「坊ちゃまは、クリーチャーに隠れているように、家から出ないようにとおっしゃいました。それから……暫く日が経ってからでした……レギュラス坊ちゃまが、ある晩、クリーチャーの納戸にいらっしゃいました。坊ちゃまは変でした。いつもの坊ちゃまではありませんでした。正気を失っていらっしゃると、クリーチャーにはわかりました……そして、坊ちゃまは、その洞穴に自分を連れて行けと頼みました。クリーチャーが、闇の帝王と一緒に行った洞穴です……」
「それで、レギュラスは、お前に薬を飲ませたのか?」
本物のロケットを手に入れるために、今度はレギュラスが彼を愛しく思っているクリーチャーに頼んだのかと思うと胸の奥がざわついた。
しかし、クリーチャーは首を振りさめざめと泣いた。ハーマイオニーとソフィア、そして──レギュラスの死を理解しているシリウス達は、何が起こったのかを察した。
「ご──ご主人様は、ポケットから闇の帝王の持っていたロケットと似たものを取り出しました。そして、クリーチャーにこうおっしゃいました。それを持っていろ、水盆が空になったら、ロケットを取り替えろ。──それから坊ちゃまはクリーチャーに命令なさいました。一人で去れと。そして──クリーチャーに──家に帰れと。──奥様には決して、自分のした事を言うな。そして──最初のロケットを破壊せよと。
そして、坊ちゃまはお飲みになりました──全部です。そして、クリーチャーはロケットを取り替えました。──そして、見ていました……レギュラス坊ちゃまが……水の中に引き込まれて……そして……そして──」
「ああ、クリーチャー!」
その先はもう言葉にならなかった。
クリーチャーが号泣し話せなくなったのではなく、泣き続けていたハーマイオニーが悲しげな声を上げクリーチャーのそばに膝をつき抱き締めようとしたからだ。クリーチャーはぴたりと涙を止めるとすぐさま立ち上がり、あからさまに嫌そうな様子で身を引いた。
「穢れた血がクリーチャーに触った。クリーチャーはそんなことをさせない。奥様が何とおっしゃるか!」
「ハーマイオニーを穢れた血だなんて呼ぶな!」
ハリーが反射的に唸るように怒鳴れば、クリーチャーはヒクヒクと痙攣し床に倒れ、額を勢いよく床に打ちつけ始めた。──自分を罰しているのだ。
「やめさせて──やめさせてちょうだい!ねえ、わからないの?ハウスエルフを隷従させるのが、どんなに酷い事かって!」
「クリーチャー、やめろ!」
ハーマイオニーは涙を流し叫ぶ。ハリーはすぐに止めさせたが、クリーチャーは震え喘ぎながら床に倒れていた。鼻の周りには鼻水が光り、青ざめた額には今打ちつけたところにもう痣が広がっていた。腫れ上がって血走った目には、再び涙が溢れている。
これほどまで哀れな生き物が他にいるだろうか。隷従するほかに生き方を知らない──主人に対して絶対服従である、哀れな存在だ。
「クリーチャー、それで、お前はロケットを家に持ち帰った。そして、破壊しようとしたんだな?」
「クリーチャーが何をしても、傷一つつけられませんでした。クリーチャーは全部やってみました。全部です。でも、どれも──どれもうまくいきませんでした……外側のケースにはあまりに強力な呪文がかかっていて、クリーチャーは、破壊する方法は中に入ることに違いないと思いましたが、どうしても開きませんでした。クリーチャーは、自分を罰しました。開けようとしては罰し、罰してはまた開けようとしました。クリーチャーは、命令に従う事ができませんでした!ロケットを破壊できませんでした!
そして、奥様はレギュラス坊ちゃまが消えてしまったので、狂わんばかりのお悲しみでした。それなのにクリーチャーは、何があったのかを奥様にお話できませんでした。レギュラス様に、き──禁じられたからです。奥様には、洞窟の事は話すなと……」
啜り泣きが大激しくなり、言葉が言葉として繋がらなくなった。ハーマイオニーは涙を流していたがもうクリーチャーに触れようとはせず、ソフィアも悲痛な表情で沈黙し、クリーチャーが好きでないロンですら、居た堪れなさそうだった。
クリーチャーの苦しげな啜り泣きだけが居間に響き、誰もが胸の中にずっしりとした重みと衝撃を感じていた。
「レギュラスが……?」
シリウスは掠れた声でそう呟くと、力なく椅子に座り込み項垂れる。
脳裏には幼い頃のあどけないレギュラスの顔しか思い浮かばない。まだ互いに普通の兄弟として話していた、世間をよく知らなかった頃の遠い昔だ。
なぜ、幼いレギュラスの顔しか思い出せないのか──当然だ。と、シリウスは自嘲した。
しっかりと顔を見て、話していた頃なんて僅かな期間だった。俺たちは血が繋がった家族であり兄弟であったが、それだけだ。互いに心を見せず、分かり合えず、疎んでいた。
だからこそレギュラスは、自分に何も言わなかったのだろう。言えなかったのではない、その発想にならなかったのだ。何故ならレギュラスにとって、自分は血の繋がりのある他人だった。
「シリウス……」
狼狽し項垂れるシリウスに、ハリー達は何と声をかけていいのかわからなかった。
ハリーはレギュラス・ブラックの事を全く知らない。ヴォルデモートに心酔していた青年が、何故裏切ることに決めたのかは、理解ができた。
レギュラスにとってクリーチャーはハウスエルフではなく、家族だったのだ。愛しく、護りたい者だった。それゆえにクリーチャーを殺そうとしたヴォルデモートに失望し、裏切ると決めたのだろう。
自分と年齢がさほど変わらない青年が、死を覚悟して水盆に満たされた毒を飲み、そして──死が誘うとわかっていて、湖に近づいた。ダンブルドアでさえ、酷く拒絶し一人で飲むことが難しい薬を、レギュラスはたった一人でやってのけたのだ。
ハリーは机の上にポツンと置かれたレギュラスのロケットを手に取った。軽いそれが、先ほどよりも重く感じるのは彼の覚悟を知ったからだろうか。
蓋を開き、中の古ぼけた羊皮紙を開く。
皆がハリーを見つめる中、ハリーはその中の文書を読んだ。
「闇の帝王へ
あなたがこれを読む頃には、私はとうに死んでいるでしょう。
しかし、私があなたの秘密を発見したことを知って欲しいのです。
本物の──本物は、私が盗みました。出来るだけ早く破壊するつもりです。
死に直面する私が望むのは、あなたが手強い相手に
R・A・B」
ハリーの声は居間に響いた。
クリーチャーが一層声を上げて泣く中、シリウスはふらりと立ち上がり「探さなければ」と呟く。
「マンダンガス……あいつが、そのロケットを持ってるなら、探さなければならない」
「シリウス……それは──僕が探す」
分霊箱は、自分が探し出し破壊しなければならない。それは自分の使命であり、騎士団が動くわけにはいかないとハリーはシリウスに伝えたが、シリウスは低く笑い首を振った。
「どうせ、マンダンガスは騎士団でも探さなければならなかったんだ。マンダンガスを探している事がヴォルデモートに知られたとして、そこからそのロケットには繋がらないだろう」
「それは……そうかもしれないけど」
元々シリウス達はマンダンガスを放置するわけにはいかなかった。彼が逃げ出してから、包囲網を巡らせ数日間探しているのだ。行っている行為は変わらない。ただ、意義がもう一つ増えただけだ。
「マンダンガスを見つけたら、絶対に僕に教えてくれる?」
「……勿論さ、ハリー」
シリウスはその目に暗い光を宿したまま頷く。マンダンガスが持っているロケット。それを何としてでも入手しなければならない。金に困ったマンダンガスがそのロケットを売り捌いてしまったのなら、その後も探さなければならない。それは表に出る事ができないハリーには難しい事なのは確かだ。
「クリーチャー、お前もマンダンガスを探せ。見つかったならば、すぐ俺の前に突き出すんだ」
「……はい、ご主人様……」
シリウスからの命令に、クリーチャーはよろよろと立ち上がり汚らしい服をたくし上げ鼻水を拭きながら深々とお辞儀をした。
ハリーはその哀れなクリーチャーを見て、彼に何かもっと他の言葉をかけるべきではないのかと感じ──手に持っていた手紙をポケットの中に突っ込むと、レギュラスのロケットを手にしたままクリーチャーの前にしゃがみ込んだ。
「クリーチャー、僕たちはレギュラスがやりかけた仕事をやり終えたいんだ。僕たちは──彼の死が無駄にならないようにしたい」
クリーチャーは胸に当てていた手をぱたりと下ろし、呆然とハリーを見上げる。
ハリーは、その手に触れるべきか一瞬悩みクリーチャーが強い拒否反応を表さないように気にかけながら細くて汚れている手に触れた。
「クリーチャー、僕、これを君に持っていてほしい。これはレギュラスのものだった。あの人はきっと、これを君にあげたいと思うだろう。君がしてくれたことの感謝の証に」
「ハリー、それはやりすぎだ」
「ああっ!ハリー・ポッター……!」
シリウスがしかめ面で苦言を言う前に、クリーチャーは両手でしっかりとロケットを握りしめ衝撃と悲しみで大声を上げ、またもや床に突っ伏した。
「駄目かな、シリウス」
「……いや」
シリウスは大声で泣くクリーチャーを見ながら首を振る。
ハウスエルフに物をあげる必要はないとは思ったが、これほどまで感激しているのならば──何より、ハリーがそうしたいのならば。とシリウスは思う。
何より、自分はレギュラスの死を嘆き悲しむ事はなかった。レギュラスの死の真相を知っても、どこか頭の中が霞みがかったようにぼけやている。その死の意味を、強く考える事を拒絶しているのか、悲しむことも出来ないのだから。
何とか泣き止んだクリーチャーが大切そうにロケットを抱え姿くらましをしてこの場を去ったあと、モリーは冷めてしまった紅茶を入れ直し机の上に置いた。
いきなりいくつかの真実が明らかになり、動揺する心を落ち着かせるために皆が紅茶を一口飲み、少し乾燥してしまったアップルパイを食べる。
「それで、もう探し物は終わったのでしょう?なら、ホグワーツを退学する必要はないわよね?」
期待を込めてモリーがハリーに聞いたが、ハリーはそう言えば個数の話をしていなかった事を思い出した。モリーがやけに上機嫌で安堵しているように見えるのはそのせいかと思い、安易に期待させてしまった事を申し訳なく思いながらハリーは首を振った。
「いえ、その──まだ、探さなければならない物はあるんです」
「何ですって?そんな──」
「だから、僕たちは行きます。内容は、ダンブルドアが話すべきじゃないと決めた。だから誰にも──これ以上は、話せません」
ハリーのはっきりとした言葉に、モリーは失望と悲しみを滲ませ紅茶が入ったカップを強く握りしめた。
沈黙が落ちる中、ハリーは一度他の騎士団員を見回す。他に何か言いたい者はいないのかと思ったが皆目配せをするだけで何も言わかった。ハリーはとりあえず皆がわかってくれたのだと、そうだったらいいと思いながら紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「僕、部屋を片付けてきます」
「あ、僕も行くよ」
ハリーが立ち上がったのを見てロンもこれ以上ここにいてはモリーからまたうるさく言われるに違いないと慌ててアップルパイを口の中に押し込み、階段を登りかけていたハリーの後を追った。
ソフィアとハーマイオニーはちらりと視線を交わし、「おやすみなさい」と皆に向かって言うとすぐに階段を上がりハリーとロンの部屋へと向かう。
解散の雰囲気が漂う中、騎士団員達は今知った情報を整理し、これからどうするべきかを話し合った。ハリーが受けた使命の重要性と、騎士団の秘密を持っているマンダンガスを追う事が最優先事項であると決まったところで、彼らもそれぞれの持ち場へと解散した。
シリウスは何も言わずに外へ向かった。ぱたん、と静かに扉が閉められた時、モリー達は無言で視線を合わせ──そして、リーマスがバタービールの瓶を片手に二本持ちながら外へ出る。
シリウスは夏の空を見上げていた。
近くに人工的な灯りが少ない隠れ穴からは満点の星空がよく見える。リーマスは暗い夜の中にぼんやりと佇むシリウスの後ろ姿を見て、何故か学生時代の頃を思い出していた。ジェームズと共に過ごす彼は、いつも溌剌とした明るさがありエネルギーに溢れていた。しかし、時折──主にジェームズがリリーを追いかけそばにいない時──物想いに耽るように夜空を見上げている事があった。何を考えているのか、自分など彼の悩みを聞くに値しない存在だ、ジェームズが彼の助けになるだろうと勝手に思い込み聞いた事はなかったが、今この場に彼の親友だったジェームズはいない。
「飲むかい?」
「ん?……お前、相変わらずバタービール、好きだよなぁ」
「甘いものは心に余裕と安らぎを与えるからね」
リーマスが手渡したバタービールをシリウスは苦笑しながら受け取り、栓を抜きながらその場に座り込んだ。
足を投げ出し空を見上げながら瓶を傾けるシリウスを見ながらリーマスもその側に座る。青々とした若草が手のひらを刺し、夜独特の澄んだ匂いが辺りを包んでいた。
「……後悔しているのかい?」
リーマスの静かな問いかけに、シリウスは甘いバタービールを飲み小さく笑い、首を振った。
「いや。俺とあいつは、相容れなかった。どう考えても、あいつと俺が──世界を……ブラック家を知ったあと、何も知らなかった時のように仲良くする想像は出来ない。あいつは、本気でヴォルデモートに心酔し、マグルとマグル生まれを軽蔑していた」
「そうだね」
「それは、変わる事はなかっただろう。きっとな。ただ……最後に、ヴォルデモートを裏切った。それがマグルとマグル生まれのためでも、純血主義から脱却したわけではないとしてもだ」
シリウスは呟きながら言葉を探すように口籠る。知らされた事実に、自分の中で折り合いをつける事は難しい。
レギュラスはクリーチャーの事が大切であり、彼を傷つけたヴォルデモートに失望し許せなかった。ついていくべき人でも世界を統治するべき人でも無いと知った。
しかし、結局──シリウスが馬鹿馬鹿しいと思っていた純血思想ではあったのだろう。
だが、それでも──。
「ただ、最後に裏切った。俺の敵を、世界の敵を、自分の敵だと理解できた。あいつは馬鹿な男だったが──」
シリウスは目を閉じ、幼い頃のレギュラスの顔を思い浮かべる。暫くしてすっと目を開き、リーマスを見ながらシリウスは年相応に老けた顔で、複雑な笑顔を見せた。
「──愚かな弟では、なかったな」
薄く笑い、またも空を見上げたシリウスを見て、リーマスは虚勢だとしてもほっと胸を撫で下ろした。自暴自棄になり、何かとんでもないことをしでかすのではないかと気にしていたが、どうやらその心配はなさそうだ。
「ハリーは、結婚式の後には出ていくらしいが。……君は、どうするんだい?」
「そりゃ、勿論ついていく」
当然だろう。言わんばかりの答えに、リーマスは苦笑し肩をすくめる。何よりもハリーのことを大切に思っている彼ならばきっとそう言うだろうと思っていた。いや、大人達はハリーの前で表立って言うことは無いが、ハリーを護るために彼らがこの家を出た後も密かに後を追い手助けをしようと示し合わせていた。
ハリーが使命について言いたくない気持ちも理解できる。他の仕事や任務をしている騎士団員は動きにくいということも。しかし、その対象の中でシリウスだけは当てはまらないのだ。
シリウスにとって命に変えても護りたい者はハリーであり、騎士団以外の定職にはついていない。そして──死喰い人には知られているかもしれないが──アニメーガスの姿になり身を隠す事ができる。
「マンダンガスを探すのは?」
「勿論、探すさ。だがそれは皆そうだろ?」
「まあ、そうだね」
リーマスは少し笑い、ほぼ無くなりかけていたバタービールの最後の一滴までを飲み干した。