次の日の朝、ソフィアの体調もかなり良くなったところで彼らは話し合い、その場所から移動する事に決めた。
ひと所にあまり長く留まらない方がいいだろうと考え、朝早くにハーマイオニーが周りにかけた魔法を解き、ソフィアとハリーとロンはキャンプした事がわかる形跡を地上から消した。
ソフィアの家に帰ることが出来なくなってしまったのは、ソフィア達にとって予期せぬ事態であり十分な食糧をカバンに詰めてこなかったため昨夜はハーマイオニーが森で見つけてきたキノコをスープにし、鞄の中にあった缶詰を食べるという質素な物であり──ロンはできるだけ食糧が簡単に手に入るところがいいと意見した。
人気のない所は勿論だが、流石に長期間旅をするには食糧が心持たないのも事実。ハーマイオニーは渋々だったが、4人は姿くらましで小さな市場町の郊外に移動した。
低木の小さな林で隠された場所にテントを張り、ソフィアとハーマイオニーで新たに防衛の魔法を張り巡らせたあと、ハリーは透明マントを被り思い切って食べ物を探しに出かけた。
しかし、計画通りにはいかず町に入るか入らないかのうちに冷気が辺りを覆い、霧が立ち込めて急激に暗くなった。
ハリーは直感的に吸魂鬼だと感じ、すぐに守護霊魔法を唱えようとしたが──。
「──うっ……!」
いつもなら浮かんでくる幸福な気持ちが一向に訪れない。仲間のことや、クィディッチで優勝した時のこと、ソフィアとの思い出を何度も反芻したが浸る前に心臓や肺が凍りついてしまい、その場に立ち尽くす事しかできなかった。
ガタガタと震え、目の前が点滅する。遠い日の悲鳴が聞こえてきた。
三年生の時、特急で初めて吸魂鬼と対峙した時のように気を失うわけにはいかず、ハリーはすぐ踵を返しテントへと駆け戻った。
すぐにテントに戻ってきたハリーに、ロンは食べ物が手に入ったのだと疑わず喜んだが──蒼白な表情を見て、その笑みを固めた。
「どうしたんだ?」
「町に入れなかった。吸魂鬼だ」
荒れた呼吸を整える暇もなく、ハリーが掠れ声で言うとロンは眉根を寄せ「だけど君、素晴らしい守護霊が創り出せるじゃないか!」と抗議した。
「創り出せ……なかった。出て、こなかった」
鳩尾を押さえ、喘ぎながら言うハリーにロンとは唖然として失望し、ハリーは申し訳ないと思い視線を落とした。
「それじゃ、食い物はなしか」
「食べ物よりも、なぜ守護霊を呼び出せなかったのかが問題よ。少なくとも昨日は完璧にできたでしょう?」
「わからない……」
守護霊魔法は自分にとって誇りでもあり、ハリーは古い肘掛け椅子に座り込み小さくなった。自分の中の何かがおかしくなったのか、まさか、これからずっと吸魂鬼に対し無防備になってしまうのだろうか。
ロンとハーマイオニーとソフィアは顔を見合わせる。ハリーはどれだけ動揺していても、吸魂鬼の大群が現れても冷静に守護霊を創り出すことが出来ていた。昨日までできた事が何故急にできなくなったのか──。
「ハリー、実は体調が悪いとか──」
「そりゃ、安全な場所じゃないから緊張はしてるけど……」
「吸魂鬼と会ったの?どんな風になったの?実体を創れなくなっただけで、モヤは出た?」
「ううん、違う──幸福なことを思い出せなかった、母さんの悲鳴が遠くから聞こえてきて……」
自分1人が気絶してしまった時の事を思い出し情けなさと屈辱からハリーの声は小さくなる。
ハーマイオニーとソフィアは考え込み黙ったが、ロンは空腹のあまり苛立ち、椅子の脚を蹴っ飛ばした。
気まずい沈黙と、何かがあれば爆発しそうな張り詰めた緊張感が落ちる中、考え込んでいたハーマイオニーはハリーとロンが発する険悪な雰囲気を切り裂くように「わかった!」と叫び額をピシャリと叩いた。
「ハリー、ロケットを私にちょうだい!さあ、早く!」
ハリーは分霊箱は自分が持つべきだと思い込み、ハーマイオニーに渡して良いものかと躊躇したが、ハーマイオニーはもどかしそうににハリーに向かって指を鳴らしながら再度言った。
「分霊箱よ、ハリー。あなた、まだ下げているでしょう!」
ハリーはハーマイオニーの剣幕に押され、金の鎖を持ち上げて頭から外した。冷たいそれがハリーの肌から離れるが早いか、ハリーは解放されたように感じ不思議と身軽になった。
外すまで、今までじっとりと冷や汗をかいていたことも、胃を圧迫すること重さを感じていたことも、自分を締め付ける重さが消えるまで全く気がつかなった。
「楽になった?」
「ああ、ずっと楽だ!」
「分霊箱だもの……影響が無いわけないわ」
ソフィアはハーマイオニーの手に収まるロケットをじっと見つめた。やはり初めて見た時に感じた不気味な直感は正しかったのだ。──何せ、この中には邪悪な魔法使いの魂がある。何も影響を及ぼさない方が可笑しいだろう。
「ハリー」
ハーマイオニーはぎゅっと手でロケットを包み込み、ハリーから見えないようにしながら身を屈めて重病人を見舞う時の声のように気遣わしげに話しかけた。
「取り憑かれていた、そう思わない?」
「えっ?違うよ!それを身につけているときに、僕が何をしたが全部覚えているもの。もし取り憑かれていたら、自分が何をしたかわからないはずだろう?ジニーが何も覚えていないときがあったって話してくれた」
「ふーん……」
ハリーはムキになったが、ハーマイオニーは納得しているのかしていないのか微妙な空返事をし、ずっしりとしたロケットを見下ろす。冷たいロケットは、手のひらで包んでいても一向に温まる気配はないが、かと言って牙を剥くこともなかった。──今はまだ。
「身につけるのは危険だと思うわ。テントの中か……鞄に保管しておく?」
ソフィアはそう提案したが、ハリーは「いや、」ときっぱり否定し首を振った。
「分霊箱をそのへんに置いておくわけにはいかない。無くなったり盗まれたりしたら大変だ」
「それもそうね。じゃあ、一人で長く身につけないように交代でつける事にするのはどう?」
「そうするしかないわね。テントの中に残る人がつけるようにしましょう」
ハーマイオニーは自分の首にかけ、ブラウスの下に入れて見えないようにした。
胸の辺りに冷たい感触があり、ハーマイオニーは少し緊張した面持ちで服の上からロケットを押さえた。
「結構だ。そっちは解決したんだから、何か食べるものをもらえないかな?」
ロンが苛つきを隠さず言い、それに賛同するように腹が唸り声を上げた。
「いいわよ。だけど、どこか別のところに行って見つけるわ。吸魂鬼が飛び回っているところに留まるのは無意味よ」
ハーマイオニーの声音はいつもよりも刺々しく、ロンはむっと口を曲げる。何も空腹なのはロンだけではなく、全員がそうだった。緊張、恐怖、空腹──精神的なストレスに晒され、どうしても他者を気遣う余裕が無くなってしまう。
さっと立ち上がったハーマイオニーは一人でテントを出ていき、ハリーもその後に続く。ロンはむっつりとしたまま苛々と足を動かし、ソフィアはちらりとそんなロンを見た。
「なんだよ」
「……なんでもないわ。この中の片付けをお願いね、私は外の痕跡を消してくるから」
ソフィアは立ち上がり、一瞬目の前の景色が歪みその場に蹲りそうになったが、必死に耐えて入り口へと向かう。
ロンは元々ストレスに耐性が少ない。ネガティブであり、沈み切ると他者に対して攻撃的になりやすい。夢喰蟲に操られてしまった事もある──きっと、ロンがロケットを身につける事になると今以上に余裕がなくなり攻撃的になるだろう。
しかし、ロンにロケットを渡さなければ、プライドが高いロンはきっと臍を曲げてしまう。
ソフィアはため息をつきながらハーマイオニーと共にテントの周りにかけた魔法を解いた。
その後四人は、人里離れたところにポツンと建つ農家の畑で一夜を明かすことになった。透明マントを被り、やっとのことで農家から卵とパンを手に入れることができた時、あたりは闇に包まれ星が瞬いていた。
「これって、盗みじゃないわよね?」
四人でスクランブルエッグを載せたトーストを貪り食べながらハーマイオニーが「否定して欲しい」と言う表情で気遣わしげに言った。
「鶏小屋に、少しお金を置いてきたんだもの……大丈夫、と思いましょう」
危険な旅で、食糧が手に入りにくいのは仕方がない。かといって盗みを働けば──それは正義のための旅ではなくなるのでは無いかとハーマイオニーもソフィアはぼんやりと考えていたが、背に腹は変えられず自分を納得させるために呟く。
「くみたち、しん──ぽいしすぎ。イラックス!」
ロンは目をぐるぐるさせ、両頬にパンとスクランブルエッグを詰め込んだままもごもごと話す。
事実、心地よく腹が満たされるとロンの機嫌はすっかりと落ち着き、ソフィア達もリラックスしやすくなった。
その夜は吸魂鬼についての苛立ちが笑いのうちに忘れられた。四交代の夜警の最初の見張りに立ったハリーは、陽気なばかりか希望に満ちた気持ちにさえなった。これはきっと、腹が満たされただけではなく分霊箱を持っていないことも関係しているだろう。
厚手のローブを着て、テントの前で座り込んでいたハリーは眠らないように時々立ち上がりテントの周りをうろうろとしながら時間を潰した。
昨日までは葉の擦れる音や小動物の鳴き声が聞こえるたびに心臓が跳ね上がり驚き、その先に敵がいるのでは無いかと何も見えない暗闇に目を凝らした。葉の蠢きが敵の姿に見え、いつ緑色の死の光線が自分の胸を貫くのかと恐怖していたが──今目の前にあるのはただの木々の葉であり、敵では無い。
空腹と極限状態の緊張、そして分霊箱が原因であり、自分が情けない小心者ではなかったのだとわかると幾分も気が楽だった。
ハリーの後ロンが代わり、その後には体調が戻ったソフィアが初めて見張りの番をした。
空が薄紫色に白み始め、夜と朝の境界線で焚き火の炎を見つめながらじっと少し先にある林を見つめる。
手にはずっと杖を持っているが、火にあたっていても指先が悴むほど寒くてもはや杖を握っている感覚は朧げだ。
「──あ」
先にある低木の葉ががさりと揺れ、小さな生き物が顔を出した。
その途端ソフィアは小さく声を漏らし腰を浮かした。周囲には魔法がかかり、野生動物であってもテントを見ることが出来ない。しかし、野生の勘なのか、人の気配を感じているのかその動物は顔を出したきりこちらへ近づこうとはしなかった。
「……」
僅かな光を反射し闇の中に輝く丸い瞳。小麦色の毛並みを持つそれはフェネックであり、ソフィアの胸が締め付けられるように痛んだ。
脳裏に浮かんだのは大切な家族であるティティの事だ。ティティは、ハリーを無事に隠れ穴へと移動させる作戦から帰ってきていない。
ただのフェネックではなく、姿を自在に変化することができるティティは、敵を撹乱させるためにはどうしても必要だった。
あの時、無数の緑や赤の光線が空を飛び交っていた。一つでも当たれば、あの高さだ──死の魔法ではなくとも無事ではないだろう。
「ティティ……」
隠れ穴にいる間、何度も外へ出て境界線の内側からティティを探した。きっと戻ってきてくれると、それを信じていた。しかし、ティティは帰らず漠然とした不安と、苦しいほどの悲しみがソフィアを責め続けていた。
フェネックは数秒考え込むように耳を動かしていたが、ついに葉の微かな揺れを残して低木の奥へと引き返す。
それでも、ソフィアはその姿にティティを重ねたまま立ちすくんでいた。
「どうか、無事でいて……」
今まで思うだけで言葉にしなかった願いが、涙と共に溢れ落ちる。
涙は頬を伝い、ぽたりと地面に吸い込まれ黒い跡を残した。
「──ソフィア、交代の時間よ」
欠伸を噛み殺し、ぐっと伸びをしながらハーマイオニーが現れる。
ぶるり、と外の寒さに体を震わせながら、ハーマイオニーは近くの焚き火にあたろうとしたが、ソフィアが突っ立ったまま動かない事を不審に思い「ソフィア?」と呼びかけながら顔を覗き込んだ。
「ど──どうしたの?まさか、傷がまだ痛むの?」
一日では流石に全快はしなかったのか。ソフィアは痩せ我慢をする方だとわかっていて注意して見ていたが──と、ハーマイオニーは焦り心配そうに傷がある肩口を見た。
「ううん、ち──違うの。さっき、ティ──ティティに似たフェネックが、いて。それで──」
ハーマイオニーははっと息を呑み、ソフィアを強く抱きしめた。
ティティが危険な作戦に組み込まれていたのは知っている。それから、姿を見せていない事も勿論わかっていた。それでも、ソフィアが何も言わずに気丈に振る舞っていたから何も言わなかったが──ソフィアにとって大切な家族を失った可能性が高いのだ。心が引き裂かれるほどの苦しみを感じないわけがない。
かける言葉も見つからず、ハーマイオニーは強くソフィアを抱きしめ、ソフィアの涙が止まるまで自分よりも低い場所にある頭を優しく撫で続けた。