カイトは半透明のウィンドウを展開し、メニューから《はじまりの街》の全体マップを表示する。ログインしてからすぐにフィールドへ出てしまったので、未だ未把握を意味するグレーアウトの部分が多いが、今はそれだけを頼りに大まかな方角へ走っていた。
上にいけばいく程収束する形状をした、浮遊城・アインクラッド。その最下層に属する第1層主街区《はじまりの街》の面積は広大であり、街の端から端まで走ろうものなら、息があがってもおかしくない。ただしそれは現実で行った場合の話であり、肉体的疲労がない仮想世界ならその心配は無用だった。
デスゲーム開始直後、中央広場から逃げるように飛び出した少女が何処にむかっていたのか、カイトにはわからない。ただ、ふと見えた少女の顔を思い出すと、カイトは言い様のない不安に駆られた。考えすぎなのかもしれなければ、キリトのように何か考えがあっての行動なのかもしれない。
そんな一抹の不安を払拭するため、彼は足を前へと動かし続けた。
カイトが辿り着いたのは、アインクラッドの最も外側である外周部分。ここにいるという確証などありはしないが、カイトは周囲に気を配りながら道なりに走る。
(考えすぎ、だったか?)
そう思った矢先、カイトの前方30メートル先にある展望テラスに人影を見つける。その人影の後ろ姿は探していた少女で、誤ってアインクラッドの外に身を投げないように設置された柵に手をかけ、柵の向こう側にある雲海をじっと見ていた。
カイトは少女のもとへ近付き、声をかけた。
「こんなところで何してるの?」
雲海を眺めていた少女の顔が、声のした方向に向けられた。
見た目はカイトと同い年ぐらい。耳にかかる黒のナチュラルショートで、スッとした
ほんの一瞬、中央広場から出るときに見えた少女の顔は苦渋に満ちていた。唇を固く結んで今にも泣き出しそうなその顔は、まるで自分の身に起こった出来事を認めたくないようだった。もしもカイトがキリト達と会わなかったら、あるいはキリトが腕を引っ張ってあの場から連れ出してくれなければ、カイトも彼女のような表情をしていたかもしれない。
カイトの存在に気付いた少女は、右手で涙を拭った。
「……君こそ、こんなところで何してるの?」
「えーっと……こっちに用があったから、かな?」
曖昧な答えに対して、少女はさらに問いかける。
「その用事はもう終わったの?」
「まだ、かな。それはそうとして、そんな所にいたら危ないよ?」
「……大丈夫だよ、柵の内側にいれば」
「ならいいんだけど……さっきまでの君を見てたら、まるでここから飛び降りそうな雰囲気だったからさ」
ビクッと肩を動かし、少女は両目を見開いて驚愕の顔を露にした。カマをかけてみたが、カイトが考えていたことは的中していたようだ。
彼女が手をかけている柵を越えれば、その先には広大な空と風に身を任せて自由に流れる雲しかない。デスゲームとなる前ならば、現実と遜色ないほどに再現されたこの絶景に感動しただろうが、この空にむかって一歩踏み出せば、その身体は万有引力の法則に従って下へ下へと進んでいく。その先に待つのは『死』だけだ。
「さっきの広場で茅場が言ってただろ? この世界でHPがゼロになったら、現実の世界でも死ぬって。やめといたほうがいい」
「でも……その言葉は嘘で、私達をこの世界に閉じ込めるための狂言かもしれないし……」
「……本当にそう思ってる?」
少女はカイトの鋭い指摘に異を唱えず、目を伏せた。
彼女自身、本気でそう思っているわけではない。茅場晶彦の話した内容が真実だという証拠も、嘘だという証拠も、この世界に囚われた時点で明らかにする方法などない…………いや、一つだけ方法がある。しかしそれは、HPがゼロになった時、自身のアバターがポリゴンの欠片となって消滅した時だけだ。
「茅場の言っていることが嘘であれ本当であれ、その可能性がある、ってことだけは頭に入れといたほうがいい。考える時間はあるんだし、結論を急ぐ必要はないよ」
「……そう……だね。そうなのかもね……」
カイトの言葉を素直に聞き入れてくれたようで、少女は思いとどまってくれたようだ。最悪の事態を回避出来たことで、カイトの顔に安堵の様子がみられた。
「それじゃあ、オレはもう行くよ。暗くなってきたし、今夜はこの街にある適当な宿で寝泊まりするといい。じゃあね」
「あっ……待って!」
その場を去ろうとした時、少女がカイトを呼び止めた。次に口にしたのは、彼女からの本日3度目となる質問だった。
「えっと…………宿って、どこにあるの?」
2人のいた展望テラスから少し歩いた先で《INN》のマークの看板を見つけ、そこで宿をとることにした。
茶色の屋根にアイボリー色の外壁、入り口は真新しい木製の扉。その扉を開けると、チリン、という鈴の音が宿屋に小さく響いた。
入り口から入ると向かって右側にNPCの店主が立つカウンターがあり、左側には4つの丸テーブルのそれぞれに2つずつ椅子が置かれ、奥には暖炉が設けられていた。スペース自体は決して広くないが、変に着飾っておらず、暖かい雰囲気を醸し出している。外からみてもシンプルながら綺麗な印象を受けたが、中も負けず劣らずといったところだ。
(や、宿代足りるか?)
カイトが危惧しているように、この宿屋は《はじまりの街》の中でいえば上位の部類に入る宿だ。しかし、ここは見た目とは裏腹に、必要となるコルが初期のプレイヤーの財布にも優しい低価格設定の、いわば『当たり』と呼ばれる宿だった。
NPCの宿屋店主に話しかけて鍵を貰い、2階にあるそれぞれがとった部屋に向かう。カイトが部屋の前まで来ると、後ろをついてきていた少女が話しかけてきた。
「あの……少しだけ、お話してもいい? まだちょっと……1人になるのは心細くて……」
「……わかった。じゃあ……1階にテーブル席があったから、そこに行こう」
2人は来た道を戻って階段を下り、1階に着くと、先程目にした4つの丸テーブルから1番近い席を選び、向かい合って座った。わずかな沈黙の後、少女が口を開く。
「さっきはありがとう。君がいなかったら、私は今頃この世界にいなかったかもしれない」
「どういたしまして。……あのさ、さっきは何で泣いてたの?」
それはずっと疑問に思っていたことだった。SAOの感情表現はややオーバーであるが、それを差し引いたとしても、涙を流すのには理由がある。
「……いや、ごめん。初対面なのにあんまり突っ込んで聞くのはないよな。今言ったのは忘れて」
「ううん、大丈夫だよ。……えっと、あれは1度に色んなことが起こって、パニックになってたからっていうのもあるけど……私ね、目の前で人が……友達が死ぬところをみたの」
彼女のいう友達とは、現実でも交流のある友人の事を言っているのだろう。その親しい友人が、目の前でポリゴン片となって消えていく瞬間をみた、というのだ。
「その子は元βテスターで、その子に誘われてこのソードアート・オンラインを買ったの。ネットゲームはよくわからないけど、なんだかすっごく楽しそうだったし、仮想世界っていうのにも興味があったから。それで……今日実際にやってみたら、まるで私の知らない別の世界に来たみたいで、ここが仮想空間だって信じられないくらいだった。それで……その友達と一緒にモンスターと闘って、その後に休憩してたら……突然……」
その先の言葉は言わなかった。否、言えなかった。目の前で起きた友人の死を、まだ彼女は受け止めることができていなかった。
「その時は何が起きたのかわからなかったけど、さっきの広場の話で、その子はもういないんだってわかって……。その後たくさんの人達が叫んでるのを聞いて、その場にいるのが急に怖くなって、逃げ出したの。……私1人じゃどうしていいかわからなくて、この状況を受け止められなくて……そしたら自然と涙が溢れてきたの」
彼女はゆっくりと自身の思いを吐露するが、次第にその声は弱々しいものになっていく。
そんな彼女が懸命に絞り出した声を聴き漏らすまいと、カイトは黙って静かに聞いていた。
「ごめんね……一方的に話しちゃって……。でも、話したら少し気持ちが楽になったよ。ありがとう」
デスゲーム開始から一晩が経ち、現在時刻は朝の6時半。セットしておいたアラームがけたたましく鳴り響いたため、カイトは目を覚ました。
制服に着替えて学校に行く準備をしようと思ったのだが、いつもの自分の部屋とは違う光景を見て、昨日の出来事を思い出した。寝ぼけた頭が徐々に覚醒し、意識がはっきりしてくると、目の前で起こったのは夢ではないと再確認させられる。
(習慣って恐ろしいな。もう部活の朝練に行く必要なんてないのに……)
ゆっくりと起き上がり、メニューから装備を選択して身に付ける。この世界の着替えは非常に簡略化されていて、ボタン一つで身なりを変えることができるのだ。 ベッドに腰掛けた状態で、昨晩寝る前に考えていた事を思い出す。
(女の子1人だけってのも物騒だし……一応聞いてみよう)
この時間ならまだ起きていないかもしれないが、カイトは立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。ドアを開けて廊下に出ると、少女の泊まっている隣の部屋の前に立つ。右手を軽く握ってノックをしようとすると、不意にドアが開いた。
「わっ!!! あ、お、お早う……」
「お、お早う。ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。…………えっと、少しいい?」
「う、うん……えっと、どうぞ」
少女はカイトを部屋に入れ、お互い適当な場所に座った。
「一応伝えとこうと思って。オレはこのゲームを攻略するために、前へ進もうと思うんだ。先に行って待ってる知り合いもいるし。……そのためにも、今から次の村へ向かうよ。そこで1つ提案なんだけど……もしよかったら一緒に来ない?」
カイトの提案は、共にこのゲームを攻略しようというものだった。デスゲームとなった今、ソロでこのゲームに挑むのは危険が伴う。序盤は兎も角、この先攻略が進めば進むほど難易度は上がり、いずれはソロで対処するのが難しくなる事態も増えてくるだろう。
しかし、複数人で行けば不足の事態にあったとしても、お互いが助け合うことでその危険を回避することができる。POTローテ、スイッチといった各種連携を始め、デバフ解除も容易になるだろう。つまり、生存率が上がるのだ。
「で、でも……街の外にはモンスターだっているし、戦って死んじゃうかもしれないんだよ。それならいっそ、安全な宿で助けを待つのが良いんじゃ……」
「……多分だけど、助けは来ない。1日経った今でもゲームの中にいるってことは、昨日広場で茅場が言ってた『ナーヴギアの取り外しは不可能』は本当だって事だ。勿論この事は今頃世間で注目されてるだろうから、今後何かしらの処置は取るんだろうけど……。でも、ここでいつ来るかわからない助けを待つよりも、前に進むのがいいと思うんだ。宿だってお金はかかるから、いつまでも閉じこもってられないし……」
「……そんな……こんなのってないよ。なんでこんな目に合わなくちゃいけないの?」
少女にはまだ、身に振りかかった現実を受け止めれきていないようだった。カイトは冷静に話しているが、彼自身も気持ちは彼女と同じだ。彼女をこれ以上不安にさせないよう、気丈に振舞っているだけにすぎない。
この世界にいるプレイヤーは皆、受けた影響に多少の差はあれど、誰もが同じ精神状態に陥っている。恐怖、困惑、絶望を感じ、頭の中はぐちゃぐちゃで整理がついていない者も多いだろう。比較的まともに見えたキリトでさえ、内心は違うかもしれない。
「もうイヤだよ……みんなに会いたいよ……」
か細い声で少女が呟いた後、膝の上に置かれた手の甲をポツポツと水滴が濡らす。カイトが少女の顔を見ると、大きな瞳から大粒の涙が次々と溢れ出していた。
『涙は女の武器』と言うが、一体誰が最初にそれを口にしたのか。カイトは少女の涙に心を揺さぶられ、庇護欲を掻き立てられる。当然少女は意図してやったわけではなく、これは彼女の本心からくる涙だ。
カイトは立ち上がって少女のそばまで行くと、姿勢を低くして少女の手にそっと自分の手を重ねる。
「……わかった。じゃあ、オレが絶対に君を死なせないから。このゲームがクリアされるまで、何があっても君を死なせない」
不安がる少女を少しでも安心させようと言った、カイトの言葉。それは嘘などではなく、彼女を放っておけないがゆえに放った言葉だった。
その言葉に反応し、少女は俯いていた顔をゆっくりとあげ、未だ涙を流す瞳でカイトを見つめた……のだが、その視線はすぐに別のものへと向けられた。
「……何、これ?」
少女の疑問は、目の前に表示されたハラスメント防止コードだった。この世界では異性に一定時間触れると、触れられた側にハラスメントコードが表示され、プレイヤーを強制的に監獄エリアへ送ることもできるのだ。
少女の前に表示されているウィンドウは、カイトには一見して無機質な板に見えるため、彼は少女の疑問が一瞬何の事かわからなかった。しかし、ハラスメントコードの存在を知っていたことと、置かれている状況から奇跡的に何事かを察知して閃いたカイトは、光の速さで手を離す。
「…………っ!? ごめんっ! それはハラスメントコードって言って、異性に触られると出るやつなんだけど、別にオレはやましい気持ちだったわけじゃなくて、君に安心してほしかったからやっただけで。だから――」
「……ぷっ……あはは」
カイトが必死に弁明していると、少女は突然吹き出して笑い出す。それはカイトが少女と出会って以降、初めて見る笑顔だった。
「あっ、ごめんね。なんか慌ててるのが可笑しくって。……でも、ありがとう。なんだか元気出てきた」
そして少女は涙を拭う。
「なんだか良い人みたいだし、君なら信用できるかも。……えっと、私も一緒についていっていいですか?」
「も、勿論! ……じゃあ早速だけど、今からそっちにパーティーの申請をするから」
パーティーの申請を出し、少女がそれを承諾する。完了したところで、カイトのHPバーの下にプレイヤーネームとHPバーが表示される。
「そういえばまだお互い名前も知らなかったな。よろしく、ユキ《Yuki》」
「えっ! なんで私の名前を知ってるの?」
「えっと、パーティーが結成されたから、自分のHPバーの他にもう一本あるだろ? そこにパーティーメンバーの名前があるから……」
そう言われてユキはカイトの名前を確認する。
「カイト《Kaito》……君か。じゃあ改めてよろしくね、カイト!」
ユキはそう言って、カイトにニッコリと微笑む。その笑顔は窓から指す光を浴びて、より一層輝いて見えた。
「よしっ、そうと決まればすぐに次の村へ行こう! 今なら1番乗りかもよ」
「いや、オレが知り合った元βテスターが昨日のうちに村に行ったから、1番ではないよ」
「じゃあ2番! それでカイトは3番ね!」
「なんでだよ!!」
先程までとはうってかわって明るいユキ。きっとこれが本来の彼女の姿なのだろう。
こうして2人は、部屋の外へと足を一歩踏み出した。