「父様……?」
銀色の光が霧散した後、ソフィアは目を閉じ項垂れるセブルスに震える声で呼びかける。
ぴくりとも動かないその瞼に、ソフィアは喉の奥で押し殺した悲鳴を上げ、力尽きたようにその場に膝をついた。
「父様──父様ぁっ!」
ソフィアはセブルスの胸元に縋り、必死に呼びかける。強く揺さぶれば、その動きに合わせてぐらりとセブルスの頭が揺れた。まさか、間に合わなかった?どうして、家族すらも、守れないで──。
咽び泣くソフィアに、ルイスは苦しげに顔を歪ませその隣に座り込み、青白いセブルスの手を強く握る。
ハリーとロンとハーマイオニーも、間に合わなったのだと思い、あまりに悲惨な最後に目を逸らした。
静かな部屋の中に、ソフィアが咽び泣く悲しい声だけが響く。──その時。
「……ぁ……」
セブルスに縋り付いていたソフィアは小さな声を上げた。ルイスは無言で涙をいく筋も流しながらソフィアを呆然と見る。ソフィアはセブルスの胸元に耳を寄せ──涙に濡れていたが──真剣な表情でじっと耳をすませていた。
「ソフィア……?」
「……い──生きてる……」
「え──」
ルイスは慌ててセブルスの首に手を当てた。傷口は完璧に塞がっている。酷い痕にはなっているが、流血は止まりローブを汚していた血も全て消えている──冷たい首筋だったが、確かに微かな脈がルイスの指先に触れた。
「は──」
ルイスはその場にへたり込み、疲れ切った長いため息を吐いた後「よかった」と心から呟いた。
「大丈夫……なの?」
見守っていたハーマイオニーが恐る恐るソフィアに声をかける。一見すると、どう見ても死体にしか見えないほどセブルスの顔色は悪くぴくりとも動いていない。ソフィアとルイスが生きていると思い込みたいのではないのかと、一瞬嫌な予感が脳裏をよぎったが──ソフィアは泣きながら微かに微笑み、強く頷いた。
「ええ、多分……気絶しているだけだと思うわ。回復することに全ての気力を使い果たしてしまったのかも……」
ソフィアはセブルスから離れ、心配そうにその頬を撫でる。ハリーは確かに──よくよく見なければわからないが──セブルスの胸元が微かに上下しているのを見た。
ソフィア達がほっと安堵の息を漏らしたその時、唐突にそばで甲高い冷たい声が響いた。
ハーマイオニーは悲鳴を上げ、ソフィアとルイスはセブルスを護るように杖を上げ手を広げる。ハリーとロンも杖を構えながら後ろを振り返り──その声の近さに、部屋に戻ってきたのだと思ったのだ──部屋中から降るように落ちてくる声を聞いた。
「お前達は戦った──」
冷たいヴォルデモートの声は、壁や床から響いていた。ホグワーツと周囲一体の地域に向かって話しているのだろう。ホグズミードの住人や、まだ城で戦っている全員がヴォルデモートの息を首筋に感じ、死の一撃を受けそうなほど近くに、その声をはっきりと聞いているのだ。
「──勇敢に。ヴォルデモート卿は勇敢さを讃える事を知っている。しかし、お前達は数多くの死傷者を出した。俺様にまだ抵抗を続けるなら、一人また一人と、全員が死ぬことになる。そのような事は望まぬ。魔法族の血が一滴でも流れるのは損失であり浪費だ。
ヴォルデモート卿は慈悲深い。俺様は、我が勢力を即時撤退するように命ずる。一時間やろう。死者を尊厳を持って弔え。傷ついた者の手当てをするのだ。
さて、ハリー・ポッター、俺様は今お前に直接話す。お前は立ち向かうどころか、友人達がお前のために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、禁じられた森で待つ。もし、一時間の後にお前が俺様のもとに来なかったならば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。
その時は、俺様自身が戦闘に加わるぞ。ハリー・ポッター。そしてお前を見つけ出し、お前を俺様から隠そうとしたやつは、男も女も子どもも、最後の一人まで罰してくれよう。──一時間だ」
ソフィア達は凍りついたように立ちすくむハリーを見て強く首を振った。
「耳を貸すな」
「大丈夫よ」
「さあ──さあ、城に戻りましょう。あの人が森に行ったならば、計画を練り直す必要があるわ」
ハーマイオニーは硬い口調でそう言い、すぐにセブルスとソフィアとルイスを見た。ソフィアはすでに立ち上がっていたが、ルイスはセブルスの側でしゃがみ込み、じっとハリー達を見上げている。
「僕は、ここに残る。父様を一人にできない」
「一緒に運ぶわ!」
「ダメだ。──父様は死んでると思われているんだ。もし生きていると知られたら……あの人は、二度目は仕留め損ねない」
「でも──」
ヴォルデモートはセブルスを殺し、ニワトコの杖の所有者を移そうとした。もし、手元にある杖が先ほどと何ら変わらない威力しか出さないと知れば、セブルスの死を確認するために戻ってくるかもしれない。そうなったとき、セブルスの命はもちろんだが──ルイスの命も危ない。
「行って、ソフィア」
「ルイス……」
「ソフィア。──これを」
ルイスは動こうとしないソフィアの手を取り、自分の指につけていた指輪を外すとソフィアの人差し指に嵌めた。
「これは……?」
「ダンブルドア先生から遺贈された物なんだ。導き石の指輪。……僕たちは、ずっとこれでソフィアを見守っていた。だから、今度はソフィアが持っていて」
中央に透明な石がついている指輪が微かな月明かりを受けて輝く。心から会いたい人を思って触れればその者までの道を示す指輪──その道がある限り、ルイスとセブルスと繋がっているのだと強く感じる事ができる。
ソフィアは小さく頷き、ルイスの元に跪くと強く抱きしめ頬にキスを送った。ルイスは慰めるようにソフィアの頭を撫で、「気をつけて」と優しい声で呟く。
ソフィアはすぐに立ち上がると近くにある朽ちかけた棚に向けて杖を振るう。それはぐにゃりと歪み膨張し、瞬く間に黒いローブを着て首から血を流し絶命しているセブルス・スネイプへと変わった。
「保護魔法はかけられるわよね?──一応、偽物を置いておくわ。……悪夢みたいだけどね」
ソフィアは苦悶の表情で死亡している偽物のセブルスを見て苦笑しながら言うと、すぐにハリー達に向き合い「ごめんなさい、行きましょう」と伝えた。
ハリーとソフィアとロンとハーマイオニーは来た時と同じようにトンネルを這って戻った。誰も何も言わず、痛いほどの沈黙が流れている。ハリーはポケットの中にあるフラスコ──セブルスの記憶の事と、ヴォルデモートが告げた事が頭の中でぐるぐると回っていた。
今際の際に彼が残した記憶には何があるのか、そして、自分は、友人が自分のために死ぬ事を許したのか。ヴォルデモートは攻撃を止め一時間森の中で待つという。一時間の猶予。その間にしなければならない事はなんなのだろうか──。
ハリー達は大人しい暴れ柳から出て、奇妙なほど静まり返った校庭から城を眺めた。
芝生の上には小さな包みのような物体が幾つも転がっている。それが何なのかなど、考えずもわかる事だ。
焦げたローブを着た死体や、千切れている物。中身が入っている靴。それらに目を向けないようにハリー達は入口の石段へと急いだ。
玄関ホールは、叫びも何も聞こえなかった。
閃光や衝撃音も聞こえず、誰もいないが至る所で血溜まりができている。石畳は抉れ、窓は全て割れ、天井まで崩れ、美しく荘厳なホグワーツ城は変わり果てた姿へとなっていた。
「みんなはどこかしら?」
ハーマイオニーが小声で囁く。
ロンは強く拳を握り、先に立って大広間へと向かった。扉を開けた途端、静寂の中にいたハリー達は音の洪水に飲み込まれる。
悲鳴、慟哭、啜り泣き──悲しみの嘆きが満ちた大広間は人で溢れかえっていた。
各寮のテーブルはなくなり、生き残った者は互いの肩に腕を回し何人かずつで集まり身を寄せている。一段高い壇上ではマダム・ポンフリーが何人かに手伝わせ負傷者の手当てをしていた。
大広間にいる者は生き残りだけだはない。──中央には、死者が何十人も横たわっていた。
フレッドの亡骸は家族に囲まれていてハリー達には見えなかった。ジョージがフレッドの頭の方で跪き、モリーはフレッドの胸の上に縋りつき体を震わせていた。モリーの髪を撫でながら、アーサーの頬には絶えず涙が流れている。
誰も何も言わずにフレッドの元へと向かった。
ソフィアとハーマイオニーは顔を真っ赤に泣き腫らしたジニーを抱きしめ、ロンはビル、フラー、パーシーのそばに行った。パーシーは涙を流したままロンの肩を抱く。
ソフィアはジニーを抱きしめながら、その隣に横たわる亡骸をはっきりと見て息を呑んだ。
「リーマス……トンクス……」
リーマスとトンクスは蒼白な顔をしていたが、まるで眠っているように見えた。リーマスのそばではシリウスが膝をつき、項垂れているのが見える。シリウスのローブは至る所が破れ、顔や腕に大きな傷がついている。それでもその痛みなど忘れてしまったかのように、目を閉じているリーマスを何歳も年老いてしまったかのような顔つきで呆然と──涙も流さず見下ろしていた。
何人が亡くなったのか。
ソフィアは数時間前まで生きていた親しい人の死に、頭がぼんやりと霞がかっていくような気がした。酷すぎる現実に、脳が拒絶を起こしているのだろうか。
ソフィアは大広間を見渡した。何人もの人が床の上で横たわっている。友人や恋人に囲まれ、その死を嘆かれている。大広間の隅で、ドラコが膝を抱えて蹲っているのを見つけたが、ソフィアは声をかける余裕は無かった。
ソフィアはジニーからそっと離れ、ふらりと立ち上がった。涙を流しながらジニーはソフィアを見上げ、「ソフィア」と呟いたが、ソフィアはジニーを見ることはなかった。ジニーは顔を手で覆い、その視線を先に何があるのかを知り、わっと泣き声を上げる。
ソフィアの目は、少し離れた場所を見つめていた。
「……ジャック……」
人と人の間を縫い、ぶつかりながらソフィアは冷たい床の上で目を閉じているジャックのもとに歩み寄ると、その場に力なく膝をつき、震える手でジャックの血に塗れた頬に触れ、そのまま胸元に顔を寄せた。
「う──う、ううっ──」
まだ暖かい。まだ、柔らかい。
それでも土気色の頬が、どれだけ耳をすませても何も聞こえない音が、ジャックの死をありありとソフィアに告げていた。流れた涙がジャックの血を僅かに薄めていく中、ソフィアはただ、「ジャック」と彼の名を悲痛な声で呟いた。
ハリーは大広間の光景に、目の前の地獄のような光景に背を向け、大理石の階段を駆け上がった。心を引き抜いてしまいたい。体の中で悲鳴を上げているものを、全て無くしてしまいたい──ハリーは無我夢中で走り続け、校長室を護衛している石のガーゴイル像の前に行くまで一度も速度を緩めなかった。全てを置き去りにしてしまいたい。その気持ちが、行動に現れていたのだろう。
「合言葉は?」
「ダンブルドア!」
ハリーは自暴自棄になりつつ叫んだ。合言葉なんてわからなかった、ただ、ダンブルドアに会いたかった。
開くはずがない。そう思ったが、ガーゴイル像は横に滑り、その背後に螺旋階段が現れ──校長室までの道を示した。
螺旋階段を駆け上がり、円形の校長室に飛び込んだ。校長室の周囲の壁に掛かっていた肖像画は全て空になり、歴代校長は誰一人としてそこにいなかった。
ハリーはダンブルドアがいるはずの校長席の真後ろにかかっている額縁を見て落胆したが、すぐに背を向け戸棚へと向かった。
そこには、憂いの篩がある。セブルスが残した記憶──それも、死を覚悟して託した記憶に何があるのか、ハリーは見なければならない使命感よりも、今この辛い状況から逃げたい気持ちの方が強かった。他人の記憶の中に逃げ込めるのならば、どれだけ心休まるだろうか。それがたとえ重要な何かだとしても、今の状況より地獄という事は無い。
ハリーはフラスコの栓を抜き、憂いの篩の中に注ぎ込んだ。自分を責め苛む悲しみを、この記憶が和らげてくれるとでもいうように、ハリーは銀白色の渦の中に迷わずに飛び込んだ。