倉崎悠人という存在は、
理沙も悠人もお互いに一人っ子であるため、兄弟姉妹のいる環境というものは、わからない部分がほとんどだ。しかし、年月を経ても頻繁に交流がある2人にとって、『弟(姉)がいればきっとこんな感じなんだろう』と、感覚的には理解していた。
幼い頃は女の子に間違われる事が多々あった悠人は、成長して年頃の男子になり、以前より
実の弟のように思っている彼女は、昔から悠人の事を人に話すと「その子が本当の弟だったら、君は間違いなくブラコンだ」とまで言われる。確かに理沙は悠人を可愛くて仕方がないと感じているし、彼のためなら助力を惜しまないとも思っている。
それこそ、世界中を敵にまわしてもいい、と思えるくらいに――。
都内某所にある巨大な建物の一室で、理沙はパソコンのキーボードを慣れた手つきでタイピングし、報告書の作成に
報告書が締めに入り、最後の文字を打ち込んでエンターキーを押す。一仕事終えた彼女は座りっぱなしで凝り固まった身体をほぐすため、その場で大きく伸びをした。
「ん〜〜」
腕を突き上げて背中を反らすと、服の上からでもわかる双丘が否応なしに強調されるため、いつもなら自分への視線――主に男性からの――が集まる場面だ。しかし、現時点で部屋にいるのは理沙だけなので、そんな事はお構いなしである。
「うわっ、結構時間かかったなー」
ふと壁に掛けてある時計に目を移すと、時計の針は午後9時をまわった頃だ。仕事に集中していたとはいえ、思っていた時間よりもズレがある事に少々驚きつつ、自らに課せられていた膨大な仕事を全て片付けた達成感が心地よかった。もしもこれが彼女以外の人間であれば、きっとあと数日は夜遅くまで仕事に追われる日々が続いていたが、彼女が優秀であるからこそ、今日という日に終わる事ができたのだ。
「流石に疲れたわ……」
職場の人間がいない事には気付いていたが、この時間ならしょうがないと理沙は納得しつつ、シュシュを外して長い髪を振り払う。纏められていた長い髪を揺らし、椅子の背もたれに身体を預けると、遅まきながら疲労が全身にドッと押し寄せてきた。疲労の原因には今取り掛かっている仕事も含まれるが、どちらかといえば現在勤めている職場の人間関係が大部分を占めている。研究員は頭が狂っているのばかりで、上司はその上をいくどころか下衆以外の何者でもない。今の職業に不満はないが、職場には不満大アリだ。
「――早く元の場所に戻りたいな……」
理沙はそう呟くと、フロアを右から左へと見回す。順調にいけばあと1週間でこの場所とはおさらばできる筈なので、もう少しの辛抱だと、彼女は自らを鼓舞した。既に必要な種は播き終えており、事態は動き出している。あとは花を咲かせ、果実が実るのを待つばかり――。
精神が乾きっている彼女は、心に潤いを欲したため、机の上に置いてある携帯端末を手にとり、通話履歴からとある人物を選択。通話ボタンを押して耳にあてると、コール音が1回、2回と回数を重ねていく。3回目に差し掛かってすぐに相手の声が聞こえてきたが、理沙にはそのわずかな時間が途方に感じた。
「もしもし?」
「こんばんは、悠人ちゃん。あなたの大好きなりーちゃんですよ〜」
「……切るよ」
「あっ、待って待って、切らないで! ただのウェットに富んだ挨拶なのに」
華麗にスルーするどころか通話を5秒で終えようとした悠人を理沙が必死に引き止めると、どうにか電話を切られるのだけは回避した。
「少しはこっちのジョークに付き合ってくれてもいいんじゃない?」
「なんだか無性に切りたくなって」
「ひどいっ!!」
珍しく理沙のペースに巻き込まれる前に、悠人からのカウンターと先制攻撃が繰り出される。いつもはやられっぱなしの悠人だが、今は調子が良いとみえる彼からのささやかな仕返しだった。端末の向こう側で微かだが笑い声が聞こえた。
「それで、この時間に電話してきたってことは、何か用があるんでしょ?」
「ん〜、用ってわけじゃないけど、悠人ちゃんの声が聞きたくなって」
「………………」
本当の姉弟のような良いリズムで会話が進んでいたかと思いきや、急に悠人は黙り込んでしまった。電話越しなので顔は見えないが、理沙には彼の様子が手に取るようにわかった。
「あれー? もしかして照れてる? 言われてちょっと嬉しいと思った?」
「――そ、そんなんじゃないっ!」
「必死に否定するってことは、図星ね」
「ぐっ……」
理沙もやられっぱなしというわけにはいかず、今度は彼女が仕掛けて一本とり、追加の口撃も悠人にクリティカルヒットしたため、彼はぐうの音も出ずに押し黙る。声だけで悠人が今どんな表情をしているのか、理沙は想像しただけで口元が緩んだ。
「……りーちゃんがそんな事言うからだろ」
「あら、素直に認めたわね。今度会ったらいい子いい子してあげる」
「子供扱いするな」
「法律上、悠人ちゃんはまだ子供だから、間違ってはいないと思うけど」
「そういう意味で言ったんじゃないっ!」
最初こそ流したが、理沙の言葉遊びに対して悠人は真正面から付き合ってくれる。会話を交わしていくうちに、声を聞く前まで理沙の中にあったずっしりと重く暗い気持ちは何処かへ追いやられ、いつの間にか心は明るく軽やかになっていた。かわいい弟分は、ただ話すだけで彼女にパワーを分け与えた。
「フフ、悠人ちゃんと話してたら仕事の疲れなんか吹っ飛んじゃった。ありがとう」
「別に何もしてないけど」
「いいの。かわいいかわいい悠人ちゃんが話し相手になってくれるだけで、私の心は癒されるんだから」
本当は会って話すのが1番だが、時間を考えると今から訪問するのは迷惑だろう。悠人の親は人が良いので、きっと快くもてなしてくれるだろうが、幾らなんでもそこまで甘えるわけにはいかない。
そして理沙が夜遅くに電話してきた理由を知った悠人は、彼女を気遣うような声でおそるおそる尋ねた。
「……公務員ってそんなに仕事忙しいの?」
「うーん、公務員といっても色んな種類があるから、一概には言えないわね。デスクワークばかりの所もあれば、体張って仕事する所もあるし」
「ふーん。……オレはそこら辺の事情とかりーちゃんが何をやってるのか知らないけど、あんまり根を詰めすぎないようにしなよ。万が一にでも倒れたりしたら元も子もないし」
「あら、心配してくれてるの?」
「当たり前じゃん。りーちゃんは家族みたいなもんだし」
悠人の何気なく口をついて出た言葉は、受け取った側にとってこの上なく嬉しい言葉だった。
子供はあっという間に成長し、いつしか大人になって社会に出る。当然、理沙もその内の1人だが、学生という身分を捨てた日を境に、社会の中で人間の醜い部分を嫌というほど見てきた。頭では理解していたものの、いざ目にするとどうしても嫌な気持ちになり、無邪気に笑って毎日を楽しく過ごしていた学生に戻りたいと思った日もある。世界の汚れた部分を見てると自分の心までもが荒み、いつしか自分も染まってしまうのではないかと恐ろしくさえ思うのだ。
だからこそ、そんな理沙にとって、悠人はとても眩しい存在である。見た目こそ大人に近づき、SAOをクリアしてからはどこか浮世離れした雰囲気を醸し出す時もあるが、内面の根っこ部分は変わらず、今も昔も心は真っ直ぐで優しい少年のままだ。彼女が悠人を気に入り、溺愛している理由の一端はここにある。
(ほんと、悠人ちゃんはたまーに天然で人の心をくすぐるんだから……)
意識せず、着飾らず、心の奥底で思っている事を口にする時、悠人はサラリと、あっけらかんと当然のような顔と声色で言葉にする。そんな彼の言葉には理沙だけに限らず、アインクラッドでも多くの人が助けられたのだ。
そしてそんな彼の言葉に多く触れ、魅せられたからこそ、ユキは心奪われたのだろう。
「……りーちゃん?」
電話越しの声が途絶えたのを訝しんだ悠人の声で、理沙は考え事をしていた頭を再度通話に戻す。
「ごめんごめん。ちょっとボーッとしちゃって」
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫、今のはそういうのじゃないから。それはいいとして、今日は悠人ちゃんからたくさん貰っちゃったから、その分のお返しをしないとね」
理沙は数瞬考えると軽く咳払いをし、電話の向こうにいる悠人に問いかけた。
「悠人ちゃんが今まで過ごしてきた人生の身近なところで、双子の兄弟か姉妹っていた?」
「えーっと……中学の時にはいたよ。兄弟だったけど、双子の弟とは同じクラスだったなぁ」
「じゃあ質問。もしその弟くんと双子のお兄ちゃんがこっそり入れ替わったりしたら、当時の悠人ちゃんはその事に気付けた?」
「うん」
「即答かー。じゃあ、なんでそう言い切れるの?」
「出会って最初の頃はわからなかったけど、関わりを持つと微妙な違いがわかるようになったんだ。具体的に何がって訊かれると言葉にできないけど、兎に角、感覚的に違和感を感じるんだよ」
見た目が同一の人間はいても、中身までもが全く同一の人間はいない。同じ生活空間にいたとしても、見て、聞いて、それぞれが感じるものや経験は異なり、それらの記憶が魂に刻み込まれ、蓄積され、やがて個性という唯一無二のものを生む。昨日今日出会った者にはわからない事でも、時間を共有して過ごした者だけにわかる差異の事を、悠人は言いたいのだろう。
「ふーん、なるほどね。それだけわかっているようなら、わざわざ私が教えるほどでもなさそうね」
「……りーちゃん、どういう意味?」
唐突な質問に、意味深な発言。
彼女の意図するところがわからず、悠人は彼女に問うが、返答は素っ気ないものだった。
「さあ? どういう意味だろうね」
「誤魔化さないでよ」
「大丈夫。意味はわからなくても、悠人ちゃんは根っこの部分で理解しているから、気にする必要ないわ」
「答えになってないし」
「と・に・か・く、貰った分のお返しはしたわ。きっとこれから色んな困難があるだろうけど、悠人ちゃんなら乗り越えられるって信じてる。それじゃあ、急な電話に付き合ってくれてありがとね。じゃあ、また近いうちに会いましょう」
「ちょ、ちょっと待っ――――」
まくしたてるように話し、言いたい事を言い終えた理沙は、悠人がまだ話そうとしているにも関わらず、遥か彼方にいる彼と繋がっていた回線を切断する。携帯端末を耳元から離して机の上に置くと、一息ついて目を瞑り、天井を仰いだ。
「ついつい、甘やかしちゃうなぁ……」
悠人を幼い頃から知っており、かわいく思っているがゆえに、おせっかいをやいてしまう。気を付けているつもりだったが、まだまだ心の修練が足りないようだ。
とはいえ、肝心要の部分は避けて話しているので、さほど問題はない。気を取り直した彼女は席を立ち、部屋から廊下に出てエレベーターに乗ると、迷わず目的の階のボタンを押した。理沙を乗せた箱は重力に逆らって彼女を上へ上へと持ち上げると、目的の場所で停止。そこからフロアの奥にある扉の厳重なセキュリティを通過すると、限られた人間しか入れない極秘の部屋に入室した。
中の様子は余分な物を極力排除しているのが
理沙は入室すると女性用に配慮された個室スペースへと移動し、中に入って鍵をかけた。暖房を入れ、スーツとワイシャツを脱いで世の女性が羨むボディラインを露わにすると、冷気を肌で感じながらジャージに着替える。ベッドで横になり、枕元のアミュスフィアを装着すると、大きく息を吸って魔法の呪文を唱えた。
「リンク・スタート」
理沙の意識が別世界へと飛び立ち、彼女はしばしの
急に電話がかかってきたかと思いきや、雑談を交わして一方的に電話を切られた悠人は、首を傾げつつ、彼女が最後に残した意味深な言葉の意味を脳裏で
最初はいつも2人が交わす会話と大差なかったが、途中からはどうも道行きが異なった、そんな気がしたのだ。いまいちスッキリとしないこの感覚は、彼女からものを教わる時とよく似ている。
理沙は積極的に全てを語らない。
これは今まで理沙と接してきてわかった彼女の性格だ。訊かれなければ答えないが、たとえ訊いたとしても、全部を話してくれるわけではない。
かといって、彼女が秘密主義を掲げているというわけでもない。『別にこれは話す必要がない』と判断した結果、ついつい答えが余分なものを削ぎ落として簡潔なものになってしまうのだ。このやり方はモヤモヤ感の残る回答を受け取る場合が多いが、彼女曰く『これでも悠人ちゃんにはサービスしている』らしい。
「双子、ねぇ……」
ただ単に説明する上で例として引き合いに出しただけかもしれないが、彼女が何を言わんとしていたのか、それを解き明かすための切り口になるはずだと信じ、一先ず頭を捻ってみた。
一般的に双子は一見して見た目が同じだが、食べ物の好み、趣味や得意不得意など、中身は異なる。物で例えるならば、同一機種の携帯端末が目の前にあったとしても、インストールしているアプリケーションは違うようなものだ。
かつて同じクラスにいた双子の違いを、大雑把ではあるが感覚でわかると答えた時、理沙はそこで話を切った。おそらくそこにヒントが隠されているはず。
(……見かけに惑わされず、本質に目を向けろって事か? でも、一体何に対して?)
悠人はそこからさらに考える。
考えて、考えて、その結果――。
「わからんっ!!」
――考える事を投げた。
その時、今まで忘れていたのを思い出すように空腹感が訪れ、思考は完全に食事モードへと移った。今日は両親ともに家を留守にしているので、食事は全て自分で用意する以外他ない。空いた腹を満たすため、彼は自室を出て1階に続く階段を降り始めた。
今回はリアルの話がメインで、今後の展開に関わる事が色々と含んであります。気付いた方も、気付かれていない方も、じっくり気長にお待ち下さい。
次から章が変わり、ここから戦闘回を盛り込んでいきます。
そして次回はリアルで直葉と悠人の絡みが半分、ゲーム内でカイトとアスナの動向が半分の内容です。