迷宮区から《グランザム》へ。そこからさらに《セルムブルグ》へ。
持ち帰ったわずかな情報を報告し終え、カイトは
しかし、帰宅した彼を出迎えてくれたユキの顔を見て、彼はなんとも言えない安心感を感じていた。すがるようにして無意識のうちに彼女を抱き寄せたため、突然のことにユキも戸惑う。
「わわっ!?」
お帰りの一言を発する間も無く抱きしめられるのは、流石の彼女も想定外だ。急な出来事で体温が上昇し、ユキの顔が徐々に赤みを増していく。
「……ごめん。今日はちょっと、疲れたから……」
ユキの右肩に顔を
「そっか……大変だったね」
「……うん」
「でも、その……少しだけ力を緩めてくれないかなぁ〜、なんて」
力強く抱きしめていた腕を緩め、カイトは彼女の両肩に手を置いたまま密着していた身体を離す。未だ頬の赤みがかった色が抜けきっていない彼女の顔を見ると、不思議とカイトはもらい赤面してしまった。自分の起こした突発的行動を振り返ると、所在なさげに目が泳いでしまう。
一方のユキもどうしてよいかわからずにいたが、不意に右手を持ち上げると、何もない空間を指先でタップする。カイトからは何も見えないが、おそらくハラスメントコード発動の確認画面が出ていたので消したのだろう。考えがそこまで至ったカイトは、彼女の細い肩に置いていた手も離した。
両者ともに動きが静止したのも束の間、ユキはカイトの右手を掴み、そのまま引っ張って部屋の中へと誘導。リビングの椅子に座るようそれとなく促され、お互いに腰掛けると、彼女はストレージからティーポットとカップを出現させた。
「これでも飲んで、落ち着いて」
カップに注がれたのは、薄い赤色をした紅茶だ。カップの取っ手を持って口元に近付けると、立ち昇る湯気と共に香りが空中に拡散され、緩やかに鼻腔が刺激される。口に含めばほのかな甘味が口内に広がり、飲み込むとスッキリとした味わいと共に喉を潤した。
「美味いな」
「でしょ?」
いつの間にか先ほどまであった嫌な後味は、紅茶と一緒に飲み込まれ、腹の中に流されてしまった。あっという間に全て飲み干すと、一息ついて肩の力を抜く。
「エギルさんのお店で取り扱っていたから、ものは試しで買ってみたんだ。期待以上に美味しかったから、最初は私もビックリしたよ」
自慢気に語るユキの話を耳に入れつつ、カイトはもう一度紅茶を口に含んだ。
「……今日、カイト達に何があったかは、ギルドからの連絡でもう知ってるよ」
その一言でカイトは傾けていたカップを止め、口元から静かに離した。
「犠牲者の中にはギルドの仲間もいたし、同じギルドじゃなくても以前からお世話になってた人もいた。ここ最近は攻略中に仲間を失うことがなかったから、この感覚は私も久しぶりだよ。突然別れる時がくるかもしれないのは頭でわかっていたけど…………やっぱ、何回経験しても慣れないや……」
顔は笑っているが、その表情はどこかぎこちない。無理矢理笑顔を絞り出しているのは容易に想像でき、彼女もカイトと同様に辛いのだ。
だが、実際に絶望の瞬間をその眼で目の当たりにしたカイトの心中は、尚辛い。
不意に閉まる、地獄への扉。
システムに保護されているため、扉を開けることも破壊することも出来ず、その場で立ち尽くすことしか出来ない無力なプレイヤー達。
そして再び開いた扉の先にはプレイヤーもボスもおらず、只々先の見通せない闇が広がるのみ。まるで今の自分達の心境を映し出しているかのようで、カイトはその時、身体の芯から身震いしたのだ。
「……やっぱこの話はなし。ごめんね、なんか辛気臭くしちゃって」
「いや、こっちこそ気を遣わせてごめん。でも……ありがとう」
帰宅した彼を抱きしめ返して慰めの言葉をかけたのも、座らせてお茶を出したのも、彼の沈んだ気持ちを少しでも浮き上がらせようと試行錯誤した、彼女なりの気遣いだ。そんな彼女の気持ちがカイトは嬉しく、現に心は多少紛れた。少なくとも、感謝の言葉と共に笑顔を見せるぐらいには。
「そういえばオレが偵察にいってる間、ユキは何してたんだ?」
「22層に行ってたよ。アスナ達の新居にお邪魔しようと思って」
アスナはキリトと結婚後、《セルムブルグ》の自宅を売り払い、22層のプレイヤーホームを購入してそこで暮らしている。モンスターは出現せず、物珍しいレアアイテムもない
「行ったら丁度イベントをやるっていうから、一緒に見に行ってたんだ」
「イベント? なんかのクエストか?」
「まぁそんなところかな。22層にはたくさん湖があるけど、その中の1つに
「へぇ〜、釣り竿のスイッチか。面白いな。……それで、どうなったんだ?」
「それがすっごい大きな魚というかなんというか……兎に角、こ〜んな大きな主が釣れたんだけど、流石にみんな予想してなかったみたいで、一時はパニックになってたなぁ」
想像異常の大物に当時はビックリしたが、時間が経ってから振り返ると可笑しな光景だったのだろう。その時の様子を思い出し、少女はクスリと笑みを零した。
そしてユキは椅子から立ち上がり、両腕を伸ばして全身でいかに主が大きかったのかを表す。
「だけどアスナが一肌脱いで、レイピアで自分の何倍もある主を、ズドンッ、ザシュッ、ドガガガガッ! って感じでバーサークっぷりを発揮して――――」
ユキは身体を使って突き、切り上げ、連続突きのモーションを表現し出した。察するに、今度はアスナの動きを身振り手振りで再現しているのだろう。そんな楽しそうに、一生懸命に今日見たことを伝えようとするユキに対して、カイトは頬杖をつきながら微笑んだ。
そしてユキと会話しているうちに、いつの間にか沈んでいた気持ちが浮き上がっていた事に気付く。もしも1人でいたら、こんな風に立ち直るのは早くないはずだ。意図してではないだろうが、ユキは目に見えない形でカイトを支えているのだ。
「ちょっと、きいてる〜?」
自分が一生懸命話しているのに、聞き流されているとでも思ったのだろう。その口調は怒っているように聞こえるが、カイトは声のトーンから本気で怒っているわけではないと感じた。それでもユキの表情は不満気であるので、もしも悪化すれば本気で怒り出すだろう。
「大丈夫。ちゃんと聞いてるよ」
「本当に〜?」
「本当だって」
「よろしい! えっと、それでね……」
ユキが一方的に話し、カイトが相槌を打ちながら時々質問を織り交ぜる。そんな『当たり前』の光景を『当たり前』のままにし続けられるよう、自分の事も彼女の事も守れるぐらい強くなろうと、カイトは心の中で誓いをたてた。
ひとつ屋根の下で微笑ましい会話を楽しんだ翌日、ユキの家に満ちていた空気とは真逆の強張った雰囲気が、第75層フロアボス戦に参加するプレイヤー達の集合場所に漂っていた。その場で目を瞑って物思いにふける者もいれば、仲間と談笑して他愛のない会話を交わす者達もいる。一目見ただけでは判別出来ないが、決戦前の待機姿勢に違いはあれど、各々は少なからずの恐怖を感じているだろう。第1層フロアボス《イルファング・ザ・コボルドロード》との決戦前も恐怖心を抱いたが、今回はそれとはまた別種の恐怖心だ。なにせ倒すべき相手の事を何一つ知らないのだから。
それでも間隔を空けずに討伐決行へと踏み切ったのは、時間が空くと皆のボスに対する恐怖心が増長する恐れがあるからだ。加えて現実世界の自分達は今頃病院のベッドに横たわり、点滴で生き永らえていると予想されるので、ゲームクリアに時間を割けば割くほど、自らの身体を弱らせる結果になる。残された時間は永遠ではなく、屈強な肉体を有する者でさえこのタイミングで現実に戻れば、筋肉が衰えて痩せ細った状態だろう。
こうした事情を考慮した結果、皆はフロアボス攻略のために募ったのだが、上限の2レイドどころか1レイドの48人にすら届いていない。少々心許ないと思う以上に、臆せずに立ち向かうことを決めた者達がこんなにもいるのかという感想が、カイトの胸中の大部分を占めていた。
(キリトにアスナ、ヒースクリフはいない、か……。まぁ参加しない筈がないし、じきに来るかな)
集合場所の一画でカイトは佇みながら視線を周囲に配り、参加メンバーを確認する。見知った顔ぶれは攻略組の中でも実力のある精鋭達ばかりだが、嫌な不安は拭いきれずに募るばかりだった。
「よう! カイト!」
明るい印象を抱かせる声色の発信者は、振り返って確認するまでもない。重い雰囲気など関係なしに気さくな声をかけたのは、間違いなく趣味の悪いバンダナがトレードマークのカタナ使い・クラインだ。《風林火山》を束ねるギルドの長は、一直線にカイトの元へ向かう。
「しばらく見ねぇと思っていたが、ちゃ〜んと生きてたか!」
「そっちこそ、悪運が強くてなによりだよ」
軽口を叩いたクラインが人の良さそうな顔で笑みを浮かべると、カイトもそれにならって軽口と笑みで返す。その短いやり取りで少しばかり肩の力が抜けた。
「で、エギルは相変わらず戦利品で一儲けしようって魂胆か? というかそれ以外の理由はないか」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ。俺だって全プレイヤー解放のために戦いに来てるんだぞ? 自分の店を閉めてまで来たんだから、ちょっとは無私無欲の精神を褒め称えてくれてもいいんじゃないか?」
クラインよりも頭一つ分背の高いエギルが、これまた強面の顔に不釣り合いなほどの気さくな笑顔を向けた。常人なら巨大に思える両手斧は、まるで彼の手に渡ることを想定していたかのようにしっくりくる。一目見ただけでレア物だとわかるそれは、彼の身の丈ほどの大きさを誇り、発する威圧感は所有者である彼と遜色ない。
「クライン、聞いたか? あのエギルが今回はアイテムなんて関係ない、つまり戦利品なしでいいらしいぞ。エギルの言う無私無欲の精神は本物だな。オレは頭が上がらないよ。……という訳で、エギルは戦利品の分配を辞退するってことでいいな?」
「お、おい、ちょっと待ってくれ。何もそこまで言ってないだろう。それに俺たちダチだろ? な?」
「いるよな。こういう時に都合よくダチってワードを悪用する奴」
「オレはこんな大人にならないようにするよ」
「お前ら、そりゃないだろっ!」
カイトの茶化しに空気を読んだクラインが気前よく乗ったため、2対1の劣勢にエギルは本気で困り顔になる。別に当人達も本気で言っている訳ではないが、決戦前に行う冗談交じりの軽口叩きは、カイトとクラインにとってはスポーツ選手がやるルーティーンに近い。最高のパフォーマンスをするため、余分な力を抜く作業の犠牲者に、たまたま偶然エギルが選ばれただけだ。
「まぁ、冗談はその辺にして……久しぶりだな、キリト」
カイトが声を掛けたのは、クラインとエギルの背側から歩み寄ってきた黒衣の剣士。上から下まで漆黒のロングコートに身を包んでいるのは以前と同じだが、左右の肩口からそれぞれ剣の柄部分が顔を覗かせていた。《二刀流》の存在が明らかになった今、これまでのようにコソコソと隠す必要性がなくなったからだ。
「時間までに来なかったら、首根っこ掴んで引きずってでも連れてこようと思ってたぞ」
「馬鹿言え。攻略を休むとは言ったけど、フロアボス戦まで休むと言った覚えはないぞ」
「それなら良かった。……それで、どうだった? 新婚生活は?」
「あぁ、すごく充実してたよ。アスナの作る料理が毎日食べられるんだからな」
「ノロケるな馬鹿」
「お前が話を振ったんだろうが!」
言葉を交わすのは久方ぶりだが、コンビで行動していた時と同じ他愛のない会話をカイトは噛み締める。懐かしい感覚に見舞われた両者は刹那の間を置いて噴き出し、周囲にも聞こえるような声量で笑い声をあげた。クラインの「俺も美人の嫁さんが欲しい!」という切なる叫びは、この際無視することにしよう。
「おい、キリト。アスナは一緒じゃないのか?」
「アスナ? それならユキのところに――――」
彼と行動を共にしている筈のアスナがいないため、目尻に浮かんだ涙を拭いつつ、キリトがエギルの疑問に答えようとした――――まさにその時だった。
ガシャッ、ガシャッという鎧の擦れる音が、複数重なって耳に入った。
現れたのは《聖騎士》ヒースクリフ。真紅の鎧に身を包み、白いマントをなびかせながら登場した彼からは、遠くからでも感じとれる圧倒的存在感を放っていた。彼が後ろに引き連れているプレイヤー達も実力は折り紙つきだが、流石にヒースクリフには劣ってしまう。
浮遊城アインクラッドにいる全プレイヤーの1割にも満たない攻略組、その頂点に君臨する男。彼の活躍があったからこそ、階層攻略は約2年で4分の3まで登りつめることが出来たといっても過言ではない。ヒースクリフの迷いなき目、確固たる意思と実力に、カイトだけに限らず、他の者も幾度となく救われてきたのは事実だ。味方であれば頼もしいことこの上ないが、仮にPoHのような思想の持ち主で敵に回っていたら――――と、ありもしない想像をするだけでゾッとする。
「さあ、時間だ」
ヒースクリフは振り返って周囲を見回し、集まったプレイヤーの顔を順に見た。
「諸君らも知っている通り、今回はかつてない大きな危険を伴った戦いとなるだろう。それを承知で皆が武器を手にとってこの場に集まってくれたことに、私を心から敬意を表する。苦しいものになるだろうが、我々の力なら決して突破出来ない壁ではない。今一度我らの力を見せつけ、奮闘しようではないか――――解放の日のために!」
皆の士気を高めるために発した言葉の羅列は効果
実力もさることながら、カリスマ性を感じさせる彼の言動一つ一つに、不思議とついさっきまで感じていた不安が空気中へ霧散していくような感覚に陥る。ヒースクリフが背中を押してくれると、自分たちなら必ず勝利の2文字を掴み取れると心底確信できた。
掲げていた剣を下ろすと、ヒースクリフは身を翻して《回廊結晶》を取り出した。前日に偵察隊がボス部屋から引き返す際、《回廊結晶》の出口を部屋の前でマーキングしておいたため、ここから一気にボス部屋まで向かうつもりだ。極力戦闘は避けたいし、万全な状態で挑むために提案された手段であるが、こうした事態でもなければ高価で貴重な《回廊結晶》を使う場面などそうないだろう。
「コリドー・オープン!」
ヒースクリフが起動コマンドを言い終えると同時に《回廊結晶》が砕け、青白い光のサークルが浮かび上がる。遠く離れた入り口と出口はこれで繋がり、攻略組一同が瞬時に空間を超える準備を整え、最初にヒースクリフが先陣切って光の中に足を一歩踏み出した。他のプレイヤーも彼の後に続いて光の中に向かい、カイトもそれに倣って進行する。
転送先は昨日見たばかりだが、レリーフが施されている巨大な扉の前だった。両サイドの壁に設置されている松明の炎がユラユラと揺らめき、若干緩んでいたカイトの緊張の糸は再び張り詰めた。
カイトはその場で周囲を見回し、先に到着したユキの姿を探し始めた。ほどなくして右斜め前方にいた彼女の姿を捉えると、歩み寄って声をかけ、最後尾にいたキリトよりも後方へと誘導する。
「どうしたの?」
彼女の声に反応したわけではないが、カイトは適当な場所で立ち止まって振り返った。この場にいるメンバーは目の前のボス戦に集中しているだろうから、少し距離をとれば誰も気付かないだろう――――と思いはすれど、いざやろうとするとやはり緊張してしまう。
だが意を決した彼はユキの前髪を右手で掻き上げると、露わになった白い額に顔を近づけ、唇をそっと触れさせた。少しの間を置いて顔を離すと、カイトの瞳には頬をほんのり朱色に染めたユキの姿が映っていた。
「……不意打ちはズルいよ」
目を丸くしていた彼女は右手で額を押さえ、やや俯きがちになる。周囲がやや薄暗いのも手伝って、カイトはユキが今どんな表情をしているのかわからなかった。
「オレの強運をユキにお裾分けしようかと思ってさ」
「運を……分ける?」
「そ。この世界はモンスターと対峙する危険があるけど、オレの場合はそれに加えてプレイヤーと対峙する危険が人よりも多くあっただろ? 自分で言うのもなんだけど、そんな死線を何度も越えて生き残れているってことは、結構な強運の持ち主だと思うんだよね。……オレの《治療術》は人に命を分け与える能力だから、それと同じでユキにオレの運の良さを分ける事が出来たらなぁ〜……なんて……」
自分から言い出した事だが、今更ながら恥ずかしさが込み上げ、カイトは指先で頬を掻きながらはにかんだ。彼女がこの戦いで生き残って欲しいという願いを込めてやった行いだが、後になってやり方がキザっぽいと感じてしまう。口付けの理由も少々無理があるかと思い始めた。
「……おでこにした理由は?」
「それはオレの考案した『剣士の誓い』のやり方であって……はい、ウソです。本当は他の人に見られてたらっていう考えが先行して、無難なおでこにしただけです」
「え〜、今更?」
ユキは呆れ口調だが、表情は正直だ。口元がほころんでいる事から、満更でもないのが見てとれる。
「じゃあ、その……私も運を分けるためにお返しを」
「それだと折角分けた運が戻るかもしれないだろうが。くれるなら喜んでもらうけど、それは終わった後にしとくよ」
ユキの頭に手を置いて2、3度撫でた後、カイトは彼女の隣をすり抜ける際に一言だけ呟いた。
「ユキの背中はオレが守るから、ユキはオレの背中を守ってくれ」
投げられた言葉の意味を理解した時、ユキはえも言われぬ歓喜で静かに身震いした。背中を託すとはそれだけ相手を信頼しているという事の裏返しであり、なんでも自分で抱え込もうとするカイトが頼ってくれているという事実は、ユキにとって何物にも変えがたい
任された背中を守り、寄せられた期待に応えるため、ユキは遠ざかる足音に追いつこうと振り返り、小走りで駆け出した。
ほのぼのした空気を織り交ぜつつ、緊張感も忘れずに。次でボス戦開始となります。
次の話は間隔を空けず、2日後に投稿予定です。