居間に形容し難い奇妙な沈黙と緊張が流れた。
誰もが机の上に置かれたロケットを見つめる。一目見ただけで新品ではなく、何十年も前に作られたのだろうとわかるほど、そのロケットは色がくすんでいた──いや、そのものが古いというよりも、長い間あの場所に隠されていたからだろうか。
そのロケットは、シリウスにとって価値のないものだが、ブラック家の証として代々受け継がれているものだった。シリウスも学生時代──いや、それよりも昔、純血思想を誇らしげに語る両親が大切な物だと言いながら見せた事を覚えている。
幼いシリウスにしてみれば、純血思想を馬鹿らしく思い窮屈に感じていた時に見せられたそれはただの趣味の悪いロケットでしかなかったが、弟のレギュラスは熱心に両親の話を聞いていた。
「ほ、本当にブラック家のものなの?」
「ああ……間違いない」
想像もしなかったところから手掛かりが得られて嬉しい気持ちもあったが戸惑いの方が強かった。それはハリーだけでなく──シリウスの方が混乱し、動揺しながらそれを見つめていただろう。
「本物は、今もブラック家にあるのかしら……」
「……あっ!!そ、それに似たロケット、2年前の大掃除の時に……!ほら、みんなで開けようとしたけど、どうしても開けられなくて……!」
訝しげにロケットを見ていたモリーが小さな悲鳴をあげ恐々と口にする。ハリーたちは一瞬何のことかわからなかったが──2年前、騎士団本部としてブラック家を使用するときの大掃除で、さまざまな物を捨てた事を思い出した。
煙草入れや誰でも攻撃しようとするかけ時計、ガラクタ、その中に何人もが開けようとしたが開くことがなかったくすんだ色のロケットがあったのは確かだ。
その事を思い出したハーマイオニーは目を見開き口を押さえ、その場にいたシリウスとリーマスもまた顔をこわばらせる。
「客間の飾り棚にあったわ。誰にも開けられないロケット……それで、私たち……私たち……」
ハーマイオニーが呆然と呟く。その先の言葉は声にならなかったが、その場にいた者全員が思い出していた。ハリーも実際にそのロケットを弄った1人であり、そのロケットは不必要なもの、としてゴミ袋の中に入れられた。
「そんな、じゃあ本物は……」
「もう捨てて──違うわ。クリーチャーが色々な物を回収していた、もしかしてクリーチャーの寝床にあるんじゃないかしら?」
青い顔をしながらソフィアが呟く。その僅かな可能性にかけるしかない、とハリーは必死さを滲ませシリウスを見る。もしクリーチャーが回収する事なく捨ててしまっていたら本物のロケットを見つけ出すことは不可能だろう。つまり、ヴォルデモートを殺すことは不可能になる──いや、そんな事考えたくはない。
「シリウス、クリーチャーに聞かないと!」
「……」
「シリウス?」
シリウスはハリーに話しかけられても呆然とロケットを見下ろし微動だに動かなかった。
「シリウス!」
「──っああ」
焦ったそうに自分を呼ぶハリーの大声に、ようやくシリウスは反応すると隠しきれない動揺を誤魔化すように顎に短く生えた髭を神経質そうに指先で撫でながら視線を彷徨わせた。
「……だが、ここは多くの守りがかかっている。境界線内は姿現しも不可能だ」
「わからないわよ。ハウスエルフは、ホグワーツでも姿現しができるわ」
ハーマイオニーの言葉にシリウスは言葉を詰まらせる。ハウスエルフの存在を知っていても、魔法族は彼らの生態まで詳しく知ろうとは思わない。──ハウスエルフは、ただの便利なハウスキーパーであり奴隷なのだ。魔法使いや小鬼とは別種の生き物だとそう思い込んでいる。主人に対し絶対服従である哀れな下僕。そう思っているのはなにもシリウスだけではないだろう。
「クリーチャー……ここに、来い」
シリウスが唸るように虚空へと呼び掛ければ、パチンと大きな音がしてクリーチャーが現れた。表情は憎々しげに歪められ、今にも呪い殺しそうな軽蔑した目でシリウスを睨みつけている。
「ご主人様」
クリーチャーはガマガエルが潰れた時のような嗄れ声を出し、シリウスに向かって深々とお辞儀をした。暫く頭を上げる事なく自分の膝に向かって「ここはどこだ、奥様の屋敷ではない……穢れた血や血を裏切る者が──」とぶつぶつと呟いていた。
まさか本当に数々の護りを破り現れるとは思わず、シリウス達は目を見張った。ただのハウスエルフにこのような力があるとは夢にも思わなかったのだ。
去年シリウスがハリーの力になればいいと思いクリーチャーを派遣したのも、きっと近くまで姿現しで向かい、そのあとはホグワーツのハウスエルフであるドビーに秘密裏に招き入れられたのだと考えていた。
「本当に……。クリーチャー。俺の質問に答えろ。正直に答えるように命じる。わかったか?」
「はい、ご主人様」
シリウスの言葉にクリーチャーは深々と頭を下げたまま言ったが、シリウスから見えないところでその唇が声を出さずに動き、汚らしい侮辱の言葉を言っているのだということにハリーは気づいた。
「2年前。2階の客間に金のロケットがあった。俺たちが捨てたそれを、お前は盗んだか?」
一瞬の沈黙が流れた。「盗んだ」という冷たい言葉に──事実かもしれないが──ハーマイオニーはぐっと眉を吊り上げたが、口を挟むことはなかった。
クリーチャーは背筋を伸ばしてシリウスをまともに見ながら「はい」と答える。その目には強い軽蔑と憎しみ──そして恐怖があった。
「やった!」
ハリーは小さくガッツポーズをして安堵を噛み締める。なんとか首の皮一枚で繋がった。クリーチャーは嫌がるかもしれないが、感謝を込めて何か特別なプレゼントをあげたい気持ちだった。ハーマイオニーとロンとソフィアもほっとして胸を撫で下ろしたが──クリーチャーはその表情を見て目を閉じた。
「今はどこにある?お前の寝床か?」
「なくなりました」
「何?」
「なくなった?」
ハリーは呆然とクリーチャーの言葉を繰り返す。先ほどまでの高揚した気持ちは急激に萎み胸が苦しく締め付けられる。
「なくなったって、どういう意味だ?」
認めたくない気持ちからハリーがクリーチャーに問いただせば、クリーチャーは視線をシリウスからハリーに移した。
去年、シリウスに「ハリーの命令はシリウス・ブラックの命令と思え」と言われた時の隷属はまだ継続しており、体をそちらに向けたくないのかぎこちない動作でハリーをじっと見つめる。
「マンダンガス・フレッチャー。──マンダンガス・フレッチャーが全部盗みました。ミス・ベラやミス・シシーの写真も、奥様の手袋も、勲一等マーリン勲章も、家紋入りゴブレットも、それに、それに……」
クリーチャーは言葉を止め強く目を閉じる。
葛藤するように全身が震え、息を吸おうと喘いでいた。薄く汚い胸が激しく凹み上下するなか、クリーチャーはカッと両目を見開き血も凍るような叫び声を上げた。
「それに、ロケットも。レギュラス様のロケットも!クリーチャーめは過ちを犯しました。クリーチャーはご主人様の命令を果たせませんでした!」
叫び終わった途端、クリーチャーは弾かれたように跳び上がり暖炉へ向かう。ハリーは本能的にクリーチャーに飛びかかり、暖炉のそばに置いてある火掻き棒で自身を罰しようとするその体を床に押さえ込んだ。クリーチャーとハーマイオニーの悲鳴が混ざり合い、リーマスとアーサーもハリーに加勢して手足をがむしゃらに動かし暴れるクリーチャーを抑え込む。
誰もが立ち上がり混乱する中、シリウスは唖然としたままその光景を見つめていた。
「シリウス、クリーチャーを止めてくれ!──ハリー!」
リーマスは咄嗟にシリウスに叫んだが、言葉を無くしたように黙り込むシリウスを見てすぐにハリーに頼んだ。ハリーが「クリーチャー、命令だ、動くな!」と怒鳴れば、クリーチャーは痙攣し震えていたが抵抗を止め冷たい床の上にべたっと倒れたまま、たるんだ両眼からボロボロと涙をこぼしていた。
「クリーチャー、本当の事を言うんだ。どうしてマンダンガス・フレッチャーがロケットを盗んだんだと思うんだ?」
「あ、あいつが、クリーチャーの宝物を腕いっぱいに抱えてクリーチャーの納戸から出てくるところを見ました。クリーチャーはあのコソ泥に、やめろと言いました。マンダンガス・フレッチャーは笑って、そして逃──逃げました……」
そうだ、マンダンガスはブラック家から盗んだものを売り捌いていた。当主であるシリウスもそれは知っていたが、本来ゴミに出すものだからと特に気にする事はなく──せめて一言声をかけろと伝えたがマンダンガスは笑って誤魔化していた──許していた。
「クリーチャー、お前はあれをレギュラス様のロケット、と呼んだ。どうしてだ?ロケットはどこから手に入れた?レギュラスは、それとどういう関係があるんだ?クリーチャー、起きて座ってくれ。そして、あのロケットについて知っている事を全部僕に話すんだ。レギュラスがどう関わってるかも、全部!」
ハリーは床に這いつくばるクリーチャーの肩を掴み無理矢理体を起こしながら低い声で言う。クリーチャーはハリーの命令を拒絶する事はできず、床の上に座り目尻の皺からぼろぼろと涙を伝わせ、苦しげに喘ぎながら前後に体を揺すりはじめた。
クリーチャーの声は酷く聞き取りにくいものだったがしんと静まり返った居間にはっきりと響いた。
「シリウス様は、家出しました。奥様の心を破った悪い人でした。でも、レギュラス
クリーチャーが「レギュラス坊ちゃま」と彼を呼ぶ時だけほんの僅かに声音が柔らかいことにソフィアは気づく。きっと、クリーチャーにとってレギュラスはブラック家の中でも特別だったのだろう。
「そして一年がたったある日、レギュラス坊ちゃまはクリーチャーに会いに厨房に降りていらっしゃいました。坊ちゃまは、ずっとクリーチャーを可愛がってくださいました。そして坊ちゃまがおっしゃいました──おっしゃいました……闇の帝王が、ハウスエルフを必要としていると」
ますます激しく体を揺すりながらクリーチャーが息も絶え絶えに呟く。
ヴォルデモートがハウスエルフを必要とする。その奇妙な言葉の羅列にハリーとロンが鸚鵡返しに「ハウスエルフを必要としている?」と聞けば、クリーチャーは膝の間に頭を挟み体を小さく丸めたあと、痙攣するように頷いた。
「さようでございます。そして、レギュラス様は、クリーチャーを差し出したのです。──坊ちゃまはおっしゃいました。これは名誉な事だ。自分にとっても、クリーチャーにとっても名誉なことだから、クリーチャーは闇の帝王のお言いつけになる事は何でもしなければならないと……そのあとで、帰──帰ってこいと。
そこで、クリーチャーは闇の帝王のところに行きました。闇の帝王は、クリーチャーに何をするのか教えてくれませんでしたが、一緒に海辺の洞穴に連れて行きました。洞穴の奥に洞窟があって……洞窟には大きな黒い湖が……小舟がありました」
クリーチャーはますます激しく啜り泣きながら話し、ハリーはその嗄れて恐怖に彩られた声を聞き──あの暗い湖を思い出し、首筋に冷たいものが流れたのを感じた。その時何が起こったのか、自分のことのようにわかり数ヶ月前の光景を思い出したのだ。
緑色の幽光を発する小さな船には魔法がかけられ、1人の魔法使いと1人の犠牲者を乗せて中央の島へと運ぶようになっている。そういうやり方で、ヴォルデモートは分霊箱の護りをテストしたのだろう。使い捨ての生き物である、ハウスエルフを借りて。
「島にす──水盆があって、薬で満たされていました。や──闇の帝王は、クリーチャーに飲めと言いました。クリーチャーは、飲みました。飲むと、クリーチャーは恐ろしいものを見ました……内臓が焼けました……クリーチャーは、レギュラス坊ちゃまに助けを求めて叫びました。ブラック奥様に、助けてと叫びました。でも、闇の帝王は笑うだけでした……クリーチャーに薬を全部飲ませました……そして、空になった水盆にロケットを落として……薬をまた満たしました。それから闇の帝王は……クリーチャーを島に残して、舟で行ってしまいました」
ハーマイオニーはわっと声を上げて泣き出し、ロンが片腕を回し慰めるように強く抱きしめた。しかし、そのロンの顔色も酷く悪い。
トンクスとフラーが「酷い」と震える声でつぶやく中、ハリーはクリーチャーが語ったその場面が見えるようだった。
間も無く死ぬであろうハウスエルフが身悶えしているのを、非情な赤い眼で見つめながらヴォルデモートの青白い蛇のような顔が暗闇に消えていく。薬の犠牲者は、焼けるような喉の渇きに耐えかねて湖に近づき、亡者に引き摺り込まれ死ぬ。
しかし、ハリーが想像できるのはそこまであり、クリーチャーがどのようにして脱出したのかわからなかった。
「クリーチャーは水が欲しかった。クリーチャーは、島の端まで這っていき、黒い湖の水を飲みました……すると手が……何本もの死人の手が水の中から現れて、クリーチャーを水の中に引っ張り込みました……」
「どうやって逃げたの?」
ハリーは知らず知らずのうちに、自分が囁き声になっていることに気づく。クリーチャーは脚の間から醜く歪んだ顔を上げ、大きな血走った目でハリーを見た。
「レギュラス様が、クリーチャーに帰ってこいとおっしゃいました……」
「わかってる──だけど、どうやって亡者から逃れたの?」
「レギュラス様が、クリーチャーに帰ってこいとおっしゃいました」
クリーチャーは、何を聞かれたのかわからない様子で再度同じ言葉を繰り返した。ハリーは焦ったくなりながら「わかってるよ、だけど──」と答えかけて唐突に理解した。
「そうか──ハウスエルフは、魔法使いが──ダンブルドアができない場所でも、姿現しと姿くらましができるんだ……」
偉大な魔法使いでさえ不可能である場所での姿現しが、ハウスエルフには可能なのだ。
きっと、ヴォルデモートもあの場所で姿現しはできなかったのだろう。だから、彼は下等な存在であるハウスエルフに、そんな事が出来るとは考えもしなかった。
「ヴォルデモートは、ハウスエルフがどんなものかなんて、気に留める価値もないと思ったのよ。純血達がハウスエルフを動物扱いするのと同じようにね。あの人は、ハウスエルフが自分の知らない魔力を持ってるかもしれないなんて、思いつきもしなかったでしょうよ」
鼻を啜りながらハーマイオニーが冷たい声で吐き捨てた。
分霊箱のありかを知っている者が生存している。そのことはヴォルデモートにとって、痛恨のミスだったが──ヴォルデモートは、今もそれを知らぬだろう。
「ハウスエルフの最高法規は、ご主人様のご命令です。クリーチャーは、家に帰るように言われました。ですから、クリーチャーは家に帰りました……」
「じゃあ、あなたは言われた通りのことをしたわ。命令に背いていないわ」
ソフィアが優しい声で労わるように言ったが、クリーチャーは首を強く振り、体をますます激しく揺らした。
「それで、帰ってきてからどうなったんだ?おまえから話を聞いたあとで、レギュラスは何と言ったんだ?」
ハリーはクリーチャーと目を合わせ、はっきりとした声で聞く。いよいよ核心に迫っているのだとハリーにはわかった。
クリーチャーは、血走った目でハリーを見つめ、そしてゆっくりとシリウスを見た。シリウスは何故クリーチャーがそんな傷付き絶望した目を見せるのか、わからなかった。
いや、今聞いている事も理解できなかった──その後の事を予想してしまい、シリウスは受け入れる事ができず、クリーチャーから視線を逸らし床の木目をじっと見下ろし、奥歯を強く噛み締めた。