第26話 発端と不意打ち
2024年4月3日。
第50層主街区《アルゲード》からほど近いフィールドで、鬼ごっこをしている二人のプレイヤーがいた。
『鬼ごっこ』というと聞こえはいいが、この二人は遊んでいるわけではない。それぞれの理由は違えど、自身の命運を分ける大事な行いである。特に追いかけられているプレイヤーに関していえば、文字通り命がかかっているのだから。
「ハァ……ハァ……ちっくしょう……」
追いかけられている男性プレイヤーは走りながら悪態をつく。だが後ろを振り返ることはしない。敵との距離を正確に知るたった一瞬の行為は、現時点では愚行だと分かりきっているからだ。
(死にたくねぇ……死にたくねぇよ……)
足音が近づいて来ると共に、死の恐怖も増大する。
男は顔を歪め、涙をうっすらと浮かべながら走り続けた。
(あんな奴らに関わること自体、間違ってたんだ!)
最初は些細な興味本位だった。
アインクラッド中で知らない者はいないと断言できるほど有名な、とあるギルド。彼はそのギルドのメンバー
『だった』。つまり過去形ということは、今の彼はギルドメンバーではない。彼は脱退申請を出す時に酷くビクビクとしていたが、意外にもギルドマスターは快く脱退許可をしてくれた。あまりの呆気なさに拍子抜けし、気の緩みきっただらしのない顔をさらけ出すほどに。
しかし彼は現在、かつての仲間に追われている。目的は言うまでもなく、命。
(街に辿り着けさえすれば……)
現在地点は《アルゲード》の東に位置するフィールド。幸いにもモンスターとの遭遇は一度もない。仮に遭遇していたとすれば『トレイン』と呼ばれる非マナー行為が発生していただろうが、そんな事は御構い無しだ。
そしてとうとう、彼の人生の中で最も必死になった『鬼ごっこ』は幕を閉じようとしていた。
(あぁ……)
これまで彼のしわくちゃだった顔が安堵した。
視線の彼方には主街区の姿。静かに佇む街の影は、彼の帰りを待ち望んでいるかのよう。後方で聞こえていた耳障りな足音も、いつの間にかなくなっている。
(勝った! 俺は逃げ切ったんだ!)
ここまで来ればあとは道の真ん中を突っ切り、主街区の中へと飛び込めばいい。システムに守られた圏内ならば、いくら奴らでも手出しはできないと確信しているからだ。
(街についたらしばらくは身を隠す。足取りが掴めないようにしねぇと)
他の事を考える余裕が生まれたその時、前方に見える木の影から一人のプレイヤーが現れた。黒いローブを羽織ってフードを深く被り、全力疾走する彼の進行を遮るかのように、フラフラと走路に出てきたのだった。
(何処のどいつか知らねぇが……)
男は背中の斧に手をかけて引き抜くと、肩に担ぎながら黒ローブに突っ込む。
「邪魔だどけえぇぇぇえ!」
男は担いだ斧を両手で持ち、黒ローブに近付くと斧を振る。地面と水平になるようにして振るった斧は、黒ローブの首ギリギリの所に狙いを定めた。
彼の持つ両手斧は威力も高く、人体の急所に設定されている首を刈れば最悪の場合死に至る。しかし殺すつもりはない。いつもなら問答無用で攻撃するが、今殺してしまえば主街区に入れなくなるからだ。
男の予定ではちょっと驚かす程度にとどめ、何事もなかったかのように再び主街区へ走るだけだった。
しかしそれは実行されず、あくまで予定として終わる。
黒ローブはしゃがんで姿勢を低くすると、左手に隠し持っていた短剣で男の足を刈る。右足を切断された男はバランスを崩して転倒。斧もその際に手放してしまった。
「くそったれ! 何すん……だ……よ……」
地面に這いつくばっている男は顔を上げて上半身を起こし、背中側にいる黒ローブを睨みつけた。だがフードの下に隠れていた物を見たとき、忘れかけていた恐怖が蘇る。
フードの下にあったのは白い仮面。模様として描かれている両目から頬を伝った赤い線は、まるで目から流れる赤い血の涙のようだった。仮面の口元は頬まで裂けそうなほど笑っているが、そこから僅かに見える素顔の口元は真一文字に結ばれている。そして本人は一切喋らず、只々地面に伏している男を見下ろしていた。
「てめぇ……まさかラフコフの野郎か……?」
男の言動に答える気はないらしく、無視して剣を持ち上げ、切っ先を下にして振り下ろした。
足の部位欠損でまともに動けない男をいたぶる事1分弱。一仕事終えた仮面のプレイヤーは剣をしまい、その場で静かに佇む。
そしてその仕事ぶりを最初から最後まで見ていた一人のプレイヤーが、音もなく突然現れた。
「Huh、とりあえず出だしは成功したようだな」
鼓膜を震わせる艶やかな美声の持ち主。フードを目深に被ったポンチョの男、《
「俺も暇じゃない。わかっているとは思うが当初の予定通り、一回限りだ」
仮面のプレイヤーは頷くと、ローブの袖から紙を一枚取り出した。取り出した紙はその場に投げ捨て、ヒラヒラと宙を舞って地面に落ちる。仮面のプレイヤーはそのままPoHの横を通り過ぎ、再びフィールドの奥底へと消えていった。
しんと静まり返ったフィールドの片隅で、PoHは遠くにある主街区を見やる。
「イッツ・ショウ・タイム……と、いこうじゃないか」
時は少しだけ移ろい、2024年4月11日。
現在の最前線は第59層。アクティベートして間もない新しい階層であり、主街区の《ダナク》は田舎町を思わせる風景だった。
《ダナク》には赤い屋根の建物が建ち並び、
圏内にある一本道は両脇を白いペンキで塗られた木製の柵で囲まれ、柵の向こう側には草木が生い茂っていた。季節が春という事もあって日中は暖かく、気象条件さえ整えばそよ風が肌を優しく撫でるため、絶好の昼寝日和となる。
そんな《ダナク》の一画にある緑のカーペットが敷かれた木の下で、二人のプレイヤーが
「眠い……」
カイトは頭がボーッとした状態で目を閉じ、身体がユラユラと左右に揺れる。隣にいたもう一人のプレイヤー・キリトは胡座状態から手足を伸ばし、草の上に寝転がった。
「オレは寝る。こんな日は横にならなきゃ勿体無い」
「あっ! ズルイぞキリト!」
「カイトも横になればいいじゃないか」
「圏内だから安全とは限らないって知ってるだろ」
基本的に圏内設定が施されている街や村でHPが減少することはまずない。ただし、過去に発生した眠っている相手に《完全決着モード》で
そんな事など関係ないとでも言うように、キリトは両手を頭の後ろで組み、完全に寝る体制へと入った。
「何してるの、あなた達」
キリトは頭上からの、カイトは斜め後方からの声に反応した。
現れたのは手を腰にあて、仁王立ちで二人に鋭い眼光を向けるアスナだった。表情からはご立腹なのが伺える。
「なんだ、あんたか」
キリトは寝転がりながらアスナを一瞥すると、興味なさそうにして再び目を閉じる。その態度がアスナをさらに苛立たせた。
「なんだじゃないでしょ。攻略組のみんなが迷宮区にこもっている時に、何で呑気に昼寝なんかしてるのよ。大層な御身分ですね」
不満と皮肉を交えた口調が、キリトに対して向けられた。一方のキリトはそんな事お構いなしといった様子だ。
そして隣にいるカイトに睡魔が再来し、彼の瞼が重くなる。
「アスナ、丁度良い所に。あとは……頼、む……」
それだけ言ってカイトは草の上に寝転がり、陽の光と風を感じながら眠りにつく。ものの数秒で眠りにつき、口を半開きにした状態で寝顔を晒した。
「頼むって……はぁ……あなた達ねーー」
「そいつは寝かせてやってくれないか?」
アスナが今一度文句の一つでもぶつけようとした所、キリトが待ったをかけた。
「最近何かと忙しかったから、あんまり寝てないみたいなんだ。そっとしておいてくれ」
「忙しいって……まさか、まだ人助け紛いの事をしているの?」
《掃除屋》として名を馳せる彼の元には様々な依頼が寄せられる――といってもほとんどはオレンジ関係ばかりで、ギルドの壊滅・捕縛や個人的な敵討ちが主だった内容となっている。稀に《MTD》の治安部隊から強力要請を受ける時もあった。
「別にしちゃいけないとまでは言わないけど、少しは断ればいいのに」
「断れないんじゃなくて、断らないんだよ」
キリトは体制を変えないまま、喋り出した。
「折角自分を頼って訪ねてきた人を、無下にはできないんだとさ。それにカイトを頼ってくるのはほとんどが中層以下のプレイヤーだ。犯罪者に殺された仲間の仇を取ろうにも、情報を買い揃える金や力でねじ伏せる十分なレベルもない人達ばかりさ。きっとそんな人達にとって、最後の拠り所なんだよ」
キリトは顔を横に向け、隣で寝ているカイトの横顔を見た。が、すぐに寝入る姿勢に戻る。
「百歩譲って彼は良いとしても、あなたまで昼寝しているのはどういうこと?」
「今日はアインクラッドで最高の気象設定だからだよ。暖かくて風も気持ちいいし、あんたも寝てみればわかる筈だ」
天気なんて今まで気にしたことのない彼女からすれば、意味がわからなかった。だが目の前で寝ている二人の顔を見ると、まんざら嘘でもないように思える。
周囲を見渡してふっと上を見上げると、側に生えている樹木が彼女に影を落とし、葉と葉の隙間から木漏れ日がさす。眩しくて光を遮るように手をかざすと、掌に暖かな熱を感じた。
そして次の瞬間、
アスナと分かれて数十分が経過。一向に戻ってこないのを心配したユキは、フレンドリストで分かる彼女の現在地に歩を進めていた。どうやら《ダナク》内のとある場所にいるらしく、位置情報は全く動かない。一体何をしているのかと疑問に思っていたが、それはあっさりと解決した。
樹木の下で川の字を描き、横になっている三人のプレイヤー。まさかと思いながらアスナの現在地を確認すると、完全に一致している。
案の定そこには陽の光を全身に浴びながら、気持ち良さそうに寝ているアスナの姿があった。
(珍しい)
ユキは今まで昼寝をしているアスナを見たことがない。そもそも昼寝をする時間帯、攻略組は迷宮区のマッピングなどに勤しんでいるため、昼寝自体しない。
そしてその隣には見知った二人、キリト・カイトも同じようにスヤスヤと気持ち良さそうに寝ている姿があった。
三人の寝顔を眺めながらユキがカイトの左脇に来ると、足を揃えてその場にしゃがむ。
(か、かわいい!)
無防備な仰向け状態でいる彼の寝顔は、年不相応の童顔をさらに幼く感じさせる。風がカイトの前髪を静かに揺らした。
彼の寝顔をジッと眺めて観察していると、ふとある考えが彼女の頭に浮かび、それを実行に移した。
(そーっと、そーっと……)
しゃがんだままカイトの頭が届く位置まで近付き、細い腕を伸ばして右手で彼の頭に触れる。そして頭のてっぺんから前髪にかけ、髪の流れに沿うように二回、三回と起こさないように優しく撫で始めた。ついつい頬がほころぶ。
(それにしても、よく寝てるなぁ……)
起こさないように配慮してはいるが、起きる気配が微塵も感じられない。それをいいことに頭を撫でる動作を止めて、人差し指で頬を軽く突つき始めた。それでも彼は目を覚まさない。
段々面白くなってきた彼女は突つくのを止め、今度は人差し指と中指の二本を揃えて円を描くように頬を撫でる。
(次は――)
これの次は何をしようと考えていると、不意にカイトの身体が寝返りをうって横向きに変わった。ユキのいる方向に寝返ったため、当然の事ながら顔の向きも変わるのだが、その際に頬を撫でていたユキの指にカイトの唇が触れる。
指先を通じて柔らかい感触が伝わる。どちらも意図した訳ではないが、思いがけずユキは指にキスされる形となってしまった。
「――――っ!?」
ビックリしたユキは咄嗟に手を引き、それと同時に尻餅をつく。
そっとキスされた指先を見つめると、少し遅れて顔が熱くなるのを感じた。
「……んあ」
閉じていたカイトの目が開き、寝ぼけた声を発しながら起き上がった。しかし頭はまだ覚醒していないため、眠た気な目をこすってからゆっくりと周囲を見回した。すると左手側に指先をじっと見つめているユキの姿を捉える。
「ユキ……なんで……?」
「えっ!? な、何?」
寝る前にはいなかった少女が自分の隣にいるのだから、寝ぼけた頭でもそれぐらいの疑問は抱けた。そして追加の疑問が二つ。
「手がどうかしたのか? ……それに顔、赤いぞ?」
「何でもない! 何でもないから気にしないで!」
右手を後ろにまわして隠し、左手を大きく振ってまくしたてることで誤魔化した。
そして隣で寝ていたキリトも起き上がり、腕を空に向かって伸ばしながら大きく伸びをした。
「あー……うおっ!?」
彼が驚きの声をあげたのは、隣で寝ている可憐な少女が原因だった。
「まさか本当に寝るとは」
「なんだ、結局アスナも昼寝タイムか」
「えっ、今頃気付いたの?」
「――って、ユキ? いつの間に」
「ついさっきだよ。アスナが全然帰ってこないんだもん。心配で見にきたら、まさかこんな事になっているなんて思いもしなかったよ」
ユキはキリトから睡眠中のアスナに視線を移すと、穏やかな表情の彼女を微笑ましく見つめた。カイトもアスナの寝顔を見て和んでいると、表情が一瞬で険しくなり、気が引き締まる出来事が起こる。
それはアルゴから送られたフレンドメッセージ。大まかな内容は見るまでもないので開かずとも予想は出来るが、おそらく新しい依頼だろう。それでも通知アイコンをタップして中身を開いたのは、詳細な内容を閲覧するためだった。
『カー坊、オレっちとデートしよう!』
「はぁっ!?」
「ど、どうしたカイト」
「しー。おっきい声出したらアスナが起きちゃうよ」
「ご、ごめん」
予想の斜め上をいく内容につい大声を出してしまう。アルゴの意図がわからず、混乱しながらどう返信しようか迷っていると、すぐに追加でメッセージが届いた。
『にゃハハハ、ビックリしたカ? 冗談はさておき……昨日の今日で悪いが、またカー坊宛てに依頼が届いたゾ。詳細なんだがメッセージじゃなく、直接会って話がしたイ。30分後に41層の《インベル》まで来てくレ。場所は――――』
アルゴからのメッセージに目を通し、『わかった。すぐ行く』と簡潔に返信して立ち上がる。
「キリト。またアルゴからデートの呼び出しが来たから行ってくる」
「は? ……あぁ、わかった。気を付けろよ」
「デ、デート!?」
キリトにとってはいつもの事なので、『アルゴ』の名前で全てを察した。しかし言い回しがマズかったため、ユキにはあらぬ誤解を招いてしまう。
「カイト、アルゴさんとデートしに行くの?!」
「いや、そういう意味じゃなくて……オレ宛ての依頼が来てるから呼び出し喰らっただけだよ」
「あ……あぁ、そういうことね」
ユキはカイトの言葉でやっと理解した。今から行くのは文字通りのデートではなく、彼が個人的に行っている活動の事だ。
アルゴのような《情報屋》と同じように、カイトの活動も一種の職業のようなものとして認知されてきている。ユキも話にはよく聞いているが、実際にその目で彼の活動内容を見たことは一度もない。故に彼女が発した言葉は興味本位からくるものだった。
「ねぇ、普段どういうことをしているのか興味があるから、私も一緒に行っていい? 」
「いいけど、アスナはどうするんだよ?」
「え、えっと……」
アスナはいまだに
「ユキ、行っていいぞ。オレがガードしとくから」
「本当!? ありがとう。それじゃあ、アスナはキリトにお任せします!」
「あぁ、確かに任されました」
ユキは短く礼を述べると、カイトの隣50センチの位置に立つ。近すぎず遠すぎない、二人にとって丁度良い距離感を保ちながら、転移門に向かって歩き出した。