死神は言った。遊ぶのはやめだ、と。
それはつまり、今まで彼は全力を発揮していなかった、ということ。
そしてその言葉に嘘偽りはない。
何らかの操作を終え、右手に携えている《
剣から発生する靄はそよ風が吹いているかのようにゆらりゆらりと揺れ、時間経過と共に濃度を増していく。靄を通してうっすら見えた景色はいつしか黒く塗りつぶされ、何処までも深く暗い闇を見つめ続けていると、気が動転しそうなほどの恐怖を駆り立てられた。
故にカイトもユキも、剣から漏れる謎の演出から目を逸らし、PoHだけを意識して瞳の奥に捉え続けるのを余儀なくされている。
一方、2人からの視線を浴び続けているPoHはというと、口を真一文字に結んでじっとその場で佇んでいた。目元は被っているフードが影を落としているために見えないが、間違いなく視線は2人に向けられている。
そして凍てつくような空気が支配している場の静寂を最初に破ったのは、この状況を生み出した張本人のPoHだった。
「……どうした? そう怖い顔するなよ」
今のカイト達は警戒心からくる緊張により、眉間に皺を寄せ、剣を持つ手だけでなく、全身に過剰な力を入れてしまっている。皮肉にもPoHから指摘を受けてその事にようやく気付き、脱力すると、幾らか緊張感から解放された気がした。
「OK。肩の力は抜けたみてぇだな」
「……お陰様で」
多少は肩の力が抜けてリラックスしたが、それでも表情は依然として強張ったままだった。緊張の糸を緩めず、雲のように掴み所のない彼の一挙一動に神経を集中させる。
「それじゃあ……続きといこうじゃねぇか」
戦闘再開の合図と共に、何故かPoHは後方へ大きくバックステップで跳び退いた。ふわりと軽やかな跳躍で宙に身を投げ出すと同時に、左手が後ろ腰に回る。その手にはアイテムポーチから取り出した掌サイズの物体を握り締めており、2人が正体を確認するために目を凝らすと、それは
効果はせいぜい1〜2秒の足止めにしか使えない代物だが、高レベルプレイヤー同士のPvPの場合、たとえ数秒でも命取りになる。咄嗟の判断で破壊することを試みたカイトは、一目散に走り出して剣を担ぐ。黄緑色の燐光を剣に纏わせ、片手剣上段突進技《ソニックリープ》で、小さな物体を破壊しようと上空へ飛翔した。
アイテムの効果が発動する前に、カイトの《ソニックリープ》による鋭い斬撃が振るわれる。煌々と輝く剣尖は寸分の狂いなく小さな物体を捉え、アイテムに設定されている耐久値は瞬く間に減少。真っ二つに分断され、炸裂前の破壊に見事成功した。
宙を舞っているカイトは、破壊して跡形もなく四散した対象から敵に視線を移すため、前方にいるPoHを見据えた――――筈だった。
(――いない!?)
バックステップで距離をとった筈のPoHが、何処にもいなかったのだ。一瞬の内にカイトの視界の外側へ離脱したか、あるいは逃走を図ったのかと考えた。
『おいおい、何処見てんだ?』
宙に身を投げ出し、着地して片膝をついた瞬間にカイトの耳が捉えたのは、不意に背後からかけられたPoHの声。それもかなりの至近距離から聞こえたため、彼は立ち上がると同時に条件反射で腰を回して後ろを振り返り、剣を背面に勢いよく払った。切っ先はPoHの身体を確実に捉えてダメージを与える。……ただし、
「――なっ!?」
振り払った剣尖から伝わるべき手応えは感じられなかった。それもその筈、元々PoHはカイトの後ろになどいなかったのだから。
《
それ故の困惑。声のした方向を聴き誤ったとは思えず、これはPoHの発動した新種のスキル――先程の黒い靄が関連しているのかと推測した。
「カイト、後ろ!」
ユキの注意を促す鋭い声が鼓膜――厳密には違うが――を刺激し、聴覚情報は電気信号に変換されて彼の脳を駆け巡る。彼女の発した声の意味をゆっくり考える暇などありはしないため、反射的にカイトは立っている地点から離れる選択を実行した。
後ろを振り返って確認する暇もなく、彼は横っ飛びを敢行。その直後にコンマ数秒前までカイトの頭部があった位置目掛け、大型ダガーの刀身が突き出された。
「So lucky……相棒に感謝するんだな」
カイトが回避行動をとった位置からすぐそばで、PoHが佇んでいた。策略が思い通りにいかなかった事で落胆している様子だが、ややオーバー気味のリアクションは演技なのか、それとも本心からくるものなのか。その真意は図れない。
そんな彼の足元――――真っ白な床に転がっているのは、いつの間に仕掛けたのかわからない正八面体の硬質な結晶だった。
それは音声録音機能を有している《メッセージ録音クリスタル》。一般的には証言の記録や遺言を残すといった使い方をするが、PoHは自身の声をあらかじめ録音していた結晶をカイトの背面に放り投げ、声で
仮にこの場で戦闘しているのがカイトだけだとしたら、間違いなくダガーで頭部が切り裂かれていただろう。しかし幸運にもユキの発した声で難を逃れ、ダメージは頬を掠める程度に終わってくれた……のだが、傷付けられたカイトの頬は、ダメージ以上に不可解な現象を感知していた。
(……なんだ、これ?)
頬が感じている妙な違和感。ピリッとした刺激が切られてからも残存し、思わず頬を摩る。左手で触った後に指先を見れば、彼の目には真っ赤な液体がべっとりと付着している光景が映った。怪我をした人間なら当たり前に起きる出血なのだと、理解するのに数秒を要した。
それこそが頬に違和感を与えている現象を説明する正体。仮想世界に馴染み過ぎていてすっかり忘れていたが、約2年ぶりとも言える『痛み』の刺激を、カイトは久しく思い出した。
「カイト、どうしたの?」
その様子を見ていたユキが、訝しげな声で呼びかける。ハッと我に返ったカイトは今一度頬を撫でた指を見るが、そこにはもう真っ赤な液体は存在していない。どうやら血液はカイトが想像で作り出した幻であり、最初からそんなものは存在しなかったのだろう。
だが、ありもしない血液は偽りだったとしても、頬に感じた痛みは紛れもなく本物だった。その証明になるかはわからないが、赤いダメージエフェクトが修復される直前まで、確かに切られた痛みはあったのだから。
しかし、仮想世界――SAOに閉じ込められてから今までの間、痛みという信号を感知したことは、これまで一度たりともなかった。それもその筈、SAOでは剣で切られようが拳で殴られようが、極端な話上空1万メートルの高所から落下しても、痛覚刺激は伝達されない仕組みになっているからだ。その代わり「なんとも言えないイヤ〜な感じ」の不快感だけは残るが……。
「……痛ぇか?」
PoHが艶やかな美声でカイトに問いかけた。
PoHはフードの奥にある双眸でカイトの様子を伺い、反応を観察しているようだった。もっとも、これは彼の剣が発する現象が関係しているのは間違いなく、PoHはカイトの様子を見て「どうした?」ではなく、「痛ぇか?」と問いかけている。つまり彼はカイトに剣撃を浴びせたことで、切られた部位に痛覚刺激が生じる事実を知っているのだ。
PoHがカイトの持つ自己・他者を問わずに即時回復させるユニークスキル《治療術》を知らないように、カイトもまた、PoHの使用した痛覚刺激を相手に与えるスキルを知らない。情報屋が開示しているスキルリストに載っていない、稀有なスキルであるという答えは明白だ。
そしてそれこそが、PoHの所有するユニークスキル《暗黒剣》が持つ特徴の一つ。
通常は《ペインアブソーバ》と呼ばれる痛覚再生エンジンによって、脳が勝手に生成する仮想の痛みを緩和し、プレイヤーが痛覚を感じないように保護している。SAOはこのペインアブソーバを、痛み生成値なし・緩和最大のレベル10に設定しているが、《暗黒剣》はペインアブソーバを痛み生成値最大・緩和なしのレベル0にまで下げる効果を保有していた。よって、切られた相手は現実と遜色ない痛みを受けることになり、カイトの感じた違和感の答えがそれである。
だが《暗黒剣》のスキル名と能力を知らないカイト達にしてみれば、そんな事情は知る由もない。
「……ユキ、あいつの剣は極力喰らうな」
「え? う、うん……」
一層険しくなる彼の表情に、思わずユキは辟易してしまう。
一度だけでなく、どうせなら数回は実験・観察をして身に起こった現象を確信させたいが、痛みを伴う検証など、わざわざ自分から進んでやる物好きはいない。だが、危険を伴う検証を彼女に負わせるつもりは、カイトの中で微塵もない。
故に先陣はカイトがきる。一気に距離を詰めて肉薄すると、剣を下段に構え、逆胴の軌道を思い描きながら鋭く剣を振り抜いた。PoHは彼の挙動に合わせて刀身が届かない位置まで下がったため、風を切り裂きながら進んだ刃先は、惜しくも歩幅1歩分届かない。そして今度はPoHが反撃に出た。
後ろに下がった身体が一転、前に体重をかけながらダガーを突き出す。急所の頭を迷わず狙いにかかるが、カイトは咄嗟に頭を右に逸らして回避した。耳元のすぐそばを通過したダガーを横目に見て、ついつい恐怖を掻き立てられる。仮初めの心臓が大きく跳躍した。
しかしそれだけでは終わらない。真っ直ぐ突き出して伸びきった右腕を空間に固定し、力の限りを尽くしてそのまま振り下ろした。カイトもまた、PoHと同じように後ろに下がって回避を試みたが、彼のようにはいかなかった。刃が肩口を掠めたせいで赤いダメージエフェクトが散り、例に漏れず、切られた箇所から痛覚信号がカイトを襲う。
「――――ッ! このっ――」
たとえ擦り傷でも痛いものは痛いが、それを堪えてソードスキルを発動。PoHも素早く手を引っ込めて構えると、ソードスキルを発動して迎撃体制に移行した。
片手剣垂直4連撃ソードスキル《バーチカル・スクエア》。
暗黒剣中位4連撃ソードスキル《ブラックスミス・カーテン》。
カイトが青白い残光で空間に正方形を描く一方、PoHの黒い燐光を纏った剣尖は空間を縦横無尽にはしり、眼前を黒く染め上げるような軌跡を描く。まるで2人の間に1枚の暗幕を下ろしたようで、カイトには向こう側にいるPoHの姿が霞んで見えた。
剣と剣がぶつかって甲高い金属音を響かせると、両者の身体は大きく弾かれて仰け反る。
「スイッチ!」
その合図を予期していたかのように、ユキが間髪入れず飛び出し、ノーガード状態だったPoHに単発ソードスキルで一撃を見舞った。そしてそれこそが怒涛の連続攻撃――――《
「せやあぁぁぁぁあ!!」
「ハッハァ!!」
《体術》スキルの打突技、回避を織り交ぜた《軽業》スキルの跳躍、《短剣》スキルで繰り出す剣技、《舞踏》スキルで行う受け流し。先程彼に見舞った物となんら変わりない流麗な剣舞だ。
しかし、PoHが《
これまで数々の修羅場をくぐり抜けてきたPoHに言わせれば、技という物は人それぞれに癖が存在する。それは当然ユキにも同じ事が言えるし、一見すると隙のない動きに気圧されて見落としがちだが、『ない』ように見えるだけで、実は『ある』のだ。
「――ッ!!」
殺意の込もったダガーで鋭い突きを繰り出すが、ユキは《舞踏》スキルの動きで華麗に回避。そこから彼女は短剣単発ソードスキルで切りつけようと企てたが、その目的は敢えなく達成出来ずに終わった。
PoHの突きは当てるつもりで繰り出したのではなく、ユキが次にする行動を誘導するために放ったのだ。彼女は敵の攻撃に対して回避行動を取った後、高確率で《短剣》あるいは《体術》のソードスキルを、ややカウンター気味に素早く繰り出すのが定石のパターンになっている。ほぼ無意識に行っているユキの戦闘パターンを、PoHは戦闘中に見抜き、彼女が回避から攻撃に移行する際に生まれる僅かな隙を狙い撃つ。
PoHはあえて攻撃することでユキに回避を促すと、彼女の持つ白銀の剣が光を帯び出した。そこでソードスキルが完全に立ち上がる前に、PoHは本命の拳による殴打を放つ。彼女の腹部に深々と決まった左拳により、それまで止まることなく動いていた少女の動きが静止した。ユキの《
「――っ!」
《暗黒剣》で切られなかっただけマシだが、それでもちょこまかと動く少女の足を止めるのは成功。PoHにとってユキを痛めつけるのに必要な時間は、その一瞬で十分だった。
「レッツ・ダンシング」
《
刹那、自身に降りかかる未来を予期したユキの表情が恐怖に染まるが、彼女の腕は強く掴まれ、思い切り後ろへと引っ張られる。身体が後退したことで広くなった視野が捉えたのは、PoHの剣技を代わりに受けようとするカイトの姿だった。
振り下ろされる大型ダガーに対し、カイトは片手剣を水平にして左手を剣の腹に添える。剣が接触した瞬間、カイトの腕には重い衝撃が加わり、苦悶の表情を浮かべる事となった。
接触したダガーはそのまま振り抜かれるが、すぐに軌道を変えて下段から上に切り上げられる。2連重攻撃の2撃目が彼に容赦なく襲いかかり、カイトの身体を黒い刃が深々と切りつける。
「――グガアァァァァッッッツ!!!!」
もたらされたのは、擦り傷程度では決して味わえないような痛み――激痛。彼が生きてきた人生の中で間違いなく最も大きい痛みであり、その大きさは思わず絶叫せずにいられない。抉られた腹部にはいつもと変わらない真紅のエフェクトが舞い散り、システムの算出したダメージにより、カイトのHPはガリガリと削られた。そしてノックバックで飛ばされた彼は、いつものように受け身の姿勢を取る余裕などある筈もなく、地面を転げて倒れる。
痛みでうずくまってしまったカイトの元へとユキは駆け寄り、一撃で半分以上を軽々削られた彼のHPを回復させるため、回復結晶を取り出した。
「ヒール!」
コマンドを唱えたことで、HPは瞬時にバーの右端へと引き戻される――というのが本来の仕様だ。だが、彼に限って言えばそうではない。《結晶無効化エリア》でないにも関わらず、ユキの取り出した回復結晶は一向に反応を示さなかった。
「そんな……なんで……?」
それこそが《治療術》スキルの持つ弊害――――結晶アイテムの一部無効化。
《治療術》は自他共に回復・解毒を行えるという大きなメリットを有する一方、回復結晶や解毒結晶といった《治療術》で補えるアイテムの効果を、自他問わず無効化している。スキル自体が最早結晶アイテムの役割を担っているので、確かに必要ないとも言えよう。だがこういった特殊な状況の場合は、非常に不便な特性とも言える。
そして結晶アイテムが使用出来ないということは、カイトのHPバーに突如点灯した
「大、丈夫……大丈夫、だから……」
痛みに耐えながら切れ切れに声を絞り出し、隣で心配そうに様子を伺う少女を安心させようと、無理やり笑顔を作った。しかし肩を大きく上下させ、苦しそうな彼を見て、不安を取り除ける訳がない。
カイトは回復と
そんな彼を称賛しているのか、はたまた馬鹿にしているのかはわからないが、PoHはダガーを脇に挟んで拍手をしていた。乾いた音が響き、2人の神経を逆撫でて苛立ちを与える。
「よく立ち上がったなぁ。……にしても、まだやる気か?」
カイトの中で未だ戦意が残っている事実に、PoHは少なからず感心していた。
《暗黒剣》をプレイヤーに対して使ったのは、これが初めてではない。これまで行使した相手も彼のように、剣を受ければ苦痛に顔を歪めて恐怖に支配されてきた。『《
諦めて膝をつき、
敵に背を向け、逃亡を図る者。
一心不乱に懇願し、見逃してもらおうと考える者。
やり口は違えど皆に共通するのは、『負けを認めて屈服した』という事。
だが、そのどれにも属さない新しい反応を示したプレイヤーが今、PoHの前に現れた。
「……あんたが……強いなんて事は…………最初からわかってるんだ」
「アァ?」
「今更驚く事はあっても……尻尾巻いて逃げ出すなんて真似……するつもりはないよ」
切られた腹部に左手を当てながら、毅然とした態度で剣を構えてはいるが、手から発生して剣に伝わる震えまでは抑えきれていない。混乱しているわけでも、命を捨てる覚悟を決めたわけでもない。『まだやれる。まだ勝てる』と、心の何処かでそう思っているのだろう。
「……ククッ」
そんなカイトの様子を見て、PoHは不敵な笑みを浮かべるのであった。
《暗黒剣》の特徴その1『ペインアブソーバのレベル引き下げ』は独自設定です。
その1、というからには他にも用意していますが、それは次回に明かします。
《治療術》のデメリット『結晶アイテムの一部使用無効化』は、自分で使う場合は勿論、他プレイヤーに回復結晶等を使用してもらう場合にも適用されます。なのでスキル取得後のカイトは回復する際、人前では基本的にポーションでHPを回復しています。
次話で決着し、番外編を挟んで6章へ進む予定です。
早ければ3週間以内、遅いと年末の更新になるかと……。