2022年11月6日、午後0時55分。
時計の針が刻一刻と『その時』に近づいていく中、胸の中は期待で満たされていく。ソードアート・オンライン、通称SAOの正式サービス開始5分前となったため、悠人はこの日のために用意したといっても過言ではない、ヘッドギア型の民生用VRマシン《ナーヴギア》を頭に被った。
ナーヴギアとSAOのソフトを1度に購入するのは、高校生の悠人にとって中々に大きな出費だ。しかし、販売本数限定1万本というゲームの購入に運良くこぎつけたので、これを逃す手はない。よって、小学生の頃から貯めていたお年玉貯金を切り崩したことで、しがない学生の彼にとって最大の課題であった資金面はなんとか解決できた。
(これで準備完了、っと……)
ベッドに寝転がり、真っ白な天井を見つめながら、ゲーム開始となる午後1時になるのを静かに待つ。時間にすればたった5分だが、おそらくこれまでの人生で最も長く感じた5分間を越え、ナーヴギアの右端に表示されている時計が午後1時に変わった瞬間ーー。
「リンクスタート!」
異世界に繋がる扉を開くための合言葉を唱えると、瞬く間に意識が現実世界から遠ざかった。
自己診断のウィンドウが次々と開き、視界の右隅へと流れていく。続いて表示されたIDとパスワードを入力し、この日のためにあらかじめ作成しておいたキャラクター《Kaito》を選択し終えると、全ての準備が整った。
《Welcome to Sword Art Online!》
仮想世界に訪れた事を歓迎するメッセージを一瞥し、瞬きした直後、目の前の景色は見慣れた自室の風景から別世界へと変わっていた。
視線を下に向けると石造りの地面が広がり、足踏みをすればブーツの底から硬い質感が伝わってくる。周囲をぐるっと見渡すと、所々で淡い発光と共に次々と人が現れ、皆自分と同じ簡素な初期装備でキョロキョロと視線を忙しく走らせていた。降り立った場所の把握におおよそ10秒程度要した事で、カイトは自分が石の支柱に囲まれた大きな広場に立っていることを理解する。
カイトが立っているのは、SAOにログインしたプレイヤーがまず最初に訪れる場所――通称《はじまりの街》――の中央広場。広場から見える景色はある程度限定されてしまうが、空を仰げば澄んだ青で染められた空が広がり、煌々と輝く太陽の光が建物に影を落としてコントラストを生み出している。
そして広場を埋め尽くしている人々は美男美女という共通項を有しているが、各人の行動はてんでバラバラで興味深いものがあった。
カイトと同じように周囲を見回している者。
広場に現れるや否や、我先に駆け出して広場から出ようとする者。
予めゲーム内で落ち合う約束をしていたであろう女性2人が、お互いの姿を見て楽しそうに話している光景。
美男美女が一同に会する光景は兎も角、それ以外に関しては普段現実で見る景色と遜色ない。
「これが仮想世界……《浮遊城アインクラッド》……」
プロモーションビデオで見た事はあるが、やはり平面で見るのと実際に見るのとでは受ける印象も感動も段違いだった。カイトは手をゆっくりと開いて閉じ、身体の動作確認をした後、いてもたってもいられずに仮想世界最初の1歩を踏み出した。
第1層主街区《はじまりの街》の中央広場を抜けると、人の波でごった返す路上に出た。人混みを掻き分け、立ち並ぶNPCの店で回復アイテムをいくつか購入すると、手早く店をあとにする。本来なら他のプレイヤーのようにもう少しアイテムや武器を見たり、街の探索をしたいところだが、カイトは後でゆっくり見ればいいと割り切っていた。彼は真っ先にやろうと決めていた仮想世界での戦闘をいち早く体感すべく、街の出入り口へと一目散に向かう。
街の入り口にそびえ立つ仰々しい城門をくぐると、地表面がうっすらと草で覆われたフィールドに出た。やはり多くのプレイヤーは未だ街の中にいるらしく、フィールドをどれだけ見回しても人影は1つもない。今は目に映る全てのものが物珍しいので、街中を探索すればその度に物色し、足を止めるプレイヤーがほとんどだろう。
しかし、それは裏を返すと、ゲーム開始直後にフィールドへ繰り出すプレイヤーがほとんどいないということだ。時間が経てば他のプレイヤーも狩りに出始めるだろうが、人が少ない今の内に戦闘のカンを養うべく、カイトはフィールドの何処かにいる対象の索敵に勤しんだーーーーが、思いの外早く見つける事が出来た。それは、この世界最弱ともいえる、青い体毛のイノシシ型モンスター《フレンジーボア》だ。
初心者の練習相手には打ってつけの青イノシシは、基本は非アクティブ型であるため、こちらから仕掛けない限り向かってくることはない。カイトは後ろから近付いて1撃加えると、攻撃を感知した青イノシシが足を踏み鳴らし、彼目掛けて突進を仕掛けてきた。
しかし、事前情報で攻撃は直線軌道の突進のみとわかっているため、避けるのは容易く、すれ違いざまに側面へ1撃喰らわせる。それを何度か繰り返すと《フレンジーボア》のHPはゼロとなり、データの塊であるその体はポリゴン片となった。目の前に今の戦闘で獲得した経験値とコルが表示される。
「よしっ、次っ!」
意気込んだカイトは、近くで新たに出現した《フレンジーボア》に向かって走り出した。
「おっかしーな。何でだ?」
最初にいた場所から少しずつ移動し、カイトは現在西フィールドにいた。
あれから何度か戦闘経験を詰み、慣れ始めたカイトはソードスキルを試してみようとするが、思い通りにスキルが立ち上がらず、困り果てていた。
街にある初心者用のチュートリアルには、ソードスキルの使い方をレクチャーする内容が盛り込まれていたため、それを受けていればスキルの立ち上げ方法を習得出来ただろう。だが、生憎そういった類のものは受けずにフィールドへ出てしまったため、初心者の彼だけでは原因究明も務まらない。
ほとんどのRPGでは味方を回復したり、モンスターに火や水といった属性攻撃のついた魔法と呼ばれる攻撃を行う《魔法使い》なる職業が存在するが、SAOはオンラインゲームにしては珍しく、魔法がない。その代わりに《ソードスキル》と呼ばれる、いわば必殺技のようなものが存在する。
ソードスキルは一定のモーションを取るとシステムがそれを読み取り、システムのアシストを受けて予め決められた軌跡を描きながら自動で攻撃する、といったものだ。当然相手に与えるダメージ量は通常攻撃とソードスキルでは天地の差があり、このゲームで戦うためには必須といっていい技術だ。
閑話休題
どうしたものかと考えていると、カイトは遠くで2人のプレイヤーを視界の端に捉えた。何気なく様子を伺うと、どうやら赤髪の頭にバンダナを巻いているプレイヤーがイノシシの突進を受け、地面で横たわって悶えているようだった。
すると傍らにいた勇者顔のプレイヤーが、地面から何かを拾って構えを作り出した。姿勢を保持してそのままでいると、手に持っている物体が赤い光を帯び、次の瞬間には右腕を勢いよく振り下ろした。
「…………っ!?」
剛速球とも呼べる速さで投げられた物体がイノシシに直撃すると、モンスターのHPが微減する。その攻撃でイノシシは勇者顔のプレイヤーにむかって突進するが、手慣れた様子で剣を使い、突進を受け止めて軽くいなしていた。
そして今度は先ほどまで横たわっていた赤髪バンダナのプレイヤーが剣を構えると、剣が光り出し、そのままイノシシにむかって斬撃を繰り出す。
(あれは……ソードスキルか!)
どうやら赤髪バンダナのプレイヤーは初心者なのだろう。勇者顔のプレイヤーとは異なり、ソードスキルを《フレンジーボア》に当てて倒した時のリアクションが、どう見てもβテスト経験者のそれとは思えないほどのはしゃぎようだったからだ。
一部始終を見ていたカイトは、二人のプレイヤーの元へ駆け寄って声をかけた。
「あの、すいません! 今二人が使ってたのって……ソードスキル、ですよね?」
「ん? そうだけど?」
「実はオレ、さっきからソードスキルの練習してるんだけど、中々上手くいかなくて……。コツを教えてくれませんか?」
「ああ、別に構わないよ。オレはキリト。それでこっちが――」
「クラインだ。よろしくな、にーちゃん!」
「カイトです。よろしく!」
現実世界に昼と夜があるように、仮想世界にもそういった概念はある。時刻は午後5時をまわっており、青かった空と白い雲は夕日で赤く染め上げられ、太陽は地平線の彼方へ沈もうとしていた。
勇者顏の男――キリトがくれたアドバイスのおかげで、カイトもソードスキルのコツを掴み、以前より戦闘がスムーズになった。この世界ならどんな素人であっても、ソードスキルさえ使えればキリトがお手本で見せたような、プロ野球のピッチャー並みの速さで物を投げる事だって容易に出来る。そして通常攻撃とソードスキルを使うのとでは、モンスターに与えるダメージ量で大きな差がある事に、カイトは身をもって体感した。
青イノシシを練習相手に戦闘を繰り返し、たっぷりと鍛練を積んだ後、カイトが2人とフレンド登録を済ませる。するとここで、キリトが1つの案を提示してきた。
「それで、2人ともこの後どうする? もう少し先に行けばここより強いモンスターがいる場所があるけど、そこでレベル上げするか?」
「イノシシにも飽きてきたし、オレは行ってみたい」
「オレも! と言いたいとこだけどよ……実はピザの宅配を5時半に指定しててよ。そろそろ時間だから一旦落ちることにするわ!」
地面に座っていたクラインはそういって立ち上がると、カイトとキリトに向き直り、握手を求めてきた。
「2人ともサンキューな。おかげで楽しかったぜ」
「また何かあったらメッセージでも飛ばしてくれ」
「じゃあな、クライン」
順番に握手を交わすと3人は2人と1人に分かれる。カイトとキリトは別の狩り場へ行き、クラインは右手を上から下へ振ってメニューを立ち上げ、ログアウトしようとする……が――。
「あれ? ログアウトボタンがねぇぞ?」
2人の後ろから、クラインが疑問の声をあげていた。その声に気が付いたキリトは、振り返ってクラインの疑問に反応する。
「そんなわけないだろ。よく探してみろって」
「……いや、やっぱ何処にもねぇぞ」
そんな馬鹿なと思いつつ、カイトは右手を振ってメニューを開く。するとクラインの言う通り、ログアウトボタンが存在しなかった。
「確かに、ない」
カイトは隣に立っているキリトを見ると、彼もメニューを開いて確認していた。その表情を見るに、彼もまた、ログアウトボタンがないらしい。カイトはすぐにGMコールをするものの、反応は一切なかった。
「まぁ、正式サービス初日だからバグもあるだろうよ。今頃GMは半泣きだろうけどな」
「クライン、そんな余裕でいいの? 時間、見てみなよ」
そういってカイトは時計を指差す。時刻はまもなく5時半。クラインが指定したピザの宅配時間は5時半。つまり――。
「ああっ! お、俺のアンチョビピッツァとジンジャーエールがぁーーっ!」
――と、いうことになる。
「はあ〜、しょーがねぇ。ナーヴギアの回線を強制切断するしか」
「……無理だ」
キリトがすぐに否定した。
ナーヴギアのマニュアルに、回線の緊急切断方法は明記されていない。そして現実の体は一切動かすことが出来ないので、ナーヴギアを脱ぐ、あるいは電源を切るといった事は絶対に出来ない。自分以外の人にやってもらうのなら話は別だが……。
しかし正式サービス初日といえど、ログアウト出来ないバグなど今後の運営に関わる大問題に発展しかねない大事だ。最悪の場合、プレイヤー全員を強制ログアウトさせる必要があるのに、今もなお、カイト達はSAO内にいる。GMコールによる呼び出しに反応しないのは、他にもこの事態に気付いたプレイヤー達から同じようにコールを受けていて、その対応に追われているという可能性が無きにしも非ずだ。
だが、それなら運営がSAO内にいる全プレイヤーに対し、緊急アナウンスをするなどの対応ぐらいしてもいいと思うのだが、そういったアナウンスは今の所ない。
不穏な空気が彼らの周りに立ち込め、心に焦りが出てきたその時、夕焼けの空に鐘の音が鳴り響く。おそらく運営からの緊急アナウンスだろうとホッとしたのも束の間、3人の身体を光が包んだ。
目の前の景色が変わると、そこは《はじまりの街》の中央広場だった。どうやらカイト達だけでなく、他のプレイヤーも次々と中央広場に強制転移させられているらしい。あちこちで光が湧き、あっという間に広場は人で埋め尽くされた。
「なんなんだよ……一体……」
中央広場にいるプレイヤーの数は相当のものだ。おそらくSAO内の全プレイヤーがこの場に集められているのだろう。カイトは前後左右を見渡した後に、ふと上を見上げる。
すると、上空には《Warning》の文字が浮かんでいた。それは中央広場の上空に広がり、空を赤く染めた後、血のように赤い液体がドロリと流れ、ローブを着た目算で数十メートルの人型を形成する。
しかし、ローブのフードの下は暗くて顔がよく見えない。漂う不気味な気配に、カイトは小さな戦慄を感じた。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
――この一言をキッカケに、SAOでの《日常》が始まり――
――現実世界の《日常》が、終わりを告げる――
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