迷宮区の探索から一転し、フロアボスの攻略、行方知れずだった殺人ギルドの元団長と交わした死闘を経て、カイト達の一日は本人の意思に関わりなく過ぎ去ってしまった。気を失ったカイトが目覚めたのは翌日の早朝であり、普段からキリトとよく利用している見慣れた宿部屋の天井が、彼の覚醒を出迎えてくれた。
彼の身に起こった突然の昏睡状態は、状況から察するに『脳への過度な負荷を和らげるため、強制的にアバターの意識を昏睡させた』というのが、キリトの立てた推論だった。
仮想世界で与えられる数多の刺激は、全て脳に直接リンクしている。当然痛覚も例に漏れずそうであるため、現実同様の痛覚刺激を受けた場合、本来であれば緊急措置が取られていてもなんらおかしくはない。
だが『ログアウト』という概念が、SAOには存在しない。意識の混濁に続く意識の喪失は、使用者の負担を和らげるために備え付けられた最終手段なのだろう。いわば、脳を休めるために睡眠をとる、に同義と考えてよい。
「ユキから聞いたけど、手を切られたんだって? 大丈夫か?」
カイトの身を案じたキリトが、神妙そうな顔で覗き込んだ。
「う〜ん……うん、大丈夫そうだ」
きれいさっぱり元に戻っている左手をグーとパーの形に変え、動作の確認を行う。なんの苦もなく動いている様子から、アバター自体に異常は見受けられない。問題視する必要はなさそうだった。
「それにしても、『痛みを与えるスキル』か……。なんというか、まるで人を殺すことを目的としたスキル――――カイトの《治療術》と対極に位置するスキルだな」
現実と遜色ない痛みを与える《暗黒剣》を用いれば、仮想と現実の差異はない。『与ダメージの増加』は兎も角、『ペインアブソーバの解除』に関していえば、ゲームでは本来必要のない機能だ。矛先はプレイヤーに対して使用するのが正しい使い道なのだろうが、その意図がなんなのか、二人には図りかねていた。
「まあ、何はともあれ、お互い無事でなにより――」
「――だな!」
両者は軽く拳を握ると、コツン、とぶつけ合った。
二人ともお互いが持つ切り札を出し惜しみすることなく発揮しなければ、今日という日を向かえるのは叶わなかっただろう。『勝敗は二の次、生き残るのが最優先』というのが、この世界に囚われた物全員に課せられている暗黙のルールだ。
――コン、コン
昨日の健闘を讃え合う二人を他所に不意打ちで聞こえたのは、扉を叩くノック音が2回。それは彼ら二人の泊まる場所に来客が訪れたことを知らせた。
そして次に耳が捉えたのは、二人が頭を悩ませる事態の始まりを告げる、開戦の合図だった。
とある階層のとある街。その中でも人目につきにくそうな狭く薄暗い路地裏。賑やかな都心から離れたこの場所に、キリトとカイトの二人が息を殺して潜んでいた。
別に誰かを闇討ちしようだとか、そういった物騒な思惑を抱いているわけではない。彼ら二人はただ単に身を隠し、自分達を追ってくる輩を撒くため、仕方なくこうしているのだ。ジメッと小汚い場所を好きで選んだ訳でもなく、本当に『仕方なく』だ。
「……撒いた……か?」
キリトの羽織っている、
「あぁ、大丈夫だ……」
そしてカイトの問いかけに対し、キリトも出来る限り声を小さくして答えた。
一先ず自分達二人を追跡していた追手を振り切った事に安堵し、ホッと一息だけつく。
本日は文句無しの日本晴れであり、最高の気象設定であろう今日という日は、いつぞやのように草の上で寝転がり、風を感じながら昼寝をするに限る。だが、今の彼らにそんな余裕は微塵もない。その原因は現在カイトが右手で握りしめている、今朝アインクラッド全土で発行された一枚の新聞だった。
前日にフロア攻略がなされて新しい階層が開通したので、その事が新聞の一面を飾るのは別段珍しい話ではない。問題はその話についた、プレイヤーの興味を引く数々のオマケだった。
「いくらなんでも誇張しすぎだろ……」
カイトは頭を抱え、深く項垂れる。
一際大きいフォントでデカデカと印字されている字は、以下の通りだ。
『軍の大部隊を全滅させた黒い悪魔』
『それを単独撃破した二刀流使いの五十連撃』
前者はグリームアイズ、後者は間違いなくキリトだろう。
確かに軍は深手を負いはしたが、生存は確認済みだ。加えてキリトはフロアボスを単独で討伐した訳でなく、正確にはアスナと二人で討伐したのが正しい表現だろう。
そして何をどうしたら本来の攻撃回数の3倍となるのか。十中八九、情報屋が大袈裟に表記しただけなのだろうが、当の本人にとっては笑い話で済まされる事ではない。
「良かったな、キリト。これでお前は一躍時の人だ」
「それを言うならそっちもそうだろ」
キリトの返しに、カイトは思わず深い溜め息をついた。
『かつて混乱をもたらした元レッドギルド団長が復活』
『それを退けたのはアインクラッド唯一の不死身の剣士』
事情を知らない者からしてみれば、アイテムを使用せずに回復するカイトの様は、確かに不死身に見えた事だろう。厳密には違うのだが、最早一々訂正する余裕はない。
この記事を見た情報屋や剣士が二人の寝泊まりする宿に押しかけ、一時は大変な騒動にまで発展してしまった。未知のスキルが二つ同時に公となり、一つはフロアボスを撃破出来るほどの高火力、もう一つはSAOで絶対存在しないとまで断言されていた正真正銘の回復スキルだ。《
「……どうする?」
「何を?」
「決まってるだろ、この後の事だよ。オレとカイトが泊まってた宿は既に知られているわけだし、戻るなんて選択肢はない。見つかれば間違いなく面倒な事になるだろうから、少しの間は何処かに身を隠す必要があるだろ?」
キリトの言いたい事を理解したカイトは、すぐに頭で閃いた答えを口にした。
第50層主街区《アルゲード》。
雑多な街並みの中、行き交う人々が交わしている話の内容は、新聞で一面を飾っている前日の事がチラホラと聞こえていた。新たなユニークスキル使いの出現に対する反応は、勿論妬みの類いもある。だがそれ以上に真逆の反応をする者もおり、理由は攻略速度の加速を予想したゲーム脱出の早期化、あるいは憧れといったものが挙げられた。
その話題の中心人物が、よもや人目を避けるために建物の屋根を疾走している等と、皆は露程も考えていないだろう。
屋根から屋根へと飛び移り、目的地周辺の場所まで来ると、人目につかない場所を選び、数メートルはある高さをなんの躊躇もなく落下する。着地の際に発生する高所落下の不快感を避けるため、横壁を足で蹴ってジグザグに降下した。
「こういう時に便利だよな、フレンドリスト」
カイトが目の前で表示しているウィンドウには、目的地である《エギル雑貨店》にいるであろう店主・エギルの居場所を示した光点があり、彼はそれを見つめていた。何度も訪れているエギルの店は道順を覚えているため、通常のルートを使えば迷うことはまずない。しかし屋根の上から見る景色は普段と異なり、うっかりすると自分達がどこにいるのかわからなくなるだろう。
通い慣れた《アルゲード》に迷うという醜態を避けたいカイトは、フレンドリストの機能――フレンド追跡――を使い、エギルの現在地点を脳内のゴールに設定。朝ならまだ自分の店にいると睨んだところ、案の定その通りだった。
エギルとの距離はおおよそ50メートル。ここまで来れば迷う心配はなく、二人は地に足をつけて歩き出した。
人の往来が激しい道は素早く動き、《エギル雑貨店》の扉を開けて入室するとすぐに戸を閉める。念のためキリトが扉を数十センチ開けて外の様子を伺うが、いらぬ心配だったらしい。彼はふう、と一息ついた。
「……何やってんだ?」
カウンターの奥で、キリトの行動を訝しんだエギルが声をかけた。キリトの動きを傍からみれば、不審者オーラ全開であるので無理もない。
「急に『匿って欲しい』なんてどうした? またなんか厄介事か?」
「それには深い事情が……」
「エギル。今日の新聞、読んでないのか?」
「あぁ。ついさっきまで開店準備やアイテムの整理をしてたからな。まだこれからだ」
「そうか。ならコーヒーでも飲みながらこれを読んでくれ。オレ達二人の今の状況は、今朝の新聞を読めばおおよそ察する事が出来る筈だから」
そう言ってカイトはストレージに収納していた新聞を取りだし、エギルに渡した。
一方のキリトはアスナと待ち合わせをする旨の内容をメールで送ると、思い出したかのようにハッと顔を上げた。
「そうだ。エギル、ついでに昨日の戦利品を売りたいんだけど」
「おぉ、なら二人とも適当に座ってくれ」
そう言ってエギルは円形テーブルの上にコーヒーを二人に差し出し、カイトから受け取った新聞は後回しにして、キリトの戦利品鑑定作業に入る。二人の間でトレードが行われているのを見ながら、カイトは美味しいのか美味しくないのかよくわからないコーヒーをすすっていた。
すると突然、バンッ、という大きな音と共に扉が開け放たれる。店内にいる三人が音の発生源に自然と顔を向けると、そこには騎士団の制服に身を包んだユキが立っていた。
「ユキ、お早う」
「どうかしたのか? そんなに慌てて」
慌てた様子の彼女を見ても、カイトとキリトの二人は能天気に声をかける。これまでの彼女の心中を察するのならば、あまりに不釣り合いな反応だった。
「ど――――」
故に彼女は――――
「『どうかした?』じゃないよ!!」
――――不満を口にする。
店内の奥へと進み、ユキはカイトの元へと駆け寄ると、彼の両肩を掴んで前後に揺さぶった。
「急にカイトは倒れるし、目は覚まさないし、心配で今朝宿にいったら大変な事になってるし! おまけに聞きたい事は山程あるし!」
「お、おおおお落ち着け! まずは落ち着け!」
揺すられているカイトは、自身の肩に乗せられている彼女の腕をとり、腰を据えて話をするために動きを制止させた。視界の端に映った近くの椅子を指差し、それとなく座るように促すと、ユキは素直に誘導に従う。
座った彼女は膝に手を置き、カイトの口がいつ動くのかを、上目遣いでじっと注視していた。見られている側の彼にしてみれば少々睨まれているようにも感じとれたが、まずは先程ユキが口にした事の説明をするため、一言ずつ、ハッキリと話し出す。
「……コホンッ、えー、まずオレ自身に関しては何も心配いらないから。ちょっと気を失ってただけで、今は意識もハッキリしてるし身体も動く。無問題! ノープロブレム! ……それで今回の騒動の大きさについてはもうわかっている……んだよな?」
「うん」
「なら知っての通り、今までにないスキルが出現――――しかもヒースクリフの《神聖剣》と同じカテゴリのユニークスキルだ。ユキが今朝見たように、オレ達二人から情報を引き出すために色んな人が押しかけて来ている。……まあ、こうなる事はなんとなくわかっていたけど」
いつまでも隠し通せるとは、微塵も思っていなかった。いずれ公に晒す日が来るのは自明の理だが、予想よりも早かった。ただそれだけの事である。
「それでもここまで騒がれるとは考えてもみなかったな。何処か人目のつかない静かな場所で大人しくするか……」
「……スキルはいつ頃現れたの?」
「えっと、今年のはじめ……かな? 迷宮区のマッピング中に結晶アイテムを使おうとしたら、全く反応しなくてさ。バグかと思って色々調べたら、スキルリストに見慣れないやつがあったんだ」
彼が《治療術》スキルを取得したのは、キリトが《二刀流》スキルを取得したのと同時期である。それらしきクエストをクリアした覚えは一切なく、出現条件に心当たりがないかを過去に遡って考えれば考えるほど、何が何だか分からず仕舞いだ。
「今となっては便利だけど、最初の内は結構苦労したんだ。他プレイヤーの回復しか出来ないし、スキルのせいで結晶アイテムは使えないから、ポーションで済ませるしかないし。だからキリトが戦闘で《二刀流》を使って、オレは減少したキリトのHPを回復するのに努めて《治療術》の熟練度を上げる。暫くはそんな感じだったな。自分のHPを自力で回復できるようになったのは、取得から少し後だったよ」
「昨日も思ったけど、色々と癖のあるスキルだよね……。キリトの《二刀流》と違って、制限が多いというか……」
「流石の茅場もこんなスキルが無制限に使えるのは良しとしなかったんだろうな。……それでも十分チート級だけどね」
《治療術》スキルの保持者は、間違いなく生存率が他者より上がる。
特に《結晶無効化エリア》では非常に心強く、74層のボス部屋がそうだったように、今後のボス部屋にも無効化エリアの設定がなされている可能性は少なくない。皆がポーションでの回復手段しかない一方、カイトだけが結晶アイテムを使えるのと同義だ。ストレージ容量を気にする必要もなく、チートと揶揄されても不思議ではないだろう。
そこでふと、カイトの中で疑問が生まれた。それは『唯一無二』と言われるユニークスキルを実装する意味について、だ。
アイテムのドロップ確率といった事を抜きにすれば、SAOは原則全てのプレイヤーが等しくチャンスを得られるように配慮されている。しかし、ユニークスキルはSAOのシステム内で異色を放ち、どう考えても
(《神聖剣》・《二刀流》・《治療術》……それにPoHが使ってたスキルもおそらくは……。どれをとってもゲームバランスが崩れかねない代物だ。……わざと? だとしたら何のために?)
ぐるぐると脳裏で思考を巡らせるが、答えは出ない。斜め上の虚空を見つめていると、上の空状態のカイトを心配したユキが、彼の眼前に掌をかざした。
「おーい、大丈夫ー?」
「どうした? ラグってんのか?」
「え? ……あ、あぁ、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」
誰かが正解を教えてくれるわけでもない。元より相手は超がつく程の天才だ。凡人がない知恵を絞ろうとも、非凡な発想力では到底ゴールには辿り着けないだろう。
ユキの声を切っ掛けに、カイトはそれ以上考えるのをスッパリ諦めた。
「……遅いな」
「遅いねぇ……」
待ち人、
キリトがアスナに《エギル雑貨店》で待ち合わせる旨のメッセージを送ったのだが、一向に彼女の現れる気配がない。待つこと自体は別段何も苦に感じることはないが、そういった事に関してキッチリとしているアスナにしては珍しい事だった。
「ヒースクリフとの話し合いが長引いてるのか?」
「すぐに終わるってあったけどなぁ……」
アスナはギルドの本部がある、55層主街区《グランザム》に緊急召集されている。各部門の隊長達を集めた幹部会が開かれ、昨日起こった出来事についての報告に行っている……のだが、それにしては時間が掛かりすぎているようにカイト達は感じていた。ユキの知り得ている会議の開始時刻から考えても、只の報告にしてはアスナの到着が遅い。もしや何かあったのではという不安を、この場にいる全員が抱いていた。
「ど、どうしよう……もしアスナに何かあったら……」
ユキも遂にオロオロし出した。キリトに至っては何も言葉を発していないが、テーブルを叩く指先の速度が上がっている。時間に比例して不安は募る一方だった。
「……念のためにメッセージを送ろう。それとフレンドリストから居場所をーー」
カイトが提案の提示をしかけたが、その必要性は無くなった。というのも、彼らの不安感を生み出していた張本人・アスナが、部屋の扉を開ける音と共に現れたからだ。急いで来たのか、彼女は息を切らし、肩が大きく上下している。
「も~、アスナ。心配したよ~」
アスナが来た事でユキは安堵し、ほっと胸を撫で下ろす。彼女の元へ歩み寄ると、両手を包み込むようにして掴み、胸の前に持ち上げた。
「ご、ごめんね。ちょっと色々あって……えっと、キリト君!」
「ん?」
アスナは目の前にいる友人の後方で、椅子に腰掛けているキリトに視線を移し、彼の名を呼んだ。呼ばれた本人は首を傾け、ユキ越しにアスナを見やる。
「今すぐ私と一緒に団長の所へ行こう!」
「…………は?」
突然の提案にキリトは素っ頓狂な声をあげ、首をさらに傾けた。ポカンと口を開けている彼の頭上には、一体幾つのクエスチョンマークが浮かんでいるのだろうか?
そんな彼の反応は無視し、アスナはキリトに近付くと、彼の左手首を掴んで引っ張りあげる。
「理由は移動しながら話すから。兎に角、今はついてきて!」
「ちょっ、お、おいアスナ!」
「それと、二人とも心配かけてごめんなさい。カイト君、この人少し借りるね!」
「あ、あぁ。どうぞ……」
「おい、人を物みたいに――――って、うわっ!?」
カイトの返答を聞いたアスナはキリトの手首を掴んだまま、一目散に走りだして部屋をあとにした。滞在時間が1分とかかっていないであろうその動きは、《閃光》の二つ名に恥じない速さだった。
「……何なんだ?」
「……さぁ?」
残されたカイト達は、今一つ状況を把握出来ていない。
この時のアスナがとった行動の意味はすぐに判明するが、翌日行われる大イベントの前触れである事を、この時の彼等には知る由もなかった。
これにて5章終了。今回は箸休め的な回となりました。
そして次話から6章となります。章タイトルは『心の杯(仮)』。