外だけでなく、家の中も雑然としゴミやガラクタで足の踏み場がほとんどなかった。踏み出した瞬間、ぱき、と何かを踏みつけてしまいソフィアはすぐにその場から下がったがどうやら踏みつけたのは落ちて割れたマグの破片らしい。──らしい、というのは部屋の中に明かりがなく、足元がよく見えなかったのだ。
バチルダの隣に並んだハリーは漂ってきた酷い臭いに眉をひそめた。バチルダから臭っているのか、それとも家全体の臭いかはわからない。
ハリーとソフィアはバチルダの隣をすり抜け、透明マントを脱ぎながら部屋中を見渡す。歳のせいで腰が曲がったバチルダはハリーの胸にやっと届くかといった高さであり、そばに立って初めて、彼女がどんなに小さいのかがわかった。──これならば、万が一襲われたとしても対抗できるだろう、とハリーは静かに考える。
二人が間違いなく入った事を確認し、バチルダは玄関扉を閉めた。禿げかかったペンキを背景にバチルダの染みの浮き出たやけに青白い指がチラリと見えた。それからバチルダは振り返ってハリーの顔を覗き込む──その目に、ハリーはごくりと固唾を飲んだ。
その目は白内障で白く濁り、薄っぺらな皮膚の皺の中に沈み込んでいた。自分の顔がマグルの冴えない中年のものだとしても、ハリーにはそれも全く見えていないのではないかと訝しむ。
「バチルダ?」
バチルダはハリーの問いかけにもう一度頷いた。その途端、ハリーは胸元の皮膚に当たるロケットの鼓動に気付いた──その中の何かが、今までも時々目覚めていた何かが間違いなく脈打っていたのだ。冷たい金属を通してそれは自分に何かを訴えかけているようでもあり、ハリーはまさか、これはここに自分を破壊する物の存在を感じているのだろうかと期待と緊張感から拳を握る。
バチルダはぎこちない足取りで二人の前を通り過ぎ、ソフィアなど目に入らないかのように押し退け居間と思しき部屋に姿を消した。
「ハリー、なんだかおかしいわ」
「あんなに小さいじゃないか。いざとなれば捻じ伏せられるよ」
息を殺しながら囁くソフィアに、ハリーは居間の方をじっと見ながら囁く。しかしソフィアはハリーの腕に掴まりながら眉を寄せ真剣な顔で首を振った。
「外見は関係ないわ。あなた、フリットウィック先生に勝てると思うの?」
「え?……それは……」
「それに、まだあの人は──なんの証明もしていないわ。私たちがバチルダかと聞いて頷いただけ。騎士団では、たとえ知っている人が話しかけてきても確認のためその人と自分しか知らない話で本人かどうか確認していたでしょう?あの人が本当にダンブルドア先生から剣を渡す役割なら、信用を得るために何か言うはずなのに……」
ソフィアは囁きながら暗い居間の向こうを見据える。ハリーもソフィアに言われて思い出した。そうだ、騎士団では全員が確認していた。アーサーとモリー。それにシリウスや、リーマスでさえも。
「……あの人は一言も話していない。それがなんだか不気味だし、信じられないわ。バチルダ本人だとしても、既に操られているかもしれない……」
「……本人なら、なんとか助けなきゃ」
「ええ、でも──無理は禁物よ。ポリジュース薬かもしれないわ」
ソフィアの真に迫った忠告に、ハリーは神妙な顔で頷きコートの下で杖を強く握る。何か不審な動きを見せたならばすぐに反撃できるように心を落ち着かせ、ハリーとソフィアはゆっくりと居間へ視線を向ける。
「おいで!」
居間からのバチルダの呼びかけに、ハリーは跳び上がり、ソフィアは肩を震わせ顔を見合わせた。嗄れた声だった。今まで一言も話さなかったが、とりあえず話すことはできるのかとハリーはほっとしたが──ソフィアはハリーの腕を強く握り不安げな顔でじっと居間の向こうを見つめるだけだった。
「行こう。大丈夫だよ」
ハリーは元気付けるようにそう言うと、先に居間へ入った。
バチルダはよろよろとおぼつかない足取りで歩き回り、蝋燭に火を灯していた。それでも部屋は暗く、言うまでもなく汚れている。分厚く積もった埃が足下でギシギシ音を立て、じめじめした白黴の臭いの奥に肉の腐ったようなもっと酷い臭気が漂っていた。
バチルダは手で不器用に火を灯すだけで、魔女なら使えて当然の魔法を使うことはない。──老いて魔法を使う事を忘れてしまったのだろうか?そうだとしても、そんな状態の老女にダンブルドアは剣を渡すだろうか?
垂れ下がった袖口のレースに今にも火が移りそうで危険だったが、バチルダに対し疑いを持ち始めたハリーは彼女に近づこうなどとは思わないが──もし、バチルダが死喰い人に呪われ操られているのなら、焼死させるわけにもいかないだろう。仕方がなく、バチルダの動きに注意しながら近くの机にあるマッチ箱を手に取り、部屋のあちこちに置かれた燃えさしの蝋燭に火をつけて回った。
ソフィアは居間をぐるりと見渡し、この老女がバチルダである証拠が何かないかと探した。もし操られているのならば、騎士団に保護されるべきだろう。そうでなく全くの赤の他人ならば──すぐにこの場を去らなければならない。
部屋を見渡していたソフィアは、古ぼけたキャビネットの上に、薄らと埃はかぶっていたが、唯一真新しい本があることに気づきそっと近づいた。ハリーは警戒しながら火をつけて周り、バチルダは突っ立ったままそれを見ている。
その本の端から目に痛い白さのメモが挟まれていて──そう思うのはこの部屋が灰色に汚れているからかもしれない──ソフィアはそっと指先で引っ張る。
ルーモスで杖先を光らせ、そのメモに書かれた文字を読んだソフィアは僅かに目を見開き、そのまま本を掴んだ。
そのメモはリータ・スキーターが書いた短い手紙だった。バチルダにインタビューした内容を使い本を書き、その献本として『アルバス・ダンブルドアの真っ白な人生と真っ赤な嘘』という本が送られてきたのだ。
この本がここにあると言うことは、この家の家主はバチルダである可能性が高い。ならば、やはり彼女はバチルダ本人なのだろうか?
ソフィアはその本を読んだことはなかった。今魔法界の書店に向かうのは難しく、この本をどうにかして読みたかったソフィアは本を譲ってもらえないかと手にしたままバチルダを見た。
「あの──」
「ミセス──ミス──バグショット?この人は誰ですか?」
しかし、ソフィアの声を打ち消しハリーが震える声で整理ダンスの上に飾られている写真たてを指差しながら言った。
ハリーが指しているのは一番後ろに隠されるように置いてある写真たてであり、そこには若い青年二人が屈託のない笑顔を浮かべている。ソフィアは後ろから覗き込みながら、ハリーの知り合いだろうかと首を傾げた。
「ミス・バグショット?」
ハリーの問いかけにバチルダは一切答えず、ただじっとハリーを見つめる。焦ったくなったハリーはその写真たてを掴み、バチルダの目前に突きつけながら「この男は誰ですか?」と再度問う。老いのせいで視力が悪く伝わっていないのかと思ったが、バチルダはぼんやりとした表情で写真を見るだけだった。
「どうしたの?」
「この写真に映る男。あの盗人だ!グレゴロビッチから盗んだやつなんだ。──お願いです、この男は誰ですか?」
その男の初めての手がかりに、ハリーは耳まで遠いのかと大声でバチルダに聞いたが、バチルダはなおも白く濁った目で瞬きもせず、じっと見つめる。
「バチルダさん。──私の声が聞こえますか?あなたは──……」
不気味な雰囲気を、ソフィアだけでなくハリーも感じていた。心許ない蝋燭の火のゆらめきがバチルダの刻まれた皺に濃い影を作っている。それがそんな雰囲気にさせているのかもしれない。ソフィアとハリーは何度かバチルダにかなりの大声で話しかけたが、バチルダは──何も反応しない。
──おかしい。正気を失っている?でも攻撃してくるわけでもない。なら……まさか、時間稼ぎ?
ソフィアは固唾を飲み一歩下がる。「ハリー」と緊張が孕んだ声で囁きかければ、ハリーも小さく頷いた。
その時、ぶうん、と1匹の小さな蝿がソフィアとハリーの周りを飛んだ。不快な音に二人は肩をすくめ鬱陶しそうに顔の近くを払う仕草をし、払われた蝿は素早い動きでバチルダの皺だらけの頬に止まる。
もう感覚もないのだろうか。バチルダは顔に蝿がついているというのに動かなかった。ハリーはつい、「虫がついています」と声をかけようとしたが──。
「──っ!」
それを見た瞬間、ソフィアとハリーは息を止め凍りついた。
蝿はバチルダの頬を歩き、そして彼女の白く濁る
皮膚の感覚が鈍いのはまだ理解ができる。しかし、どんな生き物でも眼球に直接何かが入れば違和感を覚え反応するだろう。しかし、バチルダは突っ立ったまま、瞬きの一つすらしない。
「──
ソフィアは反射的に杖を出しバチルダに向けていた。黒々とした縄が杖先から一直線にバチルダに向かい、そのまま強く彼女を拘束する。それでもバチルダはされるがままで──蝿が驚いて飛び立った──一瞬、硬直し、そして──。
バチルダの顔が、ぶるり、と初めて痙攣するように震えた。拘束された苦しみで呻いたのではない。項垂れた顔は急激に萎み、その変わりに首筋の後ろが奇妙に膨らみ、ついに皮膚が裂けた。
目の前の光景が信じられず悍ましさと恐怖にソフィアとハリーが一瞬硬直し、魔法を使えなかった瞬間、バチルダの体が倒れ首のあった場所から大蛇がぬっと現れた。
「
ソフィアは素早くハリーと自分の前に防御壁を出す。大口を開け襲いかかってくる大蛇の鋭く長い牙が炎に反射しぬらりと輝いた。
「──ああっ!」
「くっ!」
防壁は大蛇の一撃で大破し、その勢いのまま飛びつかれたソフィアは壁に激突する。背中や頭をぶつけた痛みで視界が白く点滅した。すぐ真横を大蛇が掠めていったハリーは無我夢中で魔法を放ったが何故か大蛇の鱗はそれを弾き、跳ね返った魔法が化粧台や箪笥を粉々にしガラス片が舞う。
ソフィアを狙っていた大蛇は、ハリーに狙いを変えぐっと鎌首を持ち上げ振り返り再び飛びかかった。
床に押し倒され、真っ赤な蛇の口内と生き物の生臭い臭いを浴びたハリーは締め殺される。そう思ったが大蛇はその巨体を使いハリーを床に押し付けるだけで噛み付くことはなかった。
その時、不気味な囁き声が聞こえた。それは大蛇のものだったのか、ハリーの脳に響いたものだったのかはわからない。──しかし、ハリーは唐突に理解した。
──来る。ここに、あいつが──!
ハリーは大蛇の下から這い出そうともがき、杖を上げたが、その時傷痕がここ何年も無かったほど強烈に痛んだ。
「あいつが来る!ソフィア、あいつが来るんだ!」
せめてソフィアは逃げてほしい。その思いでハリーは叫ぶ。気を失っていたソフィアは呻き声を上げ覚醒し、激しい痛みから何度も荒れた呼吸を吐き出しながら大蛇の下敷きになっているハリーを見た。
「セクタムセンプラ!」
大蛇に向かってその魔法はまっすぐ発射されたが、やはりどんな強力な魔法であっても傷つける事はできずに跳ね返り居間の中をめちゃくちゃに切り裂いた。
「
部屋中に散乱するガラクタに向かってソフィアは杖を振るう。落ちていたガラス片や化粧台の一部が瞬く間に大鷲に変わり、それは大群となって大蛇に襲いかかる。鋭い爪や嘴で攻撃された大蛇は空気を切り裂くような叫びを上げ、鬱陶しげに尾で大鷲を薙ぎ払い、数羽の大鷲が断末魔の声を上げ床に落ちる。
それでも大鷲の大群は怯む事なく、ソフィアの命令通りに大蛇を襲った。
ミサイルのように落下し、鋭い爪でその巨体を掴む。一羽や二羽ではなく何十羽という大鷲が大蛇の体を掴み、羽をぶつけながら羽ばたいた。
一瞬、ハリーの体に重くのしかかっていた大蛇の重みが消えた隙にハリーはそこから這い出て壁近くにいるソフィアの元に向かう。
しかし大蛇もまたハリーを簡単に逃すつもりはなく、全身の筋肉を使い体をしならせ、大鷲の拘束が緩んだ瞬間にハリーの腕目掛けて噛み付いた。──ばきっ、と何かが破壊される嫌な音にハリーは痛みよりも背筋にぞっとした冷気のようなものを感じた。
「ぐっ──!」
「
ソフィアの杖先から噴出した眩い光は部屋を白く染めた。あまりの強い光を間近で受けた大蛇は怯えるように体を縮こまらせ、ぱっと口からハリーの腕を離す。
床に倒れそうになったハリーをソフィアは強く抱き留る。大蛇と大鷲の威嚇の叫び声が暗闇へと溶けていくなか、二人は空中を回転するようにその闇へと落ちていった。