甘酸っぱく爽やかな風味が特徴のポーションを口にしてHPを全快にしたアリシャは、これまで進んだ道筋をなぞるようにして真っ白な廊下を歩いていた。後ろには先ほどまで剣を交えていたカイトを引き連れているが、今は彼がこの世界に来る理由を作った人物である、ユキの元へ案内している最中だ。
「…………で、なんで来た道を戻るのさ? もしかして、アスナ達が進んだ方向にいるとか?」
「ノンノン。ただ単に通り過ぎちゃっただけよ」
「通り過ぎた? 何もない廊下を歩いてきただけだと思うけど、それらしい部屋の扉なんてなかったよ?」
「その認識で間違いないわよ。だって、扉なんてないんだもの。私が須郷の目を盗んで作った場所だから、そう簡単に見つかっちゃ寧ろ困るわ」
言うや否や、アリシャの歩むスピードが落ち始め、やがてピタリと止まった。彼女はその場で回れ右をしてカイトに向き直ると、自身の右側――カイトからすると左側だが――にある壁を指差した。
「ここの壁に手を触れてみて」
「はい?」
「いいから、いいから」
言われるがままにカイトは手を触れてみるが、目の前にあるのはなんの変哲もないただの白い壁だ。掌にひんやりとした冷たさが伝わるくらいで、特別何かを感じとれるわけでもない。
「んー、もっと強く押してもらいたいかな〜〜」
「もっと強く?」
「そうそう。こう、両手で壁を押すようなイメージで」
アリシャからの指摘を受けたカイトは、言われた通りに両手を壁につけ、両足で踏ん張りながら壁を強く押す。
しかし、ステータス全開で試みるものの、壁が前に動き出すわけでも、ましてや自分が後ろに押し返されるわけでもない。元々どんな意味があってやっているのかわからないが、カイトはこれ以上この行為を続ける必要があるのかわからなくなってきた。
「りーちゃん……これ、一体なんの、意味が……」
あるの? という言葉を、カイトは最期まで言い切ることが出来なかった。
その理由は、彼の掌に伝わっていた冷たくて硬い感触が、突如として消え去ったからだ。
「………………えっ?」
カイトの目の前にあったはずの壁は、人2人分が通れるくらいの穴を開けて消失したのだ。
そうなると、力を加えていた物体がなんの予兆もなしになくなったため、カイトはバランスを崩し、体勢を立て直す間もなく盛大に前へ転んでしまった。床に手をつく暇もなく、顔面を含めた身体の前面を強打する。
「へぶっ!!」
カイトは奇声を発し、3秒ほど倒れたままの状態でいたが、身体を起こして四つん這いの姿勢になると、赤くなった鼻先を押さえながら後ろにいるアリシャを恨めしそうに見た。彼女は口元を押さえているが、小刻みに震える肩が意図的にこの状況を生み出したのだと物語っている。
「…………こうなるってわかってたでしょ?」
「うん。ここの壁はね、一定の時間触れているとなくなって、隠し部屋に繋がるよう細工してあるの。正直、押す力は関係ないんだけどね」
「それをもっと早く言ってよっ!!」
「だって、最初から全部言ったら面白くないじゃない。私が」
「自分が楽しむためだけにオレで遊ばないで下さい」
カイトは不満を口にしながら立ち上がると、足を踏み入れた部屋の中を見渡す。
内部は白一色に統一され、窓の類が一切ない殺風景な場所だった。あるのはイスとテーブル、そして簡素なベッドといった最低限の設備があるくらいのものだ。それ以外で何か特徴を挙げるとすれば――――。
「…………あっ……!」
華奢な身体に薄手のワンピースを纏っている1人の少女が、ベッドの上で深い眠りについていることだった。
カイトは1歩ずつ足を前に運び、これまで探し求め、再会を強く渇望していた人物の元まで行くと、両膝をついてベッドの端に手を添えた。瞼を閉じて安眠する少女の顔は、彼の記憶の中にあるものと相違ない。
「……ユキ…………」
カイトはユキの名を口にした後、後ろを振り返って静かに見守っていたアリシャを見た。
「眠ってるだけ、なのか?」
「まあね。彼女、1度鳥籠から抜け出したキリト君が偶然この部屋を見つけて、一緒に逃げ出したの。ウロチョロされて須郷に見つかるわけにもいかなかったし、ちょっと大人しくしてほしかったから眠ってもらったわ」
その話を聞いたカイトは、小さく笑みを零した。キリトもそうだが、置かれた状況を打開するために行動するのは、ユキの性格を考慮すれば想像に難くない。安全な場所で大人しく助けを待つのではなく、彼女は自ら動いて危機を脱しようとしたのだ。それは実に彼女らしい選択だと、カイトはふと思った。
「感動の再会といきたいところだから、あとは眠っている彼女を起こすだけなんだけど、それにはユキちゃんに何かしらの刺激を加える必要があるのよ」
「刺激……?」
「そうそう。例えば……」
アリシャは右手の人差し指を立てると、自らの艶やかな唇にそっと添えた。
「キス、とか」
「…………は…………?」
カイトは一瞬何かの間違いかと思ったが、耳に入った単語の意味を何度繰り返しても、アリシャの口にした言葉は恋人同士で行う愛情表現の一種で間違いない。
キス。口づけ。接吻。
つまりアリシャは、ユキの目を覚まさせる方法として、ユキとのキスを提示してきたのだ。
「はああぁぁああ!? いやいや、意味わかんないし!!」
「意味わかんなくはないでしょ。眠っているお姫様を助けに来た王子様がキスして起こすのは、昔からの童話にもある恒例イベントじゃない」
「それとこれとは別問題だろっ!!」
体防具に覆われていない、露出している素肌の部分を全て真っ赤に染め上げ、カイトは声を荒らげた。
無論これはただの照れ隠しであって、実際のところ本人の内情で嫌悪に類する感情は微塵もない。彼が渋っている理由は、突然すぎて心の準備が出来ていないとか、人が見ている前でするのが恥ずかしいとか、そういうものだ。
元々ユキとはプラトニックな関係を保ち続けていたため、カイトにとって『キスをする』という行為は特別な意味を持つ。過去に1度、フロアボス戦の前に『剣士の誓い』と称してユキのおでこに口付けをしたが、その時は『彼女が生き残れるように』という願いを込めていた。後にも先にも、カイトとユキのキスらしいキスは、それ以外にない。
ただ、今回の件に関しては自分の信条を貫き通すとか、我が儘を言っている場合でもない。最優先事項は彼女との再会を本当の意味で果たすことであり、その目的を達成しないまま、回れ右をして世界樹を降りるという選択肢があるはずもないのだ。
カイトは逡巡した後、ベッドで横になっているユキを見た。最初は彼女の寝顔に目がいくが、自然と視野は狭くなり、いつしか桜色に色づく唇にピントが合わさっていた。
ベッドの端に手を添えたまま上体を傾け、心構えや気構えを置き去りにし、少しずつ彼女との距離をゼロに近づける。瞼を閉じ、何も知らずに眠るユキの唇に優しく唇を重ねるのは、至極簡単なことだった。会えない日々の長さに比例して蓄積された恋慕の情を余すことなく注ぐと、カイトはそっと上体を起こす。唇を離した後でも、柔らかな感触と仄かに残る暖かさの余韻はいつまでも残り続けた。
体温の上昇を感じつつ、カイトは期待に胸を膨らませながらじっとユキの様子を見守っていると、ユキの瞼と指先がわずかに動いた。瞼が持ち上げられて2、3度瞬きした後、ユキは身体を起こし、ゆったりとした動きで周囲を見回す。
夢と
「…………ユキ……」
カイトの表情が緩み、ごくごく自然にユキの名が口をついて出た。
しかし、この世界のアバターはランダムに生成されたものであり、今のカイトは浮遊城にいた頃と姿が違う。ユキは当時と姿が変わらないので一目瞭然だが、ユキから見れば目の前の人物が誰かわからないのではないか――――といった考えに至った時、カイトの顔に影が差し、彼は下を向いて俯いた。
そんな時、カイトの顔に柔らかな感触を秘めた膨らみが押し当てられ、彼を抱きしめるようにして両肩に腕が回された。温かな体温と優しさに包まれると、カイトの耳元で懐かしい声の響きが聞こえた。
「――会いたかったよ、カイト」
その一言を聞いたカイトの胸に熱いものがこみ上げ、無意識にユキの身体に腕を回して抱き寄せる。この場所まで登りつめるのに労したものは、その一言だけですべて報われた気がした。
「……オレも……ずっとユキを探してた。ずっと、会いたかった」
その先は2人とも言葉を発することなく、ただただ無言でお互いを抱きしめ続けた。
この瞬間、剣の世界から続いていた少年の長い旅は、大切な人を取り戻したことで幕を閉じた。
同時に、仮想世界という名の牢獄に囚われ続けていた少女の旅と苦難も、終着点を向かえることとなった。
その後しばらくの間、カイトとユキはお互いの身体を強く抱擁していたのだが――。
「…………え〜、オホン。2人だけの世界に入るのはその辺にしてもらって、続きは現実に戻ってからにしてもらえるかなあ……」
すっかり存在を忘れ去られてしまっていたアリシャの促しにより、ようやく2人は腕を離して抱擁を解くことになった。
しかし、抱きしめることを止めても、2人の手は強く繋がれたままだ。それはまるで、また離ればなれになるのを拒み、お互いの温もりを近くで感じていたいかのようにも見えた。
見知らぬ女性がいたことに今更ながら気が付いたユキは、アリシャの事をじっと見つめるが、やがて訝しんだ様子でカイトの耳元に口を近付け、そっと囁いた。
「えっと…………誰?」
「アリシャ・ルー。ここに来るまで色々と手を打ってくれた、協力者だよ」
一応は、という一言をあえて省いたカイトが立ち上がると、ユキも遅れてベッドから足を放り出して立ち上がった。
覚醒したばかりで状況を未だ飲み込めずにいるユキだが、そんな彼女の事はおかまいなしに、アリシャがさくさくと話を進める。
「さて、めでたくカイト君の目的が無事に達成されたことだし、早くここからオサラバしましょ。まずは彼女をこの世界からログアウトさせるから、ちょっと待ってて」
言うや否や、アリシャは左手を振ってメニューウィンドウを呼び出し、慣れた手つきで半透明のウィンドウを操作する。自発的に落ちることが出来ないユキをログアウトさせられるという事は、アリシャには管理者権限が付与されており、それを行使できるから、とみて間違いないだろう。
カイトは手を握ったまま、隣に並び立つユキへと視線を移した。すると、彼女は不安げな様子でカイトを見返す。ようやく現実に戻れるというのに、何をそんなに心配するのかがカイトにはわからなかった。
「どうした?」
「……うん。…………折角会えたのにまた離れちゃうから、ちょっと心細く感じただけ」
長い間1人だったユキにしてみれば、本当はもっとカイトと一緒にいたいのだろう。
この世界からログアウトすれば、次に彼女が目にするのは薬品の匂いが充満する病室だ。現実世界だと今頃は夜のはずなので、彼女は暗く静まりかえった場所で目を覚まし、これまでの事を考えるとわずかな時間ではあるが孤独と不安に再度見舞われる。
だから、今はまだ、誰かのそばに――――カイトのそばにいたい。こう言いたいのだ。
そんな彼女の胸中を察し、カイトはユキに優しく微笑んで一言添えた。
「大丈夫。ユキがログアウトするのを見届けたら、オレもすぐに戻るから。そしたら、真っ先に病院まで行くよ」
「本当!? 約束だよ、絶対だよ!?」
不安という名の影を落としていた表情が一瞬で明るくなり、ユキは期待と喜びで幼子のように瞳をキラキラと輝かせる。その変わりようが面白くて、懐かしくて、カイトはつい小さな笑みを零した。
すると、ユキの華奢な身体を突如鮮やかな青い光が包み込み始めた。それはユキがログアウトし始めた証であり、時間経過と共に全身が少しずつ透き通っていく。向こう側の景色が彼女を通して見えるくらいになると、今度は足先、指先から消え、光の粒子を宙に散らし始めた。
カイトはずっと彼女を見守り続けていたが、ユキが完全に消え去ると、繋いでいた手を胸の前で握り締める。手に残っている仄かな温かさを感じながらひとしきり感慨に
しかし、もうアリシャの姿は何処にもいなかった。部屋全体を見回してみるが、やはり彼女の姿を視界に収めることは出来ず、まるで煙のように音もなく消えていたのだ。
カイトが訝しんだのは一瞬で、ユキをログアウトさせた後で自分もすぐに落ちたのだと結論づけた。ここに長居する理由がないし、今頃はカイトの家で一足早く目覚めていることだろう。
勿論、これ以上この場所にいる理由がないのはカイトも同じだ。病室の扉が開く瞬間を待ち構えているユキの元へ駆けつけるため、カイトが左手を持ち上げた――――その時、彼の動きがピタリと止まった。
ついさっき部屋全体を見回した時、数秒前まで一緒にいたユキとアリシャの姿がないのは確認済みだ。物がほとんど置かれていない部屋なので、人が隠れられるスペースなどありはしない。
にも関わらず、カイトは今、ある2つのものを背後から感じとっていた。
人の気配。そして、視線。
持ち上げていた左手を下げて体側に沿わせると、ゆっくり振り返りつつ、おおよそのアタリをつけてある人物の名を呼んだ。
「…………茅場、か……?」
カイトが振り返った先にはかつて1度だけ目にした、白シャツにネクタイを締め、白衣を着た研究者風の人物――――茅場晶彦が立っていた。
「いつからそこにいた?」
「たった今、だ。本当はもっと早く君の所へ来れたのだが、君との約束を果たすために、キリト君の元へ行っていた」
「約束?」
「私の頼み事を聞く条件として、不測の事態には協力するよう提示してきたのは、君だったと記憶しているのだが……」
その言葉を聞いた時、カイトは忘れていた記憶を呼び起こされた。
SAOがクリアされた時、夕焼け空に浮かぶアインクラッドが崩壊する様を眺めながら、茅場とこんな会話を交わしていたのだ。
『この世界に関係する見過ごせない事態があれば、その解決に努めてほしい』
『別にいいけど、場合によっては手を貸せ』
流石にカイトも細部までは思い出せないが、概ねこういった内容で間違いないと記憶していた。
「ああ、確かにそうだったような気が……。それで、オレより先にキリトを助けたと?」
「アスナ君達の相手はゲームマスターだった。優先順位の違いだよ」
ゲームマスターが相手となると、確かに一般のプレイヤーと同じ権限しか持たないアスナ達では勝ち星を拾うのは無理だろう。ゲームマスターよりも高位のIDを持つ、この世界の真の創造主の助力があれば、話は別だが。
合理的な茅場の判断に感謝した後、カイトは「あ、そうだ」と声をあげた。右手の五指を広げると掌を茅場に向けて差し出し、さも当然という様子で告げた。
「そっちの依頼はキッチリ果たしたぞ。報酬はないのか?」
「依頼は忘れても、そこは忘れないのだな、君は」
「結果的にはそっちの望み通りになったんだから、文句を言われる筋合いはないね。それに、気心知れた相手なら兎も角、あんたのために無償の善意で動く気はないよ」
「手厳しい上に、しっかりしている。…………いいだろう、割いた時間と労力に見合う対価は必要だな。だが、その心配は不要だ。報酬は既にキリト君の手に渡っている。それで構わないだろう?」
先読みしていたのか、要領がいいのか。報酬が支払われているのなら、特段カイトも文句はない。がめつく気もないので、「ならいいや」とすんなり引いた。
しかし、この後軽い気持ちで訊いた報酬の内容は、とんでもないものだった。
「ちなみに、一体何を渡したんだ?」
「《
茅場の話を聞いていたカイトの顔が、みるみるうちに強張っていく。仮に《
「こちらの用件は以上だ。縁あれば、また会おう」
「…………ちょ、ちょっと待った!」
踵を返してその場を後にしようとした茅場だが、カイトが引き留めたので彼は足を止めた。茅場は身体をそのままにし、露ほども感情を感じさせない表情で肩越しにカイトを見る。
「…………ソードスキルって……他のVRワールドでも使えるものなのか?」
正直、この疑問は口にするまでもなく、カイトの中で既に茅場からどんな返答がくるのかは想像が出来ていた。
ずばり、答えはノー、だ。
ソードスキルは茅場晶彦が考案したSAO独自のシステムであり、他のVRMMOで起用されているという話は聞いていない。従来のMMOでは使えた魔法が使えない、という不便さをカバーし、戦闘に不慣れなプレイヤーも最低限戦えるようになるシステム――――それを見事に体現したのがソードスキルだ。魔法に困らないALOで起用する意味がない、とまでは言わないが、茅場の考案したシステムを須郷がすんなり流用するとはとても思えない。もしもALOでソードスキルが使える未来が来れば、それはそれで戦闘やプレイヤーが立てる戦略の幅が広がって面白そうではあるが。
そこまで理解しても尚、カイトが先の疑問を口にしたのは、アリシャとの戦闘で最後に魅せた剣技が引っかかっているからだ。これまでも何度かソードスキルの動きを真似て戦ってはきたが、最後のは正真正銘、『本物のソードスキル』だった。身体にかかるアシストも、剣を覆うライトエフェクトも、全てが懐かしく、とても偽物とは思えない。
「……その質問に対する答えは、もう君の中にあるんじゃないか?」
しかし、茅場に訊けば何かわかるかもしれない、という薄い望みは呆気なく散った。
「……ああ、そうだな。引き止めて悪かった。ありがとう」
カイトの短い礼を受けた茅場はわずかに眉を持ち上げたが、すぐに彼は泰然とした佇まいに戻り、不敵な笑みを口元に宿した。そんな彼の立ち姿は、カイトが瞬きをすると音もなく忽然と姿を消してしまった。
真っ白な空間に取り残されたカイトは、部屋を満たす静寂に包まれながら、左手を振ってシステムウィンドウを立ち上げた。
(会いに行こう、ユキに)
ログアウトボタンを迷わずタップすると、彼の身体は発光し始め、瞬く間に光の粒子となって宙に溶けていった。
これにて10章終了です。この章も予定より長くなってしまいました。
いつもならここで番外編を挟んで次の章ですが、今回はなしで次に進みます。
その代わり、ALO編が終わったら番外編集を投稿予定です。