ゆっくりと腰を落ち着けてくつろぐ時間を確保できたのは、赤い夕焼けの名残が失われようとしている黄昏時。明日奈と病院で解散した悠人は、自宅の部屋にあるベッドに深く腰を下ろした。
エギルの店とユキ&キリトが入院する病院を自転車で移動したので、少しばかり身体に疲労感が残っていたが、休憩もそこそこにし、ベッドの枕元に置かれたナーヴギアを手に取った。ほとんどの元SAOプレイヤーは総務省の役人にナーヴギアを回収されたが、悠人は外部から知ることの出来ないSAOの情報を提供する代わりに、親しかった人物の所在とナーヴギアの所有を菊岡に主張したのだ。双方共にメリットがあることに加え、菊岡はそこまで頭の固い役人ではなかったため、この取引は成立し、新品から一気に中古品へと成り下がった悪魔の機械は、今でも彼の手元に残っている。
何故自分が無意識にナーヴギアを手放したくないと思ったのかわからなかったが、茅場の残した最後の言葉を疑いつつも、心の何処かでこの時が来るのを見越していたのかもしれない。
「さて、と……」
手早く着替えを済ませてラフな格好になると、《アルヴヘイム・オンライン》のパッケージを開封し、ROMカードを取り出す。ナーヴギアの電源を入れてスロットにカードを挿し込めば、準備完了だ。
悠人はナーヴギアを装着するとベッドに横たわり、シールドを下ろして一呼吸で眼を閉じた。
「リンク・スタート!」
仮想世界の扉をノックする合言葉を呟くと、セットアップステージが1つずつ順を追って始まった。視覚、聴覚、体表面感覚へと移り、各種感覚の接続テストは問題なく進行していく。まどろっこしい事この上ないが、こればかりは致し方ない。悠人はじっと各種接続テストの終了を待った。
そして最後の接続テストが終了すると、悠人はアカウント情報登録ステージに降り立った。ここではALOで使用するキャラクターの情報を設定する場所であるが、自由に設定できるのはキャラネームと妖精をモチーフにした種族ぐらいのもので、アバターの容姿と声はランダムに生成される。追加料金を支払えば再作成も可能だが、悠人にとってこの際容姿はどうでもよかった。
SAOで名乗っていた《Kaito》をホロキーボードで入力した後、種族の選択に移る。ALOにいる妖精の種族は全部で9種おり、それぞれが得意分野――――言い換えれば、持ち味を有している。
聴覚と飛行速度に
武器の扱いと攻撃力に長けた
水中活動と高位の回復魔法に長けた
採掘と耐久力に長けた
モンスターのテイミングと敏捷力、視力に長けた
トレジャーハントと幻惑魔法に長けた
楽器での演奏と歌唱力に長けた
武器の生産と細工に長けた
暗闇での飛行と暗視力に長けた
悠人は他のプレイヤーと同様、真剣にゲーム攻略に励んだり楽しむのが目的ではないが、やはり種族の特徴や色を見て自分の好みに合ったものを選びたいのだろう。キャラネームはすんなり決まったのに対し、種族選択は少しばかり考える素振りを見せた。各種族の説明を読み、少しずつ選択肢を絞っていく。
「やっぱオレは……これかな」
熟考した結果、最終的に選んだのは
全ての選択が終了し、女性の合成音声が旅立つ彼に祝辞を述べた。はじめたばかりのプレイヤーは必ず最初にホームタウンからスタートするのが決まりなので、悠人の場合はウンディーネ領からのスタートとなる。
セットアップステージからウンディーネ領へと景色は変化し、世界は違えど、悠人は約2ヶ月ぶりにもう一人の自分であるアバター《Kaito》として仮想世界に降り立った。
「うわぁ……これはすごい」
カイトの口から感嘆の声が漏れるが、それは無理もなかった。
周囲を海に囲まれた巨大な島は中心地に向かって階段状にせり上がり、そこに海面を映したかのような澄んだ青白色で彩られた建物が建ち並んでいる様は、整然の一言に尽きる。整った顔立ちのアバターが多いウンディーネだが、住まう人がそうなら街も例外ではなく、両者はリンクしているらしい。
さらに現在のALOは夜間ということもあり、街の至る所でポツポツと灯火が仄かに領土を照らしているが、
第一印象としては、かつて浮遊城の第61層に存在した《セルムブルグ》に見劣りしない景観だ。現実世界ではまずお目にかかれない洗練さはチリ一つない仮想世界ならではだが、事前にエギルから聞いていた通り、ALOのグラフィックはSAOに匹敵すると言っても過言ではない。
「まずは情報収集からいくか」
『情報を制するものは世界を制す』という言葉があるように、既知と未知の間には大きな差が存在する。その事を浮遊城で過ごした2年にわたって嫌という程思い知らされたカイトは、手始めに街を散策しつつ、この世界を知る努力を始めた。
黄金色に輝く長髪を後ろで束ねたポニーテールが《スイルベーン》に入り込んだ風に揺らされ、静かになびく。豊満な胸と整った顔立ちは、男性プレイヤーなら誰もが目を引かれる程だが、今はその可愛らしい顔に浮かぶ表情は影がかかっている。シルフの中で5本の指に入る実力を持ち、《シルフ
意図せず盗み聞きする形になってしまったが、SAOに囚われていた兄が今度はALOにいる可能性があると知り、いてもたってもいられなかった彼女は、帰宅するやいなやアミュスフィアを装着してALOにダイブした。遥か遠い世界樹を目指し、《スイルベーン》で最も高度を稼げる塔に向かおうとしたのだが、そこでリーファはある問題に気付いて足を止め、今に至る。
それはずばり、『果たして単独で世界樹までの道のりを行けるのかどうか』という事だが……その答えは考えるまでもなく明白だった。
随意飛行をマスターし、幼い頃から続けていた剣道の影響で優れた剣技を有する彼女でも、その道のりは険しいと言わざるをえない。比較的安全なルートを選択したとしても、避けずに通らなければならないダンジョンは当然あるし、モンスターの襲撃もあるだろう。運が悪ければ、遭遇したパーティーにPKされる可能性もある。
だが今は、通常のモンスターや一般プレイヤーよりも絶対に遭遇を回避しなければならない対象がいる。それは現在進行中のイベント《
とは言うものの、イベント開始当初いた9体のNPCは着実に数を減らし、現在生存が確認されているNPCの種族はスプリガンのみ。遭遇率は格段に下がっているため、そこまで懸念するものでもないが、時としてドロップ率0.01%以下のレアアイテムが一発でドロップしたり、武器強化率95%でも失敗することが往々にしてあるゲームの世界では、一般的な確率論で推し量れない現象がよくあるのだ。
「う~ん……」
腕を組み、右手の人差し指でこめかみを押す。
パーティーを組んで狩りをする機会が多い、シルフ領主サクヤの右腕、シグルドに協力を頼む案が浮かんだが、利己主義の彼がリーファの私的な用事に快く首を縦に降るとは到底思えない。あり得ない。絶対に。
(……あぁ、そういえばレコンもいたなぁ……)
ふと、リーファにALOを紹介してくれた現実世界の同級生であり、気弱な顔立ちのレコンがいたことを思い出した。飛ぶ楽しさを知るきっかけを与えてくれた彼には感謝しているが、仮に道中でプレイヤー戦が勃発すれば、はっきりいって役に立たないだろう。シグルドに同行を頼むのと同じくらい、彼には大規模な戦闘において多大な期待を抱けないからだ。
だからこそ、リーファは無意識のうちにレコンを旅路の仲間候補から除外していたので、彼女の前方から大手を振って近付いてくる彼を見るまで、その存在を忘れていたのだ。
「ごめん、遅れて。もしかして待った?」
「別に待ってないわよ。ついさっき来たところだし」
そんな彼女の心中など知る由もなく、レコンはいつものあどけない表情を浮かべた。
身長はリーファよりも若干低く、容姿は若干の幼さを有している。ただでさえおかっぱ頭に線の細い体格という見た目だけで頼りない印象を抱かせているのに、話し口調と表情が更なる拍車をかけていた。ゲームの中でくらいは、屈強な肉体を持つアバターに恵まれても良い筈だが、出来上がったのは現実の彼、
ただ、ゲームの世界でいう見た目は単なる記号みたいなもので、ひ弱そうなのにSTR値が高い、あるいは筋骨隆々としているのにAGI値が高い、というのも往々にしてある。
だが、レコンは見た目から抱く予想の範疇を大きく逸脱しない、第一印象そのまんまのステータスだった。古参であるためALOに関する知識等はあるが、ALOプレイ歴と実力は比例していない。
「どうしたの、リーファちゃん? 僕の顔に何かついてる?」
「別に……」
うん、やっぱりレコンはない。絶対にない。寧ろレコンと行くぐらいなら1人で行くのがマシだ――――という辛口評価を彼に悟られないよう、リーファは内心で下した。
「レコン。急で悪いんだけど、この後の狩りはキャンセルするわ」
「えぇ!? な、なんで?」
「えーっと……ちょっと領地を出て世界樹に行こうと思って」
「世界樹? なんで?」
「用事というか、確かめたい事があるというか……兎に角、会いたい人がいるのよ」
「会い、たい……そ、それって」
レコンは焦燥に駆られたような表情になり、リーファに歩み寄る。手を伸ばせば届くような距離にまで近づくと、彼は彼女に問い詰めた。
「もしかして、他の男じゃないよねっ!?」
「……はぁ?」
レコンの引っかかる言い方にリーファは首を傾げるが、彼への返答は1つ。
「なんであんたがそんな事気にするのよ。というか、『他の』って何?」
「そりゃあ気にするよ! だ、だって僕は……」
どこか様子のおかしいレコンは、リーファとの距離をさらに一歩分詰める――が、その前に彼女は背中の翅を素早く展開し、垂直方向に浮上してレコンの接近から距離をとった。
「ちょ、ちょっとリーファちゃん! 最後まで話を……というか、まさか1人で世界樹まで行くつもり!?」
「周りで頼めそうな人はいないし、何よりこれは私の私的な用だから。大丈夫。領地にはすぐに戻るから」
「な、なら僕も一緒に」
「レコンは弱いから嫌」
「うぐっ……」
容赦ない言葉に反論が浮かばず、レコンは声を詰まらせた。
「わがまま言ってゴメン。でも、これはやらなきゃいけない事だから。シグルドにもそう言っといて」
空中で停止していた身体の向きを変え、翅から漏れる燐光を散らしつつ、リーファは飛行を開始した。
「ちょ、ちょっとリーファちゃん! リーファちゃ〜んっ!!」
名を呼ぶレコンの声が遠くなるのを聞きつつ、リーファは領地内で最も高い建造物の屋上めがけて上昇した。
カイトがウンディーネ領に足をつけるほんの数分前、彼と同じ目的を抱いて妖精の世界に舞い降りた1人の少女が、一足早くALOに訪れていた。
「これが、この世界の私かぁ……」
頬に手を添えつつ、人気のない路地裏に設置されたガラスに反射して映る、自分の容姿を見つめる。
背丈は現実よりも少しばかり高く、艶やかな青い髪は風に揺られてなびくポニーテールになっていた。大きな目、整った鼻梁、薄い唇を持つ顔は儚い印象を抱かせるが、それがまた彼女の容姿をより一層際立たせている。それこそが、ALOにおける《Asuna》というアバターの姿だった。
ランダムに構成されるアバターの容姿としては当たりの部類であるが、アスナにとって顔の良し悪しはこの際どうでもよかった。目的はこの世界に囚われているであろうキリトを見つけ出し、今度こそ現実世界へ戻ることなのだ。
事前に悠人から得た情報では、この世界の中心部にある世界樹なる場所にいる可能性が高いとのことだった。アスナは進むべき道を確認するため、マップデータを開くために右手を振り下ろす。
「……あれ?」
しかし、彼女の思い描いていた現象は起こらなかった。
SAOのようにシステムメニューを開くため、右手を振ったのだが、出てくるはずのウィンドウが展開されない。
(ま、まさか……開始早々バグ?)
何度振っても彼女が期待する現象は起こらない。
落胆しかけたその時、脳裏に浮かんだある可能性を信じて、今度は左手を振り下ろした。
「あっ」
右手では何の反応も示さなかったのに対し、左手で振り下ろした事で空中に半透明のウィンドウが展開される。まごう事なきシステムメニューが表示され、アスナはほっと胸を撫で下ろした。
予期せぬ最初の関門を突破してマップデータを確認した後、この世界における自身のステータス画面を表示した。HPとマナ――SAOでは見慣れなかった『魔力』――の値を見て、所持金に目を移す。
「ううぇえぇぇっ!!!!」
女性らしからぬ驚愕の声を上げたのは、ゲームを始めたばかりではあり得ないような額が、彼女の懐を十分すぎる程に暖めていたからだ。それこそ、一等地に城を建ててもおかしくないような額が。
「や、やっぱりバグなんじゃ……」
釘付けになっていた所持金の多さから、今度は未設定の筈であるスキル欄に視線を移すと、やはりこちらもおかしい事に気付く。既に幾つかのスキルがスロットを埋めており、熟練度も相当に高い。スキルによっては
(でも……これって……)
ただ、その各種スキルにあっては、アスナにとって見慣れた名称だった。
《細剣》、《料理》、《疾走》、《軽金属装備》等々、そのどれもがSAOで彼女のスキルスロットを埋めていたものばかり。所持金の多さと相まって、アスナの脳裏に1つの仮説が浮かんだ。
(まさか、SAOのデータを引き継いでいる……?)
この不可解な現象を説明するには、最早それしか思い浮かばない。 そして所持金とスキルが引き継がれているのならば、もしかしたらアイテムも――。
(こっちはダメ、か)
――という期待は叶わず、どれもが文字化けをしていてとても使えそうにない。《ランベントライト》やキリトとお揃いの指輪がストレージの何処にあるのか、今となっては判別できなかった。
アイテムに関しては諦めようとした……その時、アスナの全身に稲妻が走ったかのような閃きが舞い降りた。意味を持たない文字列のアイテムを指で走らせ、目を皿のようにして目的のものを探す。
(お願い。あって……お願い)
そんな彼女の願いが通じたのか、アスナの指がピタリと止まった。思わず指先が震え、左手で口許を押さえると、目頭が熱くなるのを感じた。今、彼女の瞳に写っている文字列は、確かにそこにある。
《MHCP001》。
それこそが、アスナが探し求めていたものだった。
震える指先の照準をなんとか定め、文字列をタップ。アイテムが実体化し始め、淡い光を放つと、アスナの掌に滑らかな曲線にカットされた涙型のペンダントが実体化した。
「ユイちゃん……良かった、本当に……」
涙混じりの声で呟いたその名は、キリトとアスナにとっての『娘』という存在であると同時に、人工知能《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》――――通称《MHCP001》でもある。
通常のゲームであれば、NPC、モンスターやその他のプログラムは人の手によって管理されるのだが、SAOは外部からの干渉を一切受け付けないブラックボックスのような存在だった。にも関わらず、SAOはエラーの類が起こらず、ゲームシステムは問題なく機能していたのだが、その理由は人の手を介さず、自ら判断してシステムの制御を行っていた《カーディナル》というシステムの存在が大きい。
《カーディナル》は2つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、システムに異常が発生してもすぐに調整を施すことで、浮遊城アインクラッドの均衡を保っていた。アインクラッドの創造主が茅場晶彦だとすれば、世界の管理者は《カーディナル》といっても過言ではない。
しかし、そんな高度なプログラムを有する《カーディナル》でも、干渉できない分野があった。それこそが、『プレイヤーの精神面に関する問題』である。
この問題に対し、複雑に揺れ動く人の心を《カーディナル》に全て委託するのは荷が重いと判断した開発スタッフは、人の心をパラメータ化し、その人物の元へ行って話を聞くといったカウンセリングを行うAIの開発に至った。その結果生み出されたのが、《ユイ》なのだ。
ユイは本来であればプレイヤーの心のケアをする役割を担っていたが、デスゲーム開始宣言によって絶望に満ちたプレイヤーの心を多く読み取ってしまったため、多重エラーを抱えて機能を停止。カーディナルの下した命令によってプレイヤーに接触する事も出来ず、本来の役目を果たせずに約2年の歳月を無意味に過ごした。
しかし、キリトとアスナの温かい空気を読み取り、自分が何者なのかを忘れながらも彼らと接触。幼い姿のユイを優しく出迎えてくれた彼らと共に時を過ごし、いつしか本当の家族となったのだ。
途中、記憶を取り戻してカーディナルに消去されかかったが、キリトの咄嗟の機転によって辛くもその難を逃れ、ユイはキリトのナーヴギアにあるローカルメモリに保存された。
「ユイちゃん……」
あまりの嬉しさに、アスナの頬を一粒の涙が伝う。光る雫は落下し、アスナの掌にあるペンダントを濡らした。
――そして――
次の瞬間に起こった現象は、アスナにとって嬉しい誤算だった。
……という訳で、カイトの種族はウンディーネでした。何の捻りもないですが……。
ウンディーネ領の景観は独自設定です。文中にもありますが、《セルムブルグ》に限りなく近い街並みをイメージしています。