブルドアの死を嘆き悲しんでいるのだと思い彼らを見たが──マクゴナガルは、ハリーが想像していたような表情をしていなかった。いや、ハリーを見ていない。その視線はソフィアに向けられていた。
マクゴナガルだけではない、リーマスと、ハーマイオニー、ポンフリーは言葉をなくし──何も言えない様子で──呆然とソフィアを見つめていたのだ。
「スネイプ!あのクソ野郎!!やっぱり裏切りやがったのか!ああ、ずっと俺はそうだろうと思ってた、あいつは性根が腐った裏切り者だってな!」
シリウスが悔しげに吐き捨て、苛立ちに任せて壁を強く叩く。
「──う、そ……」
震える声でソフィアが呟いた。
ハリーは隣にいるソフィアを見る。ソフィアはいつもスネイプを信じていた。一年生の時だって、クィレルが敵だと早いうちに見抜いていた。信頼していた教師の裏切りにショックを受けているに違いない。それに、ルイスが関わっていたのだ、この後マルフォイに聞かねばならないことはあるが、兄の裏切りをソフィアは受け入れられないのだろう。──ハリーは、そう思い気遣うようにソフィアを見た。
ソフィアの顔色はこの病室にいる誰よりも悪かった。ベッドに寝かされているビルよりも顔色がなく、蝋人形のように白い。目は大きく見開かれ、唇は小さく震えていた。
「うそ、そんな──あり得ない、裏切るなんて、あり得ないわ」
「本当なんだ。スネイプが殺した。あいつはヴォルデモートに忠誠を誓ってるんだ。僕らを裏切って、ずっとダンブルドアを殺そうと企んでいたんだろうな。その時何があったかはこいつが話してくれる。そうだろ?──マルフォイ!」
ハリーは何も無い虚空に手を伸ばし、ぐいっと下に下ろした。何も無いはずの景色がぐにゃりと歪み、その中からドラコが現れる。
突如現れたドラコに──全ての元凶の登場に、誰もが何が起こったのか理解できず唖然とドラコを見つめた。
最も早くドラコに詰め寄ったのはソフィアだった。ソフィアはドラコが透明マントを被り控えていたと初めから知っている。他の者達がショックを受ける中、ドラコの腕が束縛されている事など微塵も気にせず詰め寄りドラコの胸元を縋るように掴んだ。
「ドラコ!そんな、嘘よね?ハリーの見間違いよね?殺した、だなんて──それに、ルイスも裏切った、だなんて、あるわけないわよね?」
ソフィアの悲痛な叫びにドラコはぐっと辛そうに顔を歪ませた。
そのまま、ソフィアの蒼白な顔をじっと見つめ、カサついた唇をゆっくりと開く。
「本当だ、スネイプ先生が殺した。……だが──」
「嘘よっ!」
心が裂かれたかのような悲痛な叫びを上げ、ソフィアはドラコからよろよろと数歩離れ、絶望と恐怖を顔中に広げながら何度も浅く短い呼吸を苦しげにした。
「そ、んな──あ、ありえないわ。ヴォルデモートに──っ!」
ソフィアは口を何度か開いたがその先は言葉にならず、苦痛に顔を歪め胸を押さえた。
強いショックのあまりソフィアは過呼吸に陥りうまく呼吸ができず、倒れそうになるソフィアを支えたのはマクゴナガルであり、彼女は苦しげに喘ぐソフィアの背中を撫でながら「ゆっくりと、息をしなさい」と囁いた。
暫くはマクゴナガルがソフィアを宥めようとする声だけが響いた。ハーマイオニーは口を手で押さえ戦慄き、目からたくさんの涙を流す。──彼女は、ソフィアが何故これ程ショックを受けたのか、打ちひしがれているのか知っているのだ。
ソフィアはマクゴナガルの胸元に顔を埋め、小さく呻き啜り泣きながら「あり得ないわ、そんな」と何度も呟く。
マクゴナガルはソフィアを抱きかかえ背を撫でながら、真剣な眼差しでハリーをじっと見る。その目に先ほどの狼狽は無くなっていた。
「ソフィアの言う通り、セブルスが私たちを裏切ったなど……あり得ません」
「……マクゴナガル先生、でも……」
ハリーの言葉を否定したのは、ソフィアだけでなくマクゴナガルもだった。ソフィアは自分の背中を撫でる手の優しさにぐっと目を閉じ大きな嗚咽を漏らした。
ハリーは僅かに残念に思った。きっと、ハグリッドと同じで信じたく無いのだろう。だれだって、長年不死鳥の騎士団員として動いていたセブルス・スネイプが裏切り者だと思いたくないに違いない。そこからどれだけの情報が流出していただなんて、考えたくないだろう。
「マクゴナガル先生、本当なんです」
「あり得ません。そんな事、あるわけがありません、騎士団にはセブルスの──」
マクゴナガルは言いかけた言葉を飲み込み、ぐっと辛そうに顔を歪めた。
その先に続く言葉を知っているのはこの中でも限られた人だけだった。しかし、彼らにはそれをいま、自らの意思で伝えることは出来ない。
涙で濡れた目をソフィアを強く袖で擦った。何度拭っても、目からは次々に涙が溢れている。それでもソフィアは気を奮い起こし、マクゴナガルに支えられながら立ち上がると決然とした表情でハリーを見た。
「裏切るなんて、あり得ないわ」
「……ソフィア……」
ハリーは困惑し苦しげに顔を歪める。何故ここまで言ってわかってくれないんだ。僕ではなく、裏切り者のスネイプの事を信じるというのか。胸の奥から失望と怒りが込み上がり、強く拳を握る。
「スネイプ先生は、ダンブルドア先生を──騎士団を裏切る事はないわ!」
「なんで──何でわかってくれないんだ!スネイプは裏切り者だった、僕だって……僕だって、信じたくなかった!君にスネイプの何がわかるんだ!」
ソフィアの叫びにつられ、ハリーも気がつけば叫んでいた。ソフィアとこんなくだらない事で言い合いをしたくはない。だが、ハリーは心の奥から湧き上がる激情を止める術を持たなかった。
ハリーの激しい怒りと失望が滲む言葉を聞いて、ソフィアは暗い目で薄く、冷ややかに笑った。──初めてソフィアが見せた冷たい笑みであり、ハリーはどこかで見覚えがある気がした。
「何がわかるかですって?──私は少なくともあなたよりも知っているわ、ハリー。
──だって、あの人は……セブルス・スネイプは、私の父様だもの!」
ソフィアが告げたその言葉に、ハリーは息を飲み目を見開いた。