ソードアート・オンライン 〜君と共に〜   作:楽々亭

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第10章 -天穿つ大樹の頂-
第72話 惨状と糸口


 

 橙色の小さな照明が、オフホワイトの直線通路と無機質な壁面を照らす。ついさっきまで歩いていた樹木の道と異なり、世界樹の内部はオブジェクトを配置する手間を惜しんだのが伺えるほど味気ない。

 

「…………よしっ!」

 

 しかし、その事がかえってキリト/桐ヶ谷和人の気を引き締める結果となった。

 

 

 

 

 

 キリトは、《アルヴヘイム・オンライン》という名のゲーム世界に囚われており、さらにその内部に設置された黄金の鳥籠の中で自由を制限されるという、2重の牢屋に閉じ込められている――――はずだったが、現在の彼は第1の牢屋である黄金の鳥籠から既に脱出していた。

 その理由は、《この世界の鏡は光学現象ではない》という事を利用し、須郷伸之――またの名を《妖精王オベイロン》――が鳥籠の扉を開ける際に使用する暗証番号を読み取ったからだ。その後、慎重に機会を伺った彼は、頭に刻みつけた数字の並びを入力し、最初の関門を突破した。

 

 大樹の若芽で出来た手すりに手を預け、精緻な紋様が刻み込まれている通路を警戒しながら歩き続けること数分、世界樹本体にたどり着くと、目の前に明らかな人工物のドアがあるのを見つけた。ドアノブがない代わりに手をかざして開けるためのパネルが設置されていたため、キリトは臆することなく掌をかざすと、期待を裏切ることなくすんなりと扉は開錠した。

 敵の牙城に侵入し、変わり映えしない景色を視界に収めながら歩き続けると、またもや人工物のドアを両の眼で捉えた。先ほどと同様設置されているパネルに手をかざすと、ドアは音もなくスライドし、その先には左右に分かれる廊下が広がっていた。ドアをくぐると数秒後には閉まり、壁面に溶け込むようにして同化するが、後戻りする気のないキリトは消えたドアなど気にもとめず、右方向へと進み始める。

 緩いカーブを描いているであろう廊下をひたすら歩くが、ちゃんと進んでいるのか疑わしくなるほど景色は無機質なままだ。もしかしたら廊下を延々と歩かされ続けるのではないかと思い始めた矢先、ちょっとした変化が訪れる。

 カーブの内側にポスターのようなものが貼られているのを見つけたキリトが急いで駆け寄ると、それはポスターではなく、彼が今いる場所の案内図だと判明した。

 キリトが案内図から現在地点を読み取ると、彼は今、真円を描く通路が3階層に重なった、その最上部にいるらしい。上から順にフロアC、フロアB、フロアAと呼称するようで、フロア間の移動はどうやらエレベーターで行うようだ。俯瞰(ふかん)で示された3つのフロア――その中心部を1本の太い線が貫いているが、これがエレベーターなのだろう。

 そしてキリトがいる最上部のフロアCには廊下以外何もないが、その下のフロアB、フロアAには様々な施設名が表示されていた。

 《データ閲覧室》や《主モニター室》などが表記されており、他にも何らかの目的で使用する専用の部屋が用意されているが、その中でも群を抜いて広い部屋が最深部にあった。一体何の部屋なのか記された文字を確認すると、そこにはこう書かれていた。

 

 《実験体格納庫》。

 間違いなく、須郷によって拉致された旧SAOプレイヤー達がいる非合法研究施設だ。

 

「実験体、格納庫……」

 

 キリトは眩暈(めまい)にも似た感覚を感じながらゆるゆると後退し、案内図とは反対側の壁にもたれて背中を預ける。いかなる形によってかは不明だが、かつての仲間達は《実験体格納庫》とやらに囚われ、縛り付けられているのだろう。もしも実験が露見しそうになっても、仮想世界であればボタン1つで全てをなかったことに出来る。痕跡は残らないし、非常に合理的と言えよう。

 キリトは壁にもたれたまま、腕を組んで黙考した。

 格納庫に行って自分に出来ることがあるか不明だが、もし可能なら囚われている旧SAOプレイヤーを救い出し、現実で待っている家族や友人、恋人のもとへ帰したい。今自由に動けるのはおそらく自分1人だけだろうし、この機を逃すのは惜しいと判断した彼は、システムコンソールの捜索よりも格納庫へ行くことを優先して壁に預けていた背中を起こそうとした――――まさにその時だった。

 

「…………お?」

 

 背中で感じていた壁の堅い質感が突如消えたかと思いきや、視線が正面の案内図から徐々に上向きになる。それもそのはず、背中を預けていた壁面が文字通り消え去ったため、キリトは背中から地面に倒れこんでいる真っ最中なのだ。

 とうとう視界に天井が映ると、そこから1秒と経たずに、ゴチンッ! と盛大な音を立てて頭を強打した。キリトは手で払いのけたくなるような不快感に(もだ)える。

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」

 

 ジタバタと手足を動かしているうちに、少しずつ不快感は薄れていった。まだ余韻が残っている状態だったが、キリトは立ち上がり、振り返って自分が倒れこんだ場所を見回す。

 キリトが偶然入った場所は、床も壁面も真っ白な部屋だった。イスとテーブル、簡素なベッドが置いてあり、それ以外にこれといった特徴はない。しかし、キリトはこの部屋の中身が自分を閉じ込めていた鳥籠内のものと非常に似通っていると感じた。

 なので彼は、直感でここには自分と同じように閉じ込められている人物がいると思ったのだが――――。

 

「…………誰、ですか?」

 

 ――――案の定、ベッドの上には突然現れたキリトを訝しみ、様子を伺っている少女の姿があった。

 耳にかかるナチュラルショートの髪は黒色。薄紅色の小さな唇とスッとした鼻梁(びりょう)は整っており、非常に可愛らしい顔立ちだ。大きな黒い瞳でおそるおそるキリトを見ているが、視線がぶつかった瞬間、キリトはその少女が自分のよく知る人物であることに気が付いた。

 

「ユキ」

 

 名を呼ばれたユキは、純粋な驚きから両眼を大きく見開いた。

 

「私を、知ってるの?」

 

 キリトにはユキがわかり、ユキにはキリトがわからない様子だが、それは仕方がない。ユキはSAOの頃と姿が一緒なのに対し、キリトは一見して女性と見間違える姿をしているからだ。黒いドレスに肩甲骨まで流れる黒髪と映えるほどに白い肌は、どこからどう見ても小柄な少女そのもの。容姿は当時と変わらずだが、アスナから「カイト君もだけど、キリト君もかなり女顔だよー」というお墨付きまでもらっているので、今の姿をしているキリトを初見でキリトと判別するのは、友人のユキでも難しい。

 

「あぁ、よく知ってるよ。……オレだ。キリトだ」

 

 そう言ってキリトは自分が何者なのかを告げると、ユキはもう一度両眼を見開き、驚きの表情を露わにする。

 

「――えっ? キリト……って、あのキリト? どう見ても女の、子…………」

 

 ユキの声が急速に減速したことにキリトが違和感を覚えた瞬間、彼女はベッドから飛び上がって身を乗り出し、彼の元へと駆け出した。彼女の急な行動に戸惑うキリトだったが、ユキはそんな事など気も留めていない。

 

「急いでっ!!」

「へっ?」

 

 ユキがキリトの手を掴むと、そのまま急ぐ足を止めず、ついさっきまで彼がいた廊下へ飛び出した。すると2人が廊下に出た瞬間、キリトがもたれかかって消えた壁が、シャッ! という音を立てて一瞬で元に戻った。ユキがいた部屋と廊下を繋ぐ穴もとい扉は、何事もなかったかのように無機質な壁面と化す。

 掴まれていた手が離されると、キリトはたった今元に戻った壁面をペタペタと触るが、再び通路が開かれる様子はない。扉を開くためのトリガーを偶然引いたのだろうと考えていると、後ろから急に肩を掴まれ、強制的に回れ右をさせられた。

 

「なんでキリトがここにいるの? それにその格好はなに? カイトや他のみんなは無事なんだよね? ここから出るにはどうしたらいいの?」

「お、おおおお落ち着けユキ! 一先ず落ち着けっ!」

 

 肩を掴んで前後に激しく揺さぶるユキをどうにかして落ち着かせたキリトは、答えられる範囲で彼女の疑問を1つずつ解消した。

 全て答える頃には彼女も落ち着きを取り戻していたので、今度はキリトが疑問をぶつける。

 

「そういうユキはどうしてここにいるんだ?」

「なんでも教えてくれるけど肝心な事は教えてくれない妖精さんが、私を助けてさっきの部屋に閉じ込めたの」

「すごいな。たった一言なのに矛盾が2つもあるぞ」

「だって本当の事だもん」

 

 いまいちすっきりしない回答でモヤモヤするが、悠長にしている暇がないことを思い出し、問答は後回しにする。もしも脱走が失敗に終われば、今後自力での脱出はほぼ不可能とみて間違いない。キリトはユキにその事を簡潔に告げると、2人は廊下を歩いてフロア間を移動するためのエレベーターへ向かった。

 ほどなくして廊下の突き当たりにあるエレベーターへたどり着くと、2人は乗りこみ、キリトが迷うことなくボタンを押した。行き先は最下層にある実験体格納庫だ。

 わずかな落下感覚に身を包まれ、大樹の中に作られた研究施設の最深部へと向かう。加速、減速、停止の過程を経て目的地に到着すると、エレベーターの扉が開き、2人は箱の外へ足を踏み出した。

 味気ない一本道の廊下を警戒しつつ進んでいくと、のっぺりとした大きな扉が前方に見えてきた。おそるおそる近付くと扉が自動で開き、眼を細めるほどの眩い光が2人を包む。

 扉の先にあったのは、息を呑むほどの巨大な空間だった。

 天井は白く発光し、壁も床も一面真っ白なコンサートホールと例えるのが適切だろう。そしてその空間には短い柱型のオブジェクトが等間隔に理路整然と並んでおり、18の列をなしていた。

 近くにあったオブジェクトに近付くと、それは床から胸の高さまで伸びる円柱と判明した。さらにその上には若干の間隔を空け、宙に浮かぶようにして――――人間の脳髄とおぼしきオブジェクトが浮かんでいた。

 

「なん、なの……?」

 

 実物大のオブジェクトは非常に精緻であり、色合いは青紫色をしている。所々で色とりどりのスパークを散らしているが、脳髄の下側では光が弾けるたびに数字や英字のログが表示されてた。

 

「まさか、これが須郷の言ってた実験か?」

 

 キリトは直接須郷から話だけ聞かされていたが、眼前に広がる脳髄の群は旧SAOプレイヤーのものであり、ここで行われているのが人間の思考・感情・記憶を操作するという非道な実験の場なのだと直感した。

 

「実験……? ねぇキリト、一体なんの実験なの?」

「…………人の記憶や感情を思いのままにコントロールしようという、非人道的な実験だよ」

「――――そんなっ!?」

 

 一方、ユキは妖精さんが自分を何らかの人体実験から救ってくれた事は知っていたが、その内容までは知らされていない。自分が受けるはずだった、あるいは受けていたであろう人体実験の内容をキリトから聞かされたユキは、驚愕のあまり両手で口元を覆った。

 目の前に並ぶ脳髄の群は各所が激しく明滅しているが、それは今も実験が継続中であることを指す。刺激を加えられたことで苦悶しているのが脳裏に浮かび、ユキはよろよろと後ずさった。

 

「こんな、こんなのって……あんまりだよ。なんでこんなひどい事が出来るの?」

 

 正常な感覚の持ち主なら、到底理解できない行為だろう。誰に対してでもない独り言の問いかけが、静寂に包まれている実験場の空気を震わせた。そのまま誰に拾われるでもなく、零れ落ちて自然と空気に溶けていくものだと思われたが――――。

 

「それは勿論、この計画の立案者がイカれた頭の持ち主だからに決まっているでしょう?」

 

 消え去る寸前ですくい取った者が、キリト以外でこの部屋にたった1人存在していた。

 反射的にキリトとユキは声のした方向を振り返ると、そこにはキリトにとっては初見の、ユキにとっては見慣れた姿の少女が立っていた。

 

「妖精さん……」

 

 腰に手を当て、悠然とした佇まいで2人を見るのは、研究施設とは別の隔絶された部屋にユキを監禁していた張本人。仮の名で呼ばれた彼女は、少々呆れたような顔を作った。

 

「まったく……まさか鳥籠を抜け出してユキちゃんを部屋の外に連れ出すどころか、最重要機密の研究室にまで足を踏み入れるなんてねぇ。一応ここ、部外者は立ち入り禁止なんだよ?」

「なら、簡単には入れないような措置ぐらいとっておくんだな。セキュリティが緩すぎだぜ」

「忠告をどうもありがとう。今後は気をつける、と言っても、次はもうないけどね」

 

 丸みを帯びていた妖精さんの雰囲気が徐々に鋭利な刃物へと変化し始めていく。対峙している2人は鋭敏な感覚でそれを感じとったが、ワンテンポ早く気が付いたキリトはユキを手で制し、彼女の前に立った。

 

「状況から察するに、あんたはここの関係者で、ユキを閉じ込めていた張本人だな?」

「その言い方には少し語弊があるわね。確かにその子を監禁していたように見えるでしょうけど、私は今も実験体の1人として扱われるはずだった彼女を救ったのよ。感謝されることはあっても、敵意を向けられるような覚えはないわ」

「じゃあどうして…………どうしてユキだったんだ?」

「私にとって色々とメリットがあるからよ。…………さて、と」

 

 問答はこれでお終いとばかりに掌を合わせると、妖精さんは足を踏み出し、1歩ずつキリトとユキに近付き始めた。

 

「自力でここまで来たのを褒めてあげたいけど、今の立場上はこれ以上放っておくわけにいかないの。残念だけど、キリト君には鳥籠の中に戻ってもらうとして……ユキちゃんは感動の再会に備えて少し眠ってもらおうかな?」

「……嫌だと言ったら?」

「わかってるくせに。勿論、実力行使よ」

 

 言うや否や、右足で踏み切った妖精さんの身体が加速し、距離を詰めて肉薄する。右拳を固く握り締めて振りかぶると、スピードが上乗せされた渾身の正拳突きをキリト目掛けて叩き込んだ。

 拳がキリトの水月を抉り、後方へ大きく吹き飛ばす、という展開を予想していた妖精さんだが、彼は両手を重ねて胸の前で構えると、正拳突きを掌で覆うようにして受け止めた。インパクトの瞬間に1メートルほど後退したが、どうにか踏みとどまる。

 

「ユキ、一先ずここから離脱しろっ! オレが時間を稼ぐから!」

「で、でも……」

「早くっ!!」

 

 有無を言わせぬキリトの物言いに圧倒されたユキは、苦渋に満ちた表情を見せた後、一瞬の逡巡を経て反転した。後ろを振り返ることなく、無我夢中で走り去る。

 わずかに聞こえる足音が遠ざかっていくのを耳にしつつ、キリトは至近距離で対峙する妖精さんの双眸を見た。瞳の奥には何らかの企みが見え隠れするが、すぐになりを潜めてしまうために真意を図ることは出来ない。

 

「女の子を守るために男の子が奮戦する。王道のシチュエーションだけど、私は結構好きよ」

 

 手の届かない間合いまで飛び退いた妖精さんが、微笑しながらそう告げた。

 先ほど繰り出したのはただの右ストレートだったが、ゼロからトップスピードまでの動きやアバターの滑らかな挙動は、ただの研究員でないことが伺える。VRワールドに相当慣れ親しんでいると同時に、躊躇ない挙動と発するプレッシャーは、数多くの戦闘をこなしてきた証拠だ。

 

(速いけど、全く反応出来ないわけじゃなさそうだな……)

 

 スピードは目を見張るものがあったが、キリトの反応速度なら充分対処出来るほどだ。肉弾戦は剣での戦闘ほど得意ではないが、SAOでは《体術》スキルを取得していた経緯もあり、全く出来ないわけでもない。

 剣がないため右手が酷く寂しいが、キリトは意識を戦闘モードに移行して構えをとった。

 一方の妖精さんは、肩や腰を回したり、時折片眉を吊り上げて首を傾げたりもしている。その様子をキリトは訝しむが、その理由はすぐに本人の口から告げられた。

 

「う〜ん、やっぱりいつも使ってるアバターとは勝手が違うなぁ。ま、所詮は戦闘用に作られたわけじゃないし、こんなもんよね」

「は………………?」

 

 『戦闘用のアバターではない』という点が頭の中で木霊する。

 非戦闘用ということは、数値的ステータスはさほど高くないはずだ。にも関わらず、あれだけの突進が出来るということは、数値では計れない別の要素――――例えば、アバターを操る人間の反応速度が相当に高いということが伺える。

 

「それでも、今の君を力づくで制圧するには充分かな」

 

 

 

 

 

 出口のアテもないまま、ユキが格納庫の奥へ奥へと進んでいくと、部屋の中央部に黒い立方体――システムコンソール――があるのを発見した。足早に近付いて確かめると、斜めにカットされた上面の右端に細いスリットがあり、銀色のカードキーが溝の上端に差し込まれている。おもむろにカードキーに手を伸ばし、一気に下へスライドさせると、効果音の後に続いてウィンドウとホロキーボードが展開された。

 

「これって……」

 

 ウィンドウには英字で記されたたくさんのメニューが表示されている。もしかするとこの中にログアウトボタンがあるかもしれない、という期待と共に、ユキはそれらしきメニューがないか1つずつ確認していく。

 

「……どれ? …………一体どれなの?」

 

 焦る気持ちを必死に抑えながら探していると、ようやくそれらしきボタンを見つけ、指先でタップ。次に展開されたメニューを端から確認し、ログオフの文字を見つけた彼女は、そのボタンをタップするために指先を伸ばした。

 

「はい、そこまで」

 

 心臓が飛び跳ねる暇も与えられず、ユキの身は右方向から突然襲いかかってきた衝撃に吹き飛ばされた。床を転がり、脳髄の浮かぶ円柱オブジェクトにぶつかって制止すると、その場でうずくまりながら自分を突き飛ばした人物――――妖精さんを睨んだ。彼女がユキに追いついたということは、キリトを倒してきたということだろう。

 

「ダメだよ、ユキちゃん。お友達を置いて先に帰ろうなんて」

 

 諭すような声色で注意する姿はまるで教師のようだが、手荒い手段でユキを退かした彼女がそんな生易しいものであるはずもない。心の奥底が見通せない瞳を不気味に感じたユキは、背筋に確かな悪寒を感じた。

 

「何が目的なの? 私達を、どうしたいの?」

「目的は言えないけど、あなた達を助けたいとは思ってる。ただ、今はまだその時期じゃない、とだけ言っておくわ」

 

 オブジェクトにぶつかった際の衝撃で痺れにも似た感覚に襲われているユキは、うまく身体が動かせない。どうにか上半身だけを起こしてみたが、まだそれ以上は動かせず、身体を支えるのがやっとの状態だった。

 必死に抗っているユキの様子など気にもとめず、妖精さんは彼女に歩み寄ると、しゃがみこんで掌をかざした。

 

「大丈夫。もうすぐあの子が迎えに来るから、それまでの辛抱よ」

 

 妖精さんが言い終わると、彼女のかざした掌が仄かな光と暖かい熱を帯びる。すると、ユキは瞼が急激に重くなるのを感じ、まどろみの中に身を沈め始めていったが、薄れ行く意識の中、妖精さんが言った一言が頭に引っ掛かっていた。

 

(……あの子、って…………誰の、こと……?)

 

 思ったことを口にすることも、床から伝わる冷気を肌で知覚することもなく、静かな寝息を立ててユキは眠りについた。

 

 

 

 

 

 夜闇に包まれた空の下、キリトはもう戻らないと誓ったはずの鳥籠の中へ、不本意ながら入っていった。

 

「ほらほら、そんな不満そうな顔しないの」

 

 キリトは不貞腐れた顔を隠す素振りも見せず露わにするが、無理もない。現実世界に戻る千載一遇のチャンスを潰されたのだ。おそらく、今回のような機会は2度とこないだろう。

 そっぽを向いて鳥籠の下で瞬く下界の街灯りを見下ろしていると、カツン、という乾いた音が鳥籠内で響いた。なんとなくキリトが視線を移すと、床には1枚の銀色に光る板が落ちており、格子の外にいる妖精さんがそれを指差していた。

 

「折角頑張ったのに何にもなしは気の毒だから、それ、あげるわ」

 

 何かの罠かと思いつつも、キリトは床に落ちている板をひょいと拾い上げる。銀色の板は表も裏も特に何もない、一見してカードキーのようだが、これを貰ったからといって何も出来ないのは明白だった。どこで使用するカードキーなのかをキリトは知らないし、たった今格子戸の暗証番号を変更された鳥籠から出る術を、彼は持ち合わせていないのだから。

 

「わらしべプロトコルでもやれと? こいつをオベイロンに渡せば、別の物に交換してくれるのか?」

「そんなわけないでしょう。…………それは格納庫にあったシステムコンソールの鍵よ。勿論、それ単体を持っていても意味はないし、ここから出られないキリト君が持っていても意味を成さないわ」

 

 「なら持ってて意味のある物をくれ」とキリトは言おうとしたが、それよりも早く妖精さんは口を開いた。

 

「裏を返すと、鍵は鍵穴があれば意味を成し、キリト君以外の人間が持っていれば意味のある物になる。その辺をよく考えなさい」

 

 意味深な言葉をキリトが訝しんでいると、妖精さんは身体の向きを変え、枝の上を遠ざかっていく。その後を追うようにしてキリトは詰め寄ろうとするが、当然ながら黄金の格子に行く手を阻まれてしまった。

 

「おいっ、待てっ! どういう事か説明しろーーーーーーっ!!!!」

 

 キリトの叫び声が虚しく木霊する。

 そんな彼の叫びに対する妖精さんの反応は、振り返る事なく右手を挙げ、ひらひらと手を振るだけだった。

 




後半は少し駆け足になりました。

ここ最近は隔週で更新していますが、次の投稿に関しては1ヶ月の間を開けます。その次からはまたいつもの投稿ペースに戻しますので、ご了承下さい。
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