2022年10月某日。
夏の暑さもひっそりと影を潜め始め、季節は秋へ移り変わろうとしていた。
日中の気温も30度を下回り、窓を開ければ心地よい秋風が肌を撫でる。夏に一働きしたエアコンも、来たる冬に備えて束の間の小休止に入った。
秋の学校行事一大イベントの一つである文化祭を二日前に終えたかと思えば、次に来るのは学生なら逃れる事の出来ない中間テストが待っている。明日以降全ての部活動は活動を休止し、全校生徒は試験勉強のために帰宅。ここから試験が終わるまで、しばらくは普段よりも多くの時間を勉学に費やされるだろう。憂鬱な日々はすぐそこだ。
そして試験週間を明日に控えた本日は日曜日。部活の午前練習を終えた
「……と言うわけで、これが《ソードアート・オンライン》の簡単な説明」
後日発売する世界初のVRMMORPG《ソードアート・オンライン》の概要をリビングで懇切丁寧に解説したのは、チェック柄のワンピースに身を包んだ
長い髪を後ろで束ねたポニーテールに、Tシャツ短パンのラフな格好。肌の露出が多く、何かと成長期である彼女のこの姿を同級生の男子が目撃したのなら、目が釘付けになるのは間違いないだろう。
「はいっ、先生! 質問があります!」
解説を終えた舞の向かい側に座る由紀が、右手を真っ直ぐ上に挙げた。
「はい、綾瀬君どうぞ」
丸みのある赤フレームの眼鏡をクイっと上に持ち上げ、舞は芝居がかった口調で彼女に発言を促す。
「私はオンラインゲームどころか、そもそもゲーム自体あまりやった事がありません! そんな人でも大丈夫でしょうか?」
「心配ご無用! βテスターの私がみっちり指導します! 武器・アイテム・戦術指南、なんでもござれ!」
《ソードアート・オンライン》は正式サービス前に、試験運転も兼ねたβテストを行っていた。発売元であるゲームメーカー《アーガス》はその試験運転に参加するテスター千人の募集をかけ、舞は運良く当選したため、《ソードアート・オンライン》のβテストを春から夏にかけての2ヶ月間体験していた。
「……とは言うものの、問題は買えるかどうかよね」
「予約はどこも埋まってるしね。舞はいいなあ、郵送で来るんでしょ?」
それはβテスターの特権。βテスター千人はわざわざ購入する必要がなく、ソフト発売日に自宅まで郵送で送られてくる。よって初回出荷分の一万から千を引いた残りをβテスターでない人達がソフトの購入にこぎつけるには、店舗予約・ネットでの購入・発売日当日に並んで買うぐらいしか選択肢はない。
「そう。だから私は問題ないけど、由紀が発売日当日に買うのは難しいと思う。当日並んだところで買えないだろうし、最低でも三日前には並ばないと」
「でもそれだと平日だから、学校あるよね」
「うん。だからネットで買うって手段もあるけど、みんな一斉にアクセスするから回線が重くなるだろうし……」
二人はどうしたものかと頭を捻る。学校をサボる訳にもいかないし、仮にサボって並んだとしても、中学生の自分達が深夜に出歩けば一発で警察に補導されるのは、火を見るよりも明らかだ。
「……舞、残念だけどやっぱり私は諦めるよ。ゲームは舞だけで楽しんで」
「ダメだよ! 由紀と一緒にやるの楽しみにしてるんだよ! 何か方法がある筈だって」
しかし中学生の彼女達に出来る事は限られている。ここは一か八か、ネットの購入にかけてみるしかないと思った矢先――。
「ただいまー」
玄関から扉の開閉音と人の声が聞こえた。廊下を歩く足音は真っ直ぐリビングに向かい、彼女達との距離を一歩ずつ縮める。そうしてリビングの扉が開くと、一人の男性が入ってきた。
「お邪魔してます。お兄さん」
「ああ、綾瀬ちゃん来てたんだ。いらっしゃい」
帰宅を知らせた声の主は舞の実の兄である、笹宮
舞と八つ離れた和樹は現在大学四年生。生まれてから一度も染めたことの無い黒の髪。一見細身ではあるが、服の下には幼い頃から続けているスポーツで鍛えた肉体を持ち、今でも後輩にせがまれて大学の部活に顔を出す機会が多い。無事に内定先も決まり、来年の4月からは都内の商社に勤務するのが決まっている。
「何してるの?」
「SAO購入作戦会議」
「ああ、あのゲームか。後輩に舞の事話したら、すごい羨ましがってたぞ」
和樹は迷うことなく台所へ行くと冷蔵庫を開け、中にあるお茶を取り出してマイカップに注ぐ。
「でも舞は買う必要ないんだろ?」
「私のじゃなくて、由紀の分だよ」
「……成る程、そのための会議か。で、結論は出たのか?」
「それがまだ。中学生には色々とハードルが……」
そこで舞は言葉を切り、何か思いついた素振りをみせた。目の前にいる兄の顔をみて両の手を合わせ、一言……。
「かずにい、一生のお願い!」
2022年11月6日、12時41分。
由紀は自室のベッドに腰掛け、電話で舞とやり取りをしていた。彼女の隣には姉から借りたナーヴギアが置かれている。
「今度また改めて直接お礼を言うけど、今日ゲームが終わったら舞からお兄さんに言っといて」
『律儀だね〜由紀は』
何とかして由紀は《ソードアート・オンライン》のソフトを入手することが出来た。結局発売日の数日前から店舗に並んで購入する方法がとられたのだが、並んだのは彼女達ではない。
「それにしても良かったの? 私のためなんかにあんな条件呑んで」
『いいっていいって! そりゃあ何言われるかわかんないから不安だけど、かずにいならそこまで無茶な要求はしないだろうし』
実際に店舗に並んだのは舞の兄、和樹だった。
中学生の二人と違い、大学生の和樹は単位をほとんど取得済みなので授業に出る必要性はない。彼に残されたのは卒業論文を書き上げる事だけだが、まだ時間に余裕があるので融通はきく。
但し自分がやるわけでもないゲーム、しかも妹の友人がやるゲームの購入のためにそこまでやるのだから、彼はある条件を提示した。
それは『並んだ日数分、舞になんでも命令できる権利』だ。和樹はソフト購入のために4日間並んだので、4回分の権利を有している。そしてその命令に拒否権はないというオマケ付き。
『むしろこんな条件で済んで良かったわよ。普通なら自分に何のメリットもないから断るのに、快く引き受けてくれたんだから』
「うぅ……なんだかどんどん二人に申し訳なくなってきた……」
『ほーらっ、気にしない気にしない! ……っと。そろそろ準備しないと』
電話越しに舞の声を聞いた由紀が壁に掛けられた時計を見ると、時刻は正式サービス開始までもうすぐだった。
「本当だ。そろそろ切るね」
『オッケー。待ち合わせはさっき言った通りね』
「うん。じゃあまた後で」
通話を終えると子機を元の場所に戻し、ナーヴギアを装着する。装着したままベッドに寝転がり、時間がくるまでは天井を見つめていた。
「リンクスタート!」
ナーヴギアの時計表示が13時になると同時に、目を閉じて起動ワードを発した。瞼を下ろして暗くなった視界が白く染まり、自己診断ウィンドウが表示され、流れていく。予め作成しておいたアバターを選択すると、《Welcome to Sword Art Online!》の文字が表示された。
「わあ……」
仮想世界に初めて訪れた第一声がそれだった。
《ソードアート・オンライン》の世界に訪れた者が一番最初に現れるのが、ここ《はじまりの街》の中央広場。石畳が敷き詰められた広場の至る所から、来訪者があとを絶たない。
「そうだ、舞は……」
周囲の景色に見とれていたが、ハッと我に返って予め決めていた待ち合わせ場所に向かう。……とはいっても、SAO初ダイブの彼女にしてみれば何処が何処だかわからないので、『スタート地点の大きな広場の中心』とだけ打ち合わせていた。
次々現れるたくさんの人達を避けながら彼女が中心部へ行くと、金髪ポニーテールの女性プレイヤーがキョロキョロしながら立っていた。
「えっと……舞、だよね?」
女性プレイヤーは自身のリアルネームを呼ばれて振り向いた。
「その名前で呼ぶって事は……」
「うん、私だよ」
現実の姿と違うので自信はなかったが、反応からして待ち合わせていた友人で間違いなさそうだ。
「やっぱりそうか。ちなみにプレイヤーネームは?」
「ユキ、だよ」
彼女のプレイヤーネーム、ユキを聞いた後、金髪ポニーテールのプレイヤーは彼女の耳元で周りに聞かれないよう、小さく呟く。
「えっと、ユキ。こういうネットゲームで
「あっ、そうなんだ。ごめんね」
「私がちゃんと言ってなかったのが悪いから、気にしないで。ちなみに私のプレイヤーネームはアンナだから」
アンナはユキの耳元から顔を離した。
「さて、それじゃあ街を歩きながら色々説明してくね。それでそのままフィールドで実践練習しましょ」
「いきなり!? 大丈夫かな?」
「大丈夫だよ! この辺のモンスターは弱っちいから。行こっ!」
二人は広場中央から歩き出し、《はじまりの街》の出入り口方向へと進んだ。
道すがら通りがかるNPCショップに立ち寄り、アンナはアイテムや装備の買い方などの基本事項を、ビギナーであるユキに一つずつ教えていく。それが終わると今度はスキルについての説明をし、まず最初にこのゲームの要であるソードスキルを使えるようにするため、武器スキルを一つ習得させた。選んだのは手数が多いのが特徴の《短剣》スキルだった。
そうこうしている内に《はじまりの街》の出入り口に到着する。出入り口の前には真っ直ぐな道があるが、そこから外れて東のフィールドへ向かった。
この辺りは東西南北四つのフィールドが存在するが、どこも名前と方角が違うだけで出現するモンスターは一緒だ。この世界でおそらくほとんどのプレイヤーが最初に出くわすのが、青い体毛のイノシシ《フレンジーボア》である。
「イノシシだ」
「イノシシだよ」
目の前には草原をウロウロする青イノシシの姿があった。彼女達には目もくれず、フィールドを好きなように歩き回り、時々止まって地面の匂いを嗅いでいた。《フレンジーボア》は
「それじゃあまずは私がお手本を見せるね」
アンナは曲刀カテゴリの武器を手に持ち、《フレンジーボア》に切りかかった。ダメージを受けた青イノシシはアンナに狙いを定め、足を踏み鳴らすと一直線に突進してくる。剣を水平にして突進を受け止め、押し返すともう一度切りつける。
それの繰り返しを何回か続けると、最後にアンナは剣を肩に担ぎ、膝を軽く曲げて腰を落とす。すると剣にライトエフェクトが宿り、向かってきた青イノシシに曲刀基本ソードスキル《リーパー》を一閃、強烈な一撃をお見舞いする。残り少なかった《フレンジーボア》のHPバーは空になり、消滅した。
「……とまあ、こんな感じかな? イノシシは真っ直ぐ突っ込んでくるしか攻撃パターンはないから、避けようと思えば簡単に避けれるよ。それとソードスキルは初動モーションが大事だから、まずは構えを作る。そしてスキルが立ち上がるのを感じたら剣を思いっきり撃ち込むっ! て具合で」
「うーん……とりあえずやってみるね」
新たに湧いた《フレンジーボア》を標的にし、ユキは背後から切りつけた。一度距離をとって様子を伺うと、先程と同じようにユキ目掛けて真っ直ぐ突っ込んでくる。とりあえず練習も兼ね、回避と突進を剣で受け止めることに集中した。馴れてくると今度は剣で切りつけ、アンナがお手本でみせたソードスキルをやってみる。
剣を肩に担ぎ、膝を曲げて腰を落とすと、剣にライトエフェクトが――――宿らない。
「あっ」
思わずアンナが声を漏らした。
「きゃあっ」
結局ソードスキルは立ち上がらず、ユキは青イノシシの突進を受けてしまった。彼女は草の上を転がり、それをみた《フレンジーボア》は満足そうに背を向け、再びフィールドを歩き出した。
「いったぁ〜」
「いや、痛みは感じないから」
「……あっ、本当だ。つい」
あれだけ強くぶつかったのに全く痛みがない。ユキは不思議そうに腹部をさする。
「さっきソードスキルが立ち上がらなかったけど、私とユキの武器は種類が違うから、初動モーションも違うんだ」
「それを早く言ってほしかったなぁ……」
「まぁこれも経験ということでご勘弁を」
アンナは両手を合わせて謝った。
そのまま実践練習は続いた。
その後短剣ソードスキルの正しい初動モーションを教わり、ユキもコツを掴んでひとしきり楽しんだ後、二人は地面に座って景色を眺めていた。
「綺麗……」
「……そうだね」
現実世界を反映しているため、夕方になれば日が沈む。楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。
「まだ実感が湧かないよ。これがゲームの世界だなんて」
「私も最初はそうだったよ。草も木も街並みも、全部現実と大差ない……ううん、むしろ今まで見たことのないものが溢れている分、こっちのが新鮮でいいかもね」
そう言ってアンナは立ち上がり、大きく伸びをした。
「とりあえず、もうちょっとだけ遊ぼっか! 晩ご飯食べたらまたインするでしょ?」
「うん。だけどあんまり遅くまでは無理だよ?」
「夜更かしする気はないわよ。ほらっ」
アンナは座っているユキに手を差し伸べた。ユキもそれに応じて手を伸ばし、彼女の手を掴もうとする。
だが、その手を掴むことは叶わなかった。
ガラスの割れるような音と共に、アンナの身体も砕け散る。ユキが伸ばした手は空をきった。
「えっ?」
意味がわからなかった。ユキはアンナの手を掴む直前、コンマ数秒前に消えてしまったのだ。
たった一人フィールドに取り残され、ユキは途方に暮れる。しかし昼間アンナに教えてもらったフレンドリストを思い出し、一個ずつ手順を踏んで辿り着く。するとフレンドリストに唯一登録されている《Anna》の文字が、グレーで表示されていた。
(たしか、この場合はログインしていないって事……)
別の言い方をすれば、アンナはログアウトしたという事になる。だがログアウトはメニューから行なう筈なのに、先程の彼女はそんな素振りを全くみせていない。考えれば考えるほど意味がわからなくなる。
そしてユキの思考を邪魔するように、低く重い鐘の音がフィールドに響き渡った。
「な、何?」
考えが纏まる前にユキの身体は光に包まれ、景色が一変した。地面にうっすらと生えていた草はなくなり、代わりに石畳が敷かれていた。
(ここって……最初の場所……?)
この世界に来て一番最初に立っていた中央広場。自分以外のプレイヤーも同じように広場に集まっている。
そしてその一分後、茅場晶彦のデスゲーム宣言がなされた。
(……ウソ……だって、言ってよ……)
茅場のデスゲーム宣言に続き、ログアウト不可・HPゼロで死亡・現実と同じ容姿。そしてログアウト不可の状態にもかかわらず、ログアウト表記されていた友人《Anna》の文字。つまり茅場の言葉とこの状況を合わせて考えると、既に彼女はこの世界からも現実世界からも、永久退場しているということ。
(ウソ……。だって、さっきまで……一緒にいて……)
突如、広場に轟く人々の声。この状況に納得のいかない大勢のプレイヤーが、ついさっきまでゲームマスターがいた空中に向かって抗議の声をあげたのだった。
(……イヤだ……怖い……怖いよっ!!)
頼れる人も、行くアテもない。それでも彼女はこの状況に恐怖し、一刻も早くこの場から離れたかった。自然と足が動きだし、広場の外へと駆け出した。
全力で走った。暗い道も明るい道も、路地裏も大通りも、ただただ無心で走った。自分が何処に進んでいるのかわからない。目的地などありはしない。彼女は自分の心に侵食してくる、ドス黒い何かを振り切るためだけに駆けていた。
だがいかに広大な《はじまりの街》といえど、いつまでも進み続けれるわけではない。ユキはアインクラッドの外周部分に辿り着き、仕方なく足を止めた。
彼女が辿り着いたのは、外周部分に設けられた展望スペース。アインクラッドの外、つまり空と空に浮かぶ雲海を眺めるために設けられた場所だった。現実で実際に見たのなら絶景ともいえる景色だが、今のユキにはどんなに美しくても心に響かない。彼女の心は、ポッカリと穴があいていた。
展望テラスの柵に手をかけ、もっと間近で外を見る。それでも何も感じなかった。
どれだけの時間が経ったのか。
ボーッと外を眺めているうちに、自然と涙も溢れてきた。 様々な感情がユキの心を掻き乱す中、フッと脳裏に考えが浮かぶ。
(……ここから飛べば……元の世界に戻れるのかな……?)
ログアウトボタンがないため、現実に戻る正規の手段は使えない。彼女が思いつく唯一の脱出方法は、それしか浮かばなかった。正常な思考を持っていれば、その考えに至っても実行には移さない。だが絶望がユキの背中を後押しする。
元の世界に戻りたいという思いだけを胸にしまい、決意が固まりかけたその時だった。
「こんなところで何してるの?」
――不意に後ろからかけられた少年の声が――
――ユキの心を引き止めた――
ヒロイン視点からのSAO開始時です。終わり部分と第03話冒頭が繋がります。
元々この話を書く予定はありませんでしたが、三話のユキがした発言の内容一つ一つや状況から『一話分書けるんじゃない?』と思い、こうなりました。話の整合性はとれている筈……多分……。
次の話も番外編となります。それが終われば以前予告した通り、1章終了です。2章についての予告はまた次回にします。