370 最後の一年の始まり。
月明かりが照らす狭い道をナルシッサは早歩きで歩いていた。彼女らしからぬ素朴な黒く長いローブを着てフードをすっぽりと被り、少しもずれないように左手で胸元を固く握りしめていた。
少しの物音にも表情を強張らせながらナルシッサは必死に目的地へと向かう、そこはホグズミードにある落ち着いた雰囲気のバーであった。
ダンブルドアが死亡してまだ1週間と少ししか経過していない。店内に客は少なく──元々、去年から客数はがくんと減っていたが──ポツポツと客がいる程度だ。
中には1人でテーブル席に座り、目の前の空席へ酒を注いでじっとしている者もいる。ダンブルドアへの葬いなのかもしれない、とナルシッサは思った。
グラスを磨いていたバーテンダーに「メニューリストをくださる?」と言いながらナルシッサは店内の一番奥のカウンター席に座った。
すぐに机の上に飛んできたメニューをさっと眺め、ナルシッサは適当に目についたものを杖先でトンと叩いた。
数分も経たぬうちに羽が生えた細長いグラスがパタパタとナルシッサの前に飛んできた。琥珀色の酒が入っているグラスは添え物のナッツ類と共にお行儀よく机の上に着地する。
バーはパブとは異なり賑やかな場では無く、個々が静かに酒を楽しむところである。ナルシッサは細いグラスの足を指で撫でながら注意深く店内を見回した。──誰も、自分に意識を向けてはいない。
時計が夜の10時を指したとき、ナルシッサはすっと立ち上がり店内の奥にあるトイレへと向かった。
扉を開けたナルシッサはその先にいる人を見て目を細めながら、後ろ手で静かに扉を閉める。
「こんばんは、ソフィア」
「こんばんは、ナルシッサさん」
フードの下からソフィアはキラキラとした緑色の目で真っ直ぐにナルシッサを見る。その視線から逃れるように、ナルシッサは蒼白な顔で目を伏せぐっと唇を噛み締めた。
「それでは、はじめますね」
ソフィアは羽織っていた黒いマントの下から籠を取り出し、中に詰め込まれたクッションの上で丸まっていたティティに呼びかける。籠の扉を開けばティティはすぐに飛び出し軽やかに床に着地した。
「ティティ、この人に変身して」
ティティはソフィアの言葉と願いを聞きとり、じっとナルシッサを見つめたかと思うと「ポンっ」と小さな音を立てて変身した。
小さな白い体は長く伸び、闇のように黒くなっていく。すらり、としたナルシッサの体型と、今の青白い顔色、そして漆黒の服まで完璧に瓜二つとなったティティは「どうだ!」というように自慢げに胸を逸らした。
「まあ、ナルシッサさんはそんな顔はしないわ!」
おおよそナルシッサがしそうにない子どもっぽく親に褒められる事を望むような表情に、ソフィアはくすくすと笑いながら
「ティティ、このまま店内に戻って座るのよ。もし誰かに話しかけられたら──失礼します。って言って、またこのトイレに戻ってきたらいいわ」
「しつれいします」
ナルシッサは鏡を見ているような気持ちになりながらもう1人の自分を見ていた。表情や言葉はややおぼつかないが、店内は薄暗く強張った表情をしていても時期が時期であり不審がられないはず。それに、この時期に1人の客に話しかける無粋な人はいないだろう。
ティティは「ひ、つれい──しつ、れい」と発音の難しさに苦しみながらぶつぶつと呟いた。
練習を重ねるティティを見るソフィアの目はとても優しかったが、ナルシッサの方を見るときには緊張と警戒が含みやや硬い表情になっていた。
「では、いきます」
「ええ」
ソフィアはナルシッサの胸元に向けてまっすぐと杖を向けた。ナルシッサはぐっと目を閉じ、怯えるかのように肩を震わせた。
何食わぬ顔でトイレから出たナルシッサはあらかじめ聞いていた席に座り、目の前の酒を見て首を僅かに傾げる。つい、と首をまっすぐに戻すと、細くしなやかな指でグラスを掴み唇を当て、傾けた。
「──っ!?」
その奇妙な味と喉を焼くような熱に、ナルシッサは慌てて口を離しグラスを置き、ナッツを3粒ほど口の中に放り込んだ。
ソフィアは姿現しをして家の裏にある森へ着くと身を低くしてすぐに走り出した。家の門を押すときにやや緊張したが、鍵穴を杖先で軽く叩きすぐに扉を開く。
ソフィアの緊張感がそのまま現れているように、部屋の中もどこかよそよそしい緊張感で満たされピリピリとした空気を纏っていた。
ソフィアは薄暗い廊下を過ぎ、灯りが漏れているリビングへと向かう。
「──成功したわ!」
扉を開けながらソフィアが明るい声で言えば、ソファに座り今か今かと待っていたリーマス、ジャック、ドラコは立ち上がりほっと表情を緩めソフィアの周りに駆け寄った。
「良かった!」
「本当につけられてないか?」
「大丈夫よ、何度も確認したし、認識阻害眼鏡もかけていたもの」
ソフィアは顔にかけていた大きな黒縁メガネを掴み、パチンと折り畳みポケットの中に突っ込む。
「それで、母上は──?」
ドラコはソフィアの後からナルシッサが入ってくるのかと思ったが、部屋に現れたのはソフィアだけだった。気が急いてそわそわと落ち着きのないドラコに、ソフィアは少し申し訳なさを感じながら黒いマントを脱ぎ、中から籠を出す。その中には白く美しい毛並みのティティがいつものようにクッションの中央で座っていた。
意味がわからず目を瞬かせるドラコは──母に会えると喜びに紅潮させていた頬を瞬時に顔を蒼白にさせ、顔を引き攣らせた。
「──まさか」
「ルイスを真似してみたの。私流にね」
ソフィアは籠の扉を開け中からティティを出すと、素早く杖を向け軽く振るった。
白いティティは黒く染まり、小さな体はぐんぐんと大きくのびていく。
目の前でフェネックが人へ変貌していく様子に、ドラコは言葉を無くし呆気に取られた。
人を動物に変える魔法は難しい。完璧な動物に近づくほどに難易度が上がり、ほとんどのものは体の一部が動物に変身してしまうなど奇妙な結果に終わってしまう。
ソフィアはティティをナルシッサに、ナルシッサをティティに変身させ入れ替えたのだ。
もっとも、ティティの変身はティティ本人の努力によるものが大きいが、ソフィアは今日のために昨年からマクゴナガルの個別授業にティティを連れて行き、どうすれば本物と同じ色になるのか相談し、密かに訓練していた。
何ヶ月も前のクリスマス休暇前のルイスとの短い会話がこう繋がるとは思わなかったが、ルイスはあの時から今日のことを考えていたのかと思うと──少々ゾッとする。一体いつからの計画だったのだろうか。
「ドラコ!」
「は、母上」
人に戻ったナルシッサは数秒ぼんやりとしていたが、すぐに目の前で心配そうに瞳を揺らすドラコに気付くと小さく叫びながら縋りつくように強く抱きしめた。
いつの間にか自分よりかなり背が高くなってしまったドラコの胸元に顔を寄せ、ナルシッサはしっかりと息子を──世界でたった一つの宝物を抱きしめ、ようやく何ヶ月かぶりにうまく息を吸うことが出来た。
「ドラコ、少し痩せたかしら?」
「え、いえ……母上こそ、顔色が……」
ドラコは母に抱きしめられた記憶はそれこそ朧げなほど昔の話であり、マルフォイ一家は親子や夫婦であっても気軽にハグをすることはない。かなり驚き狼狽えたが、嫌な気持ちになることはなく胸がきゅっと切なく締め付けられた。ドラコは母を抱きしめ、こんなに細く、小さな人だったのか、と初めて気がついた。
ナルシッサはそっと体を離すとドラコの頭の先からつま先までじっくりと見て怪我が無いか、ポケットから杖を出し軽く振り呪われていないかを確認した後、ようやく初めて安堵が滲む笑みを見せた。
「ナルシッサ、ここに来たという事は俺たちの元に属する、という事でいいんだよな?」
感動的な親子の再会もそこそこにジャックが数歩近づき問い掛ければ、ナルシッサはドラコを庇うように立ちながらごくりと固唾を飲みジャックを見上げた。
「……ええ、ドラコとルシウスが無事なら、私はどこだっていいの。……あなたがここにいるということは、あなたも裏切り者だったのね、ジャック」
ジャックは肩をすくめ「俺はずっとこっちさ」と軽く伝えた。
ジャックは何年も前から死喰い人として騎士団に潜り込みスパイ活動を行なっていると聞いていた。騎士団だけでなく、魔法省にも顔が広いジャックは様々な情報をヴォルデモートに流していたのだが、それすらも仕組まれたものだったのだろう。
うまく立ち回ったものだとナルシッサは苦い気持ちになり眉間に皺を刻んだが、臆する事なく強い目でジャックを見つめた。
リーマスとソフィアはジャックもまた裏切り者だという事を伝えると決めた時、もしナルシッサがドラコよりもヴォルデモートの権力に屈し裏切ればセブルスだけでなくジャックも危険なのではないかと心配していたのだが──ナルシッサの表情を見る限り、その心配はなさそうだった。
「ナルシッサ、俺はドラコと誓いを結んだ。誓いの内容は──言えない、それすらも誓いだからドラコに聞き出そうとしない方がいい。……この意味がわかるな?」
ジャックの言葉にナルシッサは凍りつき不快感と後悔を滲ませた表情を見せる。
きっと、破れぬ誓いを結ばされたのだ。裏切る事がないように、今度は
ジャックの表情に慈悲や申し訳なさは微塵も無く、ナルシッサは当然の報いなのだろうと奥歯を噛み締め頷いた。
「……ええ、わかったわ」
「後はルシウスだが……あいつの閉心術はどうだ?ナルシッサとドラコは中々に優秀なようだけど」
ジャックはナルシッサの後ろにいるドラコを見ながら目を細める。閉心術は努力すれば
ある程度は使えるようにはなるが、ヴォルデモートを欺くほどの閉心術を使うには個々の才能に左右される。心を閉ざすという秘められた才能を、ドラコと──そして、セブルスとジャックも同じように持っていた。
「主人は……苦手でしょうね。もちろんある程度は可能ですが、帝王を欺けるほどではないわ」
「そうか、ならルシウスには黙っておいた方がいい。裏切りがバレてしまえばみんな殺されるからな」
ジャックの言葉にナルシッサはやや不満そうだったが、最終的には納得して頷いた。優秀な閉心術師でなければヴォルデモートを欺くことは不可能であり、ルシウスは予期せぬトラブルに臨機応変に対応できるタイプではないのは確かだ、狼狽えた時に間違いなく心を曝け出してしまうだろう。
「ならば、主人は──ずっとあんな監獄で?」
「いや……後数日といったところだろう。大勢の死喰い人が収監されているところを、ヴォルデモートが放置するとは思えない。吸魂鬼も離反したしな」
ヴォルデモートとしても戦力は欲しいはずだ。一度ミスを犯した死喰い人であっても手元に戻し駒に使いたいと考えるのが普通だろう。アズカバンの看守が吸魂鬼ではなくなりただの魔法使いになってしまった今、ヴォルデモートは簡単に彼らを脱獄させる事が可能なはずだ。
勿論魔法省としてもそれはなんとか防ぎたいところだが、魔法省内部も一枚岩ではなくヴォルデモートや死喰い人の息がかかっている者は少なくない。裏切り者以前に──既に、服従の呪文にかけられている者も多いのだ。
「……わかったわ。私に何を望むのかしら」
「いや暫くは何もしなくていい。ナルシッサは死喰い人じゃないだろ?任務が与えられる事はないだろうしドラコも一定の評価は得た。ダンブルドアが死んだ今、ドラコの利用価値は低い。ヴォルデモートはもうドラコを利用する事はない。ホグワーツの見張りくらいは頼むかもしれないけどな」
「……そう。なら……ひとつだけ」
ナルシッサは背筋を凛と伸ばし、ジャックとリーマスを見る。その顔色は悪く握られた手は震えているが、その目には確かな意志が感じられた。
「知っているかもしれませんが、今──死喰い人の本拠地は……マルフォイ邸です。帝王も、死喰い人も、そこにいます」
その情報は死喰い人であるジャックは知っている事だったが、そうだとしてもナルシッサ本人の口から吐かれることに意味がある。ナルシッサが持つ有効な情報は少ないが、それでも──ヴォルデモートを裏切るという強い意志があるのだ。
その言葉を聞いたリーマスはようやくナルシッサが本当にヴォルデモートを裏切るのだと確信し、緊張を僅かに解いた。いや、信頼し何かを頼むことはできないだろう。ただ万が一何かがあった時にナルシッサとドラコはこちら側に有利に動くはずだ。
ソフィアとドラコは大人達の会話を聞き少し不安げにしていたが口を挟む事はなかった。子どもだけでどうにかできるほど、事態は甘くない、一つのミスが仲間を危険に晒し取り返しのつかないことになってしまう。ならばソフィアとドラコは子どもとして、信頼できる大人達の意見に従う他無かった。──その方が、精神的負担が少ない。
「今すぐドラコを返すことはできない。なるべく早く、ルイスとドラコを入れ替えないとな、ポリジュース薬にも限りがあるだろうし」
「……こちらにいる間のルイスの安全は保証するわ」
ナルシッサの言葉にソフィアは「良かった……」と小さく呟く。安堵したソフィアを見下ろしたナルシッサは冷たい目でじっと見据え口元に微かな冷笑を浮かべた。
「ルイスのためじゃないわ。ドラコのためよ、ソフィア」
「……」
冷たく吐かれた言葉にソフィアは一瞬傷付いたように顔を歪ませたが、すぐに小さく頷いた。
ナルシッサはソフィアを見て僅かに良心が痛んだ。数年前はこうなるだなんて思わなかった。ドラコの良き友人として、ルイスとソフィアがずっとそばにいる事を望んでいた。
いま、わざわざ突き放すようなことを言わずにソフィアの気持ちに寄り添うのは簡単だった、しかし、一度心を許したものに対して愚かなまでに信じてしまうソフィアのことを考えれば──こうするのが正解だろう。それに、いきなり馴れ合う事は出来ない。
「ソフィア。……私は、謝らないわ」
「……ええ」
ナルシッサの言葉にはたくさんの意味が込められていた。
セブルスを縛った事、ルイスの優しさを利用した事、いま、寄り添えない事。
ソフィアはぐっと唇を噛み、俯いた。
「それにしても、まさか──本当にセブルスが裏切っていたなんてね。帝王が示す未来に賛同して深く共感していたのに」
欺いていたのならば、いつからだろうか。何十年もそうであるならば──まともじゃない。とんだ狂人だわ、とナルシッサは内心で吐き捨てる。ソフィアは顔を上げて微かに笑った。
「私たちの母様は、ヴォルデモートに殺されたんです」
ソフィアは自分の髪に向かって杖を振り、黒い髪を美しい赤毛に変化させる。
その姿を見たナルシッサは驚愕に目を見開いたが、ようやく長年の謎が解け、憑き物が落ちたような顔でふっと小さく笑う。
「……気がつかなかったわ。親しくは無かったし、セブルスはマグル生まれを穢れた血だと嗤っていたもの。まさか学生時代の時から私たちを欺いていたなんてね」
「きっと、それは……父様の真実の一部ですよ。父様がその時何を思っていたのか、私にはわかりません。……ただ、母様を愛し、私たちを愛しているのは疑いようはありませんけどね」
セブルスは殆ど学生時代の話をしない。僅かにアリッサとの思い出を語ってくれる事はあるが、マグル生まれを蔑む者が多いスリザリンで過ごした日々を、何も語らない。
今までは死んだアリッサの事を話すのが辛いのかと思っていたが、おそらくそれだけではない。──話せない事が、多かったのだろう。
「知っているわ。だから、私はセブルスを利用したのよ」
ナルシッサの淡々とした言葉に、ソフィアは悲しそうに微笑んだ。