遠くからドラゴンの翼の音が響き渡る。
テントから出たソフィア達は空に舞い上がって行くドラゴンを無言で見上げた。急激に暗くなる空を背景に、自由を一身に感じながら飛んでいくドラゴンが山の向こうに消えるまで、ただその姿を見送っていた。
それからソフィアとハーマイオニーが進み出てロンとハリーの間に立った。ハリーはできる限り下までマントを引っ張り、四人はしっかりと手を繋ぎ一緒にその場で回転して押しつぶされるような暗闇の中へ入っていった。
一瞬の閉塞感の後、ソフィア達の足が道路に触れた。
胸が痛くなるほどに懐かしいホグズミードの大通りが目に入り、ソフィアはぐっと唇を噛む。この先に、短い間ではあったが家族で暮らしていた家があった──あの場はもう荒らされてしまっているに違いない。
ハリーもまた、言葉に表す事ができない感情が体の中に巡っていた。
暗い店先に、村の向こうに広がる山々の稜線。道の先に見えるのはホグワーツの通り道であり、曲がり角には三本の箒から漏れる明かりが見えた。
ほぼ一年前、絶望的に弱ったダンブルドアを支えてここに降り立った事や、ソフィアに想いを伝えた事。様々なことが脳裏を掠め胸を締め付け心を揺らす。降り立った瞬間、そうした全ての想いが一度に押し寄せ、ハリーは繋いでいるソフィアの手を掴んでいた力を緩めた──ちょうどその時だった。
甲高い叫び声が夜の闇を裂いた。
それはカップが盗まれた事を知ったヴォルデモートの怒りの叫びによく似ていた。ソフィアは自分たちが現れた事により起こったのだとすぐに気づき、素早くポケットの中から杖を出す。
ハリーがマントに隠れている他の三人を振り返るよりも早く三本の箒の扉が勢いよく開き、フードを被った死喰い人が十数名、杖を構えて道路に躍り出た。
ソフィアは杖を上げようとしたが、すぐにそれを止める。攻撃したいのは山々だったが、今自分たちの姿は見えていない。──魔法を使えば居場所が知られてしまう。
死喰い人の一人が杖を振ればその叫びは止まったが、叫びは店に反響し、遠くの山々にこだまし続ける。
現れた一人が「アクシオ!透明マントよ来い!」と叫び、ハリーは咄嗟にマントの襞をしっかりと掴んだがマントは動く気配さえなかった。マントに呼び寄せ呪文は効かないのだ。
「被り物はなしということか、ポッター?──散れ、奴はここに居る!」
呪文をかけた死喰い人が周りの仲間に指令を出し、死喰い人が六人ハリー達に向かって走ってきた。ハリー、ソフィア、ロン、ハーマイオニーは急いで後退りし、近くの脇道に入る。死喰い人達はそこから僅か十数センチというところを通り過ぎていった。四人が暗闇の中でじっとしていると死喰い人の走り回る音と捜索の杖灯りが辺りを飛び交うのが見えた。
「このまま逃げましょう!すぐに姿くらまししましょう!」
「そうしよう」
ハーマイオニーとロンが焦りながら小声で囁くが、ハリーが答える前に一人の死喰い人が「ここにいるのはわかっているぞポッター。逃げることはできない。お前を見つけ出してやる!」と獰猛な声で叫んだ。
「待ち伏せされていた。僕たちが来ればわかるように、あの呪文が仕掛けられていたんだ。僕たちを足止めするためにも何か手が打ってあると思う、袋のねずみに──」
「吸魂鬼はどうだ?やつらの好きにさせろ。やつらならポッターをたちまち見つける!」
姿の見えないハリーに、一人の死喰い人が焦ったそうに叫ぶ。散っていた杖灯りが意見を出した死喰い人の所へと集まってきた。
「闇の帝王は、他の誰でもなくご自身の手でポッターを始末なさりたいのだ──」
「吸魂鬼はやつを殺したりしない!闇の帝王がお望みなのはポッターの命だ。魂ではない。まず吸魂鬼にキスさせておけば、ますます殺しやすいだろう!」
吸魂鬼のキス。された者の魂を奪うが命が失われるわけではない。それを知っている死喰い人達は口々に賛成し、吸魂鬼を呼ぶべく杖を振う。
吸魂鬼を退けるためには守護霊を作り出さなければならない。この場で混乱していても間違いなく守護霊を出せる自信があるのはハリーとソフィアだけだが、守護霊を出せばたちまち四人の居場所がわかってしまう。
「とにかく、姿くらましをしてみましょう!」
「だめよ、何か他の場所に──私がアニメーガスになって──」
ハーマイオニーとソフィアの言葉が終わりきらないうちに不自然な冷気が周囲から這い寄ってきた。ハーマイオニーとソフィア、そしてロンとハリーもぴたりと動きを止めて立ち竦む。周りの明かりは吸い取られ、星までもが消えた。
ハーマイオニーがソフィアの手を強く握る。ソフィアは姿くらましをするつもりなのだとわかり、反射的にハリーの手を握った。ハーマイオニーは手を繋ぎ合い一列になったソフィアとハリーとロンを連れて姿くらましをするつもりだったが──その場でゆるく回転しただけで何処にも移動は出来なかった。
通り抜けるべき空間が固まってしまったかのような感覚。ハーマイオニーが姿くらましを失敗するわけがないだろう。やはり死喰い人は逃れる事ができないように手を打っていたのだ。
冷たさが四人の肌に深く突き刺さる。ハリーはぐっと手を引き、手探りで壁を伝いながら音を立てないように脇道を奥へ奥へと進んだ。
嫌な気配が頸をじくじくと突き刺している感覚にソフィアが後ろを振り返れば、脇道の入り口から音もなく滑りながら現れた吸魂鬼が見えた。十体、いやそれよりも沢山居るだろう。闇に溶けるようにして現れた吸魂鬼は黒いマントを被り、瘡蓋に覆われた手を見せていた。
周辺に恐怖感があると、彼らは感じているのだろうか?ハリーはきっとそうだと思った。真っ直ぐ吸魂鬼は自分達の元へ滑りより、その速度を上げている。透明マントがあっても吸魂鬼には意味がないと、ダンブルドアが数年前に言っていたことをハリーは突然思い出した。
あのガラガラという不快な音を出し息を吸い込み、あたりを覆う絶望感を味わいながら吸魂鬼が迫ってくる──。
ハリーは杖を上げた。後はどうなろうとも、吸魂鬼のキスだけは受けられない。受けるものか。自分だけではない、ここにはソフィアとロンとハーマイオニーがいる。
ソフィアが蒼白な顔でハリーに「だめ」と訴えかけていたが、ハリーは止まることなく小声で呪文を唱えた。
「エクスペクト パトローナム!」
銀色の牡鹿がハリーの杖先から飛び出し突撃した。吸魂鬼は蹴散らされたが、同時に見えないところから勝ち誇った叫び声が聞こえてきた。
「やつだ。あそこだ!あいつの守護霊を見たぞ、牡鹿だ!」
吸魂鬼は後退し、再び空に星が戻った。死喰い人の足音がだんだん大きくなり近づく。ハリーが恐怖と衝撃でどうすべきか決めかねているのを見てソフィアはすぐに覚悟を決めハリーから手を離した。
「だめだ、ソフィア──」
ソフィアがアニメーガスになり、一人で行ってしまう。それを察したハリーはすぐにソフィアの腕を掴み、ハーマイオニーも必死な顔でソフィアの杖を掴む。今ここで逃げるためには、ハリーを逃すためには一人が犠牲になり撹乱させるしかない。それは分かっていた──だが、この場で永遠に別れる覚悟をハリーとハーマイオニーとロンは出来なかった。
「ソフィア、約束しただろう?」
「っ──」
ハリーの言葉にソフィアは大きく目を見開き、強く唇を噛むと、泣きそうな顔で笑った。
最期までそばにいる。そう、約束をした。
この場から姿を現し、全員で死喰い人を倒すしかない。そう皆が考え覚悟を決めた時、近くで閂を外す音がして狭い脇道の左手の扉がパッと開いた。新手か、とハリー達がそちらを向いて杖を構えたが、その扉から死喰い人は現れず代わりに背の高い見知らぬ魔法使いが姿を現した。
「ポッター、こっちへ、早く!二階に行け、マントは被ったまま、静かにしていろ!」
ハリーは突き動かされ──なぜか、その人は敵ではないと直感した──迷わず走り四人は開いた扉から中に飛び込んだ。
魔法使いは四人の脇を抜けて外に行き、背後でぱたんと扉を閉めた。
ハリーにはここがどこだかわからなかったが、明滅する一本の蝋燭の灯りであらためて中を見渡しどこなのか気づく。ここはホッグズ・ヘッドのバーだった。
四人はカウンターの後ろに駆け込み、もう一つ別の扉を通ってぐらぐらした木の階段を急いで駆け上がった。階段の先には擦り切れたカーペットの敷かれた居間と小さな暖炉があり、その上にブロンドの少女の大きな油絵が一枚掛かっていた。少女はどこか虚な優しい表情で部屋を見つめている。
息をつく間もなく、下の通りで喧騒が聞こえてきた。透明マントを被ったまま四人は埃でべっとりと汚れた窓に忍び寄り、そっと下を見た。救い主はホッグズ・ヘッドのバーテンであり、彼はただ一人フードを被らず堂々とした態度で死喰い人達と向かい合っていた。
「──それがどうした?それがどうしたって言うんだ?お前達が俺の店の通りに吸魂鬼を送り込んだから、俺は守護霊をけしかけたんだ!あいつらにこの周りをうろつかれるのはごめんだ、そう言ったはずだぞ。あいつらはお断りだ!」
「あれは貴様の守護霊じゃなかった!牡鹿だった、あれはポッターのだ!」
「牡鹿!このバカ──エクスペクト パトローナム!」
バーテンは怒鳴り返し杖を振り上げる。杖から大きなものが飛び出し、頭を低くしてハイストリート大通りに突っ込み姿が見えなくなった。飛び出した守護霊は牡鹿によく似ていて、死喰い人は「俺が見たのはあれじゃない」と言ったが少し自信を無くしたように戸惑っていた。
「夜間外出禁止令が破られた。あの音を聞いただろう。誰かが規則を破って通りに出たんだ」
「猫を外に出したいときは、俺は出す。外出禁止なんてクソ食らえだ!」
「夜鳴き呪文を鳴らしたのは貴様か?」
死喰い人が憤り、杖先を脅すようにバーテンに向けたが、バーテンは「は!」と馬鹿にしたように一蹴し臆することなく叫ぶ。
「鳴らしたがどうした?無理矢理アズカバンに引っ張って行くか?自分の店の前に顔を出した咎で俺を殺すのか?やりたきゃやれ!だがな、お前達のために言うが、けちな闇の印を押してあの人を呼んだりしてないだろうな。呼ばれてみれば、俺と年寄り猫が一匹じゃお気に召さんだろうよ。さあどうだ?」
「余計なお世話だ。貴様自身の事を心配しろ。夜間外出禁止令を破りやがって!」
「それじゃ、俺のパブが閉鎖になりゃお前達のヤクや毒薬の取引はどこでする気だ?お前達の小遣い稼ぎはどうなるかね?」
「──脅す気か?」
「俺は口が固い。だからお前達はここに来るんだろうが?」
一瞬バーテンと死喰い人達の間で沈黙が落ち、互いに睨み合った。最初の死喰い人が負けじと「俺は牡鹿の守護霊を見た!」と叫んだが、すぐにバーテンは怒り狂い「山羊だバカめ!」と叫び返す。
「──まぁいいだろう。俺たちの間違いだ。今度外出禁止令を破ってみろ、この次はそう甘くないぞ!」
彼らにとってもホッグズ・ヘッドはいい小遣い稼ぎの場であり、それを失うのは痛い。確かにあの守護霊は山羊であり一瞬ならば鹿と見間違えてもおかしくはない。──何より、彼らはこのバーテンが人の言うことを聞くような大人しい性格をしていないと重々承知していた。
死喰い人達は鼻息も荒く大通りに戻っていった。足音が遠くなり聞こえなくなったのを確認してハーマイオニーはほっとして呻き声を上げ、ふらふらとマントから出て脚のガタついた椅子にどさりと腰掛けた。ソフィアも安堵から胸を押さえ長く息を吐き、その場にしゃがみ込む。
ハリーはカーテンをきっちりと閉めてからロンと二人でかぶっていたマントを脱いだ。階下でバーテンが入り口の閂を閉め直し、階段を上がってくる音が聞こえる。なぜだかわからないが、彼は敵ではないのだろう。
ハリーは薄暗い居間を見渡し、少女の油絵の真下に、見覚えのある鏡が置かれていることに気付いた。──それは、シリウスの両面鏡だった。